住友銀行 の歴史

創業

1670年

創業者

泉屋平兵衛友貞

創業地

大阪

直近売上高(1985/3)

20,555億円

長期業績と転換点(1972/3〜2001/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1895年に、別子銅山に全運命を賭けていた住友家は銀行を開いたのか
A 住友家は明治初年の銀行設立ブームに加わっていない。国立銀行条例のころ勧誘を受けながら「住友家では手を鉱山業以外に拡げる余裕がなく、時機尚早と認めた」として固辞している。それでも倉庫業の付帯業務として米や雑穀を担保に貸し付け、1875年には並合業という本格的な貸付・金融業へ進んだ。その貸出残高が大阪の主要銀行に対抗できる水準まで伸びた結果、1895年11月、住友吉左衞門氏を行主とする資本金100万円の個人銀行として大阪で開業した。銀行を先に構えたのではない。20年続けた貸付が、先に銀行の中身を作っていた。
Q なぜ1916年に、住友銀行は市中銀行の先頭を切って海外へ出られたのか
A 海外に拠点を並べる元手は、増資で積み上げた資本だった。1917年に3000万円、1920年に7000万円へ増資し、貸金は3億円を超えた。この裏づけがあったからこそ、1916年にサンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへ支店を開き、1917年に漢口、1918年にシアトル・ニューヨーク・ロンドンへ拠点を並べられた。国内の店舗数が全国第一位になるのは1917年で、海外への進出のほうが先に立っている
Q なぜ1977年に、住友銀行は安宅産業の救済負担1132億円を一度の決算で捨てられたのか
A 分割償却なら決算の見た目は守れる。だが損失は翌期以降も帳簿に残り、そのぶん翌期の数字も実態から離れる。住友銀行は逆を選んだ。救済融資約2000億円のうち自行の負担1132億円を、1977年9月期決算で全額償却している。1972年3月期の経常利益が530億円だったから、2年分の利益が1期で消えた。磯田一郎頭取は後年これを「まぁ、すてたんです」と語った。業績は数年で戻り、1982年3月期の経常利益は1051億円と償却額に並ぶ水準に達した。18年後、1995年3月期に8000億円超を一括で償却して都銀初の経常赤字を出した判断も、同じ処理を選んでいる

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1670年〜 別子銅山の家が持った銀行が、恐慌のたびに預金を集めて全国首位に立つまで

  1. 1670年 泉屋平兵衛友貞氏が大阪で両替商を開業
  2. 1875年 住友家が並合業という本格的な貸付・金融業へ進む
  3. 1895年 住友吉左衞門氏を行主とする個人経営の銀行として大阪市で開業
  4. 1912年 六十一銀行を買収
  5. 1912年 個人経営からの住友銀行に改組
  6. 1929年 昭和金融恐慌後の預金集中を受け、総預金6億6200万円で全国銀行の首位に立つ
  7. 1945年 GHQが持株会社の解体に関する覚書を交付

別子銅山に賭けた家が、銀行設立を二度断った理由

住友家の金融業は、1670年に泉屋平兵衛友貞氏が大阪で開いた両替商に始まる。ただし家業の中心は銅にあり、元禄四年(1691年)に銅商泉屋吉左衞門氏が愛媛の別子銅山を開発[1]して以来、住友は御用銅山の請負人として輸出銅の供出を担った。明治十五年の住友家法書は「豫州別子の鉱業は万世不朽の財本にして、この業の盛衰は我が一家の興廃に関し重かつ大なる、他に比すべきものなし」と定め、1892年の家法書もほぼ同じ文言を繰り返している[2]。金融の側は長く倉庫業の付帯業務にとどまり、寄託された米や雑穀を担保に貸し付ける並合い業を営んだのち、1875年に並合業という本格的な貸付・金融業へ進んだ[3]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
    • [1]元禄四年(1691年)泉屋吉左衞門氏による別子銅山の開発
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
    • [2]明治十五年・明治二十五年の住友家法書の文言
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [3]明治8年(1875年)並合業という本格的な貸付・金融業への進出

住友家は明治初年の銀行設立ブームに加わらず、国立銀行条例の制定にあたって受けた勧誘を「住友家では手を鉱山業以外に拡げる余裕がなく……時機尚早と認めたから」として固辞[4]した。三井が第一国立銀行の大株主となり、安田が第三国立銀行の主要出資者になった[5]のとは別の道である。1895年11月、住友家は雑穀担保の貸付業を廃し、資本金100万円で住友銀行を開業[6]した。家長の住友吉左衞門氏を行主とする個人銀行で、店舗は大阪本店・神戸支店と川口・兵庫の両出張所の4カ店[7]だった。開業の主目的は、住友企業の資金の出納を円滑にすること[8]にある。同じ1895年9月には三菱合資会社も資本金100万円で銀行部の設立認可を受け[9]、10月に開業している。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [4]住友家が国立銀行設立の勧誘を固辞した理由
    • [5]三井は第一国立銀行の大株主、安田は第三国立銀行の主要出資者
    • [8]開業の主目的は住友企業の資金の出納を円滑にすること
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [6]1895年11月 雑穀担保の貸付業を廃し資本金100万円で住友銀行を開業
    • [7]住友吉左衞門氏を行主とする個人銀行・大阪本店ほか4カ店
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [9]1895年9月 三菱合資会社の銀行部設立認可(資本金100万円)・10月開業
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
    • [1]元禄四年(1691年)泉屋吉左衞門氏による別子銅山の開発
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
    • [2]明治十五年・明治二十五年の住友家法書の文言
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [3]明治8年(1875年)並合業という本格的な貸付・金融業への進出
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [4]住友家が国立銀行設立の勧誘を固辞した理由
    • [5]三井は第一国立銀行の大株主、安田は第三国立銀行の主要出資者
    • [8]開業の主目的は住友企業の資金の出納を円滑にすること
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [6]1895年11月 雑穀担保の貸付業を廃し資本金100万円で住友銀行を開業
    • [7]住友吉左衞門氏を行主とする個人銀行・大阪本店ほか4カ店
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [9]1895年9月 三菱合資会社の銀行部設立認可(資本金100万円)・10月開業

株式会社への改組と、市中銀行の先頭を切った海外展開

1906年には貸出残高2000万円・預金残高3000万円[10]に達し、わが国第三位の銀行になった。1912年2月、住友銀行は資本金1500万円の株式会社へ改組[11]した。同年3月末の総貸金は4400万円で、創業年次末の20倍[12]にあたる。大正期には六十一銀行・本所貯金銀行・田中興業銀行・若松銀行を買収[13]し、国内の店舗を厚くした。1910年には三井合名会社の設立と同時に三井銀行が株式組織へ改められ、資本金は500万円から2000万円へ増えて[14]いる。三菱銀行が独立の株式会社として発足したのは1919年[15]で、財閥の機関銀行は三井・住友・三菱の順に法人格を整えた。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [10]1906年 貸出残高2000万円・預金残高3000万円で全国3位
    • [13]大正期の六十一銀行・本所貯金銀行・田中興業銀行・若松銀行の買収
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [11]1912年2月 個人経営から資本金1500万円の株式会社住友銀行へ改組
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [12]1912年3月末の総貸金4400万円(創業年次末の20倍)
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
    • [14]1910年 三井合名会社の設立と同時に三井銀行が株式組織へ改組し資本金500万円→2000万円
    • [15]1919年 三菱銀行が独立の株式会社として発足

住友銀行は開業から数年で九州と東京に店舗を開き、大阪に本店を置く銀行の首位[16]に立った。外国取引にも早く出て、1903年にロンドンへ代理店[17]を設けている。1916年にサンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへ支店を開き[18]、1917年に漢口、1918年にシアトル・ニューヨーク・ロンドンへ拠点を並べ、大正期にはロサンゼルスとカリフォルニアにも置いた[19]。国内の店舗数は1917年に全国第一位[20]となった。1917年には3000万円へ増資し、あわせて株式を一般に公開して独占的色彩を薄めた[21]。1920年には7000万円へ増資し、貸金は3億円を突破[22]している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [16]開業数年で九州・東京へ出店し大阪の銀行で首位
    • [17]1903年 ロンドンに代理店を設置
    • [20]1917年 国内店舗数が全国第一位
    • [21]1917年 3000万円への増資と株式の一般公開
    • [22]1920年 7000万円への増資と貸金3億円突破
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
    • [18]1916年 サンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへの支店開設
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [19]大正期のロサンゼルス・カリフォルニア拠点

