富士銀行安田銀行から富士銀行への改称と、商号解禁後の旧称号への不復帰
占領下で奪われた名を、制約が解けたのちも自らの名として使い続けたのはなぜか
- 概要
- 1948年10月、安田銀行は資本金13億5000万円への増資と同時に富士銀行へ改称した。財閥の名称使用を認めない占領下の措置に従った改称であったが、1952年に制約が解けたのちも旧称号へ復さず、富士の名を使い続けた。
- 背景
- 戦時補償の打ち切りで五大銀行と日本興業銀行は貸し出しの8割超が焦げつき、財閥解体指令で制限会社に指定された。安田保善社は1945年10月に他の財閥本社に先んじて自発的解散を決議し、安田家は銀行から離れていた。
- 内容
- 1948年3月に金融機関再建整備法にもとづき資本金の9割を切り捨てて1700万円へ減資、10月に13億5000万円へ増資して改称した。新行名は行員のアンケートで選ばれ、1952年に住友・三菱・三井が旧称号へ復した後も安田へは戻らなかった。
- 含意
- 制度に強いられた改称を、解禁後には自らの名として引き受けた判断である。財閥色を脱いだ大衆的な銀行という路線は、1960年の銀行界初の経営相談所開設や1964年の住宅ローン開始として形をとった。
戻る先の消えた名
新しい行名を決めたのは、行員のアンケートであった。財閥の名を制度に取り上げられた銀行が、代わりの名を自分たちの投票で選んでいる。1952年に旧商号の使用が解けたとき、住友・三菱・三井には取り戻すべき看板があった。富士銀行にはそれがない。安田保善社は1945年10月に他の財閥本社に先んじて解散を決議し、全株式の40%を持っていた安田家は銀行の事業から完全に離れていた。戻らなかったというより、戻る先の財閥がすでに解けていたとみることができる。
ただ、1948年の改称そのものは同行の意思ではなく、財閥の名称使用を認めない占領下の措置に従った結果であった。戦後経済の変貌に応じて新しい呼び名を望んだのだろうという解釈も、当事者の言葉ではなく後年の見立てにとどまる。改称の前後で預貸金の首位は動かず、名の交代が営業を左右した形跡は乏しい。大衆的な銀行という方針が経営相談所や住宅ローンとして形をとるのは1960年代に入ってからで、名が中身に追いつくまでには十年以上を要したといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
金融に徹した財閥の銀行
富士銀行の前身である安田銀行は、1864年に安田善次郎氏が江戸人形町に開いた小銭両替店の安田屋を源とする。1880年に資本金20万円の安田銀行として発足したのち、財界が変動するたびに中小銀行の救済にあたり、これを関係銀行として全国に金融網を広げた。1923年11月には第三・明治商業・信濃・京都・第百三十など関係11行を合同し、資本金1億5000万円の新しい安田銀行が生まれる。全国銀行の預金額の約1割を占め、支店は153ヵ店に達した[1]。
安田財閥が伸ばしたのは、主として銀行であった。善次郎氏が没する前年の1920年、支配下の銀行は20行、その公称資本金の合計は1億5975万円、預金総額は6億6800万円に達している。生命保険・損害保険・帝国製麻・鉄道・電気といった関係会社も29社を数えたが、事業の主軸は銀行から動かなかった。国家の保護や財閥資本の機関銀行として出発した他の巨大銀行と異なり、当初から国民一般の金融機関として発達した点を、東洋経済新報社の『会社銀行八十年史』は同行最大の特色として挙げている[2][3]。
敗戦がもたらした二つの打撃
敗戦は、この銀行に二つの打撃を与えた。ひとつは戦時補償の打ち切りである。銀行界は反対の先頭に立ったものの受け入れられず、1946年8月に打ち切りが決まった。帝国・三菱・安田・住友・三和の五大銀行と日本興業銀行では、貸し出しのうち補償をあてにしたものが8割を超え、その額は打ち切り総額の7割を上回った。もうひとつはGHQの財閥解体指令で、帝国・三菱・住友・野村・安田と安田系の地方銀行は制限会社に指定され、資本と経営から財閥家族が排除された[4][5]。
