山一證券 の歴史

創業

1897年

創業者

小池国三

創業地

東京市日本橋区兜町

直近売上高(1984/9)

2,138億円

長期業績と転換点(1969/9〜1998/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1897年に小池国三氏が開いた個人商店は、二十年で創業者の名を社名から外したのか
A 扱う仕事が個人の信用で足りる範囲を超えたためである。株式仲買は個人の信用で客を集める商いだが、1907年に小池合資会社へ改組して踏み込んだ公社債の引受は、発行者と投資家の間に立って残高を抱える仕事であり、個人商店の身丈では受けきれない。1917年4月に小池合資会社を解散して山一合資会社を設立し、杉野喜精氏が社長に就いた。屋号を社名にしたことで、創業者が退いたあとも同じ看板で商いを続けられるようになった。この看板の重さは、1966年に債務と営業を切り分けながら商号だけは変えないという判断につながる
Q なぜ1965年に大蔵省と日本銀行は、一証券会社のために日本銀行法二十五条を初めて発動したのか
A 運用預かりの解約が、他社と銀行へ連鎖する構造だったためである。運用預かりは顧客から割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行融資を受ける資金調達手段で、銀行預金に近い性格を持っていた。山一證券は1964年9月期末の純財産額70億円に対し、運用預かりを477億円抱えていた。1965年5月の報道で取り付け騒ぎが起き、解約は他の証券会社と銀行へ波及して信用システムにひびが入る危険があった。5月28日夜の氷川寮での会談で蔵相の田中角栄氏が決断し、日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった
Q なぜ債務超過ではなかった山一證券が、1997年に自主廃業を選んだのか
A 損失が帳簿の外にあり、社内でも全体が見えなかったためである。1991年12月、クレディ・スイス信託銀行の特金口座で買った約2,000億円の国債を子会社五社に貸し付け、含み損のある有価証券を買い取る仕組みが動き出した。全体を知る者はごく一部に限られていた。1997年8月25日、就任二週間後の野澤正平氏が前会長と前社長から簿外債務の存在を知らされる。11月19日、証券局長の長野厖士氏は自主廃業の選択を求め、翌20日に東京地裁は会社更生の事前相談を受け付けなかった。山一は1998年3月末の時点でも債務超過ではなかった

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1897年〜 兜町の株式仲買商が屋号を社名に変え、社長の自死に至るまで

  1. 1897年 小池国三が東京・兜町で小池国三商店を創業
  2. 1907年 小池に改組
  3. 1907年 公社債引受業務に参入
  4. 1917年 小池を解散し山一を設立
  5. 1926年 山一證券に改組
  6. 1935年 杉野喜精が東京株式取引所理事長に転じ、太田収氏が社長に就任
  7. 1938年 太田収氏が鐘淵紡績株の投機失敗で社長を辞任

兜町の株式仲買商から山一合資会社へ

1897年4月、小池国三氏が東京・日本橋兜町で小池国三商店を開き[1]、東京株式取引所の仲買人として営業を始めた。同店は思惑性の強い取引を禁じ、株式のサヤ取りによって安定した利益を上げている[3]。1907年4月には小池合資会社を設立して引受業務に力を入れ[4]、1910年に証券業者として初めて公債の引受に成功した[5]。屋号のもとになった「〈一」の商標は、甲州財閥の若尾家が用いた商標にちなんで作られた[6]ものである。会社は創業記念日を4月15日と定め、1967年に創業七十周年、1972年に七十五周年[7]を祝った。 [2]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [1]1897年4月 小池国三が小池国三商店を設立し東京株式取引所仲買人を開業
    • [3]思惑性の強い取引を禁じ、株式のサヤ取りで安定した利益を上げて業績を伸ばした
    • [4]1907年4月 小池合資会社を設立し引受業務に注力
    • [5]1910年 証券業者として初めて公債の引き受けに成功
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山一証券」の項
    • [2]創業は明治三十年四月、東京日本橋兜橋袂の個人経営
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「山一証券」
    • [6]商標は若尾家の商標にちなみ作られ、「〈一」の商標から山一証券が生まれた
    • [7]創業記念日は4月15日。1967年が創業70周年、1972年が75周年