中小銀行の破綻は明治期から続き、普通銀行の数は1901年の1890行を頂点に減って1914年には1595行[23]になっている。1901年の恐慌では大阪府で17行、京都府で5行、熊本県で4行など、全国で34行が支払い停止[24]に追い込まれた。取り付けが起きるたびに預金が大銀行へ移る構造は日露戦争のころには固まっており、1900年末から1901年末にかけて六大都市の中小銀行の預金が2200万円減ったのに対し、大銀行の預金は1000万円増えて[25]いる。1920年の反動恐慌、1923年の関東大震災、1927年の昭和金融恐慌[26]と、10年足らずのあいだに金融界はさらに三度の動揺を経験した。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
    • [23]普通銀行数が1901年1890行から1914年1595行へ減少
    • [24]1901年の恐慌で全国34行が支払い停止(大阪府17行・京都府5行・熊本県4行など)
    • [25]1900年末から1901年末の預金移動(中小銀行▲2200万円/大銀行+1000万円)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [26]1920年の反動恐慌・1923年の関東大震災・1927年の昭和金融恐慌
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [10]1906年 貸出残高2000万円・預金残高3000万円で全国3位
    • [13]大正期の六十一銀行・本所貯金銀行・田中興業銀行・若松銀行の買収
    • [19]大正期のロサンゼルス・カリフォルニア拠点
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [11]1912年2月 個人経営から資本金1500万円の株式会社住友銀行へ改組
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [12]1912年3月末の総貸金4400万円(創業年次末の20倍)
    • [16]開業数年で九州・東京へ出店し大阪の銀行で首位
    • [17]1903年 ロンドンに代理店を設置
    • [20]1917年 国内店舗数が全国第一位
    • [21]1917年 3000万円への増資と株式の一般公開
    • [22]1920年 7000万円への増資と貸金3億円突破
    • [26]1920年の反動恐慌・1923年の関東大震災・1927年の昭和金融恐慌
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
    • [14]1910年 三井合名会社の設立と同時に三井銀行が株式組織へ改組し資本金500万円→2000万円
    • [15]1919年 三菱銀行が独立の株式会社として発足
    • [23]普通銀行数が1901年1890行から1914年1595行へ減少
    • [24]1901年の恐慌で全国34行が支払い停止(大阪府17行・京都府5行・熊本県4行など)
    • [25]1900年末から1901年末の預金移動(中小銀行▲2200万円/大銀行+1000万円)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
    • [18]1916年 サンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへの支店開設

恐慌のたびに預金が集まる銀行と、戦時に失った35店

住友銀行はその受け皿の側にいた。1927年の金融恐慌のときから預金が急増するという現象が起き、1929年末の総預金は6億6200万円に達して、名実ともに全国銀行の首位[28]を占めている。恐慌の期にも店舗網を拡充して預金を伸ばし、浅田銀行と和歌山倉庫銀行を吸収したうえ、西肥銀行・久留米銀行・佐賀百六銀行・豊前銀行・三州平和銀行を傘下に収めた[29]。満州事変を境に経済は戦時体制へ移り、太平洋戦争の勃発後は軍需融資機関として資金運用がおおむね統制下に置かれた[30]。統制の一手段として大銀行間の合併が相次いだが、住友銀行は統合を避ける方針をとった[31][27]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [27]1927年金融恐慌時からの預金急増
    • [28]1929年末の総預金6億6200万円・全国銀行首位
    • [30]太平洋戦争後の資金運用が統制下に置かれたこと
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [29]昭和初期の浅田銀行・和歌山倉庫銀行の吸収と西肥銀行ほか5行の傘下化
    • [31]大銀行間の合併が相次ぐなかで住友銀行は統合を避ける方針をとった

終戦直前の1945年、一県一行政策のもとで阪南銀行と池田実業銀行を合併し、店舗を一挙に30カ店増やした[32]にとどまる。三井銀行と第一銀行が1943年に合同して帝国銀行となり、翌1944年に十五銀行を加えた[33]のとは進み方が違う。戦時金融の傷は各行に共通しており、帝国・三菱・安田・住友・三和の五大銀行と日本興業銀行では、貸し出しのうち戦時補償をあてにしたものが8割を超えた[34]。住友は政治との距離を保ってきたが、総理事の小倉正恒氏は政府の要請に応じ、1940年から1941年にかけて無任所大臣と大蔵大臣を務めている[35]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [32]1945年 阪南銀行・池田実業銀行の合併で店舗が一挙に30カ店増加
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [33]1943年 三井銀行と第一銀行が合同し帝国銀行、1944年に十五銀行を合併
    • [34]五大銀行と興銀の貸し出しのうち戦時補償をあてにしたものが8割超
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [35]総理事の小倉正恒氏が1940年から1941年にかけて無任所大臣と大蔵大臣を務めた

戦争は人と店を削り、1944年8月の実働職員は約3800人で、うち3分の2が女子[36]だった。女子職員の採用が始まったのは1937年[37]で、7年で構成が入れ替わっている。日本各地の都市が空襲で被災し、大阪の本社は無事だったものの、焼失した店舗は住友銀行だけで35に達した[38]。敗戦により海外店舗は全面的に閉鎖されたが、国内の営業店は出張所を含めて123カ店を数え、1945年9月末の総預金は106億円、総貸金は81億円[39]である。1945年10月20日、GHQは三井・三菱・住友・安田など15財閥に事業内容の報告を求め、同月31日に資産の凍結を指令[40]した。同年11月には住友本社が解散の方針を発表[41]している。

  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [36]1944年8月の実働職員約3800人・うち3分の2が女子
    • [37]1937年 女子職員の採用開始
    • [38]空襲による焼失店舗35
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [39]1945年9月末の総預金106億円・総貸金81億円・国内123カ店
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
    • [40]1945年10月20日のGHQ報告要求と10月31日の資産凍結指令
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [41]1945年11月 住友本社が解散の方針を発表
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [27]1927年金融恐慌時からの預金急増
    • [28]1929年末の総預金6億6200万円・全国銀行首位
    • [30]太平洋戦争後の資金運用が統制下に置かれたこと
    • [39]1945年9月末の総預金106億円・総貸金81億円・国内123カ店
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [29]昭和初期の浅田銀行・和歌山倉庫銀行の吸収と西肥銀行ほか5行の傘下化
    • [31]大銀行間の合併が相次ぐなかで住友銀行は統合を避ける方針をとった
    • [32]1945年 阪南銀行・池田実業銀行の合併で店舗が一挙に30カ店増加
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [33]1943年 三井銀行と第一銀行が合同し帝国銀行、1944年に十五銀行を合併
    • [34]五大銀行と興銀の貸し出しのうち戦時補償をあてにしたものが8割超
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [35]総理事の小倉正恒氏が1940年から1941年にかけて無任所大臣と大蔵大臣を務めた
    • [36]1944年8月の実働職員約3800人・うち3分の2が女子
    • [37]1937年 女子職員の採用開始
    • [38]空襲による焼失店舗35
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
    • [40]1945年10月20日のGHQ報告要求と10月31日の資産凍結指令
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [41]1945年11月 住友本社が解散の方針を発表

1946年〜 財閥解体で大阪銀行と名を変え、平和条約の年に住友へ復するまで

  1. 1948年 金融機関再建整備法により11億4000万円を増資
  2. 1948年 大阪銀行に商号変更
  3. 1949年 東京・大阪の両証券取引所に上場
  4. 1952年 ニューヨーク支店を再開
  5. 1952年 対日平和条約の発効を受け、行名を住友銀行に復帰
  6. 1960年 プリンス自動車販売との提携で自動車購入資金の貸付を制度化
  7. 1964年 河内銀行を吸収合併

財閥解体で行名を失い、大阪銀行となった3年

戦時補償の打ち切りは1946年8月に決まり、金融機関と企業は損失を特別の方法で整理する必要[42]に迫られた。金融機関の特別損失の最終処理と再建整備は、企業に先立って完了[43]している。財閥解体の側でも、指定財閥の関係会社632社から2210人の役員が職を追われた[44]。1947年8月、鈴木剛氏が51歳で住友銀行の社長に就いた。「上におられた方々が、すべて追放の対象となったためである。その年の二月、取締役(同時に常務取締役)に選ばれてからわずか半年後のことで、意外な成り行きに唖然としたものである」と本人が書き残している。 [45]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [42]1946年8月 戦時補償の打ち切り決定と損失の特別整理
    • [43]金融機関の特別損失の最終処理と再建整備は企業に先立って完了した
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
    • [44]指定財閥の関係会社632社から2210人の役員が追放
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [45]1947年8月 鈴木剛氏が51歳で住友銀行社長に就任した経緯

銀行は分割の必要がないという決定が1948年7月に出た[46]が、財閥名の使用だけは許されなかった。1948年10月、金融機関再建整備法により11億4000万円を増資し[47]、同時に旧資本金の全額を切り捨てたうえで、行名を大阪銀行に改めて再発足している。大銀行はこのとき積立金の全額と資本金の9割から全額、大口の第二封鎖預金の7割前後を切り捨てた[48]。三菱は千代田、安田は富士、野村は大和と看板を変え[49]、三井と第一の合同で生まれた帝国銀行だけは二つの系統に分かれて旧三井が帝国、旧第一が第一と名乗った[50]。翌1949年5月、東京・大阪の両証券取引所に上場[51]している。

