富士銀行 の歴史

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創業
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1864年3月、安田善次郎氏が江戸日本橋人形町に小銭両替店の安田屋を創業した。資本金は25両である。1866年に小舟町へ移して両替専業の安田商店と改め、1869年には質屋・預金・貸金・為替を兼営した。1880年、安田商店を改組して資本金20万円の合本安田銀行が発足する。全国で5番目の私立銀行にあたる。1893年に合資会社、1900年に合名会社、1912年に株式会社へと組織を改めながら、経営の傾いた中小銀行を救済して傘下へ収め、1920年には支配下の銀行が20行に達した。1923年7月に保善銀行を設立し、同年11月に安田銀行ほか11行をこれへ合併して、資本金1億5000万円の株式会社安田銀行が発足した。
決断
財閥の名を返上したまま、扱う商品と設備のほうを先に入れ替えた。1948年10月、占領下の措置に従って安田銀行から富士銀行へ改称し。1952年の平和条約発効で旧財閥商号の使用が解禁され、住友・三菱・三井の三行が旧称に復するなか、富士銀行は戻らなかった。『お客様の富士銀行』を合い言葉に、1959年にコンピュータを導入し、1960年には日本ダイナースクラブを設立して日本で初めてクレジットカード業務へ参入する。1962年には全店テレタイプシステムが完成して支店間の送金が2分で済むようになり、『為替の富士』と呼ばれた。1964年には住宅ローンの取扱いも始めている。商号を戻すより、扱う商品と事務の速さを替えるほうが早く財閥色を薄めた。
現況
136年の歴史のうち、富士銀行を名乗ったのは最後の52年である。1998年9月、同行は大手銀行の先陣を切って分類債権額を公表した。総与信に占める比率は6.4%で、都銀・信託・長信銀大手19行の11.1%を大きく下回る。それでも評価は戻らず、自己資本の2.9倍にのぼる株式保有は5,000億円を超える含み損を抱えていた。1999年に第一勧業銀行・日本興業銀行との全面的な経営統合で合意し、2000年9月、3行は共同持株会社みずほホールディングスを設立して、株式移転により富士銀行は上場を廃止した。残ったのは全国の店舗網と行員、そして東京都の公金取扱いをはじめとする取引先との関係で、両替店のころに積み上げた官庁との取引は名を替えながら続いた。
競合
事業会社を持たない金融閥では、銀行の信用がそのまま企業集団の信用になる。三井が物産をはじめ直系の事業会社を抱えたのに対し、安田は金融業に徹し、銀行そのものを事業の中心に置いた。1971年に第一銀行と日本勧業銀行が合併すると預金量の首位を明け渡し、1998年11月には系列の安田信託銀行を自力で支えきれず、財産管理3部門を第一勧業銀行と分け合う形で切り出した。1990年代に住友銀行が8,000億円超の不良債権を一括で償却し、三井銀行が太陽神戸銀行との合併で600店の網を一度に得ている。富士銀行に残っていたのは、店舗網でも自前の資本でもなく芙蓉グループとの取引関係で、中核銀行の格付けが下がるにつれてその関係も薄れた。
富士銀行:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1959年3月期1985年3月期

創業ストーリー 安田善次郎と安田銀行——「公金の富士」の形成 (1864年〜)

安田善次郎と安田銀行——「公金の富士」の形成

両替店から銀行へ——公金取扱いが育てた信用

富士銀行の歴史は、1864年3月、安田善次郎[1]が江戸日本橋人形町に開いた小銭両替店『安田屋』から始まる。資本金は25両にすぎなかった。なお、その前年に日本橋小舟町で露店の両替商[2]を営んでいたとする記録もある。二年後に店舗を小舟町へ移して両替専業の安田商店と改め、1869年には質屋・預金・貸金・為替を兼営して、実質的に銀行の業容を備えた。1876年には普通銀行の名称使用を許されている。1880年、安田商店を改組して資本金[3]20万円の合本安田銀行が発足した。全国で5番目の私立銀行にあたる。この間、善次郎は新政府が発行する紙幣の流通を率先して引き受け、さらに築港や鉄道といった公共事業へ資金を投じた。のちに『公金の富士』と呼ばれる評判は、この時期に積み重ねた官庁との取引から生まれている。

