1670年〜 泉屋の両替商から金融業を再開し、預金量で全国首位に立つまでの260年
- 1670年泉屋平兵衛友貞氏が大阪で両替商を開業
- 1875年住友家が並合業という本格的な貸付・金融業へ進む
- 1895年住友吉左衞門氏を行主とする個人経営の銀行として大阪市で開業
- 1895年大阪本店・神戸支店と川口・兵庫の両出張所の計4カ店で発足
- 1912年個人経営からの住友銀行に改組
- 1912年第六十一銀行を買収
- 1912年大阪府下の店舗網を拡大
住友銀行の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
別子銅山に全運命を賭けた住友家が、銀行設立を二度断った理由
住友家の金融業は、1670年に泉屋平兵衛友貞氏が大阪で両替商を開いたことに始まる。ただし家業の中心は一貫して銅にあった。元禄四年(1691年)に銅商泉屋吉左衞門氏が愛媛の別子銅山を開発して以来、住友は御用銅山の請負人として輸出銅の供出を担っている。「豫州別子の鉱業は万世不朽の財本にして、この業の盛衰は我が一家の興廃に関し重かつ大なる、他に比すべきものなし」——明治十五年の住友家法書はこう書いた。1892年の家法書もほぼ同じ文言を繰り返している。住友家は20年を隔てて二度、銅山に全運命を賭ける方針を成文で書き留めた。 [1][2]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
- [1]元禄四年(1691年)に泉屋吉左衞門氏が別子銅山を開発
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
- [2]明治十五年・明治二十五年の住友家法書の文言
そのため住友家は、明治初年の銀行設立ブームに加わっていない。国立銀行条例の制定にあたって銀行設立の勧誘を受けたが、固辞している。理由は「住友家では手を鉱山業以外に拡げる余裕がなく……時機尚早と認めたから」だった。三井が第一国立銀行の大株主となり、安田が第三国立銀行の主要出資者になったのとは対照的である。この時期の住友の金融活動は倉庫業の付帯業務にとどまり、倉庫に寄託される米や雑穀を担保に貸し付ける並合い業を営んだ。1875年には並合業という本格的な貸付・金融業へ進み、これが20年後の銀行の原型になる。 [3][4]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-財閥銀行から近代化」
- [3]住友家が国立銀行設立の勧誘を固辞した理由
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
- [4]1875年(明治8年)に並合業という本格的な貸付・金融業へ進む
1895年11月、住友家は雑穀担保の貸付業を廃し、住友銀行を開業した。資本金100万円、家長の住友吉左衞門氏を行主とする個人銀行で、店舗は大阪本店・神戸支店と川口・兵庫の両出張所の4カ店にすぎない。設立の主目的は住友企業の資金の出納を円滑にすることにあった。同じ1895年9月に三菱合資会社も資本金100万円で銀行部の設立認可を受け、10月に開業している。財閥の機関銀行が同じ年に相次いで生まれている。ただ住友銀行は数年で九州と東京に店舗を開き、大阪に本店を置く銀行のなかで首位に立った。1903年にはロンドンに代理店を設けている。 [5][6][7]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
- [5]1895年11月 住友銀行の開業(資本金100万円・4カ店)
- [7]1903年 ロンドンに代理店を設置
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
- [6]1895年9月 三菱合資会社の銀行部設立認可(資本金100万円)・10月開業
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
- [1]元禄四年(1691年)に泉屋吉左衞門氏が別子銅山を開発
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
- [2]明治十五年・明治二十五年の住友家法書の文言
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-財閥銀行から近代化」
- [3]住友家が国立銀行設立の勧誘を固辞した理由
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
- [4]1875年(明治8年)に並合業という本格的な貸付・金融業へ進む
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
- [5]1895年11月 住友銀行の開業(資本金100万円・4カ店)
- [7]1903年 ロンドンに代理店を設置
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
- [6]1895年9月 三菱合資会社の銀行部設立認可(資本金100万円)・10月開業
株式会社化と、市中銀行の先頭を切った8年間の海外展開
1912年2月、資本金1500万円の株式会社住友銀行に改組した。同年3月末の総貸金は4400万円で、創業年次末の20倍に達している。組織変更は膨張した業容に法人格を合わせる作業だった。三菱銀行が独立の株式会社として発足するのは1919年になる。三井銀行は1910年に三井合名会社の設立と同時に株式組織へ改められ、資本金を500万円から2000万円に増やしていた。三井・住友・三菱の順で、財閥の機関銀行は数年のうちに法人格を整えている。改組の前、1906年には貸出残高2000万円・預金残高3000万円に達し、すでにわが国第三位の銀行になっていた。同年、第六十一銀行を買収している。 [8][9][10][11]
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
- [8]1912年2月 個人経営から資本金1500万円の株式会社住友銀行に改組
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
- [9]1912年3月末の総貸金4400万円(創業年次末の20倍)
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
- [10]1919年に三菱銀行が独立の株式会社として発足