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [46]1948年7月 銀行は分割の必要がないという決定
    • [48]再建整備で大銀行が切り捨てた積立金全額・資本金の90〜100%・第二封鎖預金の7割前後
    • [49]財閥系各行の改称(三菱→千代田、安田→富士、野村→大和)
    • [50]帝国銀行が旧三井の帝国と旧第一の第一に分かれた経緯
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [47]1948年10月 11億4000万円増資・旧資本金全額切り捨て・大阪銀行へ改称
    • [51]1949年5月 東京・大阪両証券取引所に上場

再出発後の経済はインフレからドッジ・デフレへの転換期にあり、企業の資金需要は復興資金と合理化資金で膨らんだ[52]。1950年から1951年にかけては輸入物資の引取資金もかさみ、金融機関はオーバーローンに苦しんで[53]いる。住友銀行は1949年に「ラッキー定期」などで大衆化路線を敷き[54]、1950年4月には資産再評価を行って資本を適正化[55]した。広く大衆層の資金吸収に努めた結果、1951年末の預金は1000億円を超え、1954年末には2000億円に達して[56]いる。1954年4月にも資産再評価を行い、再評価積立金は約10億8000万円[57]になった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [52]インフレからドッジ・デフレへの転換期と復興・合理化資金の需要
    • [53]1950年から1951年の輸入物資引取資金とオーバーローン
    • [55]1950年4月 資産再評価による資本の適正化
    • [56]1951年末の預金1000億円超・1954年末2000億円
    • [57]1954年4月の資産再評価と再評価積立金約10億8000万円
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [54]1949年 ラッキー定期などによる大衆化路線
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [42]1946年8月 戦時補償の打ち切り決定と損失の特別整理
    • [43]金融機関の特別損失の最終処理と再建整備は企業に先立って完了した
    • [46]1948年7月 銀行は分割の必要がないという決定
    • [48]再建整備で大銀行が切り捨てた積立金全額・資本金の90〜100%・第二封鎖預金の7割前後
    • [49]財閥系各行の改称(三菱→千代田、安田→富士、野村→大和)
    • [50]帝国銀行が旧三井の帝国と旧第一の第一に分かれた経緯
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
    • [44]指定財閥の関係会社632社から2210人の役員が追放
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [45]1947年8月 鈴木剛氏が51歳で住友銀行社長に就任した経緯
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [47]1948年10月 11億4000万円増資・旧資本金全額切り捨て・大阪銀行へ改称
    • [51]1949年5月 東京・大阪両証券取引所に上場
    • [52]インフレからドッジ・デフレへの転換期と復興・合理化資金の需要
    • [53]1950年から1951年の輸入物資引取資金とオーバーローン
    • [55]1950年4月 資産再評価による資本の適正化
    • [56]1951年末の預金1000億円超・1954年末2000億円
    • [57]1954年4月の資産再評価と再評価積立金約10億8000万円
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [54]1949年 ラッキー定期などによる大衆化路線

平和条約の年に取り戻した行名と、松下電器に残した一行取引

復名は早く、1952年4月に対日平和条約が発効すると、住友・三菱・三井の3行が相次いで旧称号に復した[58]。住友銀行が行名を戻したのは同年12月[59]である。安田は富士、野村は大和の称号[60]を続けた。戦前に総合的なコンツェルンを形成していた3家は旧称号への執着が強く、金融閥として発展した安田と証券金融に縁の深かった野村は新しい名を選んで[61]いる。住友の場合はもう一つ理由があり、海外進出が進むにつれて行名復帰の必要が増し、取引先の要望も重なった[62]。1952年9月にはニューヨーク支店をいち早く再開し、続いて加州住友銀行を設立して、ロンドンとカラチに駐在員事務所を置いた[63]。1953年4月には資本金を22億8000万円へ倍増[64]している。

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [58]1952年4月の対日平和条約発効と住友・三菱・三井の旧称号復帰
    • [60]安田は富士、野村は大和の称号を継続
    • [61]旧称号への執着と、安田・野村が新しい名を選んだ事情
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [59]住友銀行が行名を戻したのは1952年12月
    • [62]海外進出の進展にともなう行名復帰の必要と取引先の要望
    • [63]1952年9月 ニューヨーク支店の再開と加州住友銀行の設立、ロンドン・カラチの駐在員事務所
    • [64]1953年4月 資本金22億8000万円への倍増

戦後の独占禁止政策は系列融資にも及び、住友銀行が連係各社と一行取引で融資することは認められなくなった[65]。ある日、松下幸之助氏が銀行を訪ね、「こんな時勢になって、松下としても、将来について悩んでいる。住友さんは今後も取引して下さるだろうか」と相談した。鈴木社長は即座に答えている。「住友系各社との一行取引は、出来なくなりました。いま一行取引先で残っているのは、あなたのところだけです。今後も松下さんとだけは一行取引を続けましょう」。松下電器産業は住友の連係会社ではなく、規制の外にあった。 [66]

  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [65]戦後の独占禁止政策により住友系各社との一行取引が認められなくなった
    • [66]松下幸之助氏の相談と鈴木剛社長の即答による一行取引の継続
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [58]1952年4月の対日平和条約発効と住友・三菱・三井の旧称号復帰
    • [60]安田は富士、野村は大和の称号を継続
    • [61]旧称号への執着と、安田・野村が新しい名を選んだ事情
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [59]住友銀行が行名を戻したのは1952年12月
    • [62]海外進出の進展にともなう行名復帰の必要と取引先の要望
    • [63]1952年9月 ニューヨーク支店の再開と加州住友銀行の設立、ロンドン・カラチの駐在員事務所
    • [64]1953年4月 資本金22億8000万円への倍増
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [65]戦後の独占禁止政策により住友系各社との一行取引が認められなくなった
    • [66]松下幸之助氏の相談と鈴木剛社長の即答による一行取引の継続

堀田庄三の効率経営と、個人取引の入口を先に開いた10年

1951年11月に社長という職名が頭取へ変わり、鈴木剛氏は職名変更後の1年余を頭取として務めている[67]。1952年11月、その後を継いだのは副頭取の堀田庄三氏[68]である。1951年から1952年当時の預金残高は1300億円弱で、大手のなかでは第4位[69]にとどまった。ただし一店舗当たり・一従業員当たりの資金量は第一位[70]で、効率では他行を上回っている。融資を調査部と審査部の2部門で検討するダブル・チェック・システム[71]も、住友銀行の特徴として知られた。1955年3月末の店舗数は138、預金総額2206億円、貸出金総額1825億円[72]である。

  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [67]1951年11月 社長から頭取への職名変更と鈴木剛氏の頭取在任
    • [68]1952年11月 堀田庄三氏が副頭取から頭取に就任
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [69]1951年から1952年当時の預金残高1300億円弱・大手第4位
    • [70]一店舗当たり・一従業員当たりの資金量が第一位
    • [71]調査部と審査部によるダブル・チェック・システム
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [72]1955年3月末の店舗数138・預金総額2206億円・貸出金総額1825億円

広げた先は法人ではなく個人で、1960年11月にプリンス自動車販売との提携で自動車購入資金の貸付を制度化し、個人向け消費者金融に先鞭をつけた。融資先の選別と住友系列外の有望企業との取引開拓[73]を進めて貸し出しを伸ばす一方、預金の獲得にも力を注いでいる。預金集めでは、支店の配る「ブルーの名刺」が営業の道具になった[74]。新規事業としては、別会社によるクレジットカード業務も始めている[75]。1964年には河内銀行を合併し、預金量で一気に第2位へ進んだ[76]。1965年に始まる昭和40年代は、銀行にとって金融効率化と再編成の時代の入口[77]にあたる。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [73]融資先の選別と系列外の有望企業との取引開拓
    • [74]預金集めに使われた「ブルーの名刺」
    • [75]別会社によるクレジットカード業務の開始
    • [76]1964年 河内銀行の合併で預金量2位へ
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [77]昭和40年代は銀行にとって金融効率化と銀行再編成の時代
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [67]1951年11月 社長から頭取への職名変更と鈴木剛氏の頭取在任
    • [68]1952年11月 堀田庄三氏が副頭取から頭取に就任
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [69]1951年から1952年当時の預金残高1300億円弱・大手第4位
    • [70]一店舗当たり・一従業員当たりの資金量が第一位
    • [71]調査部と審査部によるダブル・チェック・システム
    • [73]融資先の選別と系列外の有望企業との取引開拓
    • [74]預金集めに使われた「ブルーの名刺」
    • [75]別会社によるクレジットカード業務の開始
    • [76]1964年 河内銀行の合併で預金量2位へ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [72]1955年3月末の店舗数138・預金総額2206億円・貸出金総額1825億円
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [77]昭和40年代は銀行にとって金融効率化と銀行再編成の時代

