山一證券 の歴史

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創業 1897年
創業者 小池国三
創業地 東京市日本橋区兜町
創業
1897年、小池国三氏が東京市日本橋区兜町で株式仲買商の小池国三商店を創業した。1907年に小池合資会社へ改組し、1917年4月には創業者の名を社名から外して山一合資会社と改めている。1926年に株式会社となり、1943年9月には小池証券との合併で新しい山一證券が発足した。戦後は1951年に投資信託業務へ参入し、法人の引受で地歩を築いた。1961年10月に東京・大阪・名古屋の各取引所へ第二部市場が創設されると中堅企業の上場が相次ぎ、1960年から1962年に東京市場へ新規上場した企業のうち129社の幹事を務めて、86社の野村證券を上回っている。ただし引受の伸びは、抱えた在庫と運用預かりの膨張と裏表をなしていた。
決断
損失を、そのつど別の帳簿へ移して処理してきた。1965年5月、証券不況で運用預かりの解約が資金繰りを直撃し、日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資を受け入れた。返済の枠組みは新旧勘定分離で、1966年7月に新会社を設立して商号と営業権を譲り受け、旧会社が返済にあたった。同年8月に株式の上場は廃止され、終値は20円だった。1973年4月に東京・大阪・名古屋の各取引所第二部へ再上場し、1974年2月には東証一部へ指定替えしている。それから17年後の1991年12月、営業特金の含み損を連結対象外の会社へ移し替えた。1965年の損失は返済計画に変わり、1991年の損失は最後まで開示されないまま会社を止めた。
現況
山一證券という法人は、2005年に破産手続を終えて消滅している。1997年11月22日に自主廃業が報じられ、24日午前6時の臨時取締役会で営業停止を決議した。社長の野澤正平氏は同日午前11時30分、東京証券取引所で社員は悪くありませんと訴えている。簿外債務は2,648億円にのぼり、1998年3月末の時点でも債務超過ではなかった。会社更生を申し立てれば法人は残ったが、営業停止と自主廃業を選んだため、1998年3月に全社員が解雇されて営業は再開されていない。債務超過でない会社が止まったのは、資産が足りなかったからではなく、簿外に置いた損失が資金の出し手を残さなかったからである。
競合
1997年に総会屋への利益供与で捜索を受けた大手証券のうち、廃業したのは山一だけである。同年7月30日、東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が本社を捜索し、野村證券でも同じ事件で社長が引責辞任した。分かれ目は処分の重さではなく、帳簿の外に置いた損失の有無にあった。山一だけが簿外債務2,648億円を抱えたまま11月を迎えている。1998年7月に大和証券が住友銀行の資本を受け入れて持株会社へ移行できたのも、損失が決算の上にあって資本の出し手が金額を測れたからである。
山一證券:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1955年9月期1984年9月期
山一證券における経営の転換点(その1) Q なぜ1897年に小池国三氏が開いた個人商店は、二十年で創業者の名を社名から外したのか
A 扱う仕事が個人の信用で足りる範囲を超えたためである。株式仲買は個人の信用で客を集める商いだが、1907年に小池合資会社へ改組して踏み込んだ公社債の引受は、発行者と投資家の間に立って残高を抱える仕事であり、個人商店の身丈では受けきれない。1917年4月に小池合資会社を解散して山一合資会社を設立し、杉野喜精氏が社長に就いた。屋号を社名にしたことで、創業者が退いたあとも同じ看板で商いを続けられるようになった。この看板の重さは、1966年に債務と営業を切り分けながら商号だけは変えないという判断につながる
山一證券における経営の転換点(その2) Q なぜ1965年に大蔵省と日本銀行は、一証券会社のために日本銀行法二十五条を初めて発動したのか
A 運用預かりの解約が、他社と銀行へ連鎖する構造だったためである。運用預かりは顧客から割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行融資を受ける資金調達手段で、銀行預金に近い性格を持っていた。山一證券は1964年9月期末の純財産額70億円に対し、運用預かりを477億円抱えていた。1965年5月の報道で取り付け騒ぎが起き、解約は他の証券会社と銀行へ波及して信用システムにひびが入る危険があった。5月28日夜の氷川寮での会談で蔵相の田中角栄氏が決断し、日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった
山一證券における経営の転換点(その3) Q なぜ債務超過ではなかった山一證券が、1997年に自主廃業を選んだのか
A 損失が帳簿の外にあり、社内でも全体が見えなかったためである。1991年12月、クレディ・スイス信託銀行の特金口座で買った約2,000億円の国債を子会社五社に貸し付け、含み損のある有価証券を買い取る仕組みが動き出した。全体を知る者はごく一部に限られていた。1997年8月25日、就任二週間後の野澤正平氏が前会長と前社長から簿外債務の存在を知らされる。11月19日、証券局長の長野厖士氏は自主廃業の選択を求め、翌20日に東京地裁は会社更生の事前相談を受け付けなかった。山一は1998年3月末の時点でも債務超過ではなかった

