山一證券営業特金で生じた含み損の飛ばしと、連結対象外会社を使った簿外への移し替え
表に出すか、先へ送るか——1991年の損失補填問題で山一證券が選んだ処理
- 概要
- 1991年、山一證券が64法人と2個人に総額456億円の損失補填を行っていたことが発覚した。同社はこれを機に損失を表に出す道を採らず、同年12月に連結対象外の受け皿会社を使って含み損を簿外へ移す仕組みを動かした。処理の全体を知る者は監査役と企画担当常務らごく一部に限られ、1997年11月に2648億円の簿外債務として表面化した。
- 背景
- 1980年代後半、営業特金と呼ばれる運用預かりが野放図に膨らんだ。企業に転換社債やワラント債を発行させて手取り金を預かり、利回りを約束する取引で、動機は自社の運用力ではなく、他の三社から預かり資産で離されないことにあった。相場が崩れると約束の利回りが出せなくなった。
- 内容
- 1991年12月20日、クレディ・スイス信託銀行に開いた特定金銭信託口座で約2000億円の国債を購入し、これを山一エンタープライズの子会社5社に貸し付けて資金を作り、その口座で含み損のある有価証券を時価を上回る価格で買い取った。海外分は山一オーストラリアに集まり、ケイマンなどの特別目的会社も使われた。
- 含意
- 決算期の違う会社の間で含み損を動かす飛ばしは、期末にだけ損失を消す手法であった。1991年の処理はそこから一歩進み、連結の外に損失を置いて外部から追えなくした。開示の一度の見送りが、6年後に会社そのものを畳む規模まで育った。
順位を守るための約束が、会社を越えた
預かり資産で他の三社に離されないという理由で、山一證券は自社の運用力を超える利回りを約束した。握りそのものは業界に広がった慣行であり、この会社だけの発明ではない。分岐が生じたのは、相場が崩れて約束が果たせなくなった時点であった。1991年に総額456億円の補填が表に出たとき、業界は一度精算の機会を得ている。そこで残りを出し切らず、決算期の外から連結の外へと置き場所を移した選択が、6年後に2648億円として戻ってきたとみることができる。
ただ、これを一部の役員の隠蔽として畳んでしまうと見落とすものがある。大蔵省は1991年当時から飛ばしの存在を把握しながら踏み込まず、証券局長が早期の解決を促したとする証言まで報告書に残った。社内にも損失を出し切るよう進言した副社長がいたが、その人物は関係会社へ移されている。異論を持つ者を現場や関係会社へ出す人事と、監督する側の黙認が重なったところに、数人だけが全体を知る状態が生まれたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
利回りを約束した営業特金
1980年代後半、山一證券では営業特金と呼ばれる運用預かりが野放図に膨らんだ。社内では担当者の名から永田ファンドと呼ばれていた。企業に転換社債やワラント債を発行させ、その手取り金を預かって運用する取引で、同社は「何パーセントで回します」と利回りを約束した。証券会社が元本と利回りを保証するこの約束は、業界で握りと呼ばれていた[1]。
動機は自社の運用力への自信ではなかった。他の三社から預かり資産で離されないために、体力を考えずに約束を重ねたと当時の関係者は振り返っている。1987年の人事抗争で現場に基盤を持つ系統が経営から外れ、社内で異を唱える者がいなくなっていたことも、歯止めが効かなかった理由に挙げられている。相場が崩れると、約束した利回りは出せなくなった[2]。
1991年の損失補填問題
1991年、証券業界を揺るがす損失補填問題が表に出た。山一證券は64法人と2個人に対し、総額456億円の損失補填を行っていた。最大の補填先は阪和興業グループであった。同年9月4日、行平次雄社長は参議院の特別委員会で証人喚問を受け、野村・日興の社長が辞任するなかで社長の職にとどまる理由を質されている。失った信頼を取り戻す筋道をつけるまで努力を続けたい、と行平氏は答えた[3]。
社内には、この機に損失をすべて表に出すべきだという声があった。ある元役員によれば、そう進言した副社長がいたが、その副社長は関係会社へ移されたという。飛ばしの処理は企画部という限られた場で進み、専門知識を求められながら全体像には加えてもらえない者もいた。証券不祥事のあと、法律違反を疑って社を離れた人物もいたと伝えられている[4]。
決断
決算期の外から、連結の外へ
飛ばしは、決算期の違う会社の間で含み損のある有価証券を動かす手法であった。3月決算のA社が抱える含み損付きの株式を、6月決算のB社が簿価のまま引き取る。B社は帳簿を貸すだけなので、調達コストに1、2%を上乗せした利回りを証券会社に保証してもらい、期末が近づけば証券会社が買い戻して別の会社へ移す。どの会社の期末にも損失が存在しない形が作れた[5]。
1991年12月20日、山一證券はこの手法から一歩進んだ仕組みを動かした。クレディ・スイス信託銀行に開いた特定金銭信託口座で約2000億円の国債を購入し、これを山一エンタープライズの子会社5社に貸し付けて資金を作る。5社は帳簿を持つだけの会社であり、その口座を通じて顧客が抱える含み損付きの有価証券を、時価を上回る価格で買い取った。5社は連結の対象外にあった[6]。
阪和興業との会談と、海外への分散
1992年3月18日、阪和興業の社長室で秘密の会談が開かれた。山一側は行平次雄社長ほか4名、阪和興業側は北茂社長ほか5名が出席している。運用委託額は同年1月末で約1668億円、実損256億円と評価損837億円を合わせて1093億円の損失が出ていた。改正証券取引法の下で損失補填は禁じられていたため、ワラント債の引受と行使によるファイナンス協力で返すことが約束された[7]。
損失は海外にも分散された。のちに公表された簿外債務2648億円のうち、1583億円が国内、1065億円が海外で発生しており、海外分は山一オーストラリアに集まっていた。メキシコ債や利息のみを受け取る住宅ローン担保証券が中心で、為替差損も重なった。処理の全体を知る者は、監査役の木下公明氏と企画担当常務の藤橋忍氏らごく一部に限られていたと伝えられている[8]。
結果
6年後の表面化
1997年8月25日、社長に就いて2週間の野澤正平氏が、行平次雄前会長と三木淳夫前社長から簿外債務の存在を知らされた。嘉本隆正常務に社内調査を命じたが、隠蔽に関わった幹部の協力が得られず実態はつかめない。10月6日、判明していた約2600億円をメインバンクの富士銀行へ口頭で報告し、11月24日に自主廃業を決議した。開示の一度の見送りが、会社を畳む規模まで育っていた[9]。
監督官庁も無縁ではなかった。大蔵省は少なくとも1991年当時から飛ばしの存在を把握していたとされ、それでも徹底した調査を行わなかったと同時代の報道は指摘している。1998年4月に公表された社内調査報告書には、東急百貨店の含み損処理を報告に来た三木淳夫副社長に対し、当時の証券局長が早く解決してほしいと述べたとする証言が記されていた[10][11]。
- 週刊東洋経済 1997年8月23日号「山一証券危機の構図<緊急匿名座談会>OB・現役が本音を語る」
- 週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
- 週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」
- 週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
- 週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」