野村家の商いは、1872年に初代野村徳七氏が大阪で開いた両替店[1]『野村徳七商店』に始まる。当時の商売は銭両替や古金銀の売買にすぎず[2]、株式や公社債もかたわら扱ってはいたが、初代の安全第一主義の方針からその扱高はわずか[3]にとどまった。転機は1904年初頭、二代野村徳七氏が父の業を継いだ[4]ときに訪れる。二代は業務の一大発展を期して両替業を廃棄し、資金2万円をもって本格的な証券業者として新発足[5]した。祖業を捨てて証券に絞る判断であり、その経営方針は積極的かつ近代的で、わずか数年の間に大阪における第一の実力者[6]となった。
二代が最初に手をつけたのは相場そのものではなく相場を読むための仕組みで、1906年4月に人事機構を整えると同時に調査部を設置し、あわせて『大阪野村商報』を発刊[7]して業界に先鞭をつけている。商報は顧客に前日の市況や経済情勢の分析を届ける[8]もので、その百号記念号は『自己の利益よりお客の利益を優先する』[引用元]という主義[9]を掲げ、各株式会社の組織はいかに、営業成績はいかに、将来の発展はいかにと研究するほか、海外の経済事情と国家の財政まで細大もらさず調査して読者に報ずる責務[10]を果たしている、と自らの立場を記した。のちに『調査の野村』と呼ばれる社風[11]は、すでにこの時点で形をとっていた。
調査に裏づけられた読みが試されたのは日露戦争の前後で、戦後の株式ブームに活躍し、続く反動期には売りに回って『売りの野村』として業績を躍進させて[12]いる。第一次大戦のときは逆に積極方針へ転換して、巨額の富を蓄積[13]している。強気と弱気を相場ごとに切り替えたこの動き方を支えたのは、調査部が集めた情報[14]だった。1910年には現物団を結成して株式や公債の引受にも活躍[15]し、二代自身も海外視察で新知識を吸収して、調査部の拡充、外国との取り引き、公社債の引受業務への進出[16]と、量だけでなく質の面でも商いを充実させた。
事業の拡大は会社組織の作り替えを求め、1917年12月、野村徳七商店は株式組織に改組されて資本金500万円の野村商店として新発足[17]した。個人商店から会社組織への移行であり、以後この商店は野村家の中心事業として活躍して[18]いる。もっともこの会社は、のちの野村證券の直接の母体ではない[19]。野村商店は1923年7月に大阪屋商店と改称[20]し、1930年12月には金融恐慌のため50万円へ減資したうえで野村家との資本的連携を断ち[21]、当時の役員と従業員が全株式を所有する会社[22]として野村家から離れた。証券業の本流は、二代が並行して興したもう一つの会社から生まれて[23]いる。
二代野村徳七氏は1918年、大阪野村銀行を設立して銀行業務に手を染めた[24]。株屋あがりの野村が銀行を始めるというので世間には冷やかに見る風潮[25]もあったが、野村にふさわしい特色をもった銀行にすれば意義があるとして設立へ歩を進めている。その特色として、一般の銀行業務のほかに証券金融、引受業務、中小企業金融へ力を入れる方針[26]を掲げ、そのために日本興業銀行の貸付課長であった片岡音吾氏を招いた[27]。片岡氏はのちに野村證券の初代社長となる人物[28]で、銀行の設立時点で証券の担い手が確保されていたことになる。
1920年、東京と大阪の両株式取引所に国債市場が新たに開設[29]された。それまで上場銘柄の一部にすぎなかった国債・地方債・社債の取り引きが株式から切り離され[30]、大阪野村銀行は他の有力金融機関に混じって国債仲買人の資格を得て[31]いる。そこで銀行は社内に公社債専門の証券部を新設[32]した。この証券部は、はじめから独立採算制をとり、いつでも独立できる体制[33]になっていた点に特徴がある。業容は国債市場開設という時流に乗って順調に拡大し、1922年には第四回大同電力社債と広島電気社債の募集に成功[34]した。独立にあたっては、米国における証券業務の実態を調査研究したうえで踏み切って[35]いる。
証券部の独立は1925年12月に実現[36]し、翌1926年1月から公社債専門業者として営業を開始[37]した。資本金は500万円、うち払込は250万円[38]で、社長には大阪野村銀行の取締役証券部長であった片岡音吾氏が就いて[39]いる。本社は大阪市東区安土町に置き、東京をはじめ四カ所の銀行支店証券部を出張所へ改編[40]して船出した。創立当初の陣容は社員35名、見習30名、女子事務員13名、傭員を含めて総勢84名[41]で、売買・金融・外国・信託・受渡・出納・計理・庶務の八係と調査部・検査課[42]だけの小さな世帯であった。重役以下みな若く、自分たちの手で新しい仕事を始めようという独立の意気に燃えて[43]いた。
独立にあたって社名を『野村ボンド・ハウス』としようとの案が有力[44]だったほど、公社債専業に徹する方針は明確だった。片岡社長が公社債市場の中に将来の証券会社のあるべき姿を求めていた[45]ことが、独立の大きな理由でもある。1927年3月にはニューヨーク駐在員事務所[46]を設けた。金輸出再禁止の前後に外貨債の売買が膨張し、この出張所は開設後わずか三年で利益を計上[47]している。1931年12月の金輸出再禁止から1934年に至る低金利時代には、外債取引で公債市場の王座[48]を占めた。ただし金再禁止後は資本逃避防止法と外国為替管理法によって自由な商売ができなくなり、1936年末に閉鎖[49]のやむなきにいたった。