安田家の側の対応は早かった。総合指導機関であった安田保善社は、1945年10月、他の財閥本社に率先して自発的な解散を決議する。全株式の40%を保有していた安田家は、1880年の創業から65年続いた銀行の事業から完全に離れた。銀行を分割する必要はないという決定が下りたのは1948年7月で、それまでの3年近く、同行は所有者と分割の見通しの双方を欠いたまま再建整備にあたった。預貸金の額は1945年9月以来、全国銀行のなかで首位を占めていた[6][7]。
決断
財閥の名を外した再建整備
1948年3月、同行は金融機関再建整備法にもとづく損失補填のため、資本金の9割を切り捨てて1700万円へ減資し、最終処理を終えた。同年10月には13億5000万円へ増資し、それと同時に行名を安田銀行から富士銀行へ改めている。改称そのものは同行の選択ではなかった。同じ年の10月以降に再建された銀行が発足するにあたり、財閥銀行には財閥の名称を使うことだけが許されず、三菱は千代田、住友は大阪、野村は大和と、いずれも看板を替えている[8][9]。
名称の変更が一律の措置であっても、どの名を選ぶかは行内に残された。新しい行名の「富士」は、行員のアンケートによって決められている。財閥の名を制度に取り上げられた銀行が、代わりの名を自分たちの投票で選んだことになる。1960年に刊行された『富士銀行八十年史』は、第八章を「安田銀行時代の終期(昭和二〇年九月―昭和二三年九月)」、第九章を「富士銀行時代」と題し、1948年10月をもって時代を区切った。名の交代を、社史自身が画期として扱っている[10][11]。
解禁されても、戻らなかった
1952年の平和条約発効によって、旧財閥の商号を用いる制約は解けた。住友、三菱、三井の三行は相次いで旧称号に復している。戦時中に三井と第一の合同で生まれた帝国銀行は、二つの系統が溶け合わないまま1948年に再び分かれており、旧三井の系統がここで名を取り戻した。これに対し、安田と野村の二行はそれぞれ富士、大和の称号を続けた。制度に強いられた1948年の改称と、解禁後も名を替えなかった1952年以降の継続とは、性格の異なる二つの判断である[12][13]。
戻らなかった理由を、『日本産業史』は財閥の性格の違いに求めている。戦前の住友・三菱・三井は総合的なコンツェルン型の財閥を形成していただけに旧称号への執着が強く、これに対し金融閥として発展した安田と、証券金融に縁の深かった野村は、戦後経済の変貌に応じた新しい呼び名を望んだのであろう、という見立てである。加えて、安田家は1945年の段階ですでに資本から退いており、名を戻したところで結び直す財閥本社は存在しなかった。旧称号を取り戻す実益は、他の三行より薄かったとみられる[14]。
結果
首位を保ったまま迎えた1950年代
改称は、営業の基盤を損なわなかった。外国為替業務の伸びに応じて1952年10月にロンドン支店を開き、ニューヨークとカルカッタへ駐在員を送る。1953年4月には資本金を27億円へ増やし、社内に留保した利益も74億円に上った。1955年3月末の預金は2442億円、貸出は2081億円、支店網は全国184ヵ店とロンドンの1支店を数える。預貸金の額は1945年9月以来の首位を保ち続け、安田の名を外した後も取引先と預金は離れなかった[15][16]。
名を戻さなかったことは、路線の表明でもあった。旧財閥商号の使用が解禁されて他の財閥系銀行が旧名に復するなかで、富士銀行は復帰せず、財閥色を脱いで大衆的な銀行として歩むという方針を堅持した。この方針は後年の営業に表れる。1960年には日本ダイナースクラブを設立して日本初のクレジットカード業務に踏み込み、同じ年に銀行界で初めての経営相談所を開いて中小企業向けの相談に応じた。1964年には住宅ローンを始めている[17][18]。
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史「富士銀行」の項
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第1篇 会社企業発達史「安田財閥の成立」
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)「富士銀行」
- 富士銀行八十年史(富士銀行, 1960)