1966年〜 安宅産業の1132億円を1期で償却し、平和相互銀行で首都圏を得るまで

住友銀行の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1968年 金融界で最初の総合オンライン化に着手
  2. 1969年 日本で最初の現金自動支払機を店舗に設置
  3. 1977年 安宅産業の救済で負担した1132億円の全額償却 数期に分けて薄く落とすか、1期で捨てるか——2期分の経常利益にあたる損失をめぐる決算処理
  4. 1980年 1980年9月期決算で都市銀行の首位に復帰
  5. 1984年 スイスのゴッタルド銀行を買収
  6. 1986年 ゴールドマン・サックスに出資(1999年時点の出資比率は10%強)
  7. 1986年 平和相互銀行の吸収合併と首都圏店舗網の取得 東京の店を一つずつ増やすか、銀行を丸ごと引き受けるか——出店規制下での規模の作り方

合併の列に加わらず、装置と人の派遣で広げた取引

事務の合理化では金融界で最初の総合オンライン化に着手[78]し、1969年12月に日本で最初の現金自動支払機を店舗へ置いた[79]。1968年3月末の預金残高は1兆9225億円で第2位、申告所得では業界の首位[80]に立っている。店舗網は国内177カ店、海外3カ店の計180カ店で、海外コルレス網では世界の一流銀行約500行[81]と結んでいた。この間に経常収益は1971年3月期の2351億円から1975年3月期の6480億円へ4年で2.8倍になり、同じ期の経常利益は616億円、当期純利益は247億円[82]である。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [78]金融界最初の総合オンライン化への着手
    • [80]1968年3月末の預金残高1兆9225億円で第2位、申告所得は業界首位
    • [81]国内177カ店・海外3カ店の計180カ店と海外コルレス約500行
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [79]1969年12月 日本初の現金自動支払機を店舗に設置
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
    • [82]1971年3月期の経常収益2351億円から1975年3月期6480億円へ4年で2.8倍、経常利益616億円・当期純利益247億円

この20年は業界にとって再編の時代でもあり、1968年6月に金融機関の合併及び転換に関する法律が制定された[83]。合併転換法は、同じ分野の金融機関だけでなく異種金融機関どうしの合併・転換を認める[84]ものだった。同年12月には日本相互銀行が普通銀行の太陽銀行へ転換している[85]。1969年元旦には三菱銀行と第一銀行の合併構想が報道され、大銀行どうしの合併時代の幕開けと受け止められた。この構想は第一銀行会長の井上薫氏が強く反対して実現に至らなかったが、1971年10月に第一勧業銀行、1973年10月に太陽神戸銀行が生まれた。住友銀行はこの大型合併の列に加わっていない。地銀1行の吸収と装置への投資で規模を積み、合併による規模の獲得は1986年まで手をつけずにいた[88]。再編と並行して、1971年7月には預金者を保護する預金保険制度が創設[89]されている。 [86][87]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [83]1968年6月の合併転換法制定
    • [84]合併転換法は異種金融機関の間での合併・転換を認めた
    • [85]1968年12月 日本相互銀行から太陽銀行への転換、1971年10月 第一勧業銀行、1973年10月 太陽神戸銀行の発足
    • [86]1969年元旦に報道された三菱銀行・第一銀行の合併構想と第一銀行会長 井上薫氏の反対
    • [87]1971年10月 第一勧業銀行、1973年10月 太陽神戸銀行の発足
    • [89]1971年7月 預金保険制度の創設
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [88]1986年まで合併による規模の獲得に手をつけなかったこと

取引先へ人を送るのも住友銀行の広げ方で、メインバンクを務めたアサヒビールには、1971年の高橋吉隆氏、1976年の延命直松氏に続き、1982年に副頭取の村井勉氏、1986年に同じく副頭取の樋口廣太郎氏と、4代続けて出身者が社長として入った[90]。村井氏は1976年から東洋工業へ副社長として出向した再建の経験を持ち、住友銀行を退社したうえで「販売なくして会社なし」を持論に転じている[91]。アサヒビールへのトップ派遣が終わって生え抜きの社長に戻るのは1992年で、派遣が始まってから20年以上が経っていた[92]

  • 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
    • [90]アサヒビールへの住友銀行出身社長4代(高橋吉隆1971〜・延命直松1976〜・村井勉1982〜・樋口廣太郎1986〜)
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場「村井勉氏」
    • [91]村井勉氏の東洋工業出向と持論「販売なくして会社なし」
  • 週刊東洋経済 2015年6月19日号「社長の器 長期政権築いたアサヒの「名参謀」」
    • [92]1992年 住友銀行からのトップ派遣終了と生え抜き社長への交代
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [78]金融界最初の総合オンライン化への着手
    • [80]1968年3月末の預金残高1兆9225億円で第2位、申告所得は業界首位
    • [81]国内177カ店・海外3カ店の計180カ店と海外コルレス約500行
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [79]1969年12月 日本初の現金自動支払機を店舗に設置
    • [88]1986年まで合併による規模の獲得に手をつけなかったこと
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
    • [82]1971年3月期の経常収益2351億円から1975年3月期6480億円へ4年で2.8倍、経常利益616億円・当期純利益247億円
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [83]1968年6月の合併転換法制定
    • [84]合併転換法は異種金融機関の間での合併・転換を認めた
    • [85]1968年12月 日本相互銀行から太陽銀行への転換、1971年10月 第一勧業銀行、1973年10月 太陽神戸銀行の発足
    • [86]1969年元旦に報道された三菱銀行・第一銀行の合併構想と第一銀行会長 井上薫氏の反対
    • [87]1971年10月 第一勧業銀行、1973年10月 太陽神戸銀行の発足
    • [89]1971年7月 預金保険制度の創設
  • 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
    • [90]アサヒビールへの住友銀行出身社長4代(高橋吉隆1971〜・延命直松1976〜・村井勉1982〜・樋口廣太郎1986〜)
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場「村井勉氏」
    • [91]村井勉氏の東洋工業出向と持論「販売なくして会社なし」
  • 週刊東洋経済 2015年6月19日号「社長の器 長期政権築いたアサヒの「名参謀」」
    • [92]1992年 住友銀行からのトップ派遣終了と生え抜き社長への交代

安宅産業の1132億円を1期で捨てた判断

系列企業への集中的な融資が企業の投機的な行動につながっているという批判が高まり、第一次石油ショック後の1974年11月、大蔵省は行政指導による大口融資規制を実施[93]した。石油ショックは商社業界にも大きな傷跡[94]を残した。1975年12月の半ば過ぎ、業界9位の安宅産業の経営危機が突然表面化し、1カ月もたたない1976年1月12日に伊藤忠商事との業務提携が発表[95]された。当時の安宅産業は年商2兆円、負債総額1兆円、取引先3万5000社、国内の取引金融機関223行[96]である。10大商社の一角が倒産すれば連鎖倒産が広がり、信用恐慌に至りかねない規模[97]だった。

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [93]1974年11月 大蔵省による行政指導での大口融資規制
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
    • [94]第一次石油ショックが商社業界に残した傷跡
    • [95]1975年12月半ばの安宅産業の経営危機表面化と1976年1月12日の伊藤忠商事との業務提携発表
    • [96]安宅産業の年商2兆円・負債総額1兆円・取引先3万5000社・取引金融機関223行
    • [97]10大商社の一角の倒産は連鎖倒産と信用恐慌に至りかねない規模

危機の直接の原因はカナダの石油精製事業のつまずきにあったが、崩壊の真の原因は杜撰な経営で、安宅産業自身がメインバンクを持たなかった[98]ことも重なっていた。終戦処理にあたった住友銀行によれば、年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引もしくは架空取引[99]である。危機の表面化からちょうど1年後の1976年12月29日、住友・協和両銀行の仲介で安宅産業が伊藤忠商事に吸収合併されることが本決まりとなり、合併覚書に調印した。合併の実行は1977年10月で、救済融資約2000億円のうち住友銀行の負担は1132億円[101]に上っている。 [100]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
    • [98]危機の直接の原因はカナダの石油精製事業のつまずき、真の原因は杜撰な経営とメインバンク不在
    • [99]住友銀行の調査で年商のうち健全な取引は約半分、残りは赤字取引もしくは架空取引
    • [100]1976年12月29日 住友・協和両銀行の仲介による伊藤忠商事への吸収合併の覚書調印と1977年10月の合併
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏(住友銀行頭取)銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
    • [101]救済融資約2000億円のうち住友銀行の負担は1132億円

住友銀行はこの1132億円を、1977年9月期決算で全額償却した。分割して数期に散らす処理も選べたが、選んでいない。1972年3月期の経常利益は530億円、伸びたあとの1975年3月期でも616億円[103]で、償却額は2期分の稼ぎにあたる。磯田一郎頭取は後年、この処理を「まぁ、すてたんです」と語った[104]。同じ誌面の主題は「銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」に移っている[105]。その前年、1978年3月13日号の日経ビジネスは13ページの特集を住友銀行に割いて[106]いた。1982年3月期の経常収益は1兆6013億円、経常利益は1051億円、当期純利益は556億円[107]である。 [102]

