りそなホールディングス の歴史

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前身は大和銀行とあさひ銀行

創業 1918年
母体 大和銀行+近畿大阪銀行+奈良銀行
創業地 大阪府大阪市
創業
1918年5月、野村徳七氏が大阪野村銀行を設立した。1925年7月から信託業務を兼営し、1966年の金融制度改正で他行が信託を分離したあとも兼営を維持した、戦前からの数少ない都市銀行である。1943年に大和銀行へ改称し、1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ上場した。関東側の源流は別にあり、1991年4月に協和銀行と埼玉銀行が合併して協和埼玉銀行となり、翌1992年9月にあさひ銀行へ改称している。2001年12月、大和銀行・近畿大阪銀行・奈良銀行が株式移転で大和銀行ホールディングスを設立し、2002年3月にあさひ銀行が加わって4系列が1つの持株会社へ集まり、同年10月に商号をりそなホールディングスへ改めた。
決断
再建の指揮は、銀行の外から来た経営者に委ねた。2003年3月期に繰延税金資産を取り崩して自己資本が国内基準を割り込み、同年5月に預金保険法102条の初適用で約1兆9,600億円の公的資金を受け入れた。旧経営陣が退任したあと、6月にJR東日本副社長の細谷英二氏が会長として招かれ、営業時間の延長やクイック決裁など、他のメガバンクが海外拡大と投資銀行業務へ向かった時期に国内リテールの業務改善へ資源を集めた。2015年6月に公的資金を完済し、2018年4月には関西みらいフィナンシャルグループを創設して関西の地銀再編を引き受けている。1996年の米国市場からの撤退で海外という選択肢を失っていたことが、この一点集中を可能にした。
現況
増益をつくったのは新しい事業ではなく、金利が戻ったこと自体である。粘着性の高い個人預金は政策金利の上昇に追随しにくく、普通預金の追随率は0.25%の利上げに対して40%にとどまる一方、貸出と有価証券の利回りは政策金利と連動して上がる。この非対称が働き、2026年3月期の経常収益は1兆3,572億円、親会社株主に帰属する当期純利益は2,587億円と、前期の2,133億円をさらに上回った。もっとも余剰資本の使い道は定まっていない。決済領域を厚くするため約500億円を追加出資したデジタルガレージの持ち分法適用会社化では、その半年後に449億円の評価損を計上している。
競合
他のメガバンクが海外と投資銀行業務へ向かった20年を、りそなは国内だけで過ごした。分岐点は2000年で、3行統合構想からあさひ銀行が離脱し、三和・東海は東洋信託を加えてUFJへ、あさひは大和銀行との統合を選んでりそなへ進んだ。以後、三菱UFJフィナンシャル・グループが米州とアジアで商業銀行を取得したのに対し、りそなは信託兼営と関西・埼玉の店舗網に資源を置き、海外拠点をほとんど持たない。現在の相手はメガではなく、同じ地域で預金を奪い合う地方銀行と、SBIホールディングスが組成した第4のメガバンク構想のような地銀連合である。海外を持たない不利は金利がゼロの局面でだけ現れ、金利が戻ると預金の粘着性が利ざやを広げる側へ働いた。
りそなホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

設立ストーリー 大阪野村銀行から協和埼玉銀行まで ── 4系列が並行して走る75年 (1918年〜)

信託兼営を貫いた野村系都銀という変則ポジション

りそなHDの主源流である大和銀行は、1918年5月に野村徳七[1]が大阪野村銀行として設立した[2]。日本の銀行業界は伝統的に商業銀行と信託銀行が法律と業態で分離されてきた業界で、戦後は4大メガバンクと信託銀行・地銀という3層構造で動く。大和はその枠の外側に位置した稀有な存在である。1925年7月から信託業務を兼営し[3]、戦前の都銀としては珍しい商業銀行と信託の一体運営を始めた。戦後の制度改革で他の銀行が信託を分離したなかでも、大和は兼営の枠組みを譲らなかった。戦前の大阪経済圏で野村財閥の金融拠点として出発した同行は、株式・投信・有価証券運用機能を内包する変則的な都銀として動き続ける。関西基盤と信託兼営は、のちにりそなが掲げる『バンキング+信託』モデルの出発点である。

