1999年〜 上場益を捨てた35歳が手数料自由化に賭けた創業(1999〜2003)
マネックスグループの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
- 1999年 松本大氏とソニーの共同出資によりマネックス証券を設立
- 1999年 インターネット取引の営業を開始
- 1999年 関東財務局から広告取扱業の兼業認可を取得
- 2001年 夜間取引「マネックスナイター」を開始
- 2001年 セゾン証券を合併
- 2002年 DLJディレクトSFG証券との合併交渉を公表
- 2002年 顧客保護を理由に見送ってきた信用取引への参入と貸株サービスの開始 初心者の顧客を守るか、単独で黒字化を急ぐか——DLJディレクトとの合併交渉が途切れた後の方針転換
上場益を捨ててソニーと組んだ35歳の決断
松本大氏は1987年に東京大学法学部を卒業してソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社[1]し、1990年にゴールドマン・サックス証券へ移った。円のデリバティブ取引を一人で立ち上げ、1994年11月、30歳でゼネラル・パートナーに就いた[2]。創業者を除けば、英語圏外で教育を受けた最初のパートナー[3]だった。1998年、松本氏はインターネットに出合い、個人が自由に株を売買する時代が来ると考えて、ゴールドマン・サックス証券に個人向けネット証券取引の事業化を提案したが却下され[4]、同年11月に同社を退いた。翌1999年5月にゴールドマン・サックスは株式を上場し、公開価格に基づく時価総額は約250億ドル[5]に達して、パートナーからは数十億円の株式長者が続出した。
- 週刊東洋経済 1999年7月3日号
- [1]松本大氏は1987年東大法学部卒業後ソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社し1990年にゴールドマン・サックス証券へ移った
- [5]1999年5月のゴールドマン・サックス上場で公開価格に基づく時価総額は約250億ドルになった
- ドリームゲート起業家インタビュー 2005年11月26日
- [2]1994年11月に30歳でゼネラル・パートナーに就任した
- [3]松本大氏は創業者を除きゴールドマン・サックスで英語圏外の教育を受けた最初のパートナーだった
- [4]松本氏はゴールドマン・サックス証券に個人向けネット証券取引の事業化を提案したが却下された
1998年11月、松本氏は知人の紹介でソニーの出井伸之社長と会食し[6]、その席でインターネット証券の構想を伝えた。「食事中に乱入しました」[7](週刊東洋経済 1999/7/3)と松本氏は語っており、出井社長の反応はよく、後日、出資の内諾を得た。ソニーは同じ時期の株主総会で定款を変更し、金融業を事業目的に加えた[8]ばかりだった。1999年4月、両者は資本金5,000万円を折半で出資してマネックス株式会社を設立し[9]、松本氏が代表取締役に就いた。ソニーからは非常勤役員2名が入り、社員は10人に満たず[10]、システム構築は外部に委託した。松本氏が退社を決めるまでには20日を要した[11]という。
- 週刊東洋経済 1999年7月3日号
- [6]1998年11月に松本氏がソニーの出井伸之社長と会食しインターネット証券の構想を伝えた
- [7]松本大氏による出井伸之ソニー社長との会食についての発言
- [8]ソニーは同時期の株主総会で定款を変更し金融業を事業目的に加えた
- [9]1999年4月にソニーと松本氏が資本金5,000万円を折半出資してマネックスを設立した
- [10]ソニーから非常勤役員2名が就任し、設立時の社員は10人足らずだった
- ドリームゲート起業家インタビュー 2005年11月26日
- [11]松本大氏はゴールドマン・サックス退社の決断に20日を要したと述べている
営業開始は1999年10月で、株式売買委託手数料が完全自由化された月[12]にあたる。前年12月の登録制移行を受けて、日本にはチャールズ・シュワブが東京海上と、Eトレードがソフトバンクと、DLJが住友銀行と組んで参入[13]し、野村證券など既存の大手も相次いで参入していた。マネックス証券は後発で、店舗も既存顧客も抱えていなかった[14]。同年11月には金融機関で最初となる広告取扱業の兼業認可を関東財務局から得て[15]、証券業のほかに広告取扱を事業に加えた。2001年10月時点の手元流動性は約92億円だった[16]。
- 証券アナリストジャーナル 2000年9月号「マネックス証券」
- [12]1999年10月に営業を開始し、同月に株式売買委託手数料が完全自由化された
- [15]1999年11月に関東財務局から広告取扱業の兼業認可を受け、金融機関では初だった
- 週刊東洋経済 1999年7月3日号
- [13]チャールズ・シュワブは東京海上と、Eトレードはソフトバンクと、DLJは住友銀行と組んで日本に参入した
