三菱銀行と東京銀行の合併・東京三菱銀行の発足

1996年成立

金融ビッグバン前夜、財閥系の三菱銀行と外国為替専門の東京銀行はなぜ合併し、当時世界最大の銀行となったのか?

更新:

時期 1995年3月
概要
1996年4月1日、財閥系の三菱銀行と外国為替専門の東京銀行が合併し、東京三菱銀行が発足した。総資産は約72兆円に達し、当時世界最大の銀行となった。
背景
バブル崩壊後の不良債権処理と、1996年11月に橋本龍太郎内閣が打ち出す金融ビッグバン(フリー・フェア・グローバル)を前にして、国内外で戦える規模と業務の補完性が求められていた。
内容
国内の店舗網に厚い三菱銀行と、海外拠点・外国為替に強い東京銀行は事業の重なりが小さかった。三菱銀行を存続会社、合併比率は1対0.8とし、初代頭取には旧東京銀行出身の高垣佑氏が就いた。
含意
救済型の再編が相次いだその後の銀行再編とは異なり、相対的に健全な2行が補完性を狙って結びついた先駆的な統合であった。のちのメガバンク3グループ体制の起点の一つとなった。
筆者の見解

補完性で結ぶ統合という型

この合併は、危機からの救済としてではなく、事業の補完性を起点に相対的に健全な2行が結びついた点に特徴があるとみられる。国内に厚い銀行と海外に強い銀行という重なりの小さな組み合わせは、統合に伴う痛みの大きい店舗・人員の整理を相対的に小さく抑えつつ、規模と機能の双方を一気に広げる効果を狙えた。同質の事業を持ち寄って重複を削るタイプの統合とは異なる、補完性で結ぶ統合の一つの型を示した事例として読むこともできる。

もっとも、当時世界最大という看板が、その後の競争力をそのまま約束したわけではない。金融ビッグバンを経て国際金融の競争はいっそう激しくなり、国内では不良債権問題の最終処理がさらに数年を要した。1996年の合併が示したのは、規模そのものよりも、互いに足りない部分を補い合う組み合わせの設計と、対等性に配慮した統合プロセスが、大型再編を円滑に進めるうえで一定の意味を持ちうるということであろう。のちのメガバンク3グループ体制を振り返るとき、その起点の一つとして位置づけられる統合であった。

ただし、補完性ゆえに痛みが小さいことは、裏を返せば改革を急がない理由にもなった。重複が少なく整理すべき店舗も人員も相対的に小さかったがゆえに、発足直後の東京三菱銀行は、同時期の米国の大型合併が即座に大規模なリストラを打ち出したのとは対照的に、「融和」を優先してリストラを後ろ倒しにしたと同時代に評された。対等を尊ぶ「たすき掛け」の人事は、旧二行の自尊を立てる一方で、主導権をめぐる綱引きと意思決定の遅れを抱え込む。世界最大という看板も競争力をそのまま約束はせず、数年後には「再編に出遅れた銀行」とまで呼ばれた。補完性で穏やかに結ぶ統合は、痛みが小さいぶん、束ねたあとに緊張を緩めやすいという逆説をも抱えていたのかもしれない。

Yutaka Sugiura

統合の背景

マクロ環境——バブル崩壊と金融ビッグバン前夜

1990年代半ばの日本の銀行は、バブル崩壊後の重い課題を抱えていた。地価と株価の急落で抱え込んだ不良債権の処理が長引き、自己資本の毀損や収益力の低下が業界全体にのしかかっていた。そこへ国際的な競争環境の変化が重なる。自己資本比率規制(BIS規制)の下で体力に見合った経営が問われ、欧米の大手金融機関は合従連衡で規模を拡大していた。国内に目を移せば、1996年11月に橋本龍太郎内閣が「フリー・フェア・グローバル」を掲げた日本版金融ビッグバンを提唱し、2001年までに東京市場をニューヨーク、ロンドン並みの国際金融市場へ復権させる[1]と打ち出す。規制に守られた横並び経営が転機を迎える前夜であり、銀行には単独での生き残りの限界が意識され始めていた。