  • 日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏(住友銀行頭取)銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
    • [102]1132億円を1977年9月期決算で全額償却し分割償却を選ばなかった
    • [104]磯田一郎頭取が1132億円の処理を「まぁ、すてたんです」と語った
    • [105]同号の主題は「銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
    • [103]1972年3月期の経常利益530億円・1975年3月期616億円
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号「ケーススタディ。住友銀行-挫折からの再出発-」
    • [106]日経ビジネス1978年3月13日号の13ページ特集
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
    • [107]1982年3月期の経常収益1兆6013億円・経常利益1051億円・当期純利益556億円
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [93]1974年11月 大蔵省による行政指導での大口融資規制
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
    • [94]第一次石油ショックが商社業界に残した傷跡
    • [95]1975年12月半ばの安宅産業の経営危機表面化と1976年1月12日の伊藤忠商事との業務提携発表
    • [96]安宅産業の年商2兆円・負債総額1兆円・取引先3万5000社・取引金融機関223行
    • [97]10大商社の一角の倒産は連鎖倒産と信用恐慌に至りかねない規模
    • [98]危機の直接の原因はカナダの石油精製事業のつまずき、真の原因は杜撰な経営とメインバンク不在
    • [99]住友銀行の調査で年商のうち健全な取引は約半分、残りは赤字取引もしくは架空取引
    • [100]1976年12月29日 住友・協和両銀行の仲介による伊藤忠商事への吸収合併の覚書調印と1977年10月の合併
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏(住友銀行頭取)銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
    • [101]救済融資約2000億円のうち住友銀行の負担は1132億円
    • [102]1132億円を1977年9月期決算で全額償却し分割償却を選ばなかった
    • [104]磯田一郎頭取が1132億円の処理を「まぁ、すてたんです」と語った
    • [105]同号の主題は「銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
    • [103]1972年3月期の経常利益530億円・1975年3月期616億円
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号「ケーススタディ。住友銀行-挫折からの再出発-」
    • [106]日経ビジネス1978年3月13日号の13ページ特集
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
    • [107]1982年3月期の経常収益1兆6013億円・経常利益1051億円・当期純利益556億円

首都圏の店舗網を一度に買った平和相互合併

1985年9月のプラザ合意のあと、公定歩合は1986年1月から1987年2月までに5回引き下げられて5%から2.5%となり、この水準が1989年5月末まで維持された。銀行には資金が流れ込み、貸出先を探す圧力が強まった。当時の銀行は自由に店を出せず、出店規制のもとで支店には利権があった。作家の堺屋太一氏は後年、「出店規制で支店には膨大な利権があったため、債務超過の銀行でもその利権のために合併してくれる銀行があった。住友銀行による平和相互銀行の合併がその典型です」と述べている。1985年3月期の住友銀行は経常収益2兆555億円、経常利益1584億円、当期純利益750億円[110]だった。 [108][109]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [108]公定歩合は1986年1月から1987年2月まで5回引き下げられ5%から2.5%となり1989年5月末まで維持
  • 週刊東洋経済 2001年1月27日号「KeyPerson 知恵が価値を生み出すニューパラダイムに乗り遅れるな 作家・内閣特別顧問/堺屋太一」
    • [109]堺屋太一氏による出店規制と支店の利権、平和相互銀行合併を典型とする指摘
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
    • [110]1985年3月期の単体業績 経常収益2兆555億円・経常利益1584億円・当期純利益750億円

相手の平和相互銀行は「夜7時までの営業」を掲げ、首都圏に100店舗を構えた相互銀行[111]である。1979年に創業者の小宮山英蔵氏が死去すると実弟や長男、娘婿らの間で後継者争いが起き、外部出身の監査役らが実権を握って一族の追い出しにかかった[112]。追い詰められた一族は対抗策として保有株を川崎定徳の佐藤茂社長へ売却し、佐藤氏は住友銀行から送り込まれてイトマン社長を務めていた河村良彦氏に話をつないで[113]いる。株式は最終的に住友銀行へ渡り[114]、1986年10月に平和相互銀行は吸収合併された。新資本金は約1266億円、預金は約24兆円となって、預金量で国内2位[115]に立っている。

  • 週刊東洋経済 2016年12月3日号「座談会 平成金融バブルから日本は何を学ぶか」
    • [111]平和相互銀行は「夜7時までの営業」を掲げ首都圏に100店舗を持つ相互銀行
  • 週刊東洋経済 2017年5月20日号「第1特集 最後の証言 バブル全史 証言4 土地バブルの起点」
    • [112]1979年の小宮山英蔵氏の死去後に起きた後継者争いと外部出身監査役による一族の追い出し
    • [114]株式は最終的に住友銀行へ渡り平和相互銀行は吸収合併された
  • 週刊東洋経済 2016年1月4日号「ひと烈風録 第23回 脱原発とバブルまみれ どっちも過激に一点突破 弁護士 河合弘之」
    • [113]一族が川崎定徳の佐藤茂社長へ株式を売却し、佐藤氏がイトマンの河村良彦社長に話をつないだ経緯
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [115]1986年10月 平和相互銀行の吸収合併で新資本金約1266億円・預金約24兆円・国内2位

同じ1986年1月、住友銀行は米ゴールドマン・サックスへ出資している[116]。この出資について、小松康頭取は翌年に「もともとパッシブな投資だった」と述べている。1984年にはスイスのゴッタルド銀行を買収していた。合併の直後、行内へ発せられたのは「倍の目標、倍のスピード」という号令[117]である。これが融資拡大計画となって外へ出ると、横並び意識の強いなかで各行も同様の計画を立てた[118]。1986年から1989年の不動産業向け融資は約44兆円に達し、審査は右肩上がりの地価を前提に土地の担保があれば通って[119]いる。1989年8月には住友銀行が土地所有層へ融資を広げていること[120]が誌面に載った。1977年の頭取就任以来「向こう傷は問わない」と言われた磯田一郎氏は、1990年にイトマン事件で会長を辞任[121]した。

  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「編集長インタビュー 西川善文 住友銀行頭取 公的資金注入の責務は果たしていく」
    • [116]1986年1月 米ゴールドマン・サックスへの出資
  • 週刊東洋経済 2014年12月19日号「特集 2015年大予測 Part4 歴史は繰り返す? 資産バブル再び」
    • [117]合併直後に発せられた「倍の目標、倍のスピード」の号令
  • 週刊東洋経済 2017年4月15日号「ブックレビュー『バブルと生きた男 ある日銀マンの記録』」
    • [118]住友銀行の融資拡大計画に横並び意識の強い各行が追随した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [119]1986年から1989年の不動産業向け融資約44兆円と土地担保依存の審査
  • 日経ビジネス 1989年8月14日号「住友銀行 土地所有層へ積極融資」
    • [120]1989年8月 住友銀行の土地所有層への積極融資
  • 週刊東洋経済 2016年12月3日号「座談会 平成金融バブルから日本は何を学ぶか」
    • [121]磯田一郎氏は1977年の頭取就任後「向こう傷は問わない」で知られ1990年にイトマン事件で会長を辞任
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [108]公定歩合は1986年1月から1987年2月まで5回引き下げられ5%から2.5%となり1989年5月末まで維持
    • [119]1986年から1989年の不動産業向け融資約44兆円と土地担保依存の審査
  • 週刊東洋経済 2001年1月27日号「KeyPerson 知恵が価値を生み出すニューパラダイムに乗り遅れるな 作家・内閣特別顧問/堺屋太一」
    • [109]堺屋太一氏による出店規制と支店の利権、平和相互銀行合併を典型とする指摘
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
    • [110]1985年3月期の単体業績 経常収益2兆555億円・経常利益1584億円・当期純利益750億円
  • 週刊東洋経済 2016年12月3日号「座談会 平成金融バブルから日本は何を学ぶか」
    • [111]平和相互銀行は「夜7時までの営業」を掲げ首都圏に100店舗を持つ相互銀行
    • [121]磯田一郎氏は1977年の頭取就任後「向こう傷は問わない」で知られ1990年にイトマン事件で会長を辞任
  • 週刊東洋経済 2017年5月20日号「第1特集 最後の証言 バブル全史 証言4 土地バブルの起点」
    • [112]1979年の小宮山英蔵氏の死去後に起きた後継者争いと外部出身監査役による一族の追い出し
    • [114]株式は最終的に住友銀行へ渡り平和相互銀行は吸収合併された
  • 週刊東洋経済 2016年1月4日号「ひと烈風録 第23回 脱原発とバブルまみれ どっちも過激に一点突破 弁護士 河合弘之」
    • [113]一族が川崎定徳の佐藤茂社長へ株式を売却し、佐藤氏がイトマンの河村良彦社長に話をつないだ経緯
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [115]1986年10月 平和相互銀行の吸収合併で新資本金約1266億円・預金約24兆円・国内2位
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「編集長インタビュー 西川善文 住友銀行頭取 公的資金注入の責務は果たしていく」
    • [116]1986年1月 米ゴールドマン・サックスへの出資
  • 週刊東洋経済 2014年12月19日号「特集 2015年大予測 Part4 歴史は繰り返す? 資産バブル再び」
    • [117]合併直後に発せられた「倍の目標、倍のスピード」の号令
  • 週刊東洋経済 2017年4月15日号「ブックレビュー『バブルと生きた男 ある日銀マンの記録』」
    • [118]住友銀行の融資拡大計画に横並び意識の強い各行が追随した
  • 日経ビジネス 1989年8月14日号「住友銀行 土地所有層へ積極融資」
    • [120]1989年8月 住友銀行の土地所有層への積極融資