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山一證券の沿革1897〜2005年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1897〜1938年兜町の株式仲買商が屋号を社名に変え、社長の自死に至るまで小池国三が東京・兜町で小池国三商店を創業
小池に改組
公社債引受業務に参入
小池を解散し山一を設立
山一證券に改組
杉野喜精が東京株式取引所理事長に転じ、太田収氏が社長に就任
太田収氏が鐘淵紡績株の投機失敗で社長を辞任★★
太田収氏が同月自殺
1939〜1965年創業家の会社となった戦後の膨張と、日本銀行法二十五条の初適用小池証券と合併し新・山一證券が発足★★
投資信託業務に参入
1964年9月期決算で約34億5000万円の赤字を計上★★
日高輝が日産化学工業から社長に就任
日本銀行法二十五条による特別融資の受け入れと、新旧勘定分離による再建

1965年5月28日夜、大蔵省と日本銀行は主力銀行首脳を日銀氷川寮に集め、蔵相の田中角栄氏の決断で日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資を決めた。山一證券への融資は6月7日を皮切りに282億円に達した。同社は1966年に新旧勘定分離で債務と営業を切り分け、1969年9月30日に完済した。

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1966〜1987年新旧勘定分離による再建と、企画畑が受け継いだ密室の損失処理新旧勘定分離により新会社を設立★★
新旧両社を合併し日銀特融を完済
1970年9月期に復配(3円、年6分)
日高輝氏が会長に就任
植谷久三氏が社長に就任
東京証券取引所第二部に再上場
東京証券取引所第一部に指定替え
横田良男氏が社長に就任
三菱重工業の転換社債をめぐる問題が社会問題化★★
後継をめぐる人事抗争で副社長が自殺
1988〜2005年帳簿の外へ移した含み損と、101年で幕を引いた自主廃業行平次雄氏が社長に就任
営業特金が拡大
損失補填問題が発覚★★
営業特金で生じた含み損の飛ばしと、連結対象外会社を使った簿外への移し替え

1991年、山一證券が64法人と2個人に総額456億円の損失補填を行っていたことが発覚した。同社はこれを機に損失を表に出す道を採らず、同年12月に連結対象外の受け皿会社を使って含み損を簿外へ移す仕組みを動かした。処理の全体を知る者は監査役と企画担当常務らごく一部に限られ、1997年11月に2648億円の簿外債務として表面化した。

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総会屋への利益供与事件で強制捜査★★
会社更生法の申請の見送りと、営業停止・自主廃業による全事業の終了

1997年11月24日午前6時、山一證券は臨時取締役会で営業停止を決議し、午前11時30分に東京証券取引所で自主廃業を発表した。簿外債務2648億円を含む約3300億円の損失を公表し、翌1998年3月31日に全社員を解雇して101年の営業を終えた。会社更生法の申請は事前相談の段階で道が閉ざされていた。

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全社員を解雇して営業を停止★★
破産手続が終了し法人が消滅
出典・参考

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