{"title":"住友銀行の歴史概略","sections":[{"start_year":1670,"end_year":1929,"main_title":"泉屋の両替商から金融業を再開し、預金量で全国首位に立つまでの260年","subsections":[{"title":"別子銅山に全運命を賭けた住友家が、銀行設立を二度断った理由","text":"住友家の金融業は、1670年に泉屋平兵衛友貞氏が大阪で両替商を開いたことに始まる。ただし家業の中心は一貫して銅にあった。元禄四年（1691年）に銅商泉屋吉左衞門氏が愛媛の別子銅山を開発して以来、住友は御用銅山の請負人として輸出銅の供出を担っている。「豫州別子の鉱業は万世不朽の財本にして、この業の盛衰は我が一家の興廃に関し重かつ大なる、他に比すべきものなし」——明治十五年の住友家法書はこう書いた。1892年の家法書もほぼ同じ文言を繰り返している。住友家は20年を隔てて二度、銅山に全運命を賭ける方針を成文で書き留めた。\n\nそのため住友家は、明治初年の銀行設立ブームに加わっていない。国立銀行条例の制定にあたって銀行設立の勧誘を受けたが、固辞している。理由は「住友家では手を鉱山業以外に拡げる余裕がなく……時機尚早と認めたから」だった。三井が第一国立銀行の大株主となり、安田が第三国立銀行の主要出資者になったのとは対照的である。この時期の住友の金融活動は倉庫業の付帯業務にとどまり、倉庫に寄託される米や雑穀を担保に貸し付ける並合い業を営んだ。1875年には並合業という本格的な貸付・金融業へ進み、これが20年後の銀行の原型になる。\n\n1895年11月、住友家は雑穀担保の貸付業を廃し、住友銀行を開業した。資本金100万円、家長の住友吉左衞門氏を行主とする個人銀行で、店舗は大阪本店・神戸支店と川口・兵庫の両出張所の4カ店にすぎない。設立の主目的は住友企業の資金の出納を円滑にすることにあった。同じ1895年9月に三菱合資会社も資本金100万円で銀行部の設立認可を受け、10月に開業している。財閥の機関銀行が同じ年に相次いで生まれている。ただ住友銀行は数年で九州と東京に店舗を開き、大阪に本店を置く銀行のなかで首位に立った。1903年にはロンドンに代理店を設けている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「大資本制覇確立期の会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－中小銀行に苦難」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「鉱業－財閥とともに育つ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友銀行三十年史（住友銀行、1926年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"株式会社化と、市中銀行の先頭を切った8年間の海外展開","text":"1912年2月、資本金1500万円の株式会社住友銀行に改組した。同年3月末の総貸金は4400万円で、創業年次末の20倍に達している。組織変更は膨張した業容に法人格を合わせる作業だった。三菱銀行が独立の株式会社として発足するのは1919年になる。三井銀行は1910年に三井合名会社の設立と同時に株式組織へ改められ、資本金を500万円から2000万円に増やしていた。三井・住友・三菱の順で、財閥の機関銀行は数年のうちに法人格を整えている。改組の前、1906年には貸出残高2000万円・預金残高3000万円に達し、すでにわが国第三位の銀行になっていた。同年、第六十一銀行を買収している。\n\n住友銀行は市中銀行のなかで最も早く海外へ出た。1916年にサンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへ支店を開き、1917年に漢口、1918年にシアトル・ニューヨーク・ロンドンへ拠点を並べた。大正期にはロサンゼルスとカリフォルニアにも拠点を置いた。国内の店舗数も1917年には全国第一位になった。増資の原資は、別子銅山と伸銅・製鋼事業が積み上げた自己資本だった。1917年に3000万円、1920年に7000万円へ増資し、貸金は3億円を超えた。銅山の利益が、サンフランシスコとボンベーの支店の元手になっている。\n\n1917年の増資は、資本の出し手を住友家の外へ広げてもいる。1917年の3000万円増資にあたり、住友銀行は株式を一般に公開して独占的色彩を薄めている。同族が資本を握ったまま外へ出たのではなく、外部資本を入れながら出た。1926年に刊行された『住友銀行三十年史』は、第二編「發達」の第二章を「株式會社時代」とし、その下を「株式公開以前」「株式公開以後」に割っている。行内で時代の区切りに使われていたのは、株式会社化そのものではなく株式公開の前後だった。同書の巻末には187ページから242ページまで、56ページを割いた年表が置かれている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「大資本制覇確立期の会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－中小銀行に苦難」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「鉱業－財閥とともに育つ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友銀行三十年史（住友銀行、1926年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"恐慌のたびに預金が集まる銀行——1929年末の首位浮上","text":"1920年の反動恐慌、1923年の関東大震災、1927年の昭和金融恐慌。