日本興業銀行東洋信用金庫の架空預金証書事件と、料亭経営者への2400億円融資の焦げ付き
一個人への2400億円はなぜ積み上がったのか——預金を持たない銀行にとっての割引金融債の大口保有者
- 概要
- 1991年8月、大阪ミナミで料亭を営む尾上縫氏による3420億円の架空預金証書が発覚した。日本興業銀行は割引金融債(ワリコー)を担保に尾上氏へ2400億円を融資しており、頭取の黒澤洋氏が国会で陳謝した。
- 背景
- プラザ合意後の低金利のもとで企業は資本市場から資金を調達し、銀行から遠のいた。預金を持たず金融債で調達する興銀にとって、ワリコーの大口保有者は調達と運用が同時に立つ相手であった。
- 内容
- 尾上氏は担保のワリコーを偽造の預金証書と入れ替える手口で資金を引き出した。事件を受けて興銀は、新しい大口先を外から開拓して量を積む道を閉じ、既存の取引先を深く掘る貸し方へ戻った。
- 含意
- 破産管財人は素人に貸し込んだ側の責任を追及し、10年かけて170億円を回収した。東洋信用金庫は消滅し、預金保険からの資金贈与が初めて使われた。産業金融を担ってきた銀行が個人向けの大口与信で信用を損なった事例として残る。
調達と運用が、一人の顧客の上で重なるとき
尾上縫氏は、興銀にとって料亭を営む個人である前に、2900億円のワリコーを持つ大口の顧客であった。金融債を大量に買ってくれる相手は、興銀にとって資金の出し手である。その金融債を担保に借りてくれるなら、同じ相手が資金の受け手にもなる。出し手と受け手が一人に重なるとき、審査の目は鈍りやすい。企業の銀行離れで貸出先が細っていた時期に、この相手を手放す判断は取りにくかったとみられる。
日本銀行が1990年夏に行った貸出先調査には、すでに「恵川4000億円」という記載があった。外から見える形で異常は現れており、そのまま1年以上が過ぎた。頭取が料亭へあいさつに出向くほどの関係も、審査とは別の力学で作られている。破産管財人が10年かけて170億円を取り戻した事実は、貸した側の責任が法の場で認められたことを示している。企業の銀行離れという構造で説明のつく話であっても、2400億円という額を決めたのは興銀である。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
預金を持たない銀行の調達と運用
日本興業銀行は、日本興業銀行法が廃止された1950年に民間銀行として再出発した。都市銀行と違い、店頭で個人や企業から預金を集める仕組みを持たず、金融債を発行して資金を調達する。買い手の多くは機関投資家で、割引金融債(ワリコー)は個人にも広く売られていた。貸すための原資を市場から買ってくる銀行であり、調達が細れば貸出も細るという関係が経営の前提に置かれていた[1][2]。
1985年9月のプラザ合意以降、円高不況への対応として低金利政策がとられた。公定歩合は1987年2月に2.5%まで下げられ、1989年5月まで据え置かれた。低金利のもとで企業は銀行から借りるより資本市場で調達するほうが安く、集めた資金を特定金銭信託やファンドトラスト、大口定期預金といった財テクに回した。長期の設備資金を貸すことを役割としてきた興銀にとって、主要な借り手はここで遠のいた[3]。
運用先を探す銀行と、ワリコーの大口保有者
資金が流れ込んだ側の銀行は、運用先の拡大を急いだ。大企業向けが細るぶんを中小企業と不動産業への融資で埋め、1985年から1989年までの不動産業への融資は約44兆円に達した。上がり続ける地価を前提に、担保となる土地さえあれば融資は通った。日本産業史はこの時期の融資拡大を、各行が独自に審査した結果ではなく、ライバル行との横並び意識によるものと記している[4]。