1917年4月、小池合資会社は解散した[8]。小池国三氏は公社債の引受や手形取引を中心とする小池銀行の経営に移り[9]、残された小池合資の社員が山一合資会社を設立している[10]。「山一」の商号はこのとき生まれ[11]、1998年に営業を停止するまで八十年あまり使われた。社長には杉野喜精氏が就き[12]、その在任は十八年に及んだ[13]。1926年10月には山一合資会社を組織変更し[14]、山一證券株式会社が発足している。

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [8]1917年4月 小池合資解散。小池国三は公社債の引き受け、手形取引などを中心とする小池銀行の経営に取り組む
    • [9]小池国三は小池銀行の経営に移った
    • [10]残された小池合資の社員が山一合資会社を設立
    • [14]1926年10月 山一合資を組織変更し山一証券株式会社となる
  • 日本大百科全書「山一證券」
    • [11]「山一」の名は1917年の山一合資会社設立時に生まれ、1926年の山一證券株式会社への改組を経て受け継がれた
    • [12]1917年設立の山一合資会社の社長は杉野喜精
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [13]杉野喜精は初代山一社長で在任1926〜35年。それ以前の山一合資時代を含め在任は18年
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [1]1897年4月 小池国三が小池国三商店を設立し東京株式取引所仲買人を開業
    • [3]思惑性の強い取引を禁じ、株式のサヤ取りで安定した利益を上げて業績を伸ばした
    • [4]1907年4月 小池合資会社を設立し引受業務に注力
    • [5]1910年 証券業者として初めて公債の引き受けに成功
    • [8]1917年4月 小池合資解散。小池国三は公社債の引き受け、手形取引などを中心とする小池銀行の経営に取り組む
    • [9]小池国三は小池銀行の経営に移った
    • [10]残された小池合資の社員が山一合資会社を設立
    • [14]1926年10月 山一合資を組織変更し山一証券株式会社となる
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山一証券」の項
    • [2]創業は明治三十年四月、東京日本橋兜橋袂の個人経営
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「山一証券」
    • [6]商標は若尾家の商標にちなみ作られ、「〈一」の商標から山一証券が生まれた
    • [7]創業記念日は4月15日。1967年が創業70周年、1972年が75周年
  • 日本大百科全書「山一證券」
    • [11]「山一」の名は1917年の山一合資会社設立時に生まれ、1926年の山一證券株式会社への改組を経て受け継がれた
    • [12]1917年設立の山一合資会社の社長は杉野喜精
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [13]杉野喜精は初代山一社長で在任1926〜35年。それ以前の山一合資時代を含め在任は18年

社長の自死と、創業家に移った経営

1935年12月、杉野喜精氏が東京株式取引所の理事長に転じ[15]、太田収氏が二代社長に就いた[16]。太田氏は東京帝国大学を出た兜町の経営者[17]として知られる。野村證券に入った北裏喜一郎氏は、入社まもなく太田収氏の伝記を手渡されている[18]。就任から二年余りのち、自ら指揮した鐘淵紡績の新株買いが暴落によって失敗した[19]。私財を投じても損失は埋まらず、太田氏は1938年5月4日に社長を辞任し、同月28日に青酸カリで自らの命を絶っている[20]

  • 日本大百科全書「山一證券」
    • [15]1935年12月 杉野喜精が東京株式取引所理事長へ転じ、太田収が社長に就任
    • [17]太田収は東京帝国大学出身の兜町人
    • [19]太田収は鐘淵紡績株の投機失敗の責任を取り社長を辞任
    • [20]1938年5月4日 社長辞任、同月28日に自死
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [16]太田収は2代社長、在任1935〜38年
  • 私の履歴書 北裏喜一郎(日本経済新聞連載)
    • [18]北裏喜一郎は野村證券入社まもなく太田収の伝記を手渡された

太田氏の後任には平岡伝章氏が就いたが、その在任は1938年限りだった[21]。1938年から1943年までは木下茂氏が社長を務めている[22]。1943年9月、山一證券は小池銀行を引き継いだ小池証券と合併し[23]、新たな山一證券株式会社として発足した。戦時下の金融統合のなかで進んだ再編によって木下氏が会長に、創業者小池国三氏の子である小池厚之助氏が社長に就き[24]、創業家が経営を握る体制が固まっている。小池厚之助氏の社長在任は1954年11月まで続き[25]、後任には大神一氏が就いた[26]