安田銀行は、事業の拡大に合わせて組織の形を何度も改めた。1893年に合資会社、1900年に合名会社、1912[4]年には株式会社へ移行している。並行して善次郎は、財界が変動するたびに経営の傾いた中小銀行の救済にあたり、これを関係銀行として傘下に収めた。金融網は全国へ広がり、1920年には支配下の銀行が20行に達する。その公称資本金は合計1億5975万円、預金総額は6億6800[5]万円にのぼった。関係する生命保険・損害保険・製麻・鉄道・電気などの各社は29社を数えた。安田家の財産を保管する組織として1884年ごろに設けられた保善社は、1912年に資本金1000万円の合名会社へ改組[6]され、安田系事業の持株会社となった。銀行の増殖と持株会社の整備が、同じ時期に並んで進んだ。

金融業に徹した財閥銀行という位置づけ

明治の巨大銀行は、その多くが国家の保護を背景に出発するか、すでに成長した財閥資本の機関銀行として設立された。『会社銀行八十年史』は安田銀行について『当初から国民一般の金融機関として発達してきたもので、ひとしく財閥銀行とはいつてもこの点は当行の最大の特色をなしている』[引用元]と記す。もっとも『日本産業史』は、三井と安田がいずれも同族の銀行を創立して自己の機関銀行[7]に育てたと書いており、評価は分かれる。確かなのは事業の構成である。国立銀行の設立に住友や岩崎は消極的だった。三井と安田は関心が強く、安田は第三国立銀行の主要出資者[8]となった。ただし三井が物産をはじめ直系の事業会社を抱えたのに対し、安田は金融業に徹し、銀行そのものを事業の中心に据えた。

金融に特化した構造は、強みであると同時に弱点でもあった。事業会社を持たないため、銀行の信用がそのままグループの信用になる。1921年9月、その一点を支えていた善次郎が凶刃[9]に倒れた。安田家は日本銀行から結城豊太郎を迎え、組織の近代化に着手した。結城が引き受けたのは、創業者の個性と手腕に依存してきた経営を、制度として動く組織へ組み替える仕事だった。20行に分散した関係銀行を一つにまとめる構想は善次郎の遺志とされ、その実現は結城の手に委ねられた。安田系銀行の大合同は、創業者を失った直後という、もっとも危うい時期に着手された再編である。

安田系11行の大合同と財閥解体——安田銀行時代の終期

11行大合同と、預金の1割を握る銀行の誕生

再編は二段構えで進められた。1923年7月、まず受け皿として保善銀行を設立した。同年11月、安田銀行と第三・明治商業・信濃・京都・第百三十・日本商業・第二十二・肥後・根室・神奈川の各行をこれに合併し、資本金1億5000万円の株式会社安田銀行が発足した。新銀行の預金は5億7400万円、貸出は5億8200[10]万円に上る。全国銀行の預金額の約1割を占め、支店網は153[11]ヵ店を数えた。名実ともに国内最大級の銀行が生まれた。ただし束ねられたのは20行に及んだ安田系銀行のうち11行であり、残る関係銀行や保険・製麻・鉄道などの事業会社は、安田保善社の傘下に置かれたままだった。

昭和初期の金融恐慌を越えると、満州事変を契機に財界は活況へ転じた。日華事変から太平洋戦争の終結までの約8年間は、軍需生産を中心とする政府の積極政策のもとで政府資金が大量に撒かれ、預金は毎月のように増えた。同時に、戦時下の強い金融統制が金融機関の整理統合を促す。安田銀行は1943年4月に日本昼夜銀行を合併したのを皮切りに、昭和銀行と第三銀行を合併または譲り受け、1944年8月には資本金を1億7000万円とした。業容は拡大したが、それは統制が作り出した拡大である。戦局が終末に近づくと空襲が激しくなり、1945年1月以降の終戦までに、本店の一部焼失を含めて全店舗のほぼ3分の1にあたる73ヵ店が戦災に遭った[12]