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
- [11]1906年 貸出残高2000万円・預金残高3000万円で全国3位
住友銀行は市中銀行のなかで最も早く海外へ出た。1916年にサンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへ支店を開き、1917年に漢口、1918年にシアトル・ニューヨーク・ロンドンへ拠点を並べた。大正期にはロサンゼルスとカリフォルニアにも拠点を置いた。国内の店舗数も1917年には全国第一位になった。増資の原資は、別子銅山と伸銅・製鋼事業が積み上げた自己資本だった。1917年に3000万円、1920年に7000万円へ増資し、貸金は3億円を超えた。銅山の利益が、サンフランシスコとボンベーの支店の元手になっている。 [12][13][14][15]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
- [12]1916年 サンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへの支店開設
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
- [13]1917年3000万円・1920年7000万円への増資、貸金3億円超
- [14]1917年に国内店舗数が全国第一位
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
- [15]大正期のロサンゼルス・カリフォルニア拠点
1917年の増資は、資本の出し手を住友家の外へ広げてもいる。1917年の3000万円増資にあたり、住友銀行は株式を一般に公開して独占的色彩を薄めている。同族が資本を握ったまま外へ出たのではなく、外部資本を入れながら出た。1926年に刊行された『住友銀行三十年史』は、第二編「發達」の第二章を「株式會社時代」とし、その下を「株式公開以前」「株式公開以後」に割っている。行内で時代の区切りに使われていたのは、株式会社化そのものではなく株式公開の前後だった。同書の巻末には187ページから242ページまで、56ページを割いた年表が置かれている。 [16][17]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
- [16]1917年増資時の株式一般公開
- [17]『住友銀行三十年史』第二編第二章の節構成(株式公開以前/以後)
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
- [8]1912年2月 個人経営から資本金1500万円の株式会社住友銀行に改組
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
- [9]1912年3月末の総貸金4400万円(創業年次末の20倍)
- [13]1917年3000万円・1920年7000万円への増資、貸金3億円超
- [14]1917年に国内店舗数が全国第一位
- [16]1917年増資時の株式一般公開
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
- [10]1919年に三菱銀行が独立の株式会社として発足
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
- [11]1906年 貸出残高2000万円・預金残高3000万円で全国3位
- [15]大正期のロサンゼルス・カリフォルニア拠点
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
- [12]1916年 サンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへの支店開設
- [17]『住友銀行三十年史』第二編第二章の節構成(株式公開以前/以後)
恐慌のたびに預金が集まる銀行——1929年末の首位浮上
1920年の反動恐慌、1923年の関東大震災、1927年の昭和金融恐慌。10年足らずのあいだに金融界は三度の動揺を経験した。中小銀行の破綻はそれ以前から続いており、普通銀行の数は1901年の1890行を頂点に減り続け、1914年には1595行になっている。取り付けが起きるたびに預金が大銀行へ移る構造は、日露戦争のころには固まっていた。1900年末から1901年末にかけて六大都市の中小銀行の預金が2200万円減ったのに対し、大銀行の預金は1000万円増えている。1901年の恐慌では大阪府で17行、京都府で5行、熊本県で4行など、全国で34行が支払い停止に追い込まれた。 [18][19]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
- [18]普通銀行数が1901年1890行から1914年1595行へ減少
- [19]1900年末から1901年末の預金移動(中小銀行▲2200万円/大銀行+1000万円)
住友銀行はこの構造の受け皿側にいた。1927年の金融恐慌の時から預金が急増するという現象が起き、1929年末の総預金は6億6200万円、名実ともに全国銀行の首位を占めるにいたった。1920年・1923年・1927年の三度の動揺が、そのつど住友銀行の順位を押し上げた。同じ構造は、逆向きにも働く。危機のたびに資金が集まる銀行になることは、危機のたびに救済を求められる立場に立つことでもあった。半世紀後の安宅産業、その10年後の平和相互銀行と、住友銀行が引き受けた処理は、1929年に確定したこの位置から始まっている。 [20][21]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
- [20]1929年末の総預金6億6200万円・全国銀行首位
- [21]1927年金融恐慌時からの預金急増
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
- [18]普通銀行数が1901年1890行から1914年1595行へ減少
- [19]1900年末から1901年末の預金移動(中小銀行▲2200万円/大銀行+1000万円)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
- [20]1929年末の総預金6億6200万円・全国銀行首位
- [21]1927年金融恐慌時からの預金急増