割引金融債の大口保有者は、興銀にとってほかの取引先と意味が違った。ワリコーを買ってもらえば調達が立ち、それを担保に貸せば運用が立つ。調達と運用が一人の顧客の上で同時に成り立つ。大阪ミナミで料亭「恵川」を営む尾上縫氏は、バブル期に興銀大阪支店の上客となり、ピーク時で2900億円のワリコーを保有していた。興銀側はこれを担保に2400億円を融資していた[5]。
決断
大阪支店の上客と、偽造された預金証書
料亭を営む一個人に対して、2400億円という額がなぜ積み上がったのか。西野智彦氏は、企業の銀行離れに焦った興銀が常軌を逸する額を個人に貸し込んでいたと書いている。尾上氏の料亭には、当時の興銀の頭取まであいさつに訪れていた。日本銀行が1990年夏に行った貸出先調査には「恵川4000億円」という記載があり、当時の企画局長は東京の同名の料亭かと社内で話していたとのちに述懐している[6]。
尾上氏は、担保に差し入れたワリコーを偽造の預金証書と入れ替えていた。税務処理で必要になったと言って証書を差し替え、数日後にワリコーを返す。これを3回繰り返して相手を信用させ、4回目に返さなかった。証書は金額こそチェックライターで打たれていたが、日付はゴム印、証書番号や利率は手書きだった。1991年8月8日に発覚した架空預金は3420億円にのぼり、東洋信用金庫の預金量に匹敵した[7]。
国会での陳謝と、量的拡大からの引き返し
発覚の翌週にあたる8月13日、当局と金融機関がそれぞれ発表した。大蔵省銀行局長の土田正顕氏は取り付けを覚悟し、日銀大阪支店から東洋信金へ数百億円の現金が運び込まれ、大阪府警は全支店に警察官を配備した。興銀頭取の黒澤洋氏はのちに国会へ呼ばれ、「信頼を損なうことになり、誠に慙愧に堪えない」と陳謝した。同じ時期に架空預金事件が発覚した富士銀行の頭取も、収益偏重が背景にあると述べている[8]。
陳謝は、事件を大阪支店ひとつの失態としてではなく、貸し方そのものの問題として引き受ける言葉であった。日本産業史は、この時期の主要銀行が融資競争・預金獲得競争から脱し、収益性を重視する経営へ戦略を切り替え始めたと記している。興銀にとって、新しい大口先を外から探して量を積む道はこの事件で閉じた。長く付き合ってきた既存の取引先を深く掘る貸し方へ戻った。その延長線上に、1990年代後半の投資銀行業務への傾斜がある[9][10]。
結果
170億円の返還と、東洋信用金庫の消滅
尾上縫氏は詐欺の疑いで逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けた。個人としては過去最高となる4300億円の負債を抱えて自己破産した。破産管財人は、素人に貸し込んだ側にも責任があるとして追及し、10年をかけて170億円を興銀側から回収した。借り手の破産手続きのなかで貸し手の与信判断そのものが問われ、金銭の返還に至った[11]。
預金証書を偽造した東洋信用金庫は経営に行き詰まった。取引のあった三和銀行が預金保険からの資金贈与を受けて資産と一部店舗を引き取り、残りは大阪府下の信用金庫へ分割譲渡され、東洋信金は消滅した。預金保険が資金贈与を使ったのは、このときが初めてだった。黒澤頭取の在任はその後も不良債権処理に費やされ、1996年には住専処理による赤字決算を計上した。これからの興銀像を問われて「そのどちらでもない。興銀独自の道を目指す」と答えた言葉が残っている[12][13]。
- 週刊東洋経済(2025年11月22日)「西野智彦の金融秘録 第50回 90年代「危機の扉」(4) 架空預金事件、東西で勃発」
- 週刊東洋経済(2000年1月22日)「訃報 興銀の栄光と挫折を体現した黒澤洋氏ミレニアムに逝く」
- 週刊東洋経済(1999年1月23日)「特集 興銀「非常事態」長銀、日債銀破綻の中で苦悩する残された長信銀」
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」