安田保善社の解散と、名を失うということ

敗戦は、この銀行から二つのものを奪った。一つは資本であり、もう一つは名である。1945年10月、安田財閥の総合指導機関である安田保善社は、他の財閥本社に先んじて自発的な解散を決議した。これにより銀行は、1880年の創業以来65年に及んだ安田家の事業から完全に[13]離れた。解散の時点で安田家は全株式の4割を保有している。さらに戦時補償の打ち切りが銀行を直撃した。帝国・三菱・安田・住友・三和の五大銀行と日本興業銀行では、貸し出しのうち補償をあてにしたものが8割を超えていたためである[14]。1948年3月、安田銀行は金融機関再建整備法にもとづく損失補填のため、資本金の9割を切り捨てて1700万円まで減資した。

1948年10月、同行は13億5000万円へ増資[15]すると同時に、商号を富士銀行に改めた。再建された財閥系銀行は財閥の名称を使うことを許されず、三菱は千代田、住友は大阪、野村は大和と看板を変えている[16]。安田が選んだ『富士』は、行員のアンケートによって決められた。裾野に広い取引先を抱えながら均整のとれた姿へ発展する[17]、という含意をこの名に込めたという。名を失った時期の同行は、しかし数字の上では最上位にあった。預金・貸出とも1945年9月以来、全国銀行のなかで首位を占めている。1955年3月末の預金は2442億円、貸出は2081億円、支店は全国184ヵ店とロンドン1支店を数えた。

「富士銀行」への改称と大衆銀行路線——為替の富士

旧名に戻らなかった銀行——大衆化路線の選択

1952年の平和条約発効によって、旧財閥商号の使用は解禁された。住友・三菱・三井の三行は相次いで旧称に復している。富士銀行と大和銀行は戻らなかった。『日本産業史』はその違いを、財閥の成り立ちに求めている。総合的なコンツェルンを形成していた三行は旧称への執着が強く、これに対し『金融閥として発展した安田、証券金融に縁の深かった野村は、戦後経済の変貌に応じて新しいイメージを望んだのであろう』[引用元]と。富士銀行は復帰せず、財閥色を脱して大衆的[18]な銀行として進む方針を掲げた。1948年の改称そのものは占領下で強いられたものだったが、戻らないという選択は自らのものである。

  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
    • [18]旧財閥商号の使用が解禁されて他の財閥系銀行が旧名に戻るなか、富士銀行は復帰せず、財閥色を脱して大衆的な銀行としての道を歩む方針を堅持した

『お客様の富士銀行』を合い言葉に、方針は個人取引の商品として形になった。1960年には日本ダイナースクラブを設立し、日本で初めてクレジットカード業務へ進出[19]する。同じ年、中小企業へ知的サービスを提供する経営相談所を銀行界で初めて開設した。1964年には住宅ローンの取扱いを始め、消費者金融の分野で個人との取引を広げた。1978年には『あなたと富士銀行』『富士銀行の現状』を刊行し、経営内容の開示でも銀行界[20]に先んじている。財閥銀行の系譜を持ちながら、個人と中小企業に向けた商品を先に出す。商号を変えるより、扱う商品を変えるほうが早く財閥色を薄めた。

  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
    • [19]1960年に日本ダイナースクラブを設立して日本で初めてクレジットカード業務へ進出し、同年に銀行界初の経営相談所を開設、1964年に住宅ローンを開始した
    • [20]1978年に「あなたと富士銀行」「富士銀行の現状」を刊行し、銀行界で初めてディスクロージャーを実施した
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
    • [18]旧財閥商号の使用が解禁されて他の財閥系銀行が旧名に戻るなか、富士銀行は復帰せず、財閥色を脱して大衆的な銀行としての道を歩む方針を堅持した
    • [19]1960年に日本ダイナースクラブを設立して日本で初めてクレジットカード業務へ進出し、同年に銀行界初の経営相談所を開設、1964年に住宅ローンを開始した
    • [20]1978年に「あなたと富士銀行」「富士銀行の現状」を刊行し、銀行界で初めてディスクロージャーを実施した