  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [21]平岡伝章は3代社長、在任1938年
    • [22]木下茂は4代社長、在任1938〜43年
    • [25]小池厚之助は5代社長、在任1943〜54年
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [23]1943年9月 小池銀行を引き継いだ小池証券と合併し現在の山一証券に
    • [24]1943年9月の合併時に木下茂会長、小池厚之助社長が就任
    • [26]1954年11月 小池厚之助会長、大神一社長が就任
  • 日本大百科全書「山一證券」
    • [15]1935年12月 杉野喜精が東京株式取引所理事長へ転じ、太田収が社長に就任
    • [17]太田収は東京帝国大学出身の兜町人
    • [19]太田収は鐘淵紡績株の投機失敗の責任を取り社長を辞任
    • [20]1938年5月4日 社長辞任、同月28日に自死
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [16]太田収は2代社長、在任1935〜38年
    • [21]平岡伝章は3代社長、在任1938年
    • [22]木下茂は4代社長、在任1938〜43年
    • [25]小池厚之助は5代社長、在任1943〜54年
  • 私の履歴書 北裏喜一郎(日本経済新聞連載)
    • [18]北裏喜一郎は野村證券入社まもなく太田収の伝記を手渡された
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [23]1943年9月 小池銀行を引き継いだ小池証券と合併し現在の山一証券に
    • [24]1943年9月の合併時に木下茂会長、小池厚之助社長が就任
    • [26]1954年11月 小池厚之助会長、大神一社長が就任

1939年〜 創業家の会社となった戦後の膨張と、日本銀行法二十五条の初適用

山一證券の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1943年 小池証券と合併し新・山一證券が発足
  2. 1951年 投資信託業務に参入
  3. 1964年 1964年9月期決算で約34億5000万円の赤字を計上
  4. 1964年 日高輝が日産化学工業から社長に就任
  5. 1965年 日本銀行法二十五条による特別融資の受け入れと、新旧勘定分離による再建 看板を残して債務を切り離せるか——史上初の日銀特融を四年余で完済するまで

投資信託と運用預りによって膨らんだ預かり資産

戦時中に始まった投資信託は敗戦で評価額が半値以下に落ち、証券四社は損失の二割補償を打ち切るため法学者の松本蒸治氏に鑑定を仰いだ。山一證券からは社長の小池厚之助氏が出向いている。同社が投資信託業務へ進出した[28]のは1951年である。個人から資金を預かって運用し、預かった残高に比例して報酬を受け取る事業[29]であり、注文が来た日に手数料が確定する取次とは収益の出方が違う。支店網も広がり、1952年に四十七店、1962年には百十二店へ増えた[30]。野村・大和・日興と並ぶ四大証券の一角[31]として、預かり資産の規模が会社の格を示す時代に入っている。 [27]

資金繰りを支えたのが運用預りで、証券会社は長期信用銀行が発行する金融債をいったん投資家へ販売し[32]、日歩一厘の借料を払ってその金融債を預かり直す[33]。預かった債券を担保にコール資金を取り入れ、あるいは銀行から借り入れて資金を作る仕組みで、山一證券はこの運用預りを四社のなかで最も多く用いていた[34]。預かった有価証券を自社の資金調達へ回して業容を広げる一種の自己金融[35]であり、投資家が返還を求めれば、借入を返すために手持ちの株を売って担保を外す必要がある[36]。その株式の処分が株価の下落に拍車をかけた[37]

  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [32]運用預りは長信銀が発行する金融債を証券会社が投資家に販売した後、利息を払って預かり担保として資金調達する信用創造制度
    • [33]運用預りは、投資家に売却した金融債を日歩一厘の借料を払って預かり直し、それを担保にコール・マネーや銀行借入で資金繰りをつける仕組み
    • [36]投資家が金融債の返済を求めれば、借金返済のため手持ち株を売って担保から外す必要があり、株式の処分は株価不振に拍車をかけた
    • [37]株式の処分は当然株価不振に拍車をかけ、自らの首を締める結果となった
    • [34]山一證券は運用預りを最も多くやっていた
    • [35]預り証券を担保に借金し業容を拡大する一種のセルフファイナンス