10年足らずのあいだに金融界は三度の動揺を経験した。中小銀行の破綻はそれ以前から続いており、普通銀行の数は1901年の1890行を頂点に減り続け、1914年には1595行になっている。取り付けが起きるたびに預金が大銀行へ移る構造は、日露戦争のころには固まっていた。1900年末から1901年末にかけて六大都市の中小銀行の預金が2200万円減ったのに対し、大銀行の預金は1000万円増えている。1901年の恐慌では大阪府で17行、京都府で5行、熊本県で4行など、全国で34行が支払い停止に追い込まれた。\n\n住友銀行はこの構造の受け皿側にいた。1927年の金融恐慌の時から預金が急増するという現象が起き、1929年末の総預金は6億6200万円、名実ともに全国銀行の首位を占めるにいたった。1920年・1923年・1927年の三度の動揺が、そのつど住友銀行の順位を押し上げた。同じ構造は、逆向きにも働く。危機のたびに資金が集まる銀行になることは、危機のたびに救済を求められる立場に立つことでもあった。半世紀後の安宅産業、その10年後の平和相互銀行と、住友銀行が引き受けた処理は、1929年に確定したこの位置から始まっている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「大資本制覇確立期の会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－中小銀行に苦難」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「鉱業－財閥とともに育つ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友銀行三十年史（住友銀行、1926年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 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第2巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥解体のアラシ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人21（日本経済新聞社、1986年）鈴木剛","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"大阪銀行への改称と、平和条約発効の年に取り戻した行名","text":"1945年10月20日、GHQ は三井・三菱・住友・安田など15財閥に事業内容の報告を求め、同月31日に資産凍結を指令した。11月、住友本社が解散の方針を発表する。1947年8月、鈴木剛氏が51歳で住友銀行の社長に就いた。「上におられた方々が、すべて追放の対象となったためである。その年の二月、取締役（同時に常務取締役）に選ばれてからわずか半年後のことで、意外な成り行きに唖然としたものである」と本人が書き残している。指定財閥の関係会社632社から2210人の役員が職を追われており、鈴木氏の昇格はその翌年に起きている。\n\n金融機関は過度経済力集中排除法の適用を免れ、分割の必要がないという決定も1948年7月に出た。しかし財閥名の使用だけは許されなかった。1948年10月、金融機関再建整備法により11億4000万円を増資し、同時に旧資本金の全額を切り捨てたうえで、行名を大阪銀行に改めて再発足した。三菱は千代田、安田は富士、野村は大和と看板を変えている。三井と第一の合同で生まれた帝国銀行だけは二つの系統に分かれ、旧三井が帝国、旧第一が第一と名乗った。翌1949年5月、東京・大阪の両証券取引所に上場している。\n\n復名は早かった。1952年4月に対日平和条約が発効すると、同年12月に住友銀行へ行名を戻している。三菱と三井も相次いで旧称に復したが、安田は富士、野村は大和の名を続けた。戦前に総合的なコンツェルンを形成していた3家は商号への執着が強く、金融閥として発展した安田と証券に縁の深い野村は新しい名を選んだ、と産業史は説明する。住友の場合はもう一つ理由があった。海外進出が進むにつれて行名復帰の必要が増し、取引先の要望も重なったと当時の記録は書いている。三菱と三井が復名した理由が商号への執着なら、住友にはもう一つ、海外の取引先という理由があった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥解体のアラシ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人21（日本経済新聞社、1986年）鈴木剛","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"一行取引の解体と、松下電器にだけ残した例外","text":"戦後の独占禁止政策は系列融資にも及んだ。住友銀行が連係各社と一行取引で融資することは認められなくなり、住友系各社は他の地方銀行からも融資を受けざるをえなくなる。ある日、松下幸之助氏が銀行を訪ね、「こんな時勢になって、松下としても、将来について悩んでいる。住友さんは今後も取引して下さるだろうか」と相談した。鈴木社長は即座に答えている。「住友系各社との一行取引は、出来なくなりました。