1902年〜 動産銀行として設けられた特殊銀行と社債市場
- 1902年日本興業銀行法に基づき、資本金1000万円(4分の1払込)で日本興業銀行が設立される
- 1905年各種抵当法と担保付社債信託法の制定を受け、証券担保の手形貸付・財団抵当貸付・一般信託業務を開始する
- 1912年創立10年を記した『日本興業銀行十年史』を刊行する。目次には債券、預金・貸出金・有価証券、外資輸入、信託業務の各章が並んだ
- 1923年関東大震災の復興資金を供給するため臨時工業資金部を設置する。のちの中小工業部の前身にあたり、大蔵省預金部の援助のもとで罹災地の中小工業者に融資した
日本興業銀行の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
日本興業銀行法と動産銀行という設計
日清戦争のあと東洋市場が広がり、日本の近代工業は急速に立ち上がった。設備を据えるための資金需要は巨額に達し、金融は著しく逼迫する。この情勢に応じるため、フランスの動産銀行制度にならった長期事業金融機関を設ける機運が政府と実業界の双方で高まり、1900年3月に日本興業銀行法が公布された。同法に基づき、資本金1000万円のうち4分の1を払い込む形で、1902年3月31日に日本興業銀行が発足する。初代総裁には添田寿一氏が就いた。普通の銀行のように預金を集めて短期の運転資金を回す機関ではなく、興業債券を発行して内外から資金を調達し、証券投資を通じて事業へ長期の資金を流す。設計の段階から、調達も運用も証券に依存する銀行として構想されていた。
構想は、日本の資本市場の実力を先取りしすぎていた。証券を通じて事業資金を供給するには、企業の株式や社債が市場で流通していなければならない。しかし当時の日本は資本の証券化そのものが未発達で、この方式で供給できる資金には自ずと限度があった。設立から数年で、興銀は最初の設計をそのまま押し通す道を捨てる。1905年に各種抵当法と担保付社債信託法が制定されると、証券を担保に取る手形貸付、工場や鉱山をまとめて担保に入れる財団抵当貸付、そして一般の信託業務を新たに手がけられるようになった。証券投資の銀行から、担保を取って長期に貸す銀行へ、主たる業務が移った。
担保付社債信託と外資輸入という二本の柱
創立10年の記録として1912年に編まれた『日本興業銀行十年史』は、章立てそのものが当時の業務の輪郭を示している。債券、預金・貸出金・有価証券、外資輸入、信託業務が独立した章として並び、信託業務の筆頭には担保付社債信託に関する事務が置かれた。日本銀行の代理事務や軍人遺族特別賜金の保管まで手がけており、民間の銀行というより、産業金融を担う公的機構に近い姿だった。特殊銀行という位置づけは、政府から与えられた特権であると同時に、政府が必要とする役目を断れないという拘束でもあった。この二面性は、興銀が独立した銀行として存続した98年を通じて消えなかった。
外資の輸入は、創立から昭和初年まで興銀の主要な仕事であり続けた。国内の資本蓄積が薄い段階では、鉄道や電力のような回収に十年単位を要する事業に、国内資金だけを充てるのは難しい。興銀は海外市場で債券を売り、その資金を国内の重工業へ流す経路を担った。財閥系の銀行が系列企業を抱え込む形で発展したのに対し、興銀には抱え込むべき系列がない。特定の資本系列に属さないという条件が、外資導入の窓口としても、複数の財閥にまたがる案件の取りまとめ役としても働いた。系列を持たないことを弱みではなく職能に転じたところに、この銀行の初期の性格がある。
恐慌と震災のたびに前へ出た特殊銀行
興銀の活動がもっとも目立ったのは、平時ではなく危機のときだった。第一次大戦後の反動期には株式市場の救済融資に加わり、産業救済のための臨時事業資金を貸し付け、価格が崩れた蚕糸業と鉄鋼業へ救済資金を供給し、休業した銀行の不動産貸付を肩代わりした。1923年の関東大震災では、大蔵省預金部の援助を受けて罹災地の中小工業者へ復興資金を出し、大工業にも復興資金を供給し、証券市場には安定資金を回した。三菱銀行と共同で東京市へ臨時の救済資金を融通し、罹災民の救護も支えている。この震災時に設けられた臨時工業資金部が、のちの中小工業部の前身にあたる。
昭和初年の金融恐慌と世界恐慌でも、興銀は貸し手として引かなかった。有望と見た事業には援助を惜しまず、整理に要する資金も出し、経営の合理化を促した。産業界が危機を脱して金融が緩むと、今度は各企業を指導して短期借入を長期に振り替えさせ、借入金を社債に置き換えさせ、経理の基礎を固めさせている。貸すだけでなく、貸した先の資本構成に手を入れる。この作法が戦時経済への移行後は重化学工業への設備資金供給に振り向けられ、興銀は軍需産業へ資金を流す中枢の一つになった。危機のたびに前へ出て産業を立て直すという役回りは、この40年で固まった。