- [14]マネックス証券は後発だが過去の遺産を持たない点が利点と評された
- マネックス証券 決算説明会質疑応答 2001年10月17日
- [16]2001年10月時点の手元流動性は約92億円だった
- 週刊東洋経済 1999年7月3日号
- [1]松本大氏は1987年東大法学部卒業後ソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社し1990年にゴールドマン・サックス証券へ移った
- [5]1999年5月のゴールドマン・サックス上場で公開価格に基づく時価総額は約250億ドルになった
- [6]1998年11月に松本氏がソニーの出井伸之社長と会食しインターネット証券の構想を伝えた
- [7]松本大氏による出井伸之ソニー社長との会食についての発言
- [8]ソニーは同時期の株主総会で定款を変更し金融業を事業目的に加えた
- [9]1999年4月にソニーと松本氏が資本金5,000万円を折半出資してマネックスを設立した
- [10]ソニーから非常勤役員2名が就任し、設立時の社員は10人足らずだった
- [13]チャールズ・シュワブは東京海上と、Eトレードはソフトバンクと、DLJは住友銀行と組んで日本に参入した
- [14]マネックス証券は後発だが過去の遺産を持たない点が利点と評された
- ドリームゲート起業家インタビュー 2005年11月26日
- [2]1994年11月に30歳でゼネラル・パートナーに就任した
- [3]松本大氏は創業者を除きゴールドマン・サックスで英語圏外の教育を受けた最初のパートナーだった
- [4]松本氏はゴールドマン・サックス証券に個人向けネット証券取引の事業化を提案したが却下された
- [11]松本大氏はゴールドマン・サックス退社の決断に20日を要したと述べている
- 証券アナリストジャーナル 2000年9月号「マネックス証券」
- [12]1999年10月に営業を開始し、同月に株式売買委託手数料が完全自由化された
- [15]1999年11月に関東財務局から広告取扱業の兼業認可を受け、金融機関では初だった
- マネックス証券 決算説明会質疑応答 2001年10月17日
- [16]2001年10月時点の手元流動性は約92億円だった
無店舗と低価格で初心者を集める設計
松本社長は事業計画に2つの前提を置いた[17]。個人金融資産に占める直接金融商品の比率が米国並みに上がること、そしてインターネット利用者が1999年の2,706万人から2005年に7,760万人へ増える[18]ことである。両方が起きれば株式と投資信託の初心者が急増するため、無店舗と広告費の抑制で費用を抑え、広告ではなく報道を通じて顧客が自ら集まるようにし、口座の稼働率を保った[19]。2001年3月期上半期の広告宣伝費は6,500万円で、増えた口座は約4万件[20]だった。1口座あたりの獲得費用は約1,600円となり、他社平均の1万5,000円から2万円と比べて10分の1の水準[21]だった。
- 証券アナリストジャーナル 2000年9月号「マネックス証券」
- [17]松本大社長は直接金融比率の上昇とインターネット人口の膨張を事業計画の2つの大前提として説明した
- [18]日本のインターネット利用者は1999年の2,706万人から2005年に7,760万人へ増えると予測されていた
- [19]低コスト(無店舗・広告宣伝費の抑制)とプル・マーケティングを基本戦略に据えた
- 証券アナリストジャーナル 2000年12月号「マネックス証券」
- [20]2001年3月期上半期の広告宣伝費は6,500万円で増加口座は約4万件、1口座あたり獲得費用は約1,600円だった
- [21]他社平均の1口座あたり獲得費用は1万5,000円から2万円だった
株式委託手数料だけに頼らないために、投資信託と引受を差別化の柱に据えた[22]。2000年7月26日、オンライン専業では初の自社専用ファンド「ザ・ファンド@マネックス」を13億3,000万円で設定し、8月21日には20億円を超えた[23]。バンガード・グループのインデックスファンド[24]など、他社では買えない商品も並べた。引受業務は同年4月に立ち上げて5月から営業を始め、大和証券グループの引受部門から移籍した5名が上半期に8件を扱った[25]。2001年3月期上半期の受入手数料の内訳は株式委託81.1%、投信6.3%、引受11.8%[26]だった。
- 証券アナリストジャーナル 2000年9月号「マネックス証券」
- [22]投資信託とネットIPOを差別化戦略として掲げた
- [23]ザ・ファンド@マネックスは2000年7月26日に13億3,000万円で設定され8月21日には20億円を超えた
- [24]バンガード・グループのスモールキャップ・インデックスファンドなど自社でしか買えない商品を提供した
- 証券アナリストジャーナル 2000年12月号「マネックス証券」
- [25]引受業務は2000年4月に立ち上げ5月に営業を開始し、大和証券グループから5名が移籍した