いま一行取引先で残っているのは、あなたのところだけです。今後も松下さんとだけは一行取引を続けましょう」。松下電器産業は住友の連係会社ではなく、規制の外にあった。\n\n回復は預金から始まった。1950年4月に資産再評価を行って資本を適正化し、大衆層からの資金吸収に努めた結果、1951年末の預金は1000億円を超え、1954年末には2000億円に達した。1955年3月末の店舗数は138、預金総額2206億円、貸出金総額1825億円である。海外も1952年9月にニューヨーク支店を再開し、加州住友銀行を設立、ロンドンとカラチに駐在員事務所を置いた。1953年4月に資本金を22億8000万円へ倍増している。財閥解体で切り捨てた資本を、7年で積み直している。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥解体のアラシ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人21（日本経済新聞社、1986年）鈴木剛","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1956,"end_year":1989,"main_title":"堀田・磯田体制の効率経営、安宅産業1132億円の一括償却と平和相互合併","subsections":[{"title":"大型合併に加わらず、店舗と装置で規模を積んだ20年","text":"1952年、鈴木剛頭取の後を継いだのは副頭取の堀田庄三氏である。社長という職名が頭取に変わったのは1951年11月で、鈴木氏は職名変更後の1年余を頭取として務め、堀田氏がそれを継いだ。1951年から1952年当時の預金残高は1300億円弱で大手のなかでは4位にとどまったが、一店舗当たり・一従業員当たりの資金量は第一位だった。融資を調査部と審査部の2部門で検討するダブル・チェック・システムも、住友銀行の特徴として広く知られている。1971年8月24日の読売新聞は堀田氏の合理主義経営を論評している。人を増やさずに預金を伸ばす経営が、この時期に定着した。1971年3月期の経常収益は2351億円、経常利益436億円、当期純利益は254億円である。\n\n広げた先は、法人ではなく個人だった。1960年11月、プリンス自動車販売との提携で自動車購入資金の貸付を制度化し、個人向け消費者金融に先鞭をつけた。1964年には河内銀行を合併し、預金量で第2位へ進んだ。事務の合理化では金融界で最初の総合オンライン化に着手し、1969年12月に日本で最初の現金自動支払機を店舗へ置いている。制度と装置の両面から、個人取引の入口を他行より先に整えている。この間に経常収益は1971年3月期の2351億円から1975年3月期の6480億円へ、4年で2.8倍になった。\n\n同じ20年は、業界にとって再編の時代だった。1968年6月に金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、同年12月には日本相互銀行が普通銀行の太陽銀行へ転換している。1969年元旦の読売新聞が三菱銀行と第一銀行の合併構想を報じ、実現はしなかったものの、1971年10月に第一勧業銀行、1973年10月に太陽神戸銀行が生まれた。住友銀行はこの大型合併の列に加わっていない。地銀1行の吸収と装置投資で規模を積み、合併による規模の獲得は1986年まで手をつけずにいた。再編と並行して、1971年7月には預金者を保護する預金保険制度が創設されている。","references":[{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「創造的革新に挑む」年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人21（日本経済新聞社、1986年）鈴木剛","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1978年3月13日号「ケーススタディ。住友銀行－挫折からの再出発－」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏（住友銀行頭取）銀行も情報産業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"読売新聞 1971年8月24日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年1月15日号「特集 20世紀の企業家列伝 伊部恭之助（住友銀行最高顧問）が語る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 1987年11月21日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年8月14日号「住友銀行 土地所有層へ積極融資」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"安宅産業の1132億円を1期で捨てた判断と、3年での復帰","text":"1973年の石油危機のあと、総合商社の安宅産業が抱えた損失が表面化した。住友銀行と協和銀行が主力行として救済にあたり、安宅産業は1977年に伊藤忠商事へ合併されている。救済融資約2000億円のうち、住友銀行の負担は1132億円に上った。当時の住友銀行の1972年3月期の経常利益は530億円である。1年の経常利益の2倍を超える損失を、一つの取引先の破綻で背負った。石油危機の翌1974年11月、大蔵省は行政指導による大口融資規制を実施している。