同社の強みは法人取引にあり、1961年10月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ第二部市場が創設される[38]と、中堅企業が相次いで上場を目指した。1960年から1962年に東京市場へ新規上場した企業のうち、山一證券は百二十九社の幹事を務め、八十六社の野村證券[39]を引き離している。1965年時点の東京証券取引所での主幹事企業は、野村證券の三百四十社に対して山一證券が五百社[40]にのぼった。戦前から社債の引受や財閥の公開株販売で強みを見せており[41]、戦後はその関係を生かして業容を広げている。

  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [38]1961年10月 東京・大阪・名古屋証券取引所に第2部市場が創設
    • [39]1960〜62年に東京市場へ新規上場した企業のうち山一は129社の幹事、野村は86社
    • [40]1965年時点の東証での主幹事企業は野村340社に対し山一500社
    • [41]戦前から社債の引き受けや財閥の公開株販売で強みを見せ、戦後は歴史のある企業とのつながりを生かした
    • [27]戦時中の投資信託は敗戦で評価額が半値以下となり、二割損失補償の打ち切りをめぐり四社代表が松本蒸治博士の鑑定を仰いだ。山一からは小池厚之助社長が出席
  • 日本大百科全書「山一證券」
    • [28]1951年 投資信託業務へ進出。支店は1952年に47店、1962年に112店
    • [30]支店は1952年47店、1962年112店
    • [29]投資信託は個人から資金を預かって運用する事業で、運用預かりとともに山一の主力の一つだった
    • [31]山一は野村・大和・日興と並ぶ四大証券の一角で、運用預かりと投資信託が主力の一つ
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [32]運用預りは長信銀が発行する金融債を証券会社が投資家に販売した後、利息を払って預かり担保として資金調達する信用創造制度
    • [38]1961年10月 東京・大阪・名古屋証券取引所に第2部市場が創設
    • [39]1960〜62年に東京市場へ新規上場した企業のうち山一は129社の幹事、野村は86社
    • [40]1965年時点の東証での主幹事企業は野村340社に対し山一500社
    • [41]戦前から社債の引き受けや財閥の公開株販売で強みを見せ、戦後は歴史のある企業とのつながりを生かした
    • [33]運用預りは、投資家に売却した金融債を日歩一厘の借料を払って預かり直し、それを担保にコール・マネーや銀行借入で資金繰りをつける仕組み
    • [36]投資家が金融債の返済を求めれば、借金返済のため手持ち株を売って担保から外す必要があり、株式の処分は株価不振に拍車をかけた
    • [37]株式の処分は当然株価不振に拍車をかけ、自らの首を締める結果となった
    • [34]山一證券は運用預りを最も多くやっていた
    • [35]預り証券を担保に借金し業容を拡大する一種のセルフファイナンス

幹事企業の株を買い支えた自己売買

1963年7月、アメリカのケネディ大統領が国際収支改善策として金利平衡税の創設を発表した[42]。東京証券取引所は売り一辺倒となり、ダウ平均は19日に64円、20日に58円と開所以来の大幅な下落を記録する。株価は同年4月の高値一六三四円から年末の一二〇〇円まで三割近く下げた[44]。山一證券は幹事企業の株価をこれ以上下げまいとして下げ相場に買い向かい[45]、傷口を広げている。社長の大神一氏について、当時企画室にいた植野珪氏[46]は、日本経済の復興には証券市場の資金調達機能の充実が欠かせず、そのためには多少の損失を被っても構わないという理念を持っていた[47]と語った。 [43]

    • [42]1963年7月18日 ケネディ大統領が金利平衡税の創設を発表
    • [43]ダウ平均は19日64円、20日58円と東証開所以来の大幅な急落
    • [44]株価は1963年4月の高値1634円から年末の1200円まで3割近い暴落
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [45]幹事企業の株をこれ以上値下がりさせてはいけないとばかり、社長の大神は下げ相場に買い向かい、傷口を広げた
    • [46]植野珪(1949年入社、65年の証券恐慌時は企画室、後に常務)の証言
    • [47]大神は「日本経済の復興には証券市場の資金調達機能の充実が欠かせない。そのためには多少の損失を被っても構わない」という理念を持っていた