公社債一本足の危うさは、1937年に数字となって表れた[50]。日華事変を契機とする本格的インフレの進展で株式市場が活況を呈する一方、公社債市場は極度の沈滞期に入り、野村の公社債募集取扱高と売買高は創業以来初めてという最悪の事態[51]に陥っている。社内では若手を中心に株式業務へ進出すべきだとの意見が強まって[52]いた。決め手は片岡社長自身の一言で、静岡を訪れた席上『私は株式をやって悪いとはいっていないよ』[引用元][53]と語ったという。公社債業務に証券会社としての使命感をもって当たってきた社長からの発言[54]だけに、社内の空気は一挙に動いた。
1937年8月に本社証券部へ株式課が設けられ[55]、高橋要次長のもとに奥村綱雄氏、北裏喜一郎氏、瀬川美能留氏が加わった[56]。のちに社長を務める三名がこの新設課に揃って[57]いる。1938年6月には株式業務の認可を受け[58]、株式課は部へ昇格した。参入にあたって選んだのは、当時の主流であった清算取引ではなく実物取引であり、手持ちの株式を持たず売買手数料だけで商うノーストック主義[59]でもあった。すでに株式で実績のある藤本・山一・日興は『せめてなりたや玉塚様』[引用元][60]と口に出るほど遙か雲の上の存在で、後発は堅実さで差をつけるほかなかった。
1941年11月、わが国最初の投資信託[61]が難産の末に生まれた。発端は飯田清三専務が大蔵省で受けた諮問[62]で、戦争気構えで株価が下がって困る、戦費調達で国民に渡ったカネの購買力を吸収してインフレ防止と株価安定を図る方法はないか[63]、という相談であった。調査部がイギリスのユニット・トラストを研究していた[64]こともあり、野村は取り組むと決めている。難題は元本保証のない商品を確定利子に慣れた投資家へ売る点にあり、償還時に当初元本一口500円に損失が生じたときは損失額の2割を証券会社が補償し、利益が出れば1割をもらう[65]という案に落ち着いた。この補償案は私企業にとって大問題で、野村財閥の統括機関である野村合名会社の理事会に諮ったところ、十人の理事のうち八人が反対し、賛成はわずか二人で否決[66]された。
同系の銀行・保険・信託を抱える財閥にとって、証券会社が補償を払い切れなくなれば銀行の取付けを招きかねないという懸念[67]である。それでも強い国家的要請を背景に実施は促進され[68]、戦時中を通じて投信は順調に伸び、1944年8月までの野村の設定額は2億5000万円[69]、業界全設定額5億2850万円[70]の約半分を占めた。国民から資金を吸い上げると同時に株価の安定にもなる、一石二鳥の策[71]と見なされていた。戦時統制のもとで証券界の再編も進み、野村は1943年から1944年にかけて第一証券と久保田証券を吸収合併[72]し、1944年8月に資本金1200万円となって清算取引業務も開始[73]した。敗戦の打撃は深く、1945年9月期は創業以来初の赤字決算[74]となり、満州野村や京城支店など在外資産をすべて失い[75]、東京・神戸・門司・福岡・静岡・岡山・高松・広島と全店舗の半分以上が焼失[76]した。
仕事らしい仕事のない時期には社員が街角に机を置いて宝くじを売り、この街頭販売の経験がのちの証券民主化運動と配電株営業の成功へつながって[77]いる。占領下では経営陣そのものが入れ替わり、野村は1945年11月に制限会社へ指定され[78]、1947年1月には公職追放令による指定会社となり[79]、同年8月に飯田社長以下四役員の退任を余儀なくされて[80]いる。以後1948年4月に奥村綱雄氏が社長へ就くまで、約九カ月にわたって社長席は空いたまま[81]であった。市場の再開はGHQの覚書によって無期延期となり、店頭取引が自然発生的に広がる[82]なかで制度の立て直しが進んだ。本店は1946年12月に大阪から東京へ移り[83]、1948年11月には証券取引法に基づく証券業者として登録[84]し、1949年4月に東京証券取引所の正会員[85]となった。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/8604/manifest.json https://the-shashi.com/api/8604/history.json https://the-shashi.com/api/8604/timeline.json https://the-shashi.com/api/8604/executives.json https://the-shashi.com/api/8604/shareholders.json https://the-shashi.com/api/8604/financials.json https://the-shashi.com/api/8604/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/8604/segments.json https://the-shashi.com/api/8604/regions.json https://the-shashi.com/api/8604/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1872〜1917年両替商から「売りの野村」へ——調査を売り物にした証券業者の出発 | 初代野村徳七が大阪・農人橋詰町で両替商を開業 | ★ | ||
