1864年〜 安田善次郎と安田銀行——「公金の富士」の形成
- 1864年安田善次郎が江戸日本橋人形町に小銭両替店「安田屋」を開く
- 1866年店舗を小舟町へ移し、両替専業の安田商店と改称する
- 1869年質屋・預金・貸金・為替の各業務を兼営し、実質的に銀行の業容を備える
- 1876年普通銀行の名称使用を許される
- 1880年安田商店を改組し、全国で5番目の私立銀行として合本安田銀行を設立する
- 1921年安田善次郎が凶刃に倒れ、日本銀行から結城豊太郎を迎えて組織の近代化に着手する
- 1923年同年7月に設立した保善銀行を母体に安田系11行が合同し、株式会社安田銀行が発足する。全国銀行預金の約1割を占め、支店網は153店に達する
両替店から銀行へ——公金取扱いが育てた信用
富士銀行の歴史は、1864年3月、安田善次郎が江戸日本橋人形町に開いた小銭両替店「安田屋」から始まる。資本金は25両にすぎなかった。なお、その前年に日本橋小舟町で露店の両替商を営んでいたとする記録もある。二年後に店舗を小舟町へ移して両替専業の安田商店と改め、1869年には質屋・預金・貸金・為替を兼営して、実質的に銀行の業容を備えた。1876年には普通銀行の名称使用を許されている。1880年、安田商店を改組して資本金20万円の合本安田銀行が発足した。全国で5番目の私立銀行にあたる。この間、善次郎は新政府が発行する紙幣の流通を率先して引き受け、さらに築港や鉄道といった公共事業へ資金を投じた。のちに「公金の富士」と呼ばれる評判は、この時期に積み重ねた官庁との取引から生まれている。 [1][2][3]
- [1]富士銀行の前身は1864年(元治元年)3月に安田善次郎が江戸人形町に資本金25両で創業した小銭両替店「安田屋」である
- [2]会社銀行八十年史「大資本制覇確立期の会社」は、文久3年(1863年)に安田善次郎が江戸日本橋小舟町で露店の両替商を開いたとしており、創業年と創業地に資料間の異同がある
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
- [3]1880年に安田商店を改組して合本安田銀行が設立され、全国で5番目の私立銀行にあたった。善次郎は新政府発行の紙幣流通を率先して引き受け、築港や鉄道などの公共事業へ資金を提供した
安田銀行は、事業の拡大に合わせて組織の形を何度も改めた。1893年に合資会社、1900年に合名会社、1912年には株式会社へ移行している。並行して善次郎は、財界が変動するたびに経営の傾いた中小銀行の救済にあたり、これを関係銀行として傘下に収めた。金融網は全国へ広がり、1920年には支配下の銀行が20行に達する。その公称資本金は合計1億5975万円、預金総額は6億6800万円にのぼった。関係する生命保険・損害保険・製麻・鉄道・電気などの各社は29社を数えた。安田家の財産を保管する組織として1884年ごろに設けられた保善社は、1912年に資本金1000万円の合名会社へ改組され、安田系事業の持株会社となった。銀行の増殖と持株会社の整備が、同じ時期に並んで進んだ。 [4][5][6]
- [4]善次郎の死の前年である1920年(大正9年)、安田の支配下銀行は20行、公称資本金合計1億5975万円、預金総額6億6800万円余に達し、関係会社は29社にのぼった
- [6]安田家の財産保管のための保善社は明治17年(1884年)ごろに設けられ、明治45年(1912年)に資本金1000万円の合名会社へ改組されて安田系事業の持株会社となった
- [5]安田銀行は1893年7月に合資会社、1900年7月に合名会社、1912年1月に株式会社へ改組した
- [1]富士銀行の前身は1864年(元治元年)3月に安田善次郎が江戸人形町に資本金25両で創業した小銭両替店「安田屋」である
