三菱銀行・三和銀行・東海銀行の統合
三菱の金融業は海運業から分かれて生まれ、1870年に岩崎弥太郎氏が興した海運業[1]が、のちの郵便汽船三菱会社となった[2]。本業は海運だが、1876年には大阪に為替局を置き[3]、回漕する貨物を担保に荷主へ荷為替を貸し付けて[4]荷主の便宜を図っている。1880年には為替局を分離して三菱為換店を開設し、普通銀行業務と倉庫業を兼営[5]した。ただし三菱為換店はその後いったん廃止され[6]、金融業務は途切れた。1885年5月、郵便汽船三菱会社は第百十九国立銀行の経営を引き受け[7]、同行を子会社として本格的な銀行業務に乗り出した。
1893年に三菱合資会社が設立される[8]と、1895年、同社は資本金500万円のうち100万円をさいて銀行部を新設[9]し、第百十九国立銀行の業務を継承した。当時の営業拠点は東京1、大阪2、神戸1にすぎなかった[10]。第一次世界大戦による好況で業績は伸び、1915年以降の4年間に上海など5支店を増設[11]している。三菱合資会社が諸事業を独立させる方針をとったのに従い、1919年8月25日、銀行部の業務一切を継承して[12]株式会社三菱銀行が資本金5,000万円で創立された[13]。初代会長には岩崎小弥太氏[14]が就いている。創立の翌1920年にはロンドンとニューヨークに支店を開いて[15]海外業務の足場を作り、1922年には本店営業所を新築して同年5月から営業を始めた[16]。
1923年9月の関東大震災では、東京に本店を置く銀行の大半が本店を焼失した[17]なかで、三菱銀行の本館は無事に残った[18]。前年に完成した本店営業所は堅牢な設計で[19]、震災下の業務継続を支えている。同行は他行に先駆けて預金の支払いを始め[20]、本店金庫を開放して被災した諸銀行の業務に供した[21]。罹災した銀行が業務を続けられるよう下支えした動きは、同行の信用を一段と高めた[22]。1927年3月の金融恐慌[23]でも、全国各地で多数の銀行が取り付けにあうなか[24]、三菱銀行は無事で、同業銀行の救済に努めている[25]。二度の危機に対応した結果として信用が高まり、預金はかえって激増した[26]。
恐慌をしのいだ三菱銀行は規模を積み増し、1929年5月に取引の深かった森村銀行を買収[27]したうえ、同年6月には資本金を1億円へ増資[28]した。関東大震災と金融恐慌が生んだ信用の差は、中小銀行から大銀行へ預金が移る流れ[29]を生み、三菱銀行はその受け皿の一つとなった[30]。
もう一つの源流は大阪にあり、鴻池家は明暦年間にあたる1656年[31]に初代鴻池善右衛門氏が大阪で両替店を開いて以来の両替商で、1877年に大阪最初の国立銀行である第十三国立銀行を創設[32]したのち、1897年に個人経営の鴻池銀行がその業務を継承[33]した。三十四銀行は1878年に岡橋治助氏ら大阪財界の有力者が創設した第三十四国立銀行[34]を母体とし、1897年に普通銀行へ改組[35]している。山口銀行も徳川幕府時代の両替商にさかのぼり[36]、1879年に山口家を中心として第百四十八国立銀行が設立[37]された。いずれも本店を大阪に置き、古い歴史と伝統をもって発展した有力銀行[38]であった。
1933年12月、この三行が合同して三和銀行が創立[39]された。頭取には中根貞彦氏が就き[40]、資本金は1億720万円[41]、合同時の預金総額は10億2,500万円[42]に達した。合同当時の預金は三十四銀行が4億2,800万円[43]、山口銀行が3億8,900万円、鴻池銀行が1億7,500万円[44]で、三行はいずれも大阪財界の要望を背景に発達していた。営業地盤が重なる三行の自発的な動意による合同[45]で、創立後の数年間は内部諸制度の改善と店舗の改廃に努めて[46]いる。日華事変の前後から大陸交易が伸びると業績は伸長し、1941年末には預金が30億円台に乗った[47]。
戦時の銀行集中政策は両行の規模を一段と押し上げ、三菱銀行は1940年に金原銀行、1942年に東京中野銀行を[48]買収継承して民間預金の吸収に努め、1943年4月には当時七大銀行の一つであった第百銀行と合併[49]した。これにより資本金は1億3,500万円となり[50]、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円[51]に達している。三和銀行も店舗配置の適正化と経営の効率化を図って1942年以降に辻林・更池・河泉などの営業を譲り受け[52]、1945年5月には三和信託と大同銀行を吸収合併して信託業を兼営[53]し、同年10月に大和田銀行を吸収合併[54]した。