合理化の着手は遅れ、山一證券が支店の廃止に動いたのは1964年5月[48]だった。同年7月の経営会議で決めた方針は、人員は自然減に任せ、店舗の廃止は営業戦力を損なわない程度で吸収できるものに限る[49]という内容である。1964年9月期の決算は34億円の最終赤字で、経常損益は51億円の赤字だった。同期の営業収益は162億円、9月末の従業員は8,060人、店舗は百五店である。同じ苦境のなかで野村證券は手数料収入を一九八億円まで積み上げ、赤字を出していない[53][50][51][52]

  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [48]山一が支店廃止に動いたのは1964年5月
    • [49]1964年7月の経営会議の方針は「人員は自然減に任す、店舗廃止は営業戦力を損なわない程度で吸収できるものに限る」
    • [50]1964年9月期決算で34億円の最終赤字
    • [51]1964年9月期の経常損益は▲51億円
    • [52]1964年9月期の営業収益162億円、64年9月末の従業員8060人、店舗105店
    • [53]野村は40年9月期に手数料収入198億円をあげ、この苦難期にも利益を計上し赤字にならなかった

1964年11月、業績悪化の責任を取って小池厚之助氏が会長を退き[54]、大神一氏が会長に、日産化学工業社長だった日高輝氏が社長に就いた。日高氏は日本興業銀行の出身で、業績不振だった日産化学工業を立て直した手腕を見込まれている[55]。招聘は同年10月に日本興業銀行の中山素平氏が赤坂の料亭へ招いて持ちかけたもので[56]、一度は断ったのち、富士銀行の岩佐凱実氏、三菱銀行の宇佐美洵氏、小池厚之助氏と同郷の先輩にあたる小林中氏の説得を受けて引き受けた[57]。二十二店の閉鎖と約2,000人の人員削減を固めたのはこの交代の後だった。12月には大森治氏を長とし[59]、業務健全化の具体策を審議する健全化委員会が置かれる[60]。同じ12月24日、富士銀行融資部の調査役だった辻野猛氏ら[61]が主力三行の実務担当として財務内容を洗い、実質的な赤字が1964年9月期の公表34億円を上回る282億円に達していることを突き止めた。 [58][62]

  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [54]1964年11月 経営陣刷新。小池厚之助が退任し大神一が会長、日産化学工業から日高輝を社長に迎える
    • [55]日高輝は興銀出身。業績不振だった日産化学工業に社長として送り込まれ経営を立て直した手腕を見込まれた
    • [58]22店閉鎖、約2000人の人員減の計画を固めたのは日高が社長に就いた後
    • [60]1964年12月 業務健全化の具体策を審議する「健全化委員会」を設置
    • [61]辻野猛は当時30代前半の富士銀行融資部調査役で、山一の財務状況の調査に取り組んだ
    • [62]1964年12月24日に実態をつかみ、実質的な赤字額は64年9月期の公表34億円を上回る282億円に達していた
    • [56]1964年10月に興銀の中山素平が赤坂の料亭で日高輝に山一支援を持ちかけ、日高は一度断ったが富士銀行の岩佐凱実、三菱銀行の宇佐美洵、小林中の説得を受けて引き受けた
    • [57]小林中は証券業界の最高顧問で、小池厚之助の同郷の先輩だった
    • [59]日高輝は大森治を長とする健全化委員会を組織して各部署の現状を把握した
    • [42]1963年7月18日 ケネディ大統領が金利平衡税の創設を発表
    • [43]ダウ平均は19日64円、20日58円と東証開所以来の大幅な急落
    • [44]株価は1963年4月の高値1634円から年末の1200円まで3割近い暴落
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [45]幹事企業の株をこれ以上値下がりさせてはいけないとばかり、社長の大神は下げ相場に買い向かい、傷口を広げた
    • [46]植野珪(1949年入社、65年の証券恐慌時は企画室、後に常務)の証言
    • [47]大神は「日本経済の復興には証券市場の資金調達機能の充実が欠かせない。そのためには多少の損失を被っても構わない」という理念を持っていた
    • [48]山一が支店廃止に動いたのは1964年5月
    • [49]1964年7月の経営会議の方針は「人員は自然減に任す、店舗廃止は営業戦力を損なわない程度で吸収できるものに限る」
    • [50]1964年9月期決算で34億円の最終赤字
    • [51]1964年9月期の経常損益は▲51億円
    • [52]1964年9月期の営業収益162億円、64年9月末の従業員8060人、店舗105店
    • [54]1964年11月 経営陣刷新。小池厚之助が退任し大神一が会長、日産化学工業から日高輝を社長に迎える
    • [55]日高輝は興銀出身。業績不振だった日産化学工業に社長として送り込まれ経営を立て直した手腕を見込まれた
    • [58]22店閉鎖、約2000人の人員減の計画を固めたのは日高が社長に就いた後
    • [60]1964年12月 業務健全化の具体策を審議する「健全化委員会」を設置
    • [61]辻野猛は当時30代前半の富士銀行融資部調査役で、山一の財務状況の調査に取り組んだ
    • [62]1964年12月24日に実態をつかみ、実質的な赤字額は64年9月期の公表34億円を上回る282億円に達していた
    • [53]野村は40年9月期に手数料収入198億円をあげ、この苦難期にも利益を計上し赤字にならなかった
    • [56]1964年10月に興銀の中山素平が赤坂の料亭で日高輝に山一支援を持ちかけ、日高は一度断ったが富士銀行の岩佐凱実、三菱銀行の宇佐美洵、小林中の説得を受けて引き受けた
    • [57]小林中は証券業界の最高顧問で、小池厚之助の同郷の先輩だった
    • [59]日高輝は大森治を長とする健全化委員会を組織して各部署の現状を把握した

