富士銀行に改称(1948年・富士銀行の決断)更新:2026/07/27論点解禁後に旧商号へ戻すか富士銀行:業績の推移売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所安田の名を放棄した改称と、商号解禁後も旧称号へ戻らないという選択何をなぜ決めたか:安田の名を放棄した改称と、商号解禁後も旧称号へ戻らないという選択概要1948年10月、安田銀行は資本金13億5000万円への増資と同時に富士銀行へ改称した。財閥の名称使用を認めない占領下の措置に従った改称であったが、1952年に制約が解けたのちも旧称号へ復さず、富士の名を使い続けた。背景戦時補償の打ち切りで五大銀行と日本興業銀行は貸し出しの8割超が焦げつき、財閥解体指令で制限会社に指定された。安田保善社は1945年10月に他の財閥本社に先んじて自発的解散を決議し、安田家は銀行から離れていた。内容1948年3月に金融機関再建整備法にもとづき資本金の9割を切り捨てて1700万円へ減資、10月に13億5000万円へ増資して改称した。新行名は行員のアンケートで選ばれ、1952年に住友・三菱・三井が旧称号へ復した後も安田へは戻らなかった。含意制度に強いられた改称を、解禁後には自らの名として引き受けた判断である。財閥色を脱いだ大衆的な銀行という路線は、1960年の銀行界初の経営相談所開設や1964年の住宅ローン開始として形をとった。いつ何が起きたか6件考察:戻る先の消えた名考察考察:戻る先の消えた名新しい行名を決めたのは、行員のアンケートであった。財閥の名を制度に取り上げられた銀行が、代わりの名を自分たちの投票で選んでいる。1952年に旧商号の使用が解けたとき、住友・三菱・三井には取り戻すべき看板があった。富士銀行にはそれがない。安田保善社は1945年10月に他の財閥本社に先んじて解散を決議し、全株式の40%を保有していた安田家は銀行の事業から完全に離れていた。戻らなかったというより、戻る先の財閥がすでに解けていたのだろう。ただ、1948年の改称そのものは同行の意思ではなく、財閥の名称使用を認めない占領下の措置に従った結果であった。戦後経済の変貌に応じて新しい呼び名を望んだのだろうという解釈も、当事者の言葉ではなく後年の見立てにとどまる。改称の前後で預貸金の首位は動かず、名の交代が営業を左右した形跡は乏しい。大衆的な銀行という方針が経営相談所や住宅ローンとして形をとるのは1960年代に入ってからで、名が中身に追いつくまでには十年以上を要したといえる。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史「富士銀行」の項会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第1篇 会社企業発達史「安田財閥の成立」日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)「富士銀行」富士銀行八十年史(富士銀行, 1960)次に読む決断富士銀行の意思決定1998年富士銀行富士銀行第一勧業富士信託に譲渡会社分割による財産管理3部門の切り出しと、その営業譲渡1998年同じ問い:創業家の関与1977年アシックスアシックスオニツカなど3社合併ジィティオ・ジェレンクとの合併によるアシックスの発足1977年1995年トヨタ自動車トヨタ自動車国内シェア40%の死守販売網の刷新より販促費と海外生産の拡大に資金を配った4年1995年2020年ツルハHDツルハHDグループシナジー路線へ転換グループ共通のプライベートブランドと商品調達の統合による、事業会社の強みとの両立2020年1949年小野薬品工業小野薬品工業日本有機化工から改称小野市兵衛商店の吸収合併による製造と販売の一本化、小野薬品工業としての再出発1949年1949年豊田合成豊田合成名古屋ゴムの分離独立企業再建整備法にもとづく第二会社1949年×出所