三井金属鉱業イタイイタイ病控訴審敗訴後の賠償受諾と公害防止協定・土壌復元の締結

公害訴訟に敗れた加害企業は、賠償と無配をどう引き受けたか

時期 1972年8月
意思決定者(推定) 三井金属鉱業 取締役会
論点 公害責任と経営再建
概要
1972年8月9日、名古屋高裁金沢支部はイタイイタイ病訴訟の控訴審で被害者を全面勝訴とし、三井金属鉱業は上告せず賠償に応じた。翌日には賠償の誓約書・公害防止協定・土壌復元の誓約書を結び、賠償と公害対策の負担が円高と重なって同社は無配へ転落した。神岡鉱業所のカドミウムがもたらした公害の責任を、経営再建と並行して引き受けた判断。
背景
神岡鉱業所の排水に含まれたカドミウムが神通川流域で長年の健康被害を生み、1968年に厚生省が公害病と認定、被害者が三井金属鉱業を提訴していた。四大公害裁判の一つであった。
内容
1971年の一審に続き1972年の控訴審でも敗訴し、原告506人への総額約1億4,800万円の賠償が確定した。上告せず、被害者による毎年の立入調査を認める公害防止協定と、33年がかりの汚染田復元を約した。
含意
賠償と公害対策の負担は円高と重なり、1973年3月期を無配に沈めた。立入調査と情報開示の枠組みは以後の公害行政に影響し、控訴審判決から41年を経た2013年に問題は全面解決した。
筆者の見解

責任を数十年の関与として引き受けること

この判断を、公害訴訟に敗れて渋々賠償に応じた事例とだけ読むのは、その後の重さを見落とす。三井金属鉱業は上告を選ばず、判決の翌日には本社で11時間の交渉に応じ、賠償・毎年の立入調査・33年がかりの土壌復元という、終わりの見えない義務を自ら引き受けた。原告506人への賠償額そのものよりも、発生源である神岡鉱業所の操業を被害者に点検させ続ける枠組みを受け入れた点に、この決着の性格が表れているとみることができる。

もっとも、それが速やかな救済であったとは言いがたい。全面解決の文書が交わされたのは判決から41年後であり、認定患者196人のうち存命はわずか3人にとどまっていた。無配に沈んだ1973年3月期の痛手は翌期に和らいだものの、公害対策は神岡鉱業所に費用を求め続け、環境規制は以後の経営の重い制約として残った。加害の責任を、一度の賠償ではなく数十年にわたる関与として引き受けざるをえなかったところに、この問題の性質がうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

収益を支えた神岡鉱業所

三井金属鉱業の事業の中心は、富山・岐阜県境にある神岡鉱業所であった。1874年に三井組が神岡鉱山の鉱業権の一部を取得して以来の鉱山で、埋蔵鉱量は約4,000万トン、年に120万トンから130万トンを採掘してなお新しく見つかる鉱量が採掘量を上回っていた。鉛・亜鉛を産する国内屈指の大鉱床であり、同社の経営を長く支える基盤であった[1]

副社長の尾本信平氏は1969年の講演で、神岡鉱山を1,250年の歴史をもつ現役の鉱山と紹介している。大規模な鉱体を生かしたブロックケイビング採掘やトラックによる搬出、自社開発のX線分析による選鉱で、低品位の鉱石でも採算の合う操業を続けていた。鉱山から製錬まで一貫して手がける体制が、資源企業としての三井金属鉱業の稼ぐ力の源であった[2]

神通川流域の被害と司法への道

その神岡から神通川へ流れ出た排水が、下流の富山平野に深刻な健康被害をもたらしていた。流域では明治期から農漁業の被害が記録され、大正期以降には骨がもろくなる原因不明の病が増えていった。1961年、萩野昇氏と吉岡金市氏が、この病の主因を神岡鉱山由来のカドミウムとする説を日本整形外科学会で発表し、原因の究明が動き出した[3]

1968年3月、被害者とその遺族28名が、汚染の責任を問うて三井金属鉱業を提訴した。同年5月には厚生省が、イタイイタイ病を神岡鉱業所の排出したカドミウムを主因とする公害病とする見解を示した。環境庁も後の白書で、発生源を三井金属鉱業神岡鉱業所の廃水に含まれるカドミウムと明記している。被害の因果は行政の側からも裏づけられていった[4][5]

決断

控訴審敗訴と賠償の受諾

一審の富山地裁は1971年6月、被害者側を全面勝訴とし、三井金属鉱業は控訴した。しかし控訴審の名古屋高裁金沢支部は1972年8月9日、原告506人の請求を認めて再び被害者を全面勝訴とした。四大公害裁判のうち、最初に確定した判決であった。認められた損害賠償は、慰謝料と弁護士費用をあわせて総額約1億4,800万円にのぼった[6][7]

三井金属鉱業は上告せず、賠償に応じた。判決の翌8月10日、被害者団体が東京の本社を訪れ、11時間に及ぶ交渉の末に三つの取決めが結ばれた。被害者への賠償を約したイタイイタイ病の賠償に関する誓約書、被害者や関係者による立入調査を毎年認める公害防止協定、そして33年をかけて汚染田を客土で復元するという土壌汚染問題に関する誓約書である[8]

無配へ沈んだ経営

賠償と公害対策の負担は、折からの円高と重なって業績を圧迫した。1972年3月期に5億円であった当期純利益は、1973年3月期には5億円の純損失へ転じ、同社は無配に追い込まれた。財閥解体を経て神岡の収益で成長してきた三井金属鉱業にとって、公害の責任が経営そのものを揺るがす負担となった時期であった[9]

もっとも赤字は一年で底を打った。1974年3月期には売上高2,027億円・経常利益81億円へ急回復し、資源価格の上昇が神岡の採算を押し上げた。ただし公害対策は一度きりの出費では終わらなかった。排水や排煙の処理から堆積場の管理まで、神岡鉱業所には継続的な費用が求められ、環境対策は経営に組み込まれた恒常的な負担となった[10][11]

結果

立入調査と汚染田復元、そして全面解決

公害防止協定に基づく立入調査は、1972年11月の第1回から毎年続けられた。被害者団体が発生源の操業を自ら点検し、企業が情報を開示するという仕組みは、その後の公害行政にも影響を与えた。汚染田の復元は誓約書のとおり長い年月を要し、耕作土の下に汚染土を封じる客土などによって、約33年をかけて2012年3月に工事を終えた[12]

2013年12月17日、三井金属鉱業と神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会は、被害問題の全面解決を確認する文書に調印した。同社は認定患者と要観察者への賠償を継続しつつ、腎機能に影響が及んだ未認定の住民に1人60万円の一時金を支払う制度を設け、被害者団体に解決金を払って謝罪した。控訴審判決から41年が経ち、認定患者196人のうち存命は3人にとどまっていた[13][14]

出典・参考

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