日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
- [1]1897年4月 小池国三が小池国三商店を設立し東京株式取引所仲買人を開業
- [3]思惑性の強い取引を禁じ、株式のサヤ取りで安定した利益を上げて業績を伸ばした
- [4]1907年4月 小池合資会社を設立し引受業務に注力
- [5]1910年 証券業者として初めて公債の引き受けに成功
- [8]1917年4月 小池合資解散。小池国三は公社債の引き受け、手形取引などを中心とする小池銀行の経営に取り組む
- [9]小池国三は小池銀行の経営に移った
- [10]残された小池合資の社員が山一合資会社を設立
- [14]1926年10月 山一合資を組織変更し山一証券株式会社となる
- [23]1943年9月 小池銀行を引き継いだ小池証券と合併し現在の山一証券に
- [24]1943年9月の合併時に木下茂会長、小池厚之助社長が就任
- [26]1954年11月 小池厚之助会長、大神一社長が就任
- [102]1972年5月 日高輝会長、植谷久三社長が就任
- [108]1973年4月 株式を東京・大阪・名古屋証券取引所2部に再上場、初値530円
- [114]1980年12月 植谷久三会長、横田良男社長が就任
- [121]1985年10月25日に相場急落、先物は3日連続で値幅制限いっぱいまで下落
- [124]1986年8月 三菱重工業が1000億円の転換社債を発行
- [127]1986年12月 行平次雄専務が退任しロンドン現地法人会長に就任
- [131]1987年9月 タテホ化学工業の債券先物取引で286億円の損失発生が発覚(タテホ・ショック)
- [134]1987年10月20日 米国株暴落で日経平均株価が3836円安(ブラックマンデー)
- [137]1988年9月 横田良男会長、行平次雄社長が就任
- [148]1989年12月 大蔵省が営業特金の一任勘定の廃止を通達(角谷通達)。証券局長は角谷正彦
- [151]1990年3月期決算で経常利益が2336億円と過去最高
- [158]1991年6月 4大証券を中心とした損失補填が発覚(証券スキャンダル)
- [164]1991年夏、都内ホテルで営業特金の処理を巡る会議
- [178]1992年6月 行平次雄会長、三木淳夫社長が就任
- [180]1995年3月期決算で506億円の経常赤字
- [183]1997年7月30日 東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が商法違反(利益供与)、証券取引法違反(損失補填と利益追加)の疑いで山一本社などを家宅捜索
- [184]1997年8月11日 行平次雄会長、三木淳夫社長ら経営首脳が総退陣し、五月女正治会長、野澤正平社長が就任
- [185]野澤が簿外債務の存在を三木からの引き継ぎで知らされたのは8月11日の社長就任直後
- [186]1997年10月6日 山一役員が富士銀行に簿外債務を報告
- [187]1997年9月24日 東京地検特捜部が三木淳夫前社長を逮捕
- [188]1997年11月3日 三洋証券が会社更生法を申請、11月17日に北海道拓殖銀行が営業譲渡発表
- [191]1997年11月21日 ムーディーズが山一債の格付けを3段階引き下げ、投資不適格債に
- [192]1997年11月22日 日本経済新聞が「山一自主廃業」を報道
- [193]1997年11月24日 早朝6時から始まった臨時取締役会で自主廃業を決定
会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山一証券」の項
- [2]創業は明治三十年四月、東京日本橋兜橋袂の個人経営
企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「山一証券」
- [6]商標は若尾家の商標にちなみ作られ、「〈一」の商標から山一証券が生まれた
- [7]創業記念日は4月15日。1967年が創業70周年、1972年が75周年
- [29]投資信託は個人から資金を預かって運用する事業で、運用預かりとともに山一の主力の一つだった
- [31]山一は野村・大和・日興と並ぶ四大証券の一角で、運用預かりと投資信託が主力の一つ
- [56]1964年10月に興銀の中山素平が赤坂の料亭で日高輝に山一支援を持ちかけ、日高は一度断ったが富士銀行の岩佐凱実、三菱銀行の宇佐美洵、小林中の説得を受けて引き受けた
- [57]小林中は証券業界の最高顧問で、小池厚之助の同郷の先輩だった
- [59]日高輝は大森治を長とする健全化委員会を組織して各部署の現状を把握した
- [83]返済には新旧勘定分離が採られ、新会社が営業を、旧会社が債務を負う形とした
- [86]募集設立は一口5000万円と3000万円、株主85で発足