為替の富士——機械化と企業集団の形成

もう一つの競争力は事務の機械化から生まれた。1959年にコンピュータを導入し、1962年には全店テレタイプシステムが完成する。これにより全国の支店間の送金が2分で済むようになり、『為替の富士』[21]という評判が立った。1967年にはオンラインシステムを導入している。国際業務でも動きは早く、1952年10月にロンドン支店を開設し、その後ニューヨーク支店をはじめ世界各地に支店・駐在員事務所・現地法人を置いた[22]。『公金の富士』は官庁という取引先の顔ぶれから、『為替の富士』は事務処理の速さから生まれている。同行を指す通り名は、いずれも預金や融資の規模を言い表したものではない。

  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
    • [21]1959年にコンピュータを導入し、1962年に全店テレタイプシステムが完成して全国支店間の送金が2分で可能となり「為替の富士」と評された。1967年にはオンラインシステムを導入した
    • [22]1952年10月にロンドン支店を開設し、その後ニューヨーク支店をはじめ世界各地に支店・駐在員事務所・現地法人を設立して海外拠点を拡充した

規模の序列は、1971年に動いた。第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行が発足し[23]、預金量で富士銀行を抜いて国内最大の都市銀行が生まれた。大蔵省が1968年の合併転換法を軸に金融効率化を進めるなか、都市銀行の再編は連鎖する。1973年には神戸銀行と太陽銀行が合併して太陽神戸銀行が生まれている。この流れのなかで、1970年代後半に富士銀行と三和銀行の合併構想が模索されたと伝えられる。東京を地盤とする富士と大阪を地盤とする三和は、いずれも総合コンツェルン型の財閥を背負わない上位都銀で、店舗網が補い合う関係にあった。しかし構想は正式合意にも公表にも至らず[24]、立ち消えとなった。

国際化とバブル、芙蓉グループの地盤沈下

国際化とバブル——ヘラー買収から赤坂支店事件へ

1980年代の同行は、国内市場の頭打ちを海外で補おうとした。1984年、米国で中堅企業向け金融を手がけるヘラー社を買収し、ミドルマーケットへ参入[25]した。現地に進出した日系企業への金融サービスにも幅が出た。同じ頃、日本の銀行は全体として拡大路線をとっている。1985年のプラザ合意に続く超低金利のもと、公定歩合は1987年2月に2.5%まで下がり、その水準が1989年5月まで維持された。銀行には資金が流れ込み、運用先を求めて中小企業と不動産業への融資が広がる。厳格な審査ではなく、上がり続ける地価を前提に担保さえあれば融資が通った。1985年から1989年にかけての不動産業向け融資は約44兆円[26]に達している。

拡大がどこで支えを失ったかは、1991年に発覚した赤坂支店の不正融資事件に現れた。支店の一課長の逸脱に帰しきれる規模ではない。あるOBは、バブル期に本部が支店へ融資拡大を割り当て、無理をしない支店長が職場を追われたと証言している。同行は不正を察知してから告訴に踏み切るまでのあいだ、融資先から担保をかき集めて貸し付けに切り替えた。1993年、同行は長期ビジョン『顧客支持トップバンク』[27]を掲げ、担保不動産の売却など経営体質の改善に取りかかった。

  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
    • [27]1993年に長期ビジョン「顧客支持トップバンク」を掲げ、担保不動産の売却など経営体質の改善に取り組んだ
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
    • [25]1984年に米国の大手金融会社ヘラー社を買収し、アメリカのミドルマーケットへ参入した
    • [27]1993年に長期ビジョン「顧客支持トップバンク」を掲げ、担保不動産の売却など経営体質の改善に取り組んだ
    • [26]昭和60年から1989年(1985〜1989年)にかけての不動産業への融資は約44兆円に達し、地価をさらに押し上げた