同じ時期、のちにUFJの一翼を担う東海銀行も生まれ、1941年6月、名古屋を地盤とする愛知・名古屋・伊藤の三銀行が[55]合併して資本金3,760万円で設立された[56]。愛知は1896年4月、名古屋は1882年7月、伊藤は1881年9月の創立[57]で、いずれも古い歴史をもっていた。同行は1945年9月に岡崎・稲沢・大野の三銀行を合併して愛知県下唯一の本店銀行となり[58]、営業所は187店を数えた[59]。一方、戦局の激化は店舗を直撃し、三菱銀行は1945年3月の日本橋支店ほか11店の被災[60]を皮切りに、終戦までにさらに29店が相次いで罹災し、25店の廃止[61]に至った。
敗戦後の三菱銀行は分割の危機に直面し、過度経済力集中排除法が出たころ、行内には分割に備える極秘の委員会が置かれ[62]、調査部長の宇佐美洵氏をキャップに三種類の分割案[63]が作成された。中村俊男氏はそのメンバーの一人[64]で、昼は資料を集め、夜に宇佐美氏の自宅を訪ねて相談している[65]。結局『金融機関まで分割したら日本経済は混乱する。それは対ソ政策から好ましくない』[引用元]というGHQの判断[66]で、銀行は分割を免れた。三菱商事や三井物産が解散させられた[67]のに対し、戦時中に合併した東京中野銀行と第百銀行の店舗網はそのまま残った[68]。
分割は免れたが再建整備の負担は重く、戦時の軍需融資制度で国の保証のもと軍需指定会社へ貸し出した分は、保証の打ち切りによって大部分が回収不能となり、資本金の9割九分が飛んだ[69]。1948年3月、三菱銀行は金融機関再建整備法に基づく最終処理を終え、資本金1億3,500万円を93%切り捨て[70]ている。同年10月には財閥解体で三菱の名称使用を禁じられて千代田銀行と改称し[71]、あわせて11億円へ増資して新発足[72]した。当時の預金は332億円、店舗は161店[73]で、増資により株式が預金者・従業員・地方居住者へ分散[74]した。
三和銀行も1948年10月に再建整備計画を終え、資本金10億円で新発足[75]した。東海銀行は特別損失3億8,200万円を預金の切り捨てと9割減資などで埋め[76]、1948年3月に最終処理を終えている。翌1949年5月、三菱銀行と三和銀行は東京・大阪の両証券取引所に株式を上場[77]した。戦後の復興とともに預金は伸び、三菱銀行は1953年3月末に預金1,597億円・貸出1,402億円[78]へ達し、同年4月に27億5,000万円へ増資して国内の普通銀行で最大の資本金[79]を擁するに至った。同年7月、海外で馴染みの薄い千代田銀行の商号は不利であるとして[80]、三菱銀行の旧名に復帰している。
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|---|---|---|---|---|
| 初代鴻池善右衛門が両替店を開業 | ★ | |||
| 1870〜1932年海運から分かれた金融と、二つの危機で得た信用 | 岩崎弥太郎氏が海運業を創業 | ★ | ||
| 第十三国立銀行を創設 | ★ | |||
| 第三十四国立銀行を創設 | ★ | |||
| 第百四十八国立銀行を設立 | ★ | |||
| 為替局を分離して三菱為換店を開設 | ★★ | |||
| 横浜正金銀行を設立 | ★ | |||
| 第百十九国立銀行の経営を継承 | ★★ | |||
| 銀行部を新設 | ★★ | |||
| 三菱銀行を設立 | ★★ | |||
| ロンドン支店を開設 | ★ | |||
| ニューヨーク支店を開設 | ★ | |||
| 三菱信託を設立 | ★ | |||
| 金融恐慌下で同業銀行の救済に応需 | ★★ | |||
| 1933〜1953年三和の創立、戦時統合、そして再出発 | 三和銀行を設立 | ★★ | ||
| 東海銀行を設立 | ★★ | |||
| 三菱銀行が第百銀行と合併 | ★★ | |||
| 三和銀行が三和信託・大同銀行を吸収合併 | ★ | |||
| 東海銀行が岡崎・稲沢・大野の3行を合併 | ★ | |||
| 東京銀行を設立 | ★★ | |||
| 千金良宗三郎 | 三菱銀行が千代田銀行に商号変更 | ★ | ||