- [88]日高は約80店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考えて伝統ある名称を残した
- [96]日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円が返済額の約3割を占めた
- [97]大阪北浜に確保していた自社用地を野村證券へ売却し返済に充てた
- [100]合併は実質4割の減資を伴い、日高は反対する株主全員の了解を求めた
- [101]完済までに日歩1.68銭から1.88銭で総額61億7000万円余の利息を支払い、担保も提供した
- [104]1972年の創業75周年に普通配当5円と記念株式配当1円を実施
- [107]1970年9月期に3円・年6分の復配
- [110]1973年12月 日高輝が瀬川美能留を継いで日本証券業協会会長に選出
日本大百科全書「山一證券」
- [11]「山一」の名は1917年の山一合資会社設立時に生まれ、1926年の山一證券株式会社への改組を経て受け継がれた
- [12]1917年設立の山一合資会社の社長は杉野喜精
- [15]1935年12月 杉野喜精が東京株式取引所理事長へ転じ、太田収が社長に就任
- [17]太田収は東京帝国大学出身の兜町人
- [19]太田収は鐘淵紡績株の投機失敗の責任を取り社長を辞任
- [20]1938年5月4日 社長辞任、同月28日に自死
- [28]1951年 投資信託業務へ進出。支店は1952年に47店、1962年に112店
- [30]支店は1952年47店、1962年112店
- [109]1973年9月に公開増資、1974年2月に東証第一部へ指定替え
日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
- [13]杉野喜精は初代山一社長で在任1926〜35年。それ以前の山一合資時代を含め在任は18年
- [16]太田収は2代社長、在任1935〜38年
- [21]平岡伝章は3代社長、在任1938年
- [22]木下茂は4代社長、在任1938〜43年
- [25]小池厚之助は5代社長、在任1943〜54年
- [103]植谷が社長に就いた72年9月期は営業収益が65年9月期の4.5倍の601億円、経常利益が40倍の230億円で過去最高
- [105]植谷は銀行からの独立志向を強め、銀行から来ていた役員は日高を除き植谷時代に一掃された
- [106]植谷が社長就任後、早々に打ち出した施策は「下半期の交際費の1カ月分増額」だった
- [111]植谷の社長時代は他の大手3社との収益格差がじりじり広がっていった時期
- [112]証券恐慌の後遺症で財政基盤が脆弱だったため先行投資に後れを取り、急速に進んだ国際化やコンピューター化の流れに乗り遅れた
- [113]山一は証券恐慌で支店網を大幅に縮小したうえ、もともと法人偏重の風潮が強くリテール部門が弱かった
- [115]植谷の後継候補は植谷が推す横田と、日高が目をかけた新谷勝。新谷は78年に系列の内外証券社長に転出
- [116]70年代に株式市場が時価発行増資の時代になり、企業は販売力で主幹事証券を選ぶようになって野村が主幹事会社を急拡大した
- [117]横田の4期8年の在任中、経常利益が最高を更新したのは6回。87年9月期には経常利益2209億円
- [118]87年9月期に野村は2倍以上の4937億円の経常利益を稼ぎ「利益日本一」となった。山一の「万年4位」が定着したのも横田の時代
- [119]1985年10月19日 国債先物取引が102円でスタート
- [120]5日後の澄田智日銀総裁の「円高誘導のため金利引き上げもやむを得ない」との発言で債券相場が暴落
- [122]この債券暴落で山一が負った損失額は100億円を超えた
- [123]債券売買益は85年9月期までは大和・日興とほぼ肩を並べていたが、86年9月期に両社の2〜3割の水準へ落ち込んだ
- [125]引受幹事団に入った山一が三菱重工の指示に従い15億円の新発CBを三菱重工出入りの総会屋に配った
- [126]1982年の商法改正で総会屋への利益供与が禁じられた
- [128]配分先の総会屋リストを入手した副社長の成田芳穂ら4人が行平降ろしの工作を行ったとされる
- [129]成田芳穂は1987年1月16日に自宅で自ら命を絶った
- [130]行平は1年後の87年12月に副社長として本体に復帰
- [132]損失が大きかったのは一定利回りを保証したうえで三井銀行と住友信託銀行が運用資金を貸し付けた「バックファイナンス付きファンド」
- [133]客は地方の信用組合や信用金庫、警察共済などで損失額は400億〜500億円
- [135]タテホ・ショックとブラックマンデーで山一が責任を負わされた損失額はこの時点で1000億円前後
- [136]含み損を抱えた債券を決算期の異なる別の会社に一時避難させたのが山一の簿外債務の原点になった