統合で幕——何が残り、何が消えたか

第一勧業銀行との距離は、統合の前年にすでに測られていた。証券業務の提携先について、山本頭取は『一緒に事業を始めた第一勧銀を真っ先に頭に思い浮かべるのは自然でしょう』[引用元]と語っている。これに対し第一勧銀の杉田力之頭取は、富士も選択肢の一つだが富士に限らないと応じた。安田信託の交渉でも、資本注入という富士の提案を突き返し、不良債権を切り離したうえでの部門分離を逆提案して価格まで下げさせたのは第一勧銀の側である。中核銀行が弱れば、放射状に並ぶ企業集団には残る理由がなくなる。複数のOBが『富士銀行の力が弱くなった今、グループにいるメリットはない』[引用元]と語ったのは、この時期のことだった。

1999年、同行は第一勧業銀行・日本興業銀行との全面的な経営統合に合意した。2000年9月、3行は共同持株会社みずほホールディングスを設立し[28]、株式移転によって富士銀行は上場を廃止した。江戸日本橋の両替店から数えて136年、安田銀行として数えても120年で、社名と株式は消えた。残ったのは全国の店舗網と行員、そして東京都の公金取扱いをはじめとする取引先との関係である。両替店のころに善次郎が積み上げた官庁との取引は、安田から富士へと名を替えながら続いた。続かなかったのは、名のほうだった。

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富士銀行の沿革1864〜2000年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1864〜1923年安田善次郎と安田銀行——「公金の富士」の形成安田善次郎が江戸日本橋人形町に小銭両替店「安田屋」を開く
両替専業の安田商店に商号変更
質屋・預金・貸金・為替の各業務を兼営
安田商店を改組し合本安田銀行を設立
株式会社に改組
安田善次郎が凶刃に倒れ、日本銀行から結城豊太郎を迎えて組織の近代化に着手
保善銀行を母体に安田系11行が合同し安田銀行が発足★★
1923〜1948年安田系11行の大合同と財閥解体——安田銀行時代の終期安田保善社が自発的解散を決議
安田銀行から富士銀行への改称と、商号解禁後の旧称号への不復帰

1948年10月、安田銀行は資本金13億5000万円への増資と同時に富士銀行へ改称した。財閥の名称使用を認めない占領下の措置に従った改称であったが、1952年に制約が解けたのちも旧称号へ復さず、富士の名を使い続けた。

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★★★
富士銀行に商号変更
1948〜1980年「富士銀行」への改称と大衆銀行路線——為替の富士ロンドン支店を開設
事務処理の合理化のためコンピュータを導入
日本ダイナースクラブを設立
日本初のクレジットカード業務を開始★★
全店テレタイプシステムが完成
住宅ローンの取扱いを始め、消費者金融分野で個人取引を広げる
取引先企業の集まりである芙蓉会を社長会へ改組
第一銀行と日本勧業銀行の合併で第一勧業銀行が発足
三和銀行との合併構想が立ち消え★★★
「あなたと富士銀行」「富士銀行の現状」を刊行
銀行界初の経営内容開示
1980〜2000年国際化とバブル、芙蓉グループの地盤沈下ヘラー社を子会社化
中堅企業向け金融事業に参入
赤坂支店の不正融資事件が発覚★★
メインバンクの山一証券が自主廃業を決定★★
グループ企業を引受先とする2000億円の緊急増資を発表
安田信託銀行の分割と財産管理3部門の第一勧業富士信託銀行への営業譲渡

1998年11月、富士銀行は第一勧業銀行との信託業務の提携で合意し、同じ芙蓉グループの安田信託銀行を分割した。年金・カストディー・証券代行の財産管理3部門を、両行折半出資の第一勧業富士信託銀行へ約1400億円で営業譲渡させる内容であった。

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★★★
第一勧業銀行・日本興業銀行との全面的な経営統合で合意★★
第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の経営統合とみずほ誕生(2000年成立)

1999年8月、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の3行が全面統合を発表し、2000年9月に株式移転で持株会社みずほホールディングスを設立。国内初のメガバンクが誕生した案件。

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★★★
出典・参考

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