- [26]2001年3月期上半期の受入手数料の内訳は株式委託81.1%・投信6.3%・引受11.8%だった
2000年8月4日、マネックス証券は東京証券取引所マザーズ市場に上場した[27]。公募15万株のうち過半の8万株をオンライン証券で販売[28]し、その大半を自社で販売した。投資単位を1株に引き下げ、公募価格を45,000円として、完全な無差別抽選で割り当てた結果、この上場で個人株主が約18,000人増えた[29]。松本社長はこの方式を「資本主義の民主化」[30](証券アナリストジャーナル 2000年9月号)と呼び、新規公開株を広く配分した実績として、その後の引受業務の営業に用いた。2001年1月には夜間取引「マネックスナイター」を始め[31]、当日終値での売買に限って夜間の注文を受けた。
- 証券アナリストジャーナル 2000年9月号「マネックス証券」
- [27]2000年8月4日に東京証券取引所マザーズ市場へ上場した
- [28]2000年8月4日に東証マザーズへ上場し公募15万株のうち8万株をオンライン証券で販売、公募価格は45,000円だった
- [29]上場によって約18,000人の個人株主が生まれた
- [30]松本大社長はネットIPOを「資本主義の民主化」への挑戦と表現した
- 週刊東洋経済 2001年2月17日号
- [31]2001年1月に夜間取引「マネックスナイター」を開始した
- 証券アナリストジャーナル 2000年9月号「マネックス証券」
- [17]松本大社長は直接金融比率の上昇とインターネット人口の膨張を事業計画の2つの大前提として説明した
- [18]日本のインターネット利用者は1999年の2,706万人から2005年に7,760万人へ増えると予測されていた
- [19]低コスト(無店舗・広告宣伝費の抑制)とプル・マーケティングを基本戦略に据えた
- [22]投資信託とネットIPOを差別化戦略として掲げた
- [23]ザ・ファンド@マネックスは2000年7月26日に13億3,000万円で設定され8月21日には20億円を超えた
- [24]バンガード・グループのスモールキャップ・インデックスファンドなど自社でしか買えない商品を提供した
- [27]2000年8月4日に東京証券取引所マザーズ市場へ上場した
- [28]2000年8月4日に東証マザーズへ上場し公募15万株のうち8万株をオンライン証券で販売、公募価格は45,000円だった
- [29]上場によって約18,000人の個人株主が生まれた
- [30]松本大社長はネットIPOを「資本主義の民主化」への挑戦と表現した
- 証券アナリストジャーナル 2000年12月号「マネックス証券」
- [20]2001年3月期上半期の広告宣伝費は6,500万円で増加口座は約4万件、1口座あたり獲得費用は約1,600円だった
- [21]他社平均の1口座あたり獲得費用は1万5,000円から2万円だった
- [25]引受業務は2000年4月に立ち上げ5月に営業を開始し、大和証券グループから5名が移籍した
- [26]2001年3月期上半期の受入手数料の内訳は株式委託81.1%・投信6.3%・引受11.8%だった
- 週刊東洋経済 2001年2月17日号
- [31]2001年1月に夜間取引「マネックスナイター」を開始した
単独では生き残れないと知った2年間
2000年10月には約60社がオンライン証券に参入し[32]、価格競争から淘汰が始まった。翌2001年には3月に日興ビーンズ証券とインターネット・トレーディング証券が、4月に日本オンライン証券とイー・ウイング証券が合併し[33]、再編は業界全体で進んだ。マネックス証券は2000年末にセゾン証券との合併を発表し、2001年6月に統合を終えた[34]。営業権の償却は発生せず、資本組入額は17億6,400万円[35]だった。この合併でクレディセゾンとの関係ができ、後にATM網の整備や「マネックス《セゾン》カード」につながった[36]。ただし移ってきた顧客のうち、コールセンター経由で取引していた層の稼働率は低く[37]、インターネットへの移行を促す必要が残った。
- 週刊東洋経済 2000年10月28日号
- [32]2000年10月時点で約60社がオンライン証券に参入し大乱戦になっていた
- 週刊東洋経済 2001年2月24日号
- [33]2001年3月に日興ビーンズ証券とインターネット・トレーディング証券が、4月に日本オンライン証券とイー・ウイング証券が合併した
- [34]2000年末にセゾン証券との合併を発表し2001年6月に合併した
- マネックス証券 決算説明会質疑応答 2001年10月17日
- [35]セゾン証券の子会社化・合併では営業権償却が発生せず資本組入額は17億6,400万円だった
- [37]セゾン証券から移った顧客のうちコールセンター利用層の稼働率が低かった
- マネックス証券 決算説明会質疑応答 2003年1月22日