銀行の特定企業に対する集中的な融資が企業の投機的行動につながっているという批判が高まったためだった。\n\n住友銀行はこの1132億円を、1977年9月期決算で全額償却した。分割して数期に散らす処理も選べたが、選んでいない。磯田一郎頭取は後年、この処理を「まぁ、すてたんです」と語っている（日経ビジネス1980年2月25日号）。日経ビジネスは1978年3月に「ケーススタディ。住友銀行－挫折からの再出発－」を13ページにわたって組んだ。一つの銀行の一つの決算に、経済誌が特集の枠を割く扱いだった。同誌が2年後に磯田頭取へのインタビューを載せたとき、主題は「銀行も情報産業」に移っている。損失を1期で確定させたことで、2年後の誌面は過去の総括に戻らずに済んでいる。\n\n1980年9月期決算で業績はもとに戻り、都市銀行の首位に復帰している。償却から3年である。この決算で住友銀行が身につけたのは、損失を先に出し切って翌期から通常の決算に戻すという処理の作法だった。18年後の1995年3月期、8000億円超を一括で償却して経常赤字を計上したときも、同じ処理を繰り返している。伊部恭之助最高顧問は住友の行動原理を、明治30年代の総理事伊庭貞剛氏の言葉に求めている——「住友の資本だけでできない、社会に必要な大きな仕事があれば、名前や従来のいきさつなどにこだわらず、大いに他の資本と共にやれ」。","references":[{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「創造的革新に挑む」年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人21（日本経済新聞社、1986年）鈴木剛","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1978年3月13日号「ケーススタディ。住友銀行－挫折からの再出発－」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏（住友銀行頭取）銀行も情報産業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"読売新聞 1971年8月24日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年1月15日号「特集 20世紀の企業家列伝 伊部恭之助（住友銀行最高顧問）が語る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 1987年11月21日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年8月14日号「住友銀行 土地所有層へ積極融資」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"首都圏の店舗網を一度に買った平和相互合併と、磯田体制の拡大","text":"1985年9月のプラザ合意のあと、公定歩合は1987年2月に2.5%と当時の最低水準まで下がり、その超低金利が1989年5月まで続いた。銀行に資金が流れ込み、運用先の拡大が急がれる。1985年から1989年にかけて不動産業向けの融資は約44兆円に達した。右肩上がりの地価を前提に、土地の担保さえあれば融資が認められる審査が、各行に横並びで広がった。住友銀行も1989年に土地所有層への積極的な融資に動いている。日経平均株価は1989年12月29日に3万8915円をつけ、首都圏の住宅地の地価は1983年に比べて3倍近くまで上がった。\n\n住友銀行が拡大に使った手は3つある。1984年のスイス・ゴッタルド銀行の買収、1986年の米ゴールドマン・サックスへの出資、そして1986年10月の平和相互銀行の吸収合併である。ゴールドマン・サックスへの出資について、小松康頭取は「もともとパッシブな投資だった」と述べている（日本経済新聞 1987年11月21日）。平和相互合併で新資本金は約1266億円、預金は約24兆円となり国内2位に立った。大阪に本店を置く住友銀行にとって、首都圏の店舗網を一度に手に入れる方法はこれ以外になかった。","references":[{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「創造的革新に挑む」年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人21（日本経済新聞社、1986年）鈴木剛","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1978年3月13日号「ケーススタディ。住友銀行－挫折からの再出発－」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏（住友銀行頭取）銀行も情報産業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"読売新聞 1971年8月24日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年1月15日号「特集 20世紀の企業家列伝 伊部恭之助（住友銀行最高顧問）が語る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 1987年11月21日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年（1968年）「住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年8月14日号「住友銀行 土地所有層へ積極融資」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1990,"end_year":2001,"main_title":"イトマンの後始末、他行に先駆けた8000億円の償却、そして統合で幕","subsections":[{"title":"イトマンの不良債権と、企業文化を問われた3年","text":"バブルの崩壊は不祥事を伴って表面化した。