- [138]行平は就任直後、簿外の損失を隠密裏に処理するための非公式な委員会を設置した
- [139]責任者は副社長の小松正男。中心メンバーは松本良之助(副社長・財務担当)、石原弘康(専務・債券本部長)、新村鋭男(専務・金融法人本部長)、三木淳夫(専務・企画室長)、高木眞行(常務・事業法人本部長)
- [140]「小松委員会」は損失の穴埋めに狂奔し、89年ごろには損失額は200億円程度に縮小した
私の履歴書 北裏喜一郎(日本経済新聞連載)
- [18]北裏喜一郎は野村證券入社まもなく太田収の伝記を手渡された
- [27]戦時中の投資信託は敗戦で評価額が半値以下となり、二割損失補償の打ち切りをめぐり四社代表が松本蒸治博士の鑑定を仰いだ。山一からは小池厚之助社長が出席
日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
- [32]運用預りは長信銀が発行する金融債を証券会社が投資家に販売した後、利息を払って預かり担保として資金調達する信用創造制度
- [38]1961年10月 東京・大阪・名古屋証券取引所に第2部市場が創設
- [39]1960〜62年に東京市場へ新規上場した企業のうち山一は129社の幹事、野村は86社
- [40]1965年時点の東証での主幹事企業は野村340社に対し山一500社
- [41]戦前から社債の引き受けや財閥の公開株販売で強みを見せ、戦後は歴史のある企業とのつながりを生かした
- [45]幹事企業の株をこれ以上値下がりさせてはいけないとばかり、社長の大神は下げ相場に買い向かい、傷口を広げた
- [46]植野珪(1949年入社、65年の証券恐慌時は企画室、後に常務)の証言
- [47]大神は「日本経済の復興には証券市場の資金調達機能の充実が欠かせない。そのためには多少の損失を被っても構わない」という理念を持っていた
- [48]山一が支店廃止に動いたのは1964年5月
- [49]1964年7月の経営会議の方針は「人員は自然減に任す、店舗廃止は営業戦力を損なわない程度で吸収できるものに限る」
- [50]1964年9月期決算で34億円の最終赤字
- [51]1964年9月期の経常損益は▲51億円
- [52]1964年9月期の営業収益162億円、64年9月末の従業員8060人、店舗105店
- [54]1964年11月 経営陣刷新。小池厚之助が退任し大神一が会長、日産化学工業から日高輝を社長に迎える
- [55]日高輝は興銀出身。業績不振だった日産化学工業に社長として送り込まれ経営を立て直した手腕を見込まれた
- [58]22店閉鎖、約2000人の人員減の計画を固めたのは日高が社長に就いた後
- [60]1964年12月 業務健全化の具体策を審議する「健全化委員会」を設置
- [61]辻野猛は当時30代前半の富士銀行融資部調査役で、山一の財務状況の調査に取り組んだ
- [62]1964年12月24日に実態をつかみ、実質的な赤字額は64年9月期の公表34億円を上回る282億円に達していた
- [65]1965年5月21日朝刊1面に「山一証券、経営難乗り切りへ、近く再建策発表」の見出し
- [66]マスコミ各社はこれに追随し、山一の経営危機は広く知れ渡り、投資家の解約が殺到した
- [71]山一の支店への来店客は通常で1日3500人、報道翌日の22日に1万4000人、28日は2万人超
- [74]1965年5月28日 田中蔵相が日銀法25条の発動を決断
- [76]6月7日に日銀特融45億円を実施、以降7月まで8回、合計282億円
- [78]1965年7月27日 政府が国債発行を決定し株価は反発へ
- [80]1965年10月 旧経営陣が日銀の指示にもとづき私財提供
- [81]日本証券業協会の東京研修センターがある東京・世田谷の約850坪の土地は、創業一族の小池がこのとき手放した自宅の敷地
- [82]65年の証券恐慌時にも、関連会社に資金を貸し付け含み損のある保有株を買い取らせて決算を繕う操作を行っていた
- [84]1966年7月 新会社として株式会社山一を設立。9月に証券業の免許を取得し山一証券から商号と営業権を譲り受ける
- [85]旧会社は(株)山一となり、日銀特融の返済を主業務とする
- [87]新会社には資本金90億円のところに120億円の申し込みがあった
- [89]1966年8月 営業譲渡を理由に株式の上場廃止。終値は20円
- [90]66年9月に新会社が営業を始めた時点で従業員5200人強、78店舗とピークの約6割、4社の中で最小規模
- [91]1967年3月末の従業員は4970人と5000人を割る
- [95]1969年1月 日本証券保有組合が解散。設立以来の売却益503億円
- [98]当初18年かかるとされた特融の返済はわずか4年で終わった
- [99]1969年9月30日に特融を完済し、10月1日に新旧両社が合併して山一證券と改称
