松井証券定額制手数料「ボックスレート」の導入と、当初案7割引から9割引への変更

7割引で局地戦を戦うか、9割引で全面戦に出るか——顧客1通の電子メールが書き換えた手数料表

時期 1999年10月
意思決定者(推定) 松井道夫 松井証券 社長
論点 株式委託手数料の完全自由化への価格対応
概要
1999年10月1日の株式委託手数料の完全自由化に合わせ、松井証券が定額制の手数料体系「ボックスレート」を導入した経営判断。売買金額300万円まで3回まで3000円という水準は、自由化前の固定手数料のほぼ10分の1にあたる。松井道夫社長の主導による。
背景
戦後一貫して証券会社の最大の収益源であった売買委託手数料が自由化され、業界全体で約6000億円の収入が縮小に向かった。松井証券の役職員は140人で、仲介業務で首位の野村証券とは規模が違った。松井社長には、日本郵船時代に海運同盟の崩壊を見た経験があった。
内容
1999年5月初旬に公表した当初案は割引率が最大7割引にとどまった。「松井証券を過大評価しすぎていた」という顧客からのメールを受けて表を撤回し、割引率を9割へ広げた。2000年9月には回数制限も撤廃し、「何回でも3000円」に切り替えた。
含意
導入から1か月でインターネット口座は3割増えたが、同じ年の夏にオリックス証券などがさらに大幅な割引を表明し、価格だけで見た優位は早くも薄れた。松井証券はその後、手数料競争から距離を置き、2005年3月期の平均手数料率はイー・トレード証券の2倍を超えた。
筆者の見解

値下げの判断が測っていたもの

5月に公表した手数料表は、最大でも7割引だった。それを9割引へ書き換えさせたのは調査でも競合分析でもなく、「松井証券を過大評価しすぎていた。残念だ」(日経ビジネス 1999/9/13)という顧客1人の電子メールである。7割で足りない理由を、松井道夫氏は価格の高低ではなく決着までの時間で説明した。勝負が長引く間にインターネット取引を掲げた同業が倒れれば、取引形態そのものへの信用が損なわれる。値下げの判断でありながら、松井氏が実際に測っていたのは時間であった。

9割引が買えた時間は短かった。同じ年の夏にはオリックス証券とDLJディレクトSFG証券がさらに大幅な割引を表明し、価格だけで見た優位は自由化の日を迎える前に失われた。松井証券はその後、手数料競争から距離を置き、2005年3月期の平均手数料率はイー・トレード証券の2倍を超えた。日本郵船で見た「顧客は納得できるコストにしか金を払わない」(週刊東洋経済 2020/6/13)という現実は、値下げに踏み切った側にも同じように働いた。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

戦後の収益源が自由化される日

1999年10月1日、戦後一貫して証券会社の最大の収益源であった上場株式の売買委託手数料が完全に自由化された。業界全体がこの手数料から得た収入は約6000億円にのぼった。業界は、10分の1に縮めば淘汰と再編は避けられないと見ていた。松井証券の役職員は140人にすぎず、仲介業務で首位を走る野村証券とは規模の比べようがなかった。制度が守ってきた価格が消える日を、松井証券は業界の末端に近い一社として迎えた[1]

松井証券の起源は、1918年創業の米の仲買商にさかのぼる。兜町の老舗でありながら、松井道夫氏が入社した1987年当時の株式委託件数は、東証の正会員100社超のうち下から2番目にあった。1990年代初頭に外交営業を廃し、1996年に保護預かり料を無料にし、1998年5月にインターネット取引へ進んだ。口座は1999年9月末までに1万4300を数えた。自由化は、この転換が始まったばかりの時期に来た[2][3]

海運同盟の崩壊で見たもの

松井道夫氏は1976年に一橋大学経済学部を卒業して日本郵船に入り、11年を過ごした。当時の海運では、政府公認の価格カルテルが運賃を決めていた。同盟の内側であれば運賃はどこでも同じで、航路でコンソーシアムを組めば運ぶ船まで同じになる。差別化の手立てを持たない船会社に、荷主は「誠意」(週刊東洋経済 2020/6/13)を求めた。その中身を尋ねると、ピカピカのコンテナを持ってこいという答えが返った[4]

レーガン政権の規制緩和で同盟が崩れると、荷主の要求は運賃の引き下げに変わり、格安の新興盟外船会社へ乗り換える顧客が後を絶たなかった。松井氏はここで「顧客は納得できるコストにしか金を払わない」(週刊東洋経済 2020/6/13)という現実を見た。規制に守られた産業が国際競争にさらされればどうなるか。松井氏は証券業界より20年早く、一社員としてその答えを見た。自由化への応じ方は、この記憶から決めた[5][6]