1990年〜 イトマンの後始末、他行に先駆けた8000億円の償却、そして統合で幕

イトマンと仕手集団、企業文化の立て直しに要した3年

融資の現場では、支店に課されるノルマが定期預金の獲得から融資の実行へ移っていた。公定歩合の引き下げで企業向け融資が儲からなくなり、個人向けの住宅ローンや富裕層へのアパートローンが中心になる。銀行はノンバンクを利用した協力預金などもこぞって手がけた[123]。住友銀行青葉台支店長だった山下彰則氏は、支店の顧客である地主に土地を担保とした融資を勧め、仕手集団の光進を率いる小谷光浩氏の持ち株への投資へ引き合わせている[124]。小谷氏は1990年7月に相場操縦で逮捕され、山下氏も同年10月に出資法違反で逮捕[125]された。 [122]

  • 週刊東洋経済 2017年5月20日号「第1特集 最後の証言 バブル全史 証言2 住銀と仕手集団 Interview 銀行が取るべき責任を私一人が背負わされた 元住友銀行支店長 山下彰則」
    • [122]支店のノルマが定期預金の獲得から融資の実行へ移り、住宅ローンとアパートローンが中心になった
    • [123]ノンバンクを利用した協力預金などが広く行われた
    • [124]青葉台支店長 山下彰則氏が地主を仕手集団・光進の小谷光浩氏に引き合わせた経緯
    • [125]1990年7月 小谷光浩氏の相場操縦での逮捕と同年10月の山下彰則氏の出資法違反での逮捕

同じころ、系列の総合商社イトマン向けの債権が不良化し、実力者だった磯田一郎会長が辞任した。日本興業銀行や富士銀行といった名門銀行の首脳も国会に呼び出され、不祥事のない銀行を探した方が早いといわれる状態にある。1991年12月23日号の日経ビジネスは、含み益に頼る住友銀行を「宴の後始末」の特集で取り上げた[127]。後任の巽外夫氏が誌面の人物欄に登場したのは1988年1月[128]で、頭取に就いたのはイトマン事件のあとにあたる。1992年10月のインタビューでは、イトマンの合併処理は当初から頭にあったと語っている。拡大を主導した会長が退いたことで、審査と融資のやり方を建て直す仕事が後任へ残された。 [126][129]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [126]イトマン向け債権の不良化と磯田一郎会長の辞任、興銀・富士の首脳の国会招致
  • 日経ビジネス 1991年12月23日号「内でも外でも宴の後始末 “含み”頼みの住友銀行、飛鳥建設スリム化で売り切る朝日住建」
    • [127]1991年12月23日号の日経ビジネスが含み益に頼る住友銀行を取り上げた
  • 日経ビジネス 1988年1月4日号「巽外夫氏(住友銀行)登場」
    • [128]巽外夫氏は1988年1月の人物欄で紹介された
  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「編集長インタビュー 巽外夫氏[住友銀行頭取]イトマン合併は当初から頭に」
    • [129]巽外夫頭取の1992年10月インタビューでのイトマン合併に関する発言

東京証券取引所一部上場株式の時価総額は、1989年12月の590兆円から1992年6月には270兆円へ半分以下に減った。担保にしていた土地と株の値段が崩れた以上、融資の可否を支えてきた前提そのものが失われている。1993年4月には経営3カ年計画「CHANGE, 100計画」が始まった。同年8月の日経ビジネスは、ゆがんだ企業文化を洗い流すという表題で住友銀行を取り上げている。このときの主題は業容の拡大ではなく、審査と融資のやり方をもとに戻すことにあった。不良債権をどれだけの速さで落とすかも、その主題の一部だった。 [130][131]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [130]東証一部の時価総額が1989年12月の590兆円から1992年6月に270兆円へ半減
  • 日経ビジネス 1993年8月23日号「住友銀行。ゆがんだ企業文化を洗い流す」
    • [131]1993年4月の経営3カ年計画「CHANGE, 100計画」開始と同年8月の企業文化をめぐる報道
  • 週刊東洋経済 2017年5月20日号「第1特集 最後の証言 バブル全史 証言2 住銀と仕手集団 Interview 銀行が取るべき責任を私一人が背負わされた 元住友銀行支店長 山下彰則」
    • [122]支店のノルマが定期預金の獲得から融資の実行へ移り、住宅ローンとアパートローンが中心になった
    • [123]ノンバンクを利用した協力預金などが広く行われた
    • [124]青葉台支店長 山下彰則氏が地主を仕手集団・光進の小谷光浩氏に引き合わせた経緯
    • [125]1990年7月 小谷光浩氏の相場操縦での逮捕と同年10月の山下彰則氏の出資法違反での逮捕
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [126]イトマン向け債権の不良化と磯田一郎会長の辞任、興銀・富士の首脳の国会招致
    • [130]東証一部の時価総額が1989年12月の590兆円から1992年6月に270兆円へ半減
  • 日経ビジネス 1991年12月23日号「内でも外でも宴の後始末 “含み”頼みの住友銀行、飛鳥建設スリム化で売り切る朝日住建」
    • [127]1991年12月23日号の日経ビジネスが含み益に頼る住友銀行を取り上げた
  • 日経ビジネス 1988年1月4日号「巽外夫氏(住友銀行)登場」
    • [128]巽外夫氏は1988年1月の人物欄で紹介された
  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「編集長インタビュー 巽外夫氏[住友銀行頭取]イトマン合併は当初から頭に」
    • [129]巽外夫頭取の1992年10月インタビューでのイトマン合併に関する発言
  • 日経ビジネス 1993年8月23日号「住友銀行。ゆがんだ企業文化を洗い流す」
    • [131]1993年4月の経営3カ年計画「CHANGE, 100計画」開始と同年8月の企業文化をめぐる報道

8000億円の先行償却と、住専紹介融資の追及

都市銀行・長期信用銀行・信託銀行の大手22行が抱える経営破綻先債権と6カ月以上の延滞債権は、1994年3月末で13兆5741億円に達し、貸付金に占める比率は3%[132]に及んだ。公表された額の外にも回収の見込みが薄い債権があり、実質では30兆円とも50兆円ともいわれている。金額の大きさ以上に問題だったのは、その償却が進まないことである。不良債権を売買する市場が育たず税制の対策も整わなかったうえ、銀行経営者が償却に伴う決算の悪化に二の足を踏み、経営責任の問題に点火することを恐れた面も否めない[134]。同じ痛手を負った米銀が償却を急いでいち早く立ち直ったのに対し、日本の銀行の速度は遅すぎた[135][133]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [132]大手22行の不良債権は1994年3月末で13兆5741億円、貸付金比率3%
    • [133]実質では30兆円とも50兆円ともいわれ、最大の問題は償却の遅れ
    • [134]償却が遅れた理由(流通市場の不在・税制の未整備・決算悪化への躊躇と経営責任への恐れ)
    • [135]米銀が償却を急いで立ち直ったのに比べ日本の銀行の償却は遅すぎた

1995年3月期、住友銀行は8000億円を超える不良債権を償却し、都市銀行として初めて経常赤字を計上した。決算の悪化を避けて処理を先送りする銀行が並ぶなかで、単年度の決算に損失を寄せた判断である。森川敏雄頭取はこの決算を「赤字決算で2つの『過去』償却」と語り、多様化を乗り切るリスク管理の立て直しを次の課題に挙げた[137]。1977年9月期に安宅産業救済の1132億円を全額償却した先例[138]を、金額を7倍に増やしたうえで繰り返している。同年10月には、住友銀行が貸し出しの判断を改めてリスク管理体制の構築へ進んだ[139][136]