- [200]10年ほど前に90年史編纂のための取材が行われたが結局90年史は出版されず、97年4月の創業100周年にも社史の刊行を準備していたが計画が遅れ日の目を見なかった
- [33]運用預りは、投資家に売却した金融債を日歩一厘の借料を払って預かり直し、それを担保にコール・マネーや銀行借入で資金繰りをつける仕組み
- [36]投資家が金融債の返済を求めれば、借金返済のため手持ち株を売って担保から外す必要があり、株式の処分は株価不振に拍車をかけた
- [37]株式の処分は当然株価不振に拍車をかけ、自らの首を締める結果となった
- [53]野村は40年9月期に手数料収入198億円をあげ、この苦難期にも利益を計上し赤字にならなかった
- [34]山一證券は運用預りを最も多くやっていた
- [35]預り証券を担保に借金し業容を拡大する一種のセルフファイナンス
- [42]1963年7月18日 ケネディ大統領が金利平衡税の創設を発表
- [43]ダウ平均は19日64円、20日58円と東証開所以来の大幅な急落
- [44]株価は1963年4月の高値1634円から年末の1200円まで3割近い暴落
- [63]大蔵省は「不用意な報道は昭和恐慌の二の舞いになる」として各社に要請し、主要新聞7社・NHK等の報道管制協定が結ばれた
- [73]氷川寮の出席者は大蔵省が田中角栄蔵相・佐藤一郎次官・高橋俊英銀行局長・松井証券局長、日銀が佐々木直副総裁、市中銀行は中山素平・岩佐凱実・田実渉の各頭取
- [64]報道協定に加わっていなかった西日本新聞社が独自に取材活動を行ない、核心に迫った
- [67]あわてた主力三行が急遽、日銀・大蔵の了解の下に山一の再建案を発表した
- [68]再建策は市中銀行(三行のほか協調融資13行)の融資額200億円の金利を当分全額棚上げ
- [69]信託銀行2行(安田・三菱)の融資額92億円の金利を日歩一銭とし、合わせて月額約1億5000万円の金利負担軽減
- [70]再建策の発表はむしろ投資家の不安心理を鎮めるどころか助長させてしまい、投資家が窓口に殺到した
- [72]5月28日の解約総額は280億円
- [75]日銀法25条に基づく実質無担保・無制限の融資で、一民間企業に対して行なうのは最初のケース
- [77]日銀特融は投資家の不安を鎮め、山一のあと経営危機に直面した大井證券にも7月に特融が実施された
- [79]7月27日の国債発行方針決定を好感して反発に転じ、わずか4カ月で半値戻しを演じた
日経ビジネス 1998年3月2日号「実録 山一証券100年目の破綻 最終回 保身に走った大蔵省」
- [92]1968年4月 証券会社の免許制がスタートし、山一は第1号免許を受けた
- [93]免許制導入を最初に主張したのは蔵相時代の田中角栄。「銀行と証券は車の両輪。銀行だけが免許制というのはおかしい」が持論
- [94]免許制がスタートした68年4月、証券会社の数は第1号免許の山一を筆頭に277社と、2年半で半分に減っていた
- [147]1989年10月に大和証券が営業特金の運用で出た客の損失を補填していた事件が発覚したのがきっかけ
- [173]飛ばし先の1社である東急百貨店と山一は91年夏以降、損の押しつけ合いで応酬を続けていた
- [174]1992年1月に東急百貨店が弁護士名で「全額を1月末までに返済すること。それができないならば告訴する」という催告書を送った
- [175]副社長だった三木淳夫が証券局長の松野允彦を訪ねたのは1991年12月と92年1月
- [176]松野は「国内は大蔵省が調べざるを得ないが外は目が届かない」「海外から国内に持ち込むときはそうだが、国内から外に出すなら心配はない」と述べた
- [177]松野允彦は1998年2月4日に衆院大蔵委員会、2月13日に参院財政金融委員会で「1991年末に山一から飛ばしに関する相談があった」と認めた
週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」
- [141]行平体制では木下公明監査役や藤橋忍企画担当常務らごく一部の役員によって隠蔽工作が行われ、その全容を知る者はほとんどいなかった
- [160]最大の補填先は阪和興業グループ
日経ビジネス 1998年2月23日号「実録 山一証券100年目の破綻4 市場の歪み背負って狂奔」
- [142]営業特金は特定金銭信託の一種で、投資家や投資顧問会社に代わって証券会社が運用を指示する金融商品
- [143]「営業特金を1兆円集めろ」の号令がかかり、山一の営業特金の総額はピーク時2兆円あったといわれる
- [144]証券取引法で禁止されている利回り保証は「握り」と呼ばれ、財テク競争で企業側があからさまに要求するようになった
- [145]企業がちらつかせたのが主幹事の変更で、「法人の山一」の伝統にこだわる山一は主幹事を外されることを絶対に避けたかった