三菱銀行と東京銀行の合併は、こうした地殻変動の入口で表面化した。1995年3月、両行は合併の方針を公にし、同年3月28日には合意が報じられている[2]。バブル崩壊後の不良債権処理に各行が呻吟するなかで、相対的に健全とされた2行が結びつく構図は、その後に続く救済色の濃い再編とは性格を異にしていた。後年の企業史記述は、両行を当時の日本で最も健全な部類の銀行であり、貸出危機を比較的傷を負わずに切り抜けたと位置づけている[3]

ミクロ環境——補完しあう2つの銀行

両行の性格は対照的で、それゆえに補完的であった。三菱銀行は三菱グループの中核を担う都市銀行として、国内に厚い店舗網を持ち、法人・個人の国内取引を主戦場としていた。一方の東京銀行は、貿易金融と外国為替に特化した横浜正金銀行の系譜を引き、1954年の外国為替銀行法のもとで日本唯一の外国為替専門銀行となった[5]経緯を持つ。海外拠点に強みを置く一方、合併時の国内店舗はわずか37にとどまり、これに対し海外拠点は363にのぼっていた[4]とされる。国内の面の広さと海外の網の厚さ——重なりの小さい2行を組み合わせれば、国内と国際の双方で戦える総合力を備えうる、という補完の論理がこの合併の核にあった。

二行それぞれの弱み——「単能銀行」と「おっとり三菱」

補完性という言葉の裏には、両行がそれぞれに抱えた弱みがあった。東京銀行は、唯一の外国為替専門銀行という「看板」そのものが揺らいでいた。都市銀行が国際業務へ本格進出すると、かつての金城湯池は侵食され、外国為替売買高に占める同行のシェアは昭和40年の約20%から1980年代末には5%弱まで低下する。国際業務関係の利益では、かつて4倍近い差をつけていた住友銀行に1988年には数億円差まで肉薄された。国内店舗はわずか32と大手都銀の1割程度にとどまり、「東銀は国内に弱い」「存在意義そのものが問われている」とまで評された。特定のグループに属さない「公共性」「中立性」は持ち味であると同時に、商売に徹する姿勢を鈍らせ、累積債務国向け融資の重しも経営に影を落としていた[6][7]

一方の三菱銀行も、「銀行の中の銀行」と称されながら、国際部門と個人預金という二つの分野で意外な弱さを抱えていた。1981年の時点で、収益力は同じ財閥系の住友銀行に追い抜かれ、住友との収益格差のおよそ半分は国際部門から生じていた。外国為替の専門家の数は住友の0.6倍程度にとどまり、国内産業金融を主流とする伝統のなかで国際部門は傍流に置かれてきた。「組織の三菱」「おっとりした三菱マン」と評される手堅さは、強大なグループに支えられて「黙っていても食える」企業体質と表裏で、国際業務でノウハウを磨く切迫感を欠かせた面があった。三菱が長く抱えたこの国際の弱さこそ、のちに東京銀行の海外網を強く欲した伏線でもあった[8][9]

統合の発端

公表経緯——1995年春の合意

表面化は1995年3月であった。両行は合併の方針を公にし、同年3月28日に合意が報じられている。バブル崩壊から数年、護送船団行政の下で横並びを続けてきた都市銀行群にとって、上位行同士の大型合併は業界の枠組みを揺るがす出来事であった。発表からおよそ1年の準備期間を経て、合併は1996年4月1日に実行へ移される[10]。報道から実行までの間、店舗・システム・人事の統合準備が進められ、当時としては異例の規模の統合作業が進行した。

両頭取が語った「ザ・バンク」——合併発表直後の肉声

合併発表からおよそ半年後の1995年秋、三菱銀行の若井恒雄頭取と東京銀行の高垣佑頭取は、そろって合併の狙いを語っている。若井はかねて「あれこそザ・バンクだと言われる銀行を目指したい」と述べ、合併については「我々に欠けているものを補えることが必要」と、補完の論理を率直に掲げた。高垣は「この合併はあまり短い話ではない。5年、10年という時間で考えないといけない」と長い目を強調し、規模で勝る三菱との交渉についても「対等で交渉させてもらっている。東京銀行の方が押されているという感じは正直なところ持っていない」と語った。行名を二行の名で併記したことを若井は「夫婦別姓」になぞらえ、「問題は名前よりも志だ」と述べている。両頭取はこの時点で、将来像として銀行持ち株会社をも視野に入れていた[11][12]