  • 日経ビジネス 1995年3月27日号「編集長インタビュー 森川敏雄氏[住友銀行頭取]赤字決算で2つの「過去」償却 多様化乗り切るリスク管理を」
    • [136]1995年3月期に8000億円超の不良債権を償却し都市銀行初の経常赤字を計上
    • [137]森川敏雄頭取が「赤字決算で2つの『過去』償却」と語り、多様化を乗り切るリスク管理を課題に挙げた
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏(住友銀行頭取)銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
    • [138]1977年9月期に安宅産業救済の1132億円を全額償却した先例
  • 日経ビジネス 1995年10月2日号「住銀、貸し出し姿勢を一変 リスク管理体制構築へ」
    • [139]1995年10月 貸し出しの判断を改めリスク管理体制の構築へ進んだこと

先に償却したことは、住友銀行を追及の外に置かなかった。1997年6月の時点で不良債権の引当率は都銀全体で43%、大手20行ベースで41%にとどまり、住友銀行も系列の住銀保証への支援を続けていた。1998年6月、住宅金融債権管理機構は旧住専2社への融資紹介をめぐって約48億円の損害賠償を求めて提訴[141]した。中坊公平社長は紹介責任を問う134件のうち72件が住友銀行だったと述べ、「銀行はいつも天気のいい日に傘を差し出して、雨の日には傘を取り上げる」と批判している。住友銀行は、融資が旧住専の自主判断によるもので当行に法的責任はないと反論した。 [140][142]

  • 週刊東洋経済 1997年6月14日号「特集 なお遠いバブルの清算 都銀 一強八弱一脱落の格差」
    • [140]1997年6月時点の引当率は都銀全体43%・大手20行ベース41%、住銀保証への支援継続
  • 週刊東洋経済 1998年8月1日号「フラッシュ 住友銀行は紹介融資の責任をとれ キーマンに聞く 住宅金融債権管理機構社長 中坊公平」
    • [141]1998年6月 住宅金融債権管理機構による約48億円の損害賠償請求訴訟
    • [142]中坊公平社長が紹介責任134件のうち72件が住友銀行と述べ、貸し手のふるまいを批判した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [132]大手22行の不良債権は1994年3月末で13兆5741億円、貸付金比率3%
    • [133]実質では30兆円とも50兆円ともいわれ、最大の問題は償却の遅れ
    • [134]償却が遅れた理由(流通市場の不在・税制の未整備・決算悪化への躊躇と経営責任への恐れ)
    • [135]米銀が償却を急いで立ち直ったのに比べ日本の銀行の償却は遅すぎた
  • 日経ビジネス 1995年3月27日号「編集長インタビュー 森川敏雄氏[住友銀行頭取]赤字決算で2つの「過去」償却 多様化乗り切るリスク管理を」
    • [136]1995年3月期に8000億円超の不良債権を償却し都市銀行初の経常赤字を計上
    • [137]森川敏雄頭取が「赤字決算で2つの『過去』償却」と語り、多様化を乗り切るリスク管理を課題に挙げた
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏(住友銀行頭取)銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
    • [138]1977年9月期に安宅産業救済の1132億円を全額償却した先例
  • 日経ビジネス 1995年10月2日号「住銀、貸し出し姿勢を一変 リスク管理体制構築へ」
    • [139]1995年10月 貸し出しの判断を改めリスク管理体制の構築へ進んだこと
  • 週刊東洋経済 1997年6月14日号「特集 なお遠いバブルの清算 都銀 一強八弱一脱落の格差」
    • [140]1997年6月時点の引当率は都銀全体43%・大手20行ベース41%、住銀保証への支援継続
  • 週刊東洋経済 1998年8月1日号「フラッシュ 住友銀行は紹介融資の責任をとれ キーマンに聞く 住宅金融債権管理機構社長 中坊公平」
    • [141]1998年6月 住宅金融債権管理機構による約48億円の損害賠償請求訴訟
    • [142]中坊公平社長が紹介責任134件のうち72件が住友銀行と述べ、貸し手のふるまいを批判した

大和証券との提携から、さくら銀行との統合で幕へ

1997年6月に頭取へ就いた西川善文氏は、1961年に大阪大学法学部を出て住友銀行へ入り、融資企画部長・丸の内支店長・常務・専務・副頭取を経て[143]いる。第九次経営計画が掲げたのは「一流の国際的金融サービス機関の実現」で、1997年7月には投資信託の窓口販売に備えて窓販委員会が立ち上がった[144]。個人顧客を富裕層・リッチ層・マス・リテイル層の三段階に分け、同年1月には東西の本店にプライベートバンキング室を置いて[145]いる。1998年には米シティバンクから久保田達夫氏が常務として移り、個人部門の立ち上げにあたった[146]。西川善文頭取は行内で「ソリューションビジネス」を唱え、2002年度末までに2000人を削減する計画[147]を示している。

  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「編集長インタビュー 西川善文 住友銀行頭取 公的資金注入の責務は果たしていく」
    • [143]西川善文氏は1961年大阪大学法学部卒で住友銀行に入行し、1997年6月に頭取就任
    • [147]「ソリューションビジネス」と2002年度末までの2000人削減計画
  • 週刊東洋経済 1997年7月19日号「特集 1200兆円を狙え 住友銀行 住銀のチャネルに資金取り込み狙う ベストの運用提供へ提携も辞さず」
    • [144]第九次経営計画の目標「一流の国際的金融サービス機関の実現」と1997年7月の窓販委員会
    • [145]個人顧客を富裕層・リッチ層・マス・リテイル層に分け、1997年1月に東西本店へプライベートバンキング室を設置
  • 週刊東洋経済 1998年7月18日号「フラッシュ 個人部門に特化して業務を見直す ビッグバン・キーマンに聞く 住友銀行常務 久保田達夫」
    • [146]米シティバンクから久保田達夫氏が常務として移り個人部門の立ち上げにあたった

1997年12月18日の昼食会で、西川善文頭取は大和証券の原良也社長に「投資銀行業務がうまくいかんのや」と漏らし、「一緒にやれることはありませんか」と持ちかけた[148]。この会話から1998年7月28日の戦略提携の基本合意が生まれ、投資銀行業務・デリバティブ・資産運用の3分野で合弁会社を設ける形が決まった。1999年4月に大和証券エスビーキャピタル・マーケッツが営業を始めている。1998年度の不良債権処理額は1兆500億円に達し、1999年3月には公的資金5010億円の注入を受けて[150]いる。連結範囲の拡大で自己資本比率が0.9〜1ポイント下がる見通しにあり、自己調達3400億円で8%は満たせると見ながら10%の確保を目指した申請[151]だった。のちにさくら銀行と合わせた住宅ローンは11.4兆円と、統合3行の10.7兆円を上回る規模[152]になった。 [149]

  • 週刊東洋経済 1998年8月8日号「特別レポート 再編へ牙むいた住友の危機意識 住友銀行・大和証券「戦略提携」の真相」
    • [148]1997年12月18日の西川善文頭取と大和証券の原良也社長のやりとり
    • [149]1998年7月28日の戦略提携の基本合意と1999年4月の大和証券エスビーキャピタル・マーケッツ営業開始
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「編集長インタビュー 西川善文 住友銀行頭取 公的資金注入の責務は果たしていく」
    • [150]1998年度の不良債権処理額1兆500億円と1999年3月の公的資金5010億円注入
    • [151]連結範囲拡大で自己資本比率が0.9〜1ポイント低下する見通しと、自己調達3400億円・10%確保を狙った申請
  • 週刊東洋経済 1999年10月23日号「Lineup/TopNews 取り残された三和・東京三菱 住友・さくら銀合併の衝撃」
    • [152]両行の住宅ローン合計11.4兆円は統合3行の10.7兆円を上回る

1999年10月、住友銀行とさくら銀行は合併に向けて全面提携することで合意した。合併後の総資産は99兆円で、同年8月に発表された富士銀行・第一勧業銀行・日本興業銀行の3行統合に次ぐ規模である。西川善文頭取は「単独でも生き残れると確信していたが」と前置きしたうえで、3行統合で現実が予想外に早くなり時間軸を早める必要があったと語り、「もう旧財閥の範囲だけでは意味がない」と述べた[154]。2001年4月、両行は合併して三井住友銀行が発足[155]し、1895年から106年続いた住友銀行の商号は破綻でも解散でもなく変更によって消えた[156]。住友銀行最高顧問の伊部恭之助氏は、明治30年代の総理事 伊庭貞剛氏の「名前や従来のいきさつなどにこだわらず、大いに他の資本と共にやれ」という言葉を引き、合併はその精神の実現に向けた一歩だと述べた[157][153]

  • 週刊東洋経済 1999年10月23日号「Lineup/TopNews 取り残された三和・東京三菱 住友・さくら銀合併の衝撃」
    • [153]1999年10月 住友銀行とさくら銀行が合併に向けた全面提携で合意、合併後の総資産99兆円
  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「特集 金融再編の視点 インタビュー 住友銀行 西川善文頭取 連結業務純益1兆円が目標」
    • [154]西川善文頭取が3行統合を受けて時間軸を早める必要があったと語り、旧財閥の範囲では意味がないと述べた
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [155]2001年4月 さくら銀行との合併による三井住友銀行の発足
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [156]1895年の開業から106年で住友銀行の商号が消えたこと
  • 週刊東洋経済 2000年1月15日号「特集 20世紀の企業家列伝 伊部恭之助(住友銀行最高顧問)が語る」
    • [157]伊部恭之助最高顧問が伊庭貞剛氏の言葉を引いて合併を評した
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「編集長インタビュー 西川善文 住友銀行頭取 公的資金注入の責務は果たしていく」
    • [143]西川善文氏は1961年大阪大学法学部卒で住友銀行に入行し、1997年6月に頭取就任
    • [147]「ソリューションビジネス」と2002年度末までの2000人削減計画
    • [150]1998年度の不良債権処理額1兆500億円と1999年3月の公的資金5010億円注入
    • [151]連結範囲拡大で自己資本比率が0.9〜1ポイント低下する見通しと、自己調達3400億円・10%確保を狙った申請
  • 週刊東洋経済 1997年7月19日号「特集 1200兆円を狙え 住友銀行 住銀のチャネルに資金取り込み狙う ベストの運用提供へ提携も辞さず」
    • [144]第九次経営計画の目標「一流の国際的金融サービス機関の実現」と1997年7月の窓販委員会
    • [145]個人顧客を富裕層・リッチ層・マス・リテイル層に分け、1997年1月に東西本店へプライベートバンキング室を設置
  • 週刊東洋経済 1998年7月18日号「フラッシュ 個人部門に特化して業務を見直す ビッグバン・キーマンに聞く 住友銀行常務 久保田達夫」
    • [146]米シティバンクから久保田達夫氏が常務として移り個人部門の立ち上げにあたった
  • 週刊東洋経済 1998年8月8日号「特別レポート 再編へ牙むいた住友の危機意識 住友銀行・大和証券「戦略提携」の真相」
    • [148]1997年12月18日の西川善文頭取と大和証券の原良也社長のやりとり
    • [149]1998年7月28日の戦略提携の基本合意と1999年4月の大和証券エスビーキャピタル・マーケッツ営業開始
  • 週刊東洋経済 1999年10月23日号「Lineup/TopNews 取り残された三和・東京三菱 住友・さくら銀合併の衝撃」
    • [152]両行の住宅ローン合計11.4兆円は統合3行の10.7兆円を上回る
    • [153]1999年10月 住友銀行とさくら銀行が合併に向けた全面提携で合意、合併後の総資産99兆円
  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「特集 金融再編の視点 インタビュー 住友銀行 西川善文頭取 連結業務純益1兆円が目標」
    • [154]西川善文頭取が3行統合を受けて時間軸を早める必要があったと語り、旧財閥の範囲では意味がないと述べた
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [155]2001年4月 さくら銀行との合併による三井住友銀行の発足
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [156]1895年の開業から106年で住友銀行の商号が消えたこと
  • 週刊東洋経済 2000年1月15日号「特集 20世紀の企業家列伝 伊部恭之助(住友銀行最高顧問)が語る」
    • [157]伊部恭之助最高顧問が伊庭貞剛氏の言葉を引いて合併を評した

住友銀行の沿革1670〜2001年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
泉屋平兵衛友貞氏が大阪で両替商を開業
住友家が並合業という本格的な貸付・金融業へ進む
住友吉左衞門氏を行主とする個人経営の銀行として大阪市で開業
六十一銀行を買収
個人経営からの住友銀行に改組
昭和金融恐慌後の預金集中を受け、総預金6億6200万円で全国銀行の首位に立つ
GHQが持株会社の解体に関する覚書を交付
金融機関再建整備法により11億4000万円を増資
大阪銀行に商号変更
東京・大阪の両証券取引所に上場
ニューヨーク支店を再開
対日平和条約の発効を受け、行名を住友銀行に復帰
プリンス自動車販売との提携で自動車購入資金の貸付を制度化
河内銀行を吸収合併
預金量で第2位に浮上
金融界で最初の総合オンライン化に着手★★
日本で最初の現金自動支払機を店舗に設置
安宅産業の救済で負担した1132億円の全額償却数期に分けて薄く落とすか、1期で捨てるか——2期分の経常利益にあたる損失をめぐる決算処理 詳細を読む★★★
1980年9月期決算で都市銀行の首位に復帰
スイスのゴッタルド銀行を買収★★
ゴールドマン・サックスに出資(1999年時点の出資比率は10%強)★★
平和相互銀行の吸収合併と首都圏店舗網の取得東京の店を一つずつ増やすか、銀行を丸ごと引き受けるか——出店規制下での規模の作り方 詳細を読む★★★
預金約24兆円で国内2位
1995年3月期における8000億円超の不良債権償却と、都市銀行初の経常赤字の計上決算の悪化を避けるか、損失を1期で落とすか——償却先送りの横並びから外れた1995年3月期 詳細を読む★★★
都市銀行で初めて経常赤字を計上★★
西川善文氏が頭取に就任
大和証券と業務提携で基本合意★★
公的資金5010億円の注入を受ける。1998年度の不良債権処理額は1兆500億円★★
さくら銀行と住友銀行の合併・三井住友銀行の発足(2001年成立)旧財閥の壁を越えた大手行合併は、なぜ「住友主導」と評されたのか? 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-財閥銀行から近代化」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
  • 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場「村井勉氏」
  • 週刊東洋経済 2015年6月19日号「社長の器 長期政権築いたアサヒの「名参謀」」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏(住友銀行頭取)銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号「ケーススタディ。住友銀行-挫折からの再出発-」
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
  • 週刊東洋経済 2001年1月27日号「KeyPerson 知恵が価値を生み出すニューパラダイムに乗り遅れるな 作家・内閣特別顧問/堺屋太一」
  • 週刊東洋経済 2016年12月3日号「座談会 平成金融バブルから日本は何を学ぶか」
  • 週刊東洋経済 2017年5月20日号「第1特集 最後の証言 バブル全史 証言4 土地バブルの起点」
  • 週刊東洋経済 2016年1月4日号「ひと烈風録 第23回 脱原発とバブルまみれ どっちも過激に一点突破 弁護士 河合弘之」
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「編集長インタビュー 西川善文 住友銀行頭取 公的資金注入の責務は果たしていく」
  • 週刊東洋経済 2014年12月19日号「特集 2015年大予測 Part4 歴史は繰り返す? 資産バブル再び」
  • 週刊東洋経済 2017年4月15日号「ブックレビュー『バブルと生きた男 ある日銀マンの記録』」
  • 日経ビジネス 1989年8月14日号「住友銀行 土地所有層へ積極融資」
  • 週刊東洋経済 2017年5月20日号「第1特集 最後の証言 バブル全史 証言2 住銀と仕手集団 Interview 銀行が取るべき責任を私一人が背負わされた 元住友銀行支店長 山下彰則」
  • 日経ビジネス 1991年12月23日号「内でも外でも宴の後始末 “含み”頼みの住友銀行、飛鳥建設スリム化で売り切る朝日住建」
  • 日経ビジネス 1988年1月4日号「巽外夫氏(住友銀行)登場」
  • 日経ビジネス 1992年10月12日号「編集長インタビュー 巽外夫氏[住友銀行頭取]イトマン合併は当初から頭に」
  • 日経ビジネス 1993年8月23日号「住友銀行。ゆがんだ企業文化を洗い流す」
  • 日経ビジネス 1995年3月27日号「編集長インタビュー 森川敏雄氏[住友銀行頭取]赤字決算で2つの「過去」償却 多様化乗り切るリスク管理を」
  • 日経ビジネス 1995年10月2日号「住銀、貸し出し姿勢を一変 リスク管理体制構築へ」
  • 週刊東洋経済 1997年6月14日号「特集 なお遠いバブルの清算 都銀 一強八弱一脱落の格差」
  • 週刊東洋経済 1998年8月1日号「フラッシュ 住友銀行は紹介融資の責任をとれ キーマンに聞く 住宅金融債権管理機構社長 中坊公平」
  • 週刊東洋経済 1997年7月19日号「特集 1200兆円を狙え 住友銀行 住銀のチャネルに資金取り込み狙う ベストの運用提供へ提携も辞さず」
  • 週刊東洋経済 1998年7月18日号「フラッシュ 個人部門に特化して業務を見直す ビッグバン・キーマンに聞く 住友銀行常務 久保田達夫」
  • 週刊東洋経済 1998年8月8日号「特別レポート 再編へ牙むいた住友の危機意識 住友銀行・大和証券「戦略提携」の真相」
  • 週刊東洋経済 1999年10月23日号「Lineup/TopNews 取り残された三和・東京三菱 住友・さくら銀合併の衝撃」
  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「特集 金融再編の視点 インタビュー 住友銀行 西川善文頭取 連結業務純益1兆円が目標」
  • 週刊東洋経済 2000年1月15日号「特集 20世紀の企業家列伝 伊部恭之助(住友銀行最高顧問)が語る」

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