- [146]行平は「営業特金の拡大が危険なのはわかっているが、野村が続けているうちは手を引けない。大手の座を守るためにもやめられないんだ」と答えた
- [149]野村は「補填する必要のある特金はすべて補填する」という方針を打ち出し3月末までに一斉に片づけた
- [150]山一は運用規模の大きい企業の処理を後回しにして、会社数では半分、金額では3割を片づけるのがやっとだった
- [152]損失を抱えた有価証券を決算期末直前に他の企業に売却し、決算後に「帳簿の汚し代」といえる金利を付けて買い戻す手法が「疎開」。使われた売買手法は「媒介」で取引所にも報告義務があった
- [153]取引所が時価と大きく離れた価格で買い戻す媒介を厳しく制限するようになり「疎開」は難しくなった
- [154]飛ばしは企業同士の直取引で行い、取引所にも報告せず、取引の実態を知るのは当事者と仲介役の証券会社だけになる
- [155]1990年5月に副社長の小松正男の子会社転出で「小松委員会」が解散、後任には副社長の延命隆が就いた
- [156]延命は会議を1度開いただけで委員会を解散し、延命に近い人間だけで処理策が詰められて密室処理の度合いが深まった
- [157]90年8月の湾岸危機が引き起こした為替相場の波乱で外債取引に関わる為替損が出て、後にオーストラリアの現地法人に隠された
- [165]出席者は行平、副社長の三木淳夫、延命のほか事業法人関係を中心とする10人
- [166]「飛ばし」の経緯を解明するとともに、裁判になっても勝てる相手なのか、山一が損を引き取らざるを得ない相手なのか色分けをした
- [167]1991年11月の2度目の首脳会議で「戦っても勝ち目のない取引先」の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- [170]それまで取引先の口座で進めてきた損失処理を、この局面で山一自身のものとし抱え込んだ
週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
- [159]山一証券は64法人と2個人に総額456億円の損失補填を行っていた
- [168]1991年12月20日 クレディ・スイス信託銀行の特定金銭信託口座で約2000億円の国債を購入
- [169]国債を山一エンタープライズの子会社5社に貸し付けて資金を作り、その口座で含み損のある有価証券を時価を上回る価格で買い取った
週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
- [161]1991年9月4日 行平次雄社長が参議院の特別委員会で証人喚問を受けた
- [162]行平は「失った信頼を取り戻す筋道をつけるまで努力を続けたい」と答えた
- [163]損失をすべて表に出すよう進言した副社長は関係会社へ移された
- [182]総会屋小池隆一グループへの利益供与事件で強制捜査を受けた
- [189]11月19日に長野厖士証券局長が「検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい」と告げた
- [190]11月20日に弁護士を東京地裁へ送って会社更生の事前相談を求めたが受け付けられなかった
山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書(1998年4月16日公表)
- [171]簿外債務2648億円のうち1583億円が国内、1065億円が海外で発生
- [172]海外分は山一オーストラリアに集まっていた
- [197]1998年4月16日 社内調査委員会が簿外債務の調査報告書を公表
山一證券 1992年3月期決算(同時代報道による)
- [179]1992年3月期に1964年以来の赤字を計上
山一證券 1997年3月期決算発表(1997年4月28日)
- [181]1997年3月期は1647億6300万円の当期損失
日経ビジネス 1998年12月21日号「野澤正平氏[山一証券社長]、兵を語る 会見の涙は悔しさと心労から」
- [194]午前11時30分に東京証券取引所で会見し、野澤社長は号泣しながら「社員は悪くありません」と訴えた
週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」
- [195]1998年3月31日に全社員を解雇して営業を停止。創業から101年
- [196]調査報告書は弁護士を加えた9人の社内調査委員会が作成し、委員長は嘉本隆正常務
週刊東洋経済 1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」
- [198]1999年6月2日に破産宣告を受け、日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた
- [199]破産手続の終了は2005年1月26日の債権者集会