総会屋への利益供与の再発と、氏家純一社長による二度目の企業統治改革

1991年の不祥事から6年、なぜ野村は再び躓いたのか——「過去を断つ」再生に何を賭けたか

更新:

時期 1997年3月
意思決定者 氏家純一 社長
論点 二度目の証券不祥事への対応と企業統治の立て直し
概要
1991年の損失補塡を中心とする証券不祥事から6年後の1997年、野村證券が総会屋への利益供与を再び起こし、酒巻英雄社長が引責辞任、常務から昇格した氏家純一社長のもとで内部管理体制の立て直しに踏み込んだ経営判断。四大証券と第一勧業銀行を巻き込んだ総会屋事件の震源となり、業界最大手が二度目の刷新を迫られた。
背景
1989年末の日経平均38,915円をピークに株安が続くなか、野村は1991年の損失補塡不祥事で首脳陣を入れ替え「新生・野村」を掲げていた。だが総会屋との取引一任勘定を清算しきれず、証券取引等監視委員会は1995年末から不自然な取引を把握していた。海外での攻勢と国内ガバナンスの不均衡が積み残されていた。
内容
1997年3月25日に東京地検と監視委員会が合同で強制調査に入り、代表取締役社長を含む4名の役職員の関与による損失補塡と利益追加、現金3億2,000万円の供与が明らかになった。酒巻英雄社長が引責辞任し、氏家純一社長が「不祥事がまた起きたら会社は潰れる」との危機感のもとで機構改革に着手した。
含意
同年8月に大蔵大臣が株式関連業務の停止や社長ら3名の外務員登録取消などの行政処分を科し、9月には野村がコンプライアンスホットラインの設置などを盛り込んだ改善報告書を提出した。1997年3月期の連結当期純損失は▲2,427億円に達した。二度目の再生は2001年の持株会社化とガバナンス先行導入へ連なった。
筆者の見解

二度の不祥事が問うたもの

この判断の重さは、同じ会社が6年のあいだに同じ種類の不祥事を繰り返した点にある。1991年に掲げた「新生・野村」は、標語としては原点回帰を語りながら、総会屋との一任勘定という現場の慣行までは断てなかった。二度目の刷新で氏家純一社長が危機感を前面に置いたのは、一度目が言葉の再生にとどまった反省の裏返しだったとみることができる。理念の宣言と、受注や執行の仕組みを組み替える実務とのあいだには、埋めなければならない距離があった。

二度目の再生が持株会社化と指名委員会等設置会社への移行にまで及んだのは、統治の空洞を制度の設計で塞ごうとする選択であったとみられる。もっとも、器を整えることと、現場の一人ひとりが法令を守り抜くこととは同じではない。野村はこの後、2008年のリーマン部門承継で外資型の投資銀行モデルを抱え込み、異なる企業文化を束ねる統治の難題に改めて向き合う。総会屋事件が突きつけた「仕組みで不正を防げるのか」という問いは、いまの企業統治にもなお引き継がれている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「新生・野村」が清算しきれなかった関係

1989年末の日経平均38,915円をピークに株価は下げに転じ、1991年9月頃には損失補塡を中心とする証券不祥事が業界全体を揺るがした。野村も例外ではなく、首脳陣の交代を含む体制見直しに迫られ、「顧客と共に栄える」という創業の理念に立ち返るとして「新生・野村」改革を掲げた。だがこの一度目の刷新は、海外での攻勢と国内ガバナンスの不均衡という課題を俎上に乗せながら、総会屋との古い関係を断ち切るところまでは届いていなかったとみられる[1][2]

日経ビジネスは1997年の再発を前に、野村が一度目の不祥事のあとに「暗い関係」を清算する機会を二度逃していたと検証していた。バブル崩壊後の株安で本業の証券市況が細り、営業現場が大口取引に頼る誘因は消えていなかった。監視委員会は1995年末、市場の膨大な取引のなかから野村が関与するやや不自然な取引を把握しており、表向きの再生と実態のずれは、外部の目にすでに映り始めていた[3][4]

総会屋への一任勘定という病巣

発覚した取引の核にあったのは、総会屋との取引一任勘定であった。監視委員会の調査によれば、野村は顧客の売買の受託にあたって取引一任勘定取引の契約を結び、1989年2月から1996年7月までの長期にわたって取引を受託・執行していた。損失補塡を法で禁じた1991年の証券取引法改正をまたいでなお続いた関係で、一度目の不祥事で断つべきだった慣行が現場に残されていた事実を示している[5]

相手方の総会屋・小池隆一は、第一勧業銀行からの融資を元手に四大証券の株式を取得し、株主としての立場を背景に各社から利益供与を引き出した。野村だけでなく大和証券、日興証券、山一証券にも同じ総会屋との不自然な取引口座が並び、監視委員会はこれらを一体の事案として調べ進めた。業界最大手の躓きは、四大証券と第一勧業銀行をひとつの構図でつなぐ大型の総会屋事件へと広がった[6][7]

決断

強制調査と、社長の引責辞任

1997年3月25日、監視委員会は東京地方検察庁と合同で野村証券への強制調査に踏み切った。調査で明らかになったのは、代表取締役社長を含む4名の役職員が関与した損失補塡と利益追加であった。野村が自己勘定で行った株式買付を顧客の委託取引に仮装して付け替える手口や、価格上昇前のワラントを買い付けたように装う手口に加え、1995年3月には3億2,000万円の現金供与まで行われていた。不正は特定の担当者にとどまらず、組織の複数部署にまたがっていた[8]