| 千金良宗三郎 | 三菱銀行・三和銀行が東京・大阪の各証券取引所に上場 | ★ | ||
| 千金良宗三郎 | 三和銀行が甲種外国為替銀行の指定を取得 | ★ | ||
| 千金良宗三郎 | 三菱銀行がニューヨーク支店を開設 | ★ | ||
| 千金良宗三郎 | 三和銀行がサンフランシスコ支店を開設 | ★ | ||
| 千金良宗三郎 | 千代田銀行が三菱銀行に商号変更 | ★ | ||
| 1954〜1995年国際化とユニバーサルバンクをめぐる二系譜の競争 | 千金良宗三郎 | 東京銀行が外国為替銀行に改組 | ★★ | |
| 中谷一雄 | 東洋信託銀行を設立 | ★ | ||
| 宇佐美洵 | 東海銀行がロンドン支店を開設 | ★ | ||
| 宇佐美洵 | 三和銀行がニューヨーク支店を開設 | ★ | ||
| 田実渉 | 日本共同証券の設立に参加 | ★ | ||
| 田実渉 | 三菱銀行がオンラインシステムを稼働 | ★ | ||
| 田実渉 | 第一銀行との合併構想が白紙化 | ★★ | ||
| 中村俊男 | 加州三菱銀行を設立 | ★★ | ||
| 山田春 | 三和銀行が「ピープルズバンク」構想を公表 | ★★ | ||
| 山田春 | 三菱銀行がバンク・オブ・カリフォルニアを子会社化 | ★★ | ||
| 山田春 | 三菱銀行が商業銀行を設立 | ★ | ||
| 伊夫伎一雄 | 三菱銀行がロンドン証券取引所に上場 | ★ | ||
| 伊夫伎一雄 | 三菱銀行がスイス3取引所・パリ・ニューヨークに上場 | ★ | ||
| 若井恒雄 | 三和銀行が業務純益・経常利益・当期利益で首位 | ★★ | ||
| 若井恒雄 | 三和銀行が東洋信用金庫を救済合併 | ★★ | ||
| 若井恒雄 | 三和銀行の国内拠点が1000店を突破 | ★ | ||
| 若井恒雄 | 三菱銀行が日本信託銀行を子会社化 | ★ | ||
| 1996〜2025年平成金融再編とMUFG、そして海外への傾斜 | 高垣佑 | 三菱銀行と東京銀行の合併・東京三菱銀行の発足(1996年成立) 1996年4月1日、財閥系の三菱銀行と外国為替専門の東京銀行が合併し、東京三菱銀行が発足した。総資産は約72兆円に達し、当時世界最大の銀行となった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 岸暁 | 三和銀行との経営統合交渉が不成立 | ★★ | ||
| 三木繁光 | 株式移転により三菱東京フィナンシャル・グループを設立 | ★★ | ||
| 三木繁光 | 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行がUFJHDを設立 | ★ | ||
| 三木繁光 | 三和銀行と東海銀行が合併しUFJ銀行を設立 | ★★ | ||
| 三木繁光 | 東京三菱証券・国際証券などが合併し三菱証券を設立 | ★ | ||
| 畔柳信雄 | UFJHDが住友信託銀行への信託売却を白紙撤回 | ★★ | ||
| 畔柳信雄 | 三菱東京フィナンシャル・グループとUFJホールディングスの経営統合(2005年成立・MUFG発足) 2005年10月1日、三菱東京フィナンシャル・グループとUFJホールディングスが経営統合し、総資産約190兆円の三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)が発足した。当時の国内最大級の金融グループである。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 畔柳信雄 | 公的資金を完済 | ★★ | ||
| 畔柳信雄 | 東京三菱銀行とUFJ銀行が合併し三菱東京UFJ銀行を設立 | ★★ | ||
| 畔柳信雄 | 住友信託銀行との訴訟が和解 | ★ | ||
| 畔柳信雄 | UFJニコスとディーシーカードが合併し三菱UFJニコスを設立 | ★ | ||
| 畔柳信雄 | リーマン危機下のモルガン・スタンレーへの90億ドル出資 2008年10月、MUFGはリーマン・ショック下で経営危機にあった米モルガン・スタンレーへ90億ドルを出資し、完全希薄化ベースで約21%を握った経営判断。当初の普通株30億ドル+転換権付優先株60億ドルの組み立てを、株価急落を受けて全額優先株へ組み替え、送金網が止まる10月13日の祝日に90億ドルの小切手を手渡して払い込みを済ませた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 畔柳信雄 | UnionBanCal Corporationを完全子会社化 | ★★ | ||