- [2]会社銀行八十年史「大資本制覇確立期の会社」は、文久3年(1863年)に安田善次郎が江戸日本橋小舟町で露店の両替商を開いたとしており、創業年と創業地に資料間の異同がある
- [4]善次郎の死の前年である1920年(大正9年)、安田の支配下銀行は20行、公称資本金合計1億5975万円、預金総額6億6800万円余に達し、関係会社は29社にのぼった
- [6]安田家の財産保管のための保善社は明治17年(1884年)ごろに設けられ、明治45年(1912年)に資本金1000万円の合名会社へ改組されて安田系事業の持株会社となった
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
- [3]1880年に安田商店を改組して合本安田銀行が設立され、全国で5番目の私立銀行にあたった。善次郎は新政府発行の紙幣流通を率先して引き受け、築港や鉄道などの公共事業へ資金を提供した
- [5]安田銀行は1893年7月に合資会社、1900年7月に合名会社、1912年1月に株式会社へ改組した
金融業に徹した財閥銀行という位置づけ
明治の巨大銀行は、その多くが国家の保護を背景に出発するか、すでに成長した財閥資本の機関銀行として設立された。『会社銀行八十年史』は安田銀行について「当初から国民一般の金融機関として発達してきたもので、ひとしく財閥銀行とはいつてもこの点は当行の最大の特色をなしている」と記す。もっとも『日本産業史』は、三井と安田がいずれも同族の銀行を創立して自己の機関銀行に育てたと書いており、評価は分かれる。確かなのは事業の構成である。国立銀行の設立に住友や岩崎は消極的だった。三井と安田は関心が強く、安田は第三国立銀行の主要出資者となった。ただし三井が物産をはじめ直系の事業会社を抱えたのに対し、安田は金融業に徹し、銀行そのものを事業の中心に据えた。 [7][8][9]
- [7]会社銀行八十年史は、安田銀行が国家の保護や財閥の機関銀行としてではなく国民一般の金融機関として発達した点を最大の特色と記している
- [8]日本産業史は、三井と安田がいずれも同族による三井銀行・安田銀行を創立してこれを自己の機関銀行に育てたと書いており、会社銀行八十年史の自己評価とは異なる
- [9]住友と岩崎は国立銀行の設立に消極的だったのに対し、三井は第一国立銀行の大株主、安田は第三国立銀行の主要出資者となった
金融に特化した構造は、強みであると同時に弱点でもあった。事業会社を持たないため、銀行の信用がそのままグループの信用になる。1921年9月、その一点を支えていた善次郎が凶刃に倒れた。安田家は日本銀行から結城豊太郎を迎え、組織の近代化に着手した。結城が引き受けたのは、創業者の個性と手腕に依存してきた経営を、制度として動く組織へ組み替える仕事だった。20行に分散した関係銀行を一つにまとめる構想は善次郎の遺志とされ、その実現は結城の手に委ねられた。安田系銀行の大合同は、創業者を失った直後という、もっとも危うい時期に着手された再編である。 [10]
- [10]1921年(大正10年)9月に安田善次郎が凶刃に倒れたのち、日本銀行から結城豊太郎を迎えて近代組織化に努め、関係銀行の大合同によって先代の遺志を実現した
- [7]会社銀行八十年史は、安田銀行が国家の保護や財閥の機関銀行としてではなく国民一般の金融機関として発達した点を最大の特色と記している
- [10]1921年(大正10年)9月に安田善次郎が凶刃に倒れたのち、日本銀行から結城豊太郎を迎えて近代組織化に努め、関係銀行の大合同によって先代の遺志を実現した
- [8]日本産業史は、三井と安田がいずれも同族による三井銀行・安田銀行を創立してこれを自己の機関銀行に育てたと書いており、会社銀行八十年史の自己評価とは異なる
- [9]住友と岩崎は国立銀行の設立に消極的だったのに対し、三井は第一国立銀行の大株主、安田は第三国立銀行の主要出資者となった