| 1918〜1949年銀行の証券部からの独立と、公社債専業という選択 | 大阪野村銀行を設立 | ★ | ||
| 野村證券を設立 | ★ | |||
| 公社債専門業者として営業開始 | ★ | |||
| 株式業務の認可を取得 | ★ | |||
| わが国最初の投資信託業務の認可を取得 | ★★ | |||
| 財閥指定による制限会社に | ★ | |||
| 本店を大阪から東京へ移転 | ★ | |||
| 配電株(電力株)公募で業界最大の成果 | ★ | |||
| 東京証券取引所正会員に | ★ | |||
| 1950〜1979年証券民主化という営業と、40年不況が残した規律 | 戦後再開第1回投資信託を募集 | ★ | ||
| ニューヨーク支店を開設 | ★ | |||
| 日本証券会社初の海外引受団参加 | ★ | |||
| 東洋信託銀行を三和・神戸両銀行と共同設立 | ★ | |||
| 投信委託業務を営業譲渡 | ★ | |||
| 東京・大阪・名古屋証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 野村総合研究所を設立 | ★ | |||
| 改正証券取引法に基づく総合証券会社の免許を取得 | ★ | |||
| ノムラ・セキュリティーズ・インターナショナルを設立 | ★ | |||
| 1980〜2026年三極体制という野心と、二度の不祥事、リーマン承継 | ノムラ・インターナショナルを設立 | ★ | ||
| NSIがニューヨーク証券取引所会員権を取得 | ★★ | |||
| NILがロンドン証券取引所会員資格を取得 | ★ | |||
| 米州持株会社ノムラ・HD・アメリカを設立 | ★ | |||
| 損失補填の証券不祥事を受けた田淵義久社長の引責辞任と「新生・野村」への機構改革 1989年末の株価ピーク後の下落下、1991年に大口顧客への損失補填を中心とする証券不祥事が明るみに出て、邦証券最大手の野村證券はその震源となった。田淵義久社長と田淵節也会長が引責辞任し、酒巻英雄社長のもとで『顧客と共に栄える』という創業理念への回帰と機構改革=『新生・野村』を掲げた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 野村信託銀行を設立 | ★ | |||
| 総会屋への利益供与の再発と、氏家純一氏社長による二度目の企業統治改革 1991年の損失補塡を中心とする証券不祥事から6年後の1997年、野村證券が総会屋への利益供与を再び起こし、酒巻英雄社長が引責辞任、常務から昇格した氏家純一氏社長のもとで内部管理体制の立て直しに踏み込んだ経営判断。四大証券と第一勧業銀行を巻き込んだ総会屋事件の震源となり、業界最大手が二度目の刷新を迫られた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 金融研究所を設立 | ★ | |||
| 改正証券取引法に基づく総合証券会社として登録 | ★ | |||
| 持株会社体制に移行し野村HDに商号変更 | ★★ | |||
| 氏家純一が初代社長に就任 | ★ | |||
| 古賀信行 | サブプライム問題で純損失計上 | ★ | ||
| 渡部賢一 | リーマン・ブラザーズのアジア太平洋・欧州中東部門の承継によるグローバル投資銀行への転身 サブプライム危機で持株会社化後初の赤字を負った野村ホールディングスが、2008年9月に破綻した米リーマン・ブラザーズのアジア太平洋・欧州中東部門を承継し、約8,000名の人材を引き受けてグローバル投資銀行への転身に賭けた経営判断。北米事業はバークレイズが引き取り、野村は投資銀行最大の資産である人材に絞って手を挙げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 渡部賢一 | 金融危機とリーマン統合費用で巨額純損失 | ★★ | ||
| 渡部賢一 | 野村土地建物を子会社化 | ★ | ||
| 永井浩二 | 永井浩二氏が社長に就任 | ★ | ||
| 永井浩二 | 海外ホールセール不振で純損失計上 | ★★ | ||
| 永井浩二 | 「猛烈営業」モデルの転換と国内店舗2割削減 ── ウェルス・マネジメントへの構造改革 手数料自由化とネット証券の台頭で国内リテール収益が頭打ちとなり、リーマン承継から10年で2度目の赤字を負った野村ホールディングスが、2019年4月に国内店舗の約2割削減と3年で1,400億円のコスト削減を発表し、戸別訪問や電話勧誘で『猛烈』と称された営業モデルを富裕層・資産管理型へ転換した構造改革。2024年4月には営業部門をウェルス・マネジメント部門へ改称した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 奥田健太郎 | 奥田健太郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 奥田健太郎 | 子会社で決済不履行による貸倒引当を計上 | ★ | ||
| 奥田健太郎 | バンキング部門を新設 | ★ | ||
| 奥田健太郎 | マッコーリー・グループのアセットマネジメント事業を買収発表 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(野村ホールディングス)