| 畔柳信雄 | アコムを子会社化 | ★ | ||
| 畔柳信雄 | 親会社株主に帰属する当期純損失2570億円を計上 | ★ | ||
| 永易克典 | 三菱UFJモルガン・スタンレー証券の設立——米投資銀行との日本証券合弁 2010年5月、三菱UFJフィナンシャル・グループは、2008年に約90億ドルを出資したモルガン・スタンレーと日本の証券事業を合弁化し、三菱UFJモルガン・スタンレー証券とモルガン・スタンレーMUFG証券の2社を発足させた経営判断。傘下の三菱UFJ証券とモルガン・スタンレー証券を吸収分割で再編し、危機下に結んだ資本提携を国内証券の統合という日々の事業へ踏み込ませた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 平野信行 | ヴィエティンバンクと資本業務提携 | ★ | ||
| 平野信行 | タイ・アユタヤ銀行(クルンシィ)のTOB買収——アジア商業銀行基盤の獲得 2013年、三菱UFJフィナンシャル・グループは子会社の三菱東京UFJ銀行を通じ、タイ第5位の商業銀行アユタヤ銀行(現地呼称クルンシィ)をTOBで買収した。約72%を約5,360億円で取得し、成長するアジアで自前の商業銀行基盤を持つ判断に踏み込んだ。当時のMUFG社長は平野信行氏。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 平野信行 | 指名委員会等設置会社に移行 | ★ | ||
| 平野信行 | セキュリティバンクと資本業務提携 | ★ | ||
| 平野信行 | 三菱東京UFJ銀行が三菱UFJ銀行に商号変更 | ★ | ||
| 三毛兼承 | First Sentier Investorsを子会社化 | ★★ | ||
| 三毛兼承 | インドネシア・バンクダナモンの段階取得と94%子会社化 2017年12月、三菱UFJフィナンシャル・グループは平野信行社長のもと、インドネシア第5位の商業銀行バンクダナモンの株式を3段階で取得する条件付契約を結び、2019年4月に約94%を握って連結子会社とした経営判断。総額はバンクビーエヌピー分を含め6,000億円を超え、タイ・アユタヤ銀行に続くアジアの成長取り込みを狙った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 亀澤宏規 | 亀澤宏規氏が社長に就任 | ★ | ||
| 亀澤宏規 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 亀澤宏規 | MUFGユニオンバンク売却——米西海岸リテールからの撤退と法人取引への集中 2021年9月、三菱UFJフィナンシャル・グループは米西海岸の商業銀行MUFGユニオンバンクの全株式をUSバンコープへ譲渡する契約を結び、2022年12月に完了した。対価は現金55億ドルとUSB株式約2.9%で、総額はおよそ80億ドル。米国リテール銀行から退き、法人取引へ経営資源を絞る判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 亀澤宏規 | 元行員による貸金庫からの窃取を公表 | ★★ | ||
| 亀澤宏規 | 三菱UFJ銀行・貸金庫窃取事件への対応と内部管理の立て直し 2024年11月、三菱UFJフィナンシャル・グループの中核子会社である三菱UFJ銀行は、練馬・玉川両支店で貸金庫を管理していた元行員が、顧客の貸金庫から現金や金を窃取していた事案を公表した。グループは2025年1月、発生原因の分析と再発防止策の策定を終え、半沢淳一頭取ら関係役員5名の処分と、金融庁への報告書提出を明らかにした。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 亀澤宏規 | 親会社株主に帰属する当期純利益1兆8629億円を計上 | ★ |
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事実根拠:出所(三菱UFJフィナンシャル・グループ)