  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1918年5月 野村徳七が大阪野村銀行を設立(大和銀行の前身・りそなHDの主源流)
    • [3]1925年7月 大阪野村銀行が信託業務を兼営開始
  • 産業と経済 1955年
    • [2]設立者は野村徳七

1943年、戦時統制下で野村財閥色を薄めるため大和銀行へ改称し[4]、1949年5月に東京・大阪両証取へ上場した[5]。1950年から73年まで23年間頭取を務めた寺尾威夫は[6]、大蔵省が信託兼営の解消を求めた信託分離問題で1965年に大蔵省と正面対決し、最後まで譲らなかった。1966年4月の金融制度改正では他行の信託業務分離[7]が進むなか、大和だけは兼営体制を維持して特殊な位置に留まる。商業銀行と信託の一体運営は、後年のりそなHDが看板に据える『バンキング+信託』モデルの原型であり、投資信託・有価証券運用の機能を内部に置く4大財閥系都銀には見られない選択だった。

  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1943年 戦時統制下で大阪野村銀行が大和銀行へ改称(野村財閥色を薄めるため)
    • [5]1949年5月 大和銀行が東京・大阪両証取に上場
    • [7]1966年4月の金融制度改正で大和銀行は信託業務を信託銀行に分離(ただし兼営体制を維持)
  • 日経ビジネス(1995年6月19日号、日経BP)
    • [6]寺尾威夫は1950年から73年まで23年間頭取を務め、信託分離問題で1965年に大蔵省と正面対決し譲らなかった

高度成長期、関西圏の個人預金と中小企業融資を主戦場としつつ、信託分野でも他の都銀と異なる存在感を維持した。海外展開も早く、1956年に石原産業とインドネシア資本との合弁でジャカルタにプルダニア銀行を設立し[8]、1964年のスカルノ大統領による全外国銀行閉鎖命令[9]を合弁ゆえに免れるなど混乱を乗り越え、1972年にはニューヨーク支店も開設した[10]。信託業務の手数料収入が経費の大半を賄う体質は業界内でも評価され、1989年には旧三井銀行の末松謙一頭取が大和銀行・安部川澄夫頭取へ合併を打診したが[11]、大和側はこれを断っている。この変則的なポジションは、関東で形成された協和・埼玉という別系列のリテール都銀と、将来1つの持株会社の下で結合する素地をつくる。

  • 日経ビジネス(1973年7月9日号、日経BP)
    • [8]1956年2月 大和銀行と石原産業がインドネシア資本と合弁でジャカルタにプルダニア銀行を設立
    • [9]1964年5月 スカルノ大統領が全外国銀行の閉鎖を命令したが、合弁銀行のプルダニア銀行は閉鎖を免れた
  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1972年 大和銀行がニューヨーク支店を開設
  • 日経ビジネス(1991年3月25日号、日経BP)
    • [11]1989年 旧三井銀行・末松謙一頭取が大和銀行・安部川澄夫頭取へ合併を打診したが断られた
  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1918年5月 野村徳七が大阪野村銀行を設立(大和銀行の前身・りそなHDの主源流)
    • [3]1925年7月 大阪野村銀行が信託業務を兼営開始
    • [4]1943年 戦時統制下で大阪野村銀行が大和銀行へ改称(野村財閥色を薄めるため)
    • [5]1949年5月 大和銀行が東京・大阪両証取に上場
    • [7]1966年4月の金融制度改正で大和銀行は信託業務を信託銀行に分離(ただし兼営体制を維持)
    • [10]1972年 大和銀行がニューヨーク支店を開設
  • 産業と経済 1955年
    • [2]設立者は野村徳七
  • 日経ビジネス(1995年6月19日号、日経BP)
    • [6]寺尾威夫は1950年から73年まで23年間頭取を務め、信託分離問題で1965年に大蔵省と正面対決し譲らなかった
  • 日経ビジネス(1973年7月9日号、日経BP)
    • [8]1956年2月 大和銀行と石原産業がインドネシア資本と合弁でジャカルタにプルダニア銀行を設立
    • [9]1964年5月 スカルノ大統領が全外国銀行の閉鎖を命令したが、合弁銀行のプルダニア銀行は閉鎖を免れた
  • 日経ビジネス(1991年3月25日号、日経BP)
    • [11]1989年 旧三井銀行・末松謙一頭取が大和銀行・安部川澄夫頭取へ合併を打診したが断られた