検察の捜査では、告発された役職員だけでなく代表取締役社長の関与の事実まで認められ、告発事実とともに東京地方裁判所へ公訴が提起された。事件を受けて酒巻英雄社長が引責辞任した。1991年の不祥事のあと信頼回復を託された社長が、その任期中の再発で職を退く結末であった。後任には常務の氏家純一が昇格し、1997年に社長へ就いた。日経ビジネスは「野村証券、氏家体制で生まれ変わるか[10]」と、再生の可否を問う見出しでこの交代を伝えた[9]

氏家純一の「過去を断つ」再生

氏家純一社長は、再発すれば会社そのものが立ち行かなくなるという危機感を前面に置いた。日経ビジネスのインタビューで「不祥事がまた起きたら会社は潰れる」と語ったと伝えられ、一度目の刷新が現場の慣行に届かなかった反省のうえに立って、二度目の再生を過去との決別として構えた。掲げた言葉ではなく、営業の受注と執行の仕組みそのものを組み替えられるかどうかに、再生の成否がかかっていた[11][12]

監視委員会は、事件の背景に野村の内部管理体制の重大な不備があったと認定していた。委託注文伝票を操作するなどの不適正な行為に複数部署が関与し、法令遵守を管理すべき業務管理本部も機能していなかった。さらに調査に際しては、売買管理部門の担当者らが複数部門で会議を開いて口裏を合わせるなど、実態解明を妨げる組織的な工作まで行われていた。氏家体制の改革は、この統治の空洞を埋める作業に踏み込むものであった[13][14]

結果

業務停止処分と、純損失▲2,427億円

1997年7月15日、監視委員会は野村への行政処分などを大蔵大臣に勧告した。これを受けて大蔵大臣は同年8月6日から、株式関連の自己売買業務の停止(12月31日まで)や全部店の株式関連業務の停止、公共債の引受け・入札参加の禁止などを科し、代表取締役社長および取締役2名の外務員登録を取り消した。9月19日には、自己・委託の峻別発注や内部管理役員会の設置、コンプライアンスホットラインの設置などを盛り込んだ改善報告書が提出された[15]

業績への打撃も同じ年度に現れた。1997年3月期の連結決算は、売上高9,191億円・経常利益1,655億円を確保しながら、当期純利益は▲2,427億円の赤字に沈んだ。事件そのものの供与額は数億円規模にとどまるが、株安による有価証券の評価損や関連損失が重なり、業界最大手が巨額の年度赤字を計上した。信頼と本業の市況を同時に損なった年であったことを、この数字は示している[16]

二度目の再生から、持株会社化へ

氏家体制の再生は、まず経営陣の総入れ替えというかたちで表れた。1997年5月1日に発足した新体制では専務以上のボードメンバーを刷新し、役員の数を43名から35名へ削減、形骸化していた経営会議を廃止して常務会を置き、現場との距離を縮めた。国内営業の経験を持たない国際畑の氏家純一社長を常務から抜擢した人事は、政財界の人脈を通じて仕事を取る旧来のやり方と決別する意思表示でもあった。不祥事を起こした日本の大企業が専務以上をすべて退かせた前例はなく、週刊東洋経済はこの出直し人事を「英断」と評していた[17]

氏家体制が立て直しに着手した野村は、その後もガバナンス改革の手を止めなかった。1997年4月には野村総合研究所のリサーチ部門を本体へ移管して金融研究所を設け、金融ビッグバンで制度改正が相次ぐなかでも組織再編の手を緩めなかった。守りの内部管理と攻めの業態整備を並行して進めながら、二度の不祥事で問われた組織のかたちを組み替えていった[18]

二度目の再生は、2001年の持株会社化とガバナンスの先行導入へ連なった。同年10月、野村は会社分割で証券業を承継させ、自らは野村ホールディングスへ改称して邦証券初の本格的な金融持株会社に移行し、氏家純一が初代社長に就いた。2003年6月には国内子会社14社とともに指名委員会等設置会社へ移り、欧米型ガバナンスを先取りした。総会屋事件を機に始まった統治の立て直しが、会社の器そのものの設計にまで及んだとみることができる[19]

出典・参考
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 日経ビジネス 1997年4月14日号「野村証券、なぜ再び躓いた」
  • 日経ビジネス 1997年5月5日号「野村証券、氏家体制で生まれ変わるか」
  • 日経ビジネス 1997年7月21日号「編集長インタビュー 氏家純一氏[野村証券社長]不祥事また起きたら会社潰れる」
  • 週刊東洋経済 1997年4月19日号「特集 底知れぬ広がり見せる野村証券事件 人事維新こそ闇との絶縁のカギ」
  • 週刊東洋経済 1997年5月10日号「特別レポート 野村証券 経営幹部総入れ替え 危機下で若返りを断行」
  • 週刊東洋経済 1997年5月24日号「野村証券首脳・緊急インタビュー 経営のジャッジはすべて私がする 氏家純一社長」
  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「特集 山一・野村・一勧事件 総会屋事件が広げる証券危機の構図」
  • 証券取引等監視委員会 年次報告(https://www.fsa.go.jp/sesc/reports/n_09/01.pdf)
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 野村證券 有価証券報告書(連結)