住友銀行では系列の総合商社イトマン向けの債権が不良化し、実力者だった磯田一郎会長が辞任している。産業史はこの時期を「不祥事のない銀行を探した方が早いといわれたほどだった」と書く。日本興業銀行や富士銀行の首脳も国会に呼び出されており、住友銀行だけの問題ではない。ただ、拡大を主導した会長が辞めたことで、審査と融資のやり方を建て直す仕事が後任の頭取に残った。東京証券取引所一部上場株式の時価総額は、1989年12月の590兆円から1992年6月には270兆円へ半分以下に減っている。担保にしていた土地と株の値段が、審査の前提ごと崩れた。\n\n後任の巽外夫頭取は1992年10月のインタビューで、イトマンの合併処理は当初から頭にあったと語っている。翌1993年8月、日経ビジネスは「住友銀行。ゆがんだ企業文化を洗い流す」と題した記事を載せた。同年4月には経営3カ年計画「CHANGE, 100計画」が始まっている。この時期の主題は業容の拡大ではなく、審査と融資のやり方をもとに戻すことにあった。さかのぼって1991年12月23日号では、日経ビジネスが「内でも外でも宴の後始末」と題した特集に「“含み”頼みの住友銀行」を据えている。含み益で損失を隠せる時期が終わったことを、経済誌は計画の開始より先に書いている。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「創造的革新に挑む」年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年10月12日号「編集長インタビュー 巽外夫氏［住友銀行頭取］イトマン合併は当初から頭に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年8月23日号「住友銀行。ゆがんだ企業文化を洗い流す」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年3月27日号「編集長インタビュー 森川敏雄氏［住友銀行頭取］赤字決算で2つの「過去」償却」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年8月1日号「フラッシュ 住友銀行は紹介融資の責任をとれ（住宅金融債権管理機構社長 中坊公平）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年8月8日号「特別レポート 再編へ牙むいた住友の危機意識」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月22日号「編集長インタビュー 西川善文 住友銀行頭取 公的資金注入の責務は果たしていく」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年1月15日号「特集 20世紀の企業家列伝 伊部恭之助（住友銀行最高顧問）が語る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 1987年11月21日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年12月23日号「内でも外でも宴の後始末／“含み”頼みの住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"8000億円の先行償却と、公的資金5010億円を受けた最後の4年","text":"1995年3月期、住友銀行は8000億円超の不良債権を償却し、都市銀行として初めて経常赤字を計上した。森川敏雄頭取はこの決算を「赤字決算で2つの『過去』償却」と語っている（日経ビジネス1995年3月27日号）。当時、大手22行の不良債権は1994年3月末で13兆5741億円に達していたが、償却は進んでいない。産業史は「最大の問題は、不良債権の償却が遅れたことだ」「経営責任の問題に点火することを恐れた面は否めない」と書く。住友銀行の判断は業界の流れの逆にあり、1977年の安宅産業のときと同じ処理を選んでいる。\n\n先に償却したことは、住友銀行を安全圏に置かなかった。住宅金融債権管理機構は1998年6月、旧住専への不公正な融資紹介をめぐって住友銀行に約48億円の損害賠償を求めて提訴する。中坊公平社長は「紹介責任の一三四件中、七二件が住友銀行だった」と述べ、「銀行はいつも天気のいい日に傘を差し出して、雨の日には傘を取り上げる」と批判した（週刊東洋経済 1998年8月1日号）。住友銀行は「融資は旧住専の自主判断で当行に法的責任はない」と反論している。1998年度の不良債権処理額は1兆500億円に達し、1999年3月には公的資金5010億円の注入を受けた。\n\n不良債権の処理と並行して、住友銀行は証券会社との提携を探していた。1997年12月18日の昼食会で、西川善文頭取は大和証券の原良也社長に「投資銀行業務がうまくいかんのや」と漏らし、「一緒にやれることはありませんか」と持ちかけた。