- [36]セゾン証券の合併により、ATM網の整備とマネックス《セゾン》カードの提供につながった
2002年3月、DLJディレクトSFG証券との合併交渉が報じられ[38]、松本社長は即日「検討は行っている」と交渉の事実を認めた。DLJの筆頭株主だったクレディ・スイス・ファースト・ボストンがリテール業務から撤退する過程での再編で、ソニーによるDLJディレクト株の買い取りが前提になっていた[39]。両者でマネックス株の48%を持つ松本氏とソニー、DLJ株の21%強を持つ三井住友銀行[40]という双方の大株主の利害が相反し、交渉は成立しなかった。松本社長は中断と呼び続けたが、CSFBはソニーに代わる売却先の選定に入っていた[41]。
- 週刊東洋経済 2002年4月13日号
- [38]2002年3月にDLJディレクトSFG証券との合併交渉が報じられ松本社長が事実を認めた
- [39]CSFBのグループ再編が交渉の動機で、ソニーによるDLJディレクト株の買い取りが前提だった
- 週刊東洋経済 2002年7月6日号
- [40]松本氏とソニーでマネックス株の48%、三井住友銀行がDLJ株の21%強を所有していた
- [41]DLJの筆頭株主CSFBはソニーに代わる売却先の選定に入っていた
松本社長は信用取引を、資本力や情報の速さで劣る個人投資家に不利な売買形態になりうるとして敬遠してきた[42]。マネックス証券はこれを扱っていなかった[43]。2002年6月19日、株主総会の3日前に開始を発表した[44]。2002年3月期の営業赤字は12億4,000万円[45]だった。顧客数約20万件と預かり資産約5,000億円でオンライン証券の首位に立ちながら[46]、約定件数では信用取引を持つ他社に見劣りした。松本社長は「競合他社に出遅れた黒字化の時期も早める必要性を感じた[47]」(週刊東洋経済 2002/7/6)と述べた。信用取引は同年内に始まり、貸株サービスは10月20日から申し込みを受け付けた[48]。
- 週刊東洋経済 2002年7月6日号
- [42]マネックス証券は個人投資家に不利な売買形態になりうるとして信用取引を敬遠していた
- [43]マネックス証券は信用取引を扱っていなかった
- [44]2002年6月19日に信用取引の開始を発表した
- [45]2002年3月期の営業赤字は12億4,000万円、顧客数約20万件、預かり資産約5,000億円だった
- [46]顧客数約20万件・預かり資産約5,000億円でオンライン証券首位ながら約定件数では信用取引を持つ他社に見劣りした
- [47]マネックス証券社長の松本大氏による、信用取引参入の理由についての発言
- マネックス証券 決算説明会質疑応答 2002年10月17日
- [48]貸株サービスは2002年10月20日から先行申込を受け付けた
- 週刊東洋経済 2000年10月28日号
- [32]2000年10月時点で約60社がオンライン証券に参入し大乱戦になっていた
- 週刊東洋経済 2001年2月24日号
- [33]2001年3月に日興ビーンズ証券とインターネット・トレーディング証券が、4月に日本オンライン証券とイー・ウイング証券が合併した
- [34]2000年末にセゾン証券との合併を発表し2001年6月に合併した
- マネックス証券 決算説明会質疑応答 2001年10月17日
- [35]セゾン証券の子会社化・合併では営業権償却が発生せず資本組入額は17億6,400万円だった
- [37]セゾン証券から移った顧客のうちコールセンター利用層の稼働率が低かった
- マネックス証券 決算説明会質疑応答 2003年1月22日
- [36]セゾン証券の合併により、ATM網の整備とマネックス《セゾン》カードの提供につながった
- 週刊東洋経済 2002年4月13日号
- [38]2002年3月にDLJディレクトSFG証券との合併交渉が報じられ松本社長が事実を認めた
- [39]CSFBのグループ再編が交渉の動機で、ソニーによるDLJディレクト株の買い取りが前提だった
- 週刊東洋経済 2002年7月6日号
- [40]松本氏とソニーでマネックス株の48%、三井住友銀行がDLJ株の21%強を所有していた
- [41]DLJの筆頭株主CSFBはソニーに代わる売却先の選定に入っていた
- [42]マネックス証券は個人投資家に不利な売買形態になりうるとして信用取引を敬遠していた
- [43]マネックス証券は信用取引を扱っていなかった
- [44]2002年6月19日に信用取引の開始を発表した
- [45]2002年3月期の営業赤字は12億4,000万円、顧客数約20万件、預かり資産約5,000億円だった
- [46]顧客数約20万件・預かり資産約5,000億円でオンライン証券首位ながら約定件数では信用取引を持つ他社に見劣りした
- [47]マネックス証券社長の松本大氏による、信用取引参入の理由についての発言
- マネックス証券 決算説明会質疑応答 2002年10月17日
- [48]貸株サービスは2002年10月20日から先行申込を受け付けた