報道協定の外から出た記事と、日本銀行法二十五条

経営難が表沙汰になれば取り付けを招くとして、大蔵省は主要新聞七社とNHKに報道の自粛を求め、報道管制協定が結ばれた[63]。協定に加わっていなかった西日本新聞は独自に取材を進め[64]、1965年5月21日の朝刊一面に「山一証券、経営難乗り切りへ、近く再建策発表」の見出しを掲げる[65]。各社がこれに追随し、山一證券の経営危機は広く知れ渡った[66]。あわてた主力三行は同日、日本銀行と大蔵省の了解のもとで再建案を公表している[67]。市中銀行十六行の融資額200億円について金利を当分のあいだ全額棚上げし、安田・三菱の信託銀行二行の融資額92億円の金利を日歩一銭とする内容で、月額約1億5,000万円の金利負担の軽減にあたった。 [68][69]

    • [63]大蔵省は「不用意な報道は昭和恐慌の二の舞いになる」として各社に要請し、主要新聞7社・NHK等の報道管制協定が結ばれた
    • [64]報道協定に加わっていなかった西日本新聞社が独自に取材活動を行ない、核心に迫った
    • [67]あわてた主力三行が急遽、日銀・大蔵の了解の下に山一の再建案を発表した
    • [68]再建策は市中銀行(三行のほか協調融資13行)の融資額200億円の金利を当分全額棚上げ
    • [69]信託銀行2行(安田・三菱)の融資額92億円の金利を日歩一銭とし、合わせて月額約1億5000万円の金利負担軽減
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [65]1965年5月21日朝刊1面に「山一証券、経営難乗り切りへ、近く再建策発表」の見出し
    • [66]マスコミ各社はこれに追随し、山一の経営危機は広く知れ渡り、投資家の解約が殺到した

再建策の公表は、投資家の不安心理を鎮めるどころか助長した[70]。支店への来店客は通常の一日3,500人から、報道翌日の22日に1万4,000人、28日には2万人を超え、解約総額は280億円にのぼる。5月28日の夜、東京・赤坂の日本銀行氷川寮に蔵相の田中角栄氏、大蔵事務次官の佐藤一郎氏、銀行局長の高橋俊英氏、証券局長の松井直行氏、日本銀行副総裁の佐々木直氏、中山素平氏・岩佐凱実氏・田実渉氏の主力三行頭取[73]が集まった。この席で田中氏が日本銀行法第二十五条の発動を決[74]断する。事実上の無担保・無制限の融資であり、一民間企業に対して行われたのは初めてだった[75]。融資は6月7日の45億円を皮切りに7月まで八回、合計282億円に達した。 [71][72][76]