合併は業界の構造そのものを揺らす出来事として受け止められた。記者会見で若井頭取は「三菱銀行は三菱グループの銀行ではない。国内外に多くの取引先がある」と、財閥の枠にとらわれない姿勢を示している。東京銀行は、どのグループにも属さない中立の外為専門銀行という立場から、上場企業のおよそ6割と取引を持ち、「準メーン」「海外取引メーン」として食い込んでいた。その「グループを超えた強み」を三菱が取り込む構図は、系列を核に据えてきたメーンバンク制が崩れゆく最終幕とも論じられた。半面、三井系をはじめ他グループの企業からは「新銀行に三菱色が強く出ては困る」との警戒も漏れ、「ザ・バンク」の誕生は企業と銀行の関係を根底から問い直すものでもあった[13][14]

高垣佑 東京銀行頭取
1995年ごろの当事者の証言
この合併はあまり短い話ではない。5年、10年という時間で考えないといけない
三菱銀行

三菱銀行の視点——国内基盤に国際力を継ぎ足す

主導した三菱銀行にとって、東京銀行との合併は手薄だった国際業務を一気に補う一手であった。三菱合資会社の銀行部が1919年に独立して発足した同行[16]は、三菱グループの中核行として国内の法人・個人取引と店舗網に強みを持つ。だが、企業の海外展開が進み金融の国際化が加速するなかで、外国為替・海外ネットワークの厚みは課題でもあった。東京銀行の海外拠点と外為のノウハウを取り込めば、国内基盤に国際力を継ぎ足し、世界で戦える総合銀行へ脱皮できる——三菱側にはそうした絵が描けたとみられる。合併は持株ベースで1対0.8の比率とされ[15]、外国為替銀行法による業務の制約を踏まえ、三菱銀行を存続会社とする形が採られた。

東京銀行の視点——外国為替専門銀行という制約

相手側の東京銀行にとって、合併は外国為替専門銀行という枠組みから踏み出す機会でもあった。横浜正金銀行の系譜を引き、戦後は外国為替銀行法のもとで国際業務に特化してきた同行は、国際性という強みを持つ一方、国内の店舗網と預金基盤の薄さが構造的な弱みであった。国内取引に厚い三菱銀行と一つになれば、薄い国内基盤を補い、総合銀行として安定した資金調達と顧客基盤を得られる。同行が刊行した社史が「外国為替専門銀行の歩み」と題されている[17]通り、その独自の歴史にひとつの区切りをつける選択でもあった。合併比率は東京銀行側に有利との見方もあり、事実上は対等に近い結びつきとされる。

統合の経過

東京三菱銀行の発足——当時世界最大の銀行

1996年4月1日、東京三菱銀行が発足した。新銀行の総資産は約72兆円(当時の為替換算でおよそ7,000億ドル超)に達し、第2位を約4割上回る規模で、当時世界最大の銀行となった[18]。資金量は50兆円を超え、国内では群を抜く存在となる。国内の店舗網に厚い三菱銀行と、海外拠点・外国為替に強い東京銀行という重なりの小さい組み合わせは、合併に伴う重複店舗の整理が比較的少なくて済み、補完性を素直に足し合わせやすい統合であった[19]とされる。バブル後の傷の浅い2行が規模と機能を一体化した発足は、護送船団の時代に区切りをつける象徴的な出来事であった。

たすきがけ人事——初代頭取は旧東銀から

発足にあたっての役員人事には、対等性への配慮がにじんだ。初代頭取には旧東京銀行出身の高垣佑氏が就き[20]、以下の役員も両行から交互に配する、いわゆるたすきがけの構成が採られたとされる。存続会社は三菱銀行でありながら、トップを相手側から起用する人事は、合併比率が東京銀行側に有利との見方とあわせて、この結びつきが救済や吸収ではなく対等に近い統合であったことをうかがわせる。財閥の名を冠する三菱銀行と、国際金融の老舗である東京銀行が、互いの伝統を尊重しながら一つの銀行へまとまろうとした姿勢の表れであったとみられる。

だが、その「融和」には影もあった。発足直後の1996年春、海の向こうでは米国のケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併し、人員の約16%にあたる1万2000人規模の削減を即座に打ち出して市場の好感を得ていた。これと対照的に、東京三菱銀行のリストラ策は「非公式」にとどまり、新たな長期計画は翌年4月までずれ込む。格付け機関スタンダード&プアーズは「日本における合併は中期的にはネガティブ」と評し、日本では収益向上のためのリストラよりも「人の融和」が最優先課題になりがちだと指摘された。高垣頭取自身、「融和を重んじるばかりにリストラのペースが上がらない」と認めている。早期に主導権を握ろうとする旧三菱側と、時間をかけて融和を図ろうとする旧東京側の綱引きが、改革の歩みを鈍らせていた。対等を尊ぶ「たすき掛け」は、和を保つ装置であると同時に、決断を遅らせるコストでもあった[21][22]

統合の帰結

「統合完成へ」——4年後もなお続いた融合

規模の大きさは、ただちに融合の完成を意味しなかった。発足から4年が経った2000年、頭取に就いた三木繁光は「統合完成へ、力まず頂上目指す」と語っている。世界最大という看板で始まった東京三菱銀行の評価は、他のメガグループ再編が進むなかで「財務内容の良い健全銀行」から「再編に出遅れた銀行」へと様変わりしつつあった。同年、東京三菱は三菱信託銀行などとの経営統合に踏み出し、三木には「統合の完成」という大仕事が引き継がれていく。1996年の合併が掲げた一体化は、トップ人事や組織の調整を重ねながら、なお数年がかりで仕上げられていく途上にあった[23]

その後——メガバンク再編の本流へ

東京三菱銀行の発足は、その後に続く銀行再編の先駆けとなった。1990年代末から2000年代にかけて、不良債権処理と金融ビッグバンの圧力のなかで都市銀行・信託銀行の統合が相次ぎ、みずほ、三井住友、そして三菱東京を軸とする再編が進む。東京三菱銀行はこの流れの中心に位置し続けた。2005年には三菱東京フィナンシャル・グループがUFJホールディングスと経営統合して三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)が発足し、翌2006年1月には東京三菱銀行がUFJ銀行を統合して三菱東京UFJ銀行となる[24]。1996年の合併で得た規模と国際基盤は、メガバンク体制の確立へと引き継がれていった。

出典・参考
  • 三菱UFJ銀行 採用情報サイト「過去と未来」(https://www.saiyo.bk.mufg.jp/pastandfuture/)
  • MUFG Bank「The Origins of Our Bank」(https://www.bk.mufg.jp/global/aboutus/origins/index.html)
  • 大蔵省「日本版ビッグバンとは」(金融庁 旧大蔵省資料アーカイブ、平成8年11月)
  • 株式会社東京銀行『東京銀行史:外国為替専門銀行の歩み』(東銀リサーチインターナショナル、1997年12月)
  • FundingUniverse "History of Bank of Tokyo-Mitsubishi Ltd."(company history, International Directory of Company Histories 所収)
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号(No.299)ケーススタディ「三菱銀行の業績低迷脱出作戦」
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号(No.522)ケーススタディ「東京銀行——揺らぐ『看板』どう立て直す」
  • 日経ビジネス 1995年4月10日号(No.785)「東銀・三菱銀合併で変わる企業の銀行取引——『ザ・バンク』の誕生が加速する企業メーンバンク制の崩壊」
  • 日経ビジネス 1995年9月4日号(No.804)編集長インタビュー「若井恒雄[三菱銀行頭取]・高垣佑[東京銀行頭取]——合併は『ザ・バンク』への道標」
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号(No.835)「東京三菱銀、融和人事に気をとられ? 遅れがちなリストラ」
  • 日経ビジネス 2000年7月17日号(No.1050)「三木繁光[東京三菱銀行頭取]——統合完成へ、力まず頂上目指す」

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