決断

7割引の当初案と、1通の電子メール

松井証券が1999年5月初旬に公表した10月以降の新手数料表は、割引率が最大でも7割引にとどまった。松井道夫氏自身、当初は野村証券と正面から戦うつもりはなく、局地戦で勝てばよいと考えていた。その考えを変えたのは、顧客から届いた1通の電子メールだった。「松井証券を過大評価しすぎていた。残念だ」(日経ビジネス 1999/9/13)という短い文面が、割引率の設定そのものを問い直させた[7]

松井氏は役員会のメンバーと夜中まで何度も議論を重ね、2昼夜眠らないこともあった。結論として5月の手数料表を撤回し、割引率を広げたうえで、個人にわかりやすい表へ組み替えた。「こういうイヤなお客のおかげで、目を覚ますことは多いですね」(日経ビジネス 1999/9/13)と松井氏は語った。顧客1人の苦言が、価格政策を書き換えた[8]

なぜ7割ではなく9割か

割引率を9割に決めた理由は、価格の低さそのものではなく、決着までの時間にあった。7割引では勝負がつくまでに時間がかかる。その間にインターネット取引を手がける証券会社が倒産すれば、取引形態そのものの印象が悪くなりかねない。9割引なら業界他社と真っ向からぶつかる分、決着は早い時期につく。「経営の最大のコストは時間だ」(日経ビジネス 1999/9/13)という持論が、割引率の水準を決めた[9]

松井証券はこの体系を「ボックスレート」と名づけ、売買金額300万円までなら3回まで3000円という定額制を採った。1日の取引金額が300万円、約定回数が3回増えるごとに手数料も3000円ずつ動く。水準は自由化前の固定手数料のほぼ10分の1に下がった。1000円の株を1000株持つ投資家は、従来なら24円以上の値上がりを待つ必要があったが、新体系では3円以上で売り時を探せた。松井氏はこの体系について、インターネット取引の顧客数を5倍に増やさなければ採算が合わないと語った[10][11]

結果

1か月で3割増えた口座と、早くも薄れた優位

導入の効果は口座数にすぐ表れた。インターネットの口座は1999年9月末の1万4300から10月末には1万8800へと、1か月で3割増えた。従業員を増やさないまま処理量を吸収し、パートタイマーを含めても役職員は200人にとどまった。11月にはインターネット経由だけで単月1979億円を仲介し、店頭に主力を置いて1000人以上を抱える準大手証券に並ぶ水準へ達した[12]

価格での優位は、しかし同じ年の夏に早くも薄れた。オリックス証券とDLJディレクトSFG証券がさらに大幅な割引を表明し、手数料だけを見れば松井証券の優位性は失われた。システムの側でも別の問題が起きた。あるセミプロ投資家が自家製のプログラムで分刻みに注文を出し、処理能力がたびたび限界に達してシステムダウンを繰り返した。松井証券は10月からネット取引のシステム容量を1000倍に広げ、2000年3月までにさらに1000倍とする計画を立てた[13][14]

定額制は標準になり、価格競争は続かなかった

2000年9月、松井証券はボックスレートの回数制限を撤廃し、「何回でも3000円」へ切り替えた。2001年8月には東証一部へ直接上場し、株式委託売買件数では大和証券と日興証券を上回った。イー・トレード証券が同年9月に同型の「アクティブプラン」を導入したように、定額制は業界の標準になった。標準を作った松井氏自身は、自由化の時点で証券仲介業は「5年後には消滅する」(日経ビジネス 1999/9/13)と述べた。自社の収益基盤が消えることまで見込んだ発言である[15][16]

定額制で先行したことは、価格競争を走り続けることを意味しなかった。イー・トレード証券が一段低い価格へ踏み込み、楽天証券が追随すると、松井証券は手数料競争から距離を置いた。2005年3月期の平均手数料率0.12%はイー・トレード証券の0.05%の2倍を超え、口座数・売買代金・預かり資産の3指標では相手が松井証券の2倍に達した。手数料の水準そのものは、自由化前の115ベーシスから2006年ごろのSBI証券の3〜4ベーシスまで下がった[17][18]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1999年9月13日号「ひと 競争力は野村を凌ぐ「兜町の素人」10月1日、手数料9割引きで大勝負」
  • 日経ビジネス 1999年12月20日・27日号「“e組織”で大企業を撃破」
  • 週刊東洋経済 2001年8月4日号「[企業レポート]1部上場松井証券 老舗の弱小証券会社が大手を凌駕しえた理由」
  • 週刊東洋経済 2005年6月4日号「[ビジネスリポート]「先駆者」松井証券の深まる孤立 “松井革命”第2幕 絶好調の中の「死角」」
  • 週刊東洋経済 2020年6月13日号「スペシャルインタビュー 松井証券 社長 松井道夫「社長業30年の自負は古いものを捨てたことだ」」

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