    • [70]再建策の発表はむしろ投資家の不安心理を鎮めるどころか助長させてしまい、投資家が窓口に殺到した
    • [72]5月28日の解約総額は280億円
    • [75]日銀法25条に基づく実質無担保・無制限の融資で、一民間企業に対して行なうのは最初のケース
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [71]山一の支店への来店客は通常で1日3500人、報道翌日の22日に1万4000人、28日は2万人超
    • [74]1965年5月28日 田中蔵相が日銀法25条の発動を決断
    • [76]6月7日に日銀特融45億円を実施、以降7月まで8回、合計282億円
    • [73]氷川寮の出席者は大蔵省が田中角栄蔵相・佐藤一郎次官・高橋俊英銀行局長・松井証券局長、日銀が佐々木直副総裁、市中銀行は中山素平・岩佐凱実・田実渉の各頭取

特融は取り付けを鎮め、7月には同じく経営難に陥った大井證券にも実施された[77]。7月27日に政府が国債発行の方針を決めると株価は反発に転じ[78]、四か月で半値を戻している[79]。同年10月、小池厚之助氏・大神一氏ら旧役員は日本銀行の指示に応じて私財を提供した[80]。日本証券業協会の東京研修センターが置かれた東京・世田谷の約850坪の土地は、このとき小池氏が手放した自宅の敷地である。この時期の山一證券は、関連会社に資金を貸し付けて含み損のある保有株を買い取らせ、決算を繕う操作も行っていた[82][81]

    • [77]日銀特融は投資家の不安を鎮め、山一のあと経営危機に直面した大井證券にも7月に特融が実施された
    • [79]7月27日の国債発行方針決定を好感して反発に転じ、わずか4カ月で半値戻しを演じた
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [78]1965年7月27日 政府が国債発行を決定し株価は反発へ
    • [80]1965年10月 旧経営陣が日銀の指示にもとづき私財提供
    • [81]日本証券業協会の東京研修センターがある東京・世田谷の約850坪の土地は、創業一族の小池がこのとき手放した自宅の敷地
    • [82]65年の証券恐慌時にも、関連会社に資金を貸し付け含み損のある保有株を買い取らせて決算を繕う操作を行っていた
    • [63]大蔵省は「不用意な報道は昭和恐慌の二の舞いになる」として各社に要請し、主要新聞7社・NHK等の報道管制協定が結ばれた
    • [73]氷川寮の出席者は大蔵省が田中角栄蔵相・佐藤一郎次官・高橋俊英銀行局長・松井証券局長、日銀が佐々木直副総裁、市中銀行は中山素平・岩佐凱実・田実渉の各頭取
    • [64]報道協定に加わっていなかった西日本新聞社が独自に取材活動を行ない、核心に迫った
    • [67]あわてた主力三行が急遽、日銀・大蔵の了解の下に山一の再建案を発表した
    • [68]再建策は市中銀行(三行のほか協調融資13行)の融資額200億円の金利を当分全額棚上げ
    • [69]信託銀行2行(安田・三菱)の融資額92億円の金利を日歩一銭とし、合わせて月額約1億5000万円の金利負担軽減
    • [70]再建策の発表はむしろ投資家の不安心理を鎮めるどころか助長させてしまい、投資家が窓口に殺到した
    • [72]5月28日の解約総額は280億円
    • [75]日銀法25条に基づく実質無担保・無制限の融資で、一民間企業に対して行なうのは最初のケース
    • [77]日銀特融は投資家の不安を鎮め、山一のあと経営危機に直面した大井證券にも7月に特融が実施された
    • [79]7月27日の国債発行方針決定を好感して反発に転じ、わずか4カ月で半値戻しを演じた
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [65]1965年5月21日朝刊1面に「山一証券、経営難乗り切りへ、近く再建策発表」の見出し
    • [66]マスコミ各社はこれに追随し、山一の経営危機は広く知れ渡り、投資家の解約が殺到した
    • [71]山