この会話から1998年7月28日の戦略提携の基本合意が生まれ、投資銀行業務・デリバティブ・資産運用の3分野で合弁会社を設ける形が決まる。1999年4月に大和証券エスビーキャピタル・マーケッツが営業を始めた。西川頭取は「行内でも私は『ソリューションビジネス』といつも叫んでいる」と述べ、2002年度末までに2000人を削減する計画を示している。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「創造的革新に挑む」年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年10月12日号「編集長インタビュー 巽外夫氏［住友銀行頭取］イトマン合併は当初から頭に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年8月23日号「住友銀行。ゆがんだ企業文化を洗い流す」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年3月27日号「編集長インタビュー 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1991年12月23日号「内でも外でも宴の後始末／“含み”頼みの住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"統合で幕——消えた商号と、残った決算の作法","text":"2001年4月、さくら銀行と合併して三井住友銀行が発足した。合併時点の住友銀行は、不良債権の処理を先に進めたぶん傷は浅かった。ただし連結範囲の拡大で自己資本比率が0.9〜1ポイント下がる見通しにあり、自己調達3400億円だけでも自己資本比率8%は満たせると見ていながら、10%の確保を目指して公的資金5010億円を申請した銀行だった。西川頭取は1999年5月に「我々のように一万五〇〇〇人の従業員があるとリージョナルやブティックというわけにはいかない」と語っている。相手方のさくら銀行から見れば、住友銀行は法人営業の相談力に定評があり、財務の傷が相対的に浅い相手である。\n\n消えたのは商号である。法人としては存続し、2001年4月に三井住友銀行へ商号を変更した。株式の上場が終わるのは2002年11月の株式移転を待つ。1895年から106年続いた住友銀行の名は、破綻でも解散でもなく、商号変更によって消えた。残ったのは店舗網と行員、大企業取引の関係、そして損失を先に出し切る決算の作法である。合併について、伊部恭之助最高顧問は伊庭貞剛氏の言葉を引いたうえで「今回の話は、この精神がその実現に向けて踏みだしたと見るべき」と述べた（週刊東洋経済 2000年1月15日号）。引かれた言葉は、名を守れとは説いていない。名にこだわるな、と説いている。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「創造的革新に挑む」年表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年10月12日号「編集長インタビュー 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1991年12月23日号「内でも外でも宴の後始末／“含み”頼みの住友銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1895年に、別子銅山に全運命を賭けていた住友家は銀行を開いたのか","a":"住友家は明治初年の銀行設立ブームに加わっていない。国立銀行条例のころ勧誘を受けながら「住友家では手を鉱山業以外に拡げる余裕がなく、時機尚早と認めた」として固辞している。それでも倉庫業の付帯業務として米や雑穀を担保に貸し付け、1875年には並合業という本格的な貸付・金融業へ進んだ。その貸出残高が大阪の主要銀行に対抗できる水準まで伸びた結果、1895年11月、住友吉左衞門氏を行主とする資本金100万円の個人銀行として大阪で開業した。銀行を先に構えたのではない。20年続けた貸付が、先に銀行の中身を作っていた。"},{"q":"なぜ1916年に、住友銀行は市中銀行の先頭を切って海外へ出られたのか","a":"海外に拠点を並べる資金は、銀行の外にあった。別子銅山と伸銅・製鋼の事業が住友家の自己資本を厚くし、その資本が銀行の増資に回った。1917年に3000万円、1920年に7000万円へ増資し、貸金は3億円を超えた。この裏づけがあったからこそ、1916年にサンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへ支店を開き、1917年に漢口、1918年にシアトル・ニューヨーク・ロンドンへ拠点を並べられた。国内の店舗数が全国第一位になるのは1917年で、海外への進出のほうが先に立っている。"},{"q":"なぜ1977年に、住友銀行は安宅産業の救済負担1132億円を一度の決算で捨てられたのか","a":"分割償却なら決算の見た目は守れる。だが損失は翌期以降も帳簿に残り、そのぶん翌期の数字も実態から離れる。住友銀行は逆を選んだ。救済融資約2000億円のうち自行の負担1132億円を、1977年9月期決算で全額償却している。1972年3月期の経常利益が530億円だったから、2年分の利益が1期で消えた。磯田一郎頭取は後年これを「まぁ、すてたんです」と語った。業績は3年で戻り、1980年9月期に首位へ復帰する。18年後、1995年3月期に8000億円超を一括で償却して都銀初の経常赤字を出した判断も、同じ処理を選んでいる。"}]}}