関東リテール都銀の系譜と協和埼玉合併

関東側の源流は協和銀行と埼玉銀行である。埼玉銀行は1969年4月に埼玉県のメインバンクとして発足し、首都圏ベッドタウンを地盤とする県行として歩み出す。両行とも都心部の大企業ではなく、首都圏の個人預金者と中小企業融資を主戦場とする『リテール型都銀』の典型である。財閥系都銀が大企業・国際業務で規模を競う時代にあって、両行は預金者数の厚さと中小融資の深さで別の市場を押さえていた。同じ都銀でも収益源と顧客層が異なり、4大グループとは別カテゴリを形成していた。

1985年、協和銀行と埼玉銀行は相互業務提携を結び[12]、1991年4月に合併して協和埼玉銀行が発足する[13]。1992年9月にあさひ銀行へ改称し[14]、平成金融再編の初期事例として関東リテール都銀の枠を固めた。大和(関西・信託兼営)とあさひ(関東・リテール)という、財閥系都銀より一段小さく地銀より大きい同じ階層の2行が、東西で並走する体制が成立する。両行とも顧客基盤の主軸は個人預金者と中小企業で、大企業向け融資と国際業務に依存する4大とは収益構造そのものが違っていた。並走の事実そのものが、のちに同じ持株会社の下へ集まる際の現実味を支える前提だった。

  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1985年 協和銀行と埼玉銀行が相互業務提携を締結
    • [14]1992年9月 協和埼玉銀行があさひ銀行へ改称
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号(清水功哉)
    • [13]1991年4月 協和銀行と埼玉銀行が合併し協和埼玉銀行発足

協和・埼玉という別個の個性を持つ銀行があさひに統合され、その先で大和と束ねられてりそなへ続く連鎖が、ここから動き出した。1990年代の都銀再編は4大メガ体制への集約として描かれがちだが、別軸の再編も輪郭を見せている。関東のリテール都銀同士の合併と、関西の信託兼営都銀との将来統合がそれに当たる。あさひ銀行の発足は、後年りそなHDが選ぶ『第5のメガ』路線の関東側の柱を準備する動きだった。リテール特化を地で運営した銀行同士が、将来1つの持株会社の下に集まる前提条件は、1992年のあさひ発足の時点でほぼ整っていた。残された課題は、関西の大和と関東のあさひをどのように1つの傘の下にまとめるか、その制度設計の詰めだけになっていた。

  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1985年 協和銀行と埼玉銀行が相互業務提携を締結
    • [14]1992年9月 協和埼玉銀行があさひ銀行へ改称
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号(清水功哉)
    • [13]1991年4月 協和銀行と埼玉銀行が合併し協和埼玉銀行発足

11億ドルの簿外損失が決めた米国市場からの撤退

1995年9月、大和銀行ニューヨーク支店[15]で行員による無断債券取引と損失隠蔽が発覚した。井口俊英行員は1993年11月に売買・保管部門の未分離をニューヨーク連邦準備銀行に告白[16]していたが、1994年5月の大蔵省検査は『一札』を理由に不正の現場[17]を素通りし、11年間で8回に及んだ米国当局の検査も見抜けなかった[18]。米国司法省の刑事告発を受けFRBとニューヨーク州銀行局が業務停止命令を出し、大蔵省も11月3日に業務改善命令を出す。同行は1996年2月、米国市場から全面撤退した。[19]

  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1995年9月 大和銀行ニューヨーク支店で無断債券取引・損失隠蔽が発覚
  • 日経ビジネス(1995年12月4日号、日経BP)
    • [16]1993年11月 大和銀行(井口俊英行員)が売買部門と保管部門の未分離をニューヨーク連邦準備銀行に告白
    • [17]1994年5月 大蔵省検査官がミッドタウン事務所のみ訪問、不正取引の現場だったダウンタウン事務所は「一札」を理由に検査対象から外れた
    • [18]米国の監督当局は11年間で大和銀行を8回検査したが不正を見抜けなかった
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号(掛谷建郎(編集委員))
    • [19]米国司法省の刑事告発・FRBおよびニューヨーク州銀行局の業務停止命令、大蔵省の業務改善命令(11月3日)を受け、1996年2月に米国市場から全面撤退

この事件は大和銀行の経営方針を国内リテール中心に振り直す決定打となった。海外投資銀行業務から退き、関西を地盤とするリテール・中小企業融資・信託業務に資源を集める設計が、ここから動き始める。2000年代に4大メガバンクが海外拡大と投資銀行化を進めるなかで、りそなグループは国内リテール特化という独自路線を維持した。後年『ダントツのリテール銀行』と呼ばれる戦略の根は、1995年のニューヨーク事件にある。海外で戦う選択肢を物理的に持たないことが、結果として国内特化の徹底度を上げる効果を持った。海外を捨てた銀行が国内に集中するしかなくなる、その必然性が後年の独自ポジションを支える土台となる。

撤退の代償は大きい。同時に副産物もあった。海外エクスポージャーを切り捨てた結果、2008年のリーマン・ショックによる海外損失を相対的に低く抑える形となる。ニューヨーク事件はりそなのポジションに30年経っても影を落とし続けると同時に、4大メガと異質の立ち位置を物理的に固定する役割を果たした。後発のリテール銀行として勝負する以外に道がない、という設計の前提条件は、この事件で確定した。1995年の傷が、後年の独自競争力を支える地盤に変わるまでには、20年以上の年月が必要だった。撤退と特化のあいだで失われた時間と、それと引き換えに得られた集中度が、この30年の経営史を貫く軸となった。

  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1995年9月 大和銀行ニューヨーク支店で無断債券取引・損失隠蔽が発覚
  • 日経ビジネス(1995年12月4日号、日経BP)
    • [16]1993年11月 大和銀行(井口俊英行員)が売買部門と保管部門の未分離をニューヨーク連邦準備銀行に告白
    • [17]1994年5月 大蔵省検査官がミッドタウン事務所のみ訪問、不正取引の現場だったダウンタウン事務所は「一札」を理由に検査対象から外れた
    • [18]米国の監督当局は11年間で大和銀行を8回検査したが不正を見抜けなかった
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号(掛谷建郎(編集委員))
    • [19]米国司法省の刑事告発・FRBおよびニューヨーク州銀行局の業務停止命令、大蔵省の業務改善命令(11月3日)を受け、1996年2月に米国市場から全面撤退

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りそなホールディングスの沿革1918〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1992年大阪野村銀行から協和埼玉銀行まで ── 4系列が並行して走る75年大阪野村銀行を設立
大阪野村銀行が信託業務を兼営
日本信託銀行(後の埼玉銀行源流)・協和銀行の前身が相次ぎ設立
大阪野村銀行が大和銀行に商号変更
大和銀行が東京・大阪両証取に上場
協和銀行が発足
大和銀行が信託業務を信託銀行に分離
埼玉銀行が埼玉県のメインバンクとして発足
大和銀行がニューヨーク支店を開設
協和銀行と埼玉銀行が相互業務提携
協和銀行と埼玉銀行が合併し協和埼玉銀行発足★★
1993〜2013年りそなホールディングス発足と2003年の公的資金注入大和銀行ニューヨーク支店で巨額損失事件が発覚★★
あさひ銀行・東海銀行・三和銀行の3行統合構想とあさひの離脱(2000年破談)

2000年3月、三和・東海・あさひの3行が共同持株会社方式による経営統合で基本合意したが、統合方式をめぐる対立からあさひがわずか3カ月で離脱し、3行構想は破談した案件である。

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★★★
勝田泰久大和銀行とあさひ銀行の経営統合とりそなホールディングスの誕生(2002年成立)

都市銀行再編から取り残された大和銀行とあさひ銀行が、近畿大阪銀行・奈良銀行とともに共同持株会社の傘下に集い、のちのりそなホールディングスを形づくった経営統合。

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★★★
勝田泰久りそなHDに商号変更
勝田泰久大和銀行・あさひ銀行を合併してりそな銀行発足、埼玉りそな銀行も発足★★
川田憲治預金保険法102条の初適用による公的資金約1兆9,600億円の受け入れと、外部招聘した細谷英二会長のもとでのリテール銀行再建

2003年5月、繰延税金資産の取り崩しで自己資本が国内基準を割ったりそなホールディングスが、預金保険法第102条第1号の措置に基づき約1兆9,600億円の公的資金を受け入れて実質国有化され、旧経営陣が退いてJR東日本副社長だった細谷英二会長を外部から迎え、『ダントツのリテール銀行』へ路線を定めた経営判断。

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★★★
川田憲治旧経営陣退任、細谷英二(JR東日本出身)が会長に就任★★
東和浩檜垣誠司が代表執行役社長から交代、東和浩が就任
2014〜2023年マイナス金利下での忍耐と金利正常化への準備東和浩預金保険機構向けの公的資金1兆9,600億円を完済★★
東和浩近畿大阪銀行株式を関西みらいフィナンシャルグループに譲渡
東和浩関西みらいフィナンシャルグループの創設と完全子会社化による関西リテール基盤の集約

公的資金を完済したりそなホールディングスが、傘下の近畿大阪銀行と三井住友フィナンシャルグループ傘下の関西アーバン銀行・みなと銀行を統合して2018年4月に関西みらいフィナンシャルグループを創設し東証一部に上場させたうえ、3年後に完全子会社化して関西リテール基盤を一体運営へ集約した組織再編。

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★★★
南昌宏南昌宏が代表執行役社長兼グループCEOに就任
南昌宏関西みらいFGを完全子会社化
南昌宏関西みらいフィナンシャルグループを吸収合併
南昌宏FY2024に過去最高益を達成
南昌宏デジタルガレージへの約500億円の追加出資と持ち分法適用会社化、その半年後に生じた449億円の評価損

2025年7月、りそなホールディングス(HD)は、決済プラットフォームを手がけるデジタルガレージ(DG)の株式をアクティビストのオアシス・マネジメントから追加取得し、持ち分比率を12.42%から30.95%へ引き上げて持ち分法適用関連会社とした。約500億円を投じたこの戦略出資は、公的資金を完済した同社が掲げる『資本活用フェーズ』の柱をなす成長投資であったが、DG株はその後半年で半値近くまで下落し、2026年3月末には449億円の評価損計上に至った。

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★★★
出典・参考
  • りそなホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス(1973年7月9日号、日経BP)
  • 日経ビジネス(1991年3月25日号、日経BP)
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号(清水功哉)
  • 日経ビジネス(1995年6月19日号、日経BP)
  • 日経ビジネス(1995年12月4日号、日経BP)
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号(掛谷建郎(編集委員))
  • 産業と経済 1955年

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