【筆者所感】 伊藤忠商事の源流は1858年に15歳の初代伊藤忠兵衛が近江国豊郷村から始めた麻布の行商にあり、1872年に大阪本町で「紅忠」を開業して呉服太物へ業態を変え、1885年には対米貿易に踏み込んで神戸とサンフランシスコに拠点を構えた。1895年には日清戦争後の上海で中国産綿糸の輸入を始め、大阪周辺の紡績会社へ販売する「繊維商社」として独自のビジネスモデルを固めた。第一次大戦期に東京・神戸・上海・マニラなど4支店6出張所まで広げた反動で、1920年の戦後不況では赤字に転落した。丸紅商店の分離と貿易部門の大同貿易切り離しで綿商社に絞る延命策をとり、戦時統合と財閥解体を経て1949年12月に現在の伊藤忠商事株式会社として再出発した。
1960年代に繊維偏重から抜け出すため東亜石油の買収と「和製メジャー」構想に踏み込んだが、オイルショック後の為替と原油価格に耐えられず累計約1,300億円の損失を抱え、1985年に石油事業から撤退した。1977年に住友銀行の要請で安宅産業を救済合併し、鉄鋼など有力商権の選別取得で非繊維化を進めた。2000年3月期には丹羽宇一郎社長が特別損失3,950億円を一括計上し、同時期にCTCの上場益で相殺する独特の再生劇を演じた。2010年代以降はファミリーマートの完全子会社化とCITICへの6,890億円出資で非資源を厚くし、2025年3月期は連結純利益8,803億円の過去最高益を更新、2026年3月期は「3冠」復帰をめざし9,000億円計画を掲げる。
歴史概略
1858年〜1959年近江商人の行商業から戦前の繊維商社への道程
行商から店舗・貿易・綿輸入への4度の業態転換
1858年(安政5年)、15歳の初代伊藤忠兵衛は兄の6代目伊藤長兵衛とともに麻布の卸売業を始めた。両名はともに近江国豊郷村の出身で、古くから近江商人の拠点として商売が盛んな土地柄が、若い忠兵衛に商人としての基礎を与えた。忠兵衛は近江商人として麻布の行商に励み、販売先は関西一円に及んだほか、九州まで足を伸ばして商圏を広げた。近江商人に特有の「三方よし」(売り手よし・買い手よし・世間よし)の商いが、伊藤忠の初期の事業観を形づくった。明治維新以降、蒸気船と鉄道による交通網の発達で仲介業者の介在余地は縮小し、行商のみで利益を確保することは難しくなった。こうした事業環境の変化が、伊藤忠に業態転換を迫る契機となった。
1872年に大阪本町で「紅忠」を開き呉服太物の取扱を始め、1885年には対米貿易業へ参入して神戸とサンフランシスコに海外拠点を構えた。外国商館を経由するのが主流だった当時、日本人商社が直接雑貨の輸入業務に従事する例は稀で、同時代にこれを手がけたのは伊藤忠と森村組のみとされる。1895年、日清戦争の終結を受けて上海に進出し中国産綿糸の輸入を始めた。大阪周辺の紡績会社群への販売を通じて「繊維商社」としての独自のビジネスモデルを固め、行商から店舗経営、貿易、綿輸入へと約40年のあいだに4度の業態転換を遂げた。明治期を通じて、変化に即応する経営姿勢が早くから根づいた。
- 有価証券報告書
- 伊藤忠商事 社史
第一次大戦後の赤字転落と丸紅分離の帰結
1914年、2代目伊藤忠兵衛が28歳で代表に就任し、同年に伊藤忠合名会社を設立、1918年に株式会社へ改組して経営の近代化を進めた。第一次世界大戦中は欧州列強の対アジア不在という好機を活かし、東京・神戸・上海・マニラの4支店と横浜・漢口・天津・青島・カルカッタ・ニューヨークの6出張所からなる貿易ネットワークを築いた。当時の日本企業としては類を見ない広域展開で、商社としての地盤が広がった時期だった。大戦景気のもとで規模の拡大を追求し続けたのが1914年〜1919年の経営の特徴で、組織の拡張と利益の伸長が並行した。後に直面した反動の大きさも、この拡張の広さに比例した。
1919年の終戦で戦時好景気は終わりを告げ、1920年には赤字へ転落した。人員削減を実施するとともに丸紅商店を分離し、貿易部門を大同貿易として切り離して「綿商社」に特化する延命策で、どうにか生き延びた。戦時特需の一時的な利益を恒常的な成長基盤と見誤って組織を広げ、平時に規模を維持できなくなる構造は、日本の商社史に繰り返し現れるパターンの原型となった。その後1949年12月、戦時中の企業統合と戦後の財閥解体という激動を経て、伊藤忠商事株式会社として戦後の再出発を果たした。戦前から戦後にかけての組織再編の連続が、伊藤忠の事業基盤の性格を規定した。
- 有価証券報告書
- 伊藤忠商事 社史
1960年〜1999年石油事業「和製メジャー」構想の蹉跌と総合商社化
石油事業「和製メジャー」構想の蹉跌の代償
1960年代、伊藤忠は繊維偏重からの脱却をめざして非繊維領域へ進出し、1965年に東亜石油の株式38.5%を取得、1969年には米イアプコ社へ2,000万ドルを出資してインドネシア・ジャワ島沖の石油採掘権益を確保した。知多精油所には推定500億円を投じ、採掘から精製までを一貫して手がける「和製メジャー」体制の構築をめざした。当時の越後正一社長は「当社が石油産業に本格進出を決めたのは1963年5月で、私としては当然相当な犠牲を覚悟した上のことだった」(日本経済新聞 私の履歴書 1975)と回想している。住友銀行はこの東亜株取得に反対したが、越後は主力行の反対を押し切って経営支配を強行した(日経新聞 1985/1/3)。インドネシア権益への出資にあたっても越後は「もし2000万ドルを海に捨てる結果となれば、即座に社長の地位から退く決意を固めていた」(日本経済新聞 私の履歴書 1975)と、進退を賭けた判断だったと明かしている。
1973年のオイルショック以降、為替と原油価格の変動に対するリスクヘッジが不十分だった点が露呈し、1976年3月期には東亜石油が経常損失120億円を計上、知多精油所の稼働率は60%に落ち込んだ。1978年時点で日経ビジネスは「だまっていても年間約130億円程度の損が出る体質になっているわけだ」(日経ビジネス 1978/10/9)と分析し、同社の1978年3月期の経常利益84億円を上回る出血構造を指摘した。累計損失は最終的に約1,300億円に達し、1985年に東亜石油の株式を昭和シェル石油に売却して石油事業から撤退した。撤退決断の背景には「今後、5年間、年間100億円内外の損失が続くことは避けられない」(日経新聞 1985/1/3、伊藤忠首脳の発言)という見通しがあり、約250億円の解決一時金を支払ってでも一括解決を選んだ。20年に及ぶ「和製メジャー」構想はここで幕を閉じた。
- 日本経済新聞 私の履歴書 1975/1
- ダイヤモンド 1961/9/10
- 日経ビジネス 1978/10/9
- 日経新聞 1985/1/3
- 読売新聞 1966/6/3
- 読売新聞 1973/5/16
安宅救済が押し進めた繊維偏重の解消
1977年の安宅産業救済合併は、伊藤忠にとって総合商社としての性格を決定づける転換点となった。1961年時点の業界誌は、丸紅との競争で丸紅が完全勝利しつつあると評し、非繊維部門の差がそのまま総売上高の差を生んでいると分析した(ダイヤモンド 1961/9/10)。越後自身「ウチの繊維は世界一だ」(ダイヤモンド 1961/9/10)と社長就任時に豪語していたが、繊維依存からの脱却が収益構造上の課題となっていた。業界9位の安宅産業の大半の商権を選別的に取得することで、伊藤忠は戦後長く続いた繊維偏重の事業構造から脱皮する機会を得た。住友銀行との39年に及ぶ恩義を返すと即答した越後の判断のもとで、鉄鋼分野では新日鐵との取引関係を引き継ぎ、非繊維部門の利益基盤を広げた。救済合併という受け身の形ではあったが、結果として伊藤忠は総合商社としての事業ポートフォリオを比較的短期間で広げた。
1980年代から1990年代初頭にかけて世界同時好況とバブル経済が業績を押し上げる裏側で、ゴルフ場開発に代表される不動産関連投資が積み上がり、1990年代前半のバブル崩壊とともに巨額の含み損を抱えた。非繊維化を果たしたはずの伊藤忠が、今度は不動産バブルの波にのまれた。1998年3月期には有利子負債が5.2兆円に膨らみ、経営の健全性そのものが市場から問われた。1998年4月に社長に就任した丹羽宇一郎は、不良資産の処理を中心とする経営改革に踏み込み、バブル期に積み上がった負の遺産との決着を会社全体の最重要経営課題に据えた。選別的な商権取得という安宅合併の経験は、のちのM&A戦略における選別取得の原型にもなった。
- 日本経済新聞 私の履歴書 1975/1
- ダイヤモンド 1961/9/10
- 日経ビジネス 1978/10/9
- 日経新聞 1985/1/3
- 読売新聞 1966/6/3
- 読売新聞 1973/5/16
2000年〜2023年不良資産3950億円の一括処理と非資源シフト
3950億円一括処理とCTC上場益が噛み合う偶然
バブル崩壊後、ゴルフ場をはじめとする不動産関連投資が軒並み巨額の含み損を抱え、1998年3月期には伊藤忠の有利子負債が5.2兆円に膨らんだ。1998年4月に社長就任した丹羽宇一郎は、不良資産の処理を中心とする経営改革に踏み込み、2000年3月期に特別損失3,950億円を一括計上し、長年引きずってきた負の遺産を清算した。この痛みを伴う経営処理を財務面で支えたのが、1999年12月にネットバブルのただ中で株式上場を果たしたCTC(伊藤忠テクノソリューションズ)の株式売却益である。不動産という旧来型投資の清算原資を、IT関連の新興上場益で賄う構図だった。この時間差の偶然こそが、丹羽改革を実行可能にした要因だった。
CTCは1972年に設立した情報子会社「伊藤忠データシステム」が母体で、1984年に米サンマイクロシステムズの国内販売権を取得、1992年にはシスコシステムズとオラクルの製品販売も始めた。米国の新興ベンチャー企業の販売権をいち早く獲得する商社的な事業開拓手法で伸び、上場時の初値時価総額は1.1兆円に達した。不動産バブルの巨額損失をネットバブルの高値で相殺する構図は、2つのバブルの時間差がたまたま噛み合った結果だった。不動産と石油で出血を重ねた1970年代〜1990年代の伊藤忠が、ITという別領域の資産売却益で過去の負債をまとめて処理した点に、2000年前後の特色がある。
- 有価証券報告書
- 伊藤忠商事 IR資料
- 情報通信ジャーナル
ファミリーマートとCITICを軸とする非資源の拡充
1998年にファミリーマートの株式29%を推定約1,000億円で取得して以降、伊藤忠は22年をかけて出資比率を引き上げた。2014年と2016年に株式を追加取得し、2016年9月にはユニーグループHDとの経営統合により「ユニー・ファミリーマートHD」が発足した。2019年にはユニーの株式をドンキホーテHDに売却してコンビニ事業への集中体制を整え、2020年にはTOBで推定5,800億円を投じて株式94.7%を取得し、ファミリーマートの連結子会社化を完了した。22年を費やして連結子会社化に至るプロセスは、同社の投資スタンスを体現した。積み上げた累計投資額は推計8,000億円超にのぼり、食の分野における川上から川下までの垂直統合を、商社として実現した事例となった。
2015年1月、伊藤忠はタイのC.P.グループとの合弁会社CTBを設立し、CTBを通じてCITIC(中国中信集団)の株式20%を取得した。伊藤忠の出資額は6,890億円にのぼり、日本企業による中国企業への投資としては過去最大級の案件となった。1972年に中国政府から「友好商社」と認定されて以来、43年をかけて築いた信頼関係が、この大型出資として結実した形である。岡藤正広社長は、単なる取引関係を超えて資本で結ばれることで、より踏み込んだ事業連携が可能になると対外的に説明した。しかしCITICは事業の8割を金融が占める国営企業で、伊藤忠の経営関与の余地は限られた。2019年3月期には減損損失1,433億円を計上し、巨額損失を別の収益資産で埋め続ける伊藤忠史のパターンが繰り返された。
- 有価証券報告書
- 伊藤忠商事 IR資料
- 情報通信ジャーナル
直近の動向と展望
過去最高益連続更新と商社「3冠」復帰計画
2025年5月に公表した2025年3月期決算で、伊藤忠商事の連結純利益は8,803億円の過去最高益を更新した。実績のうち約1,100億円はデサント再評価やファミリーマート中国事業再編などの一過性の利益項目で、継続的な収益力を示す基礎収益は約7,700億円と前期比で減益だった。資源価格の軟調や原料炭事業の操業不調による資源分野の△395億円という逆風を、非資源分野の業績が吸収する収益構造がはたらいた。2026年3月期の連結純利益計画として9,000億円という、2年連続での過去最高益更新をめざす目標が掲げられた。岡藤正広会長CEOは「か・け・ふ(稼ぐ・削る・防ぐ)」(日本経済新聞 私の履歴書 2025/1)を経営の要諦として説き、「慢心すれば、一瞬で落ちる」(日経ビジネス電子版)と繰り返し自戒を述べている。
岡藤を筆頭とする経営陣は、2025年度を連結純利益・ROE・時価総額という商社「3冠」復帰に向けた一年と位置づけ、景気後退リスクとして△400億円を計画段階で織り込んだ。相互関税によるトレードフローへの影響は△150〜200億円と社内で算定し、加えてセンチメント悪化に伴う景気スローダウンを、コロナ禍における経済停止の前例も参考にして加味する必要があるという判断のもと、基礎収益ベースで約5%の減益影響を各セグメントに分散して織り込む計画策定手法をとった。従来の各カンパニー積み上げ型の楽観的な計画策定からの方法論的な転換である。首位を追う石井敬太社長は「振り返れば抜かれる」(ダイヤモンド 2021/6)と語り、首位固めの緊張感を対外的にも示した。
2026年2月公表の2025年度第3四半期決算では連結純利益が7,053億円と前年同期比で4.3%増え過去最高を更新、通期9,000億円計画に対する進捗率は78%に達した。食料・第8カンパニー・繊維の3セグメントでそれぞれ基礎収益が過去最高を記録し、金属セグメントと住生活セグメントの減速を非資源分野が補完する収益構造が持続した。セグメント間のばらつきを非資源領域全体で吸収する姿は、丹羽改革以降に築いた収益基盤の厚みを映す。2026年1月には1株を5株とする株式分割を実施し、期初計画の自己株式取得1,700億円をフルコミットで実行することを決めた。11期連続増配・10期連続自己株式取得という株主還元の実績を市場に示した。
- 決算説明会 FY24
- 決算説明会 FY25-2Q
- 決算説明会 FY25-3Q
- 日本経済新聞 私の履歴書 2025/1
- 日経ビジネス電子版
- JBpress 2024
- ダイヤモンド 2021/6
非資源ポートフォリオの厚みが示す収益構造の転換
2026年2月時点で基礎収益全体に占める資源分野の構成比は低下しており、かつての約25%から足元では15%程度まで縮小したと、鉢村CFOが3Q決算説明会で説明した。東亜石油事業で約1,300億円の累計損失、バブル崩壊期に3,950億円の一括処理、CITICで1,433億円の大型減損と、巨額損失を繰り返し計上した伊藤忠が、資源価格の変動に揺さぶられない収益構造へ移った点を示す。長年進めた非資源シフトの戦略が2020年代後半に構造として実を結び、商社業界全体でも類を見ない転換点を迎えた。同業他社が資源価格の恩恵を享受したのとは対照的に、伊藤忠は非資源で稼ぐ構造を先取りする側に回った。
成長投資については中計「Brand-new Deal 2026」のもとで年間1兆円を上限とする方針を保っており、2025年度にはセブン銀行への637億円の出資、北米マルチファミリー向け住宅建設を手がけるWood Partnersへの数百億円規模の投資、北米電力事業への216億円、日本のジェネリック医薬品大手アンドファーマへの162億円といった大型投資案件を実行した。2024年度に完了したカワサキモータースやデサントのスクイーズアウト、日立建機への追加出資、アイチコーポレーションへの投資と合わせ、機械・第8・住生活・食料など幅広い事業分野への分散投資を意識した総合的なポートフォリオ構築を進めた。岡藤は「商人は水や」(JBpress 2024)と語り、高低差に即して柔軟に事業領域を広げる姿勢を自社の流儀と位置づけてきた。
住生活セグメントでは、ロシア・ウクライナ戦争以降のフィンランド国内における原木価格の上昇で苦境が続いていたMetsä Fibre株式の一部売却による一般投資化を、2026年2月に決めた。低収益資産からの撤退も同時に進めた。金属分野では原料炭2案件のターンアラウンドに取り組み、ブラジル鉄鉱石事業のCMでは為替評価損という想定外の逆風に直面したが、来期以降には黒字化の見通しが経営陣から示された。巨額損失を別の収益資産で埋め続けた伊藤忠史のパターンから、非資源ポートフォリオの厚みそのもので収益を安定させる構造へ、転換点を迎えた今日の姿は、丹羽改革から四半世紀を経た到達点である。
- 決算説明会 FY24
- 決算説明会 FY25-2Q
- 決算説明会 FY25-3Q
- 日本経済新聞 私の履歴書 2025/1
- 日経ビジネス電子版
- JBpress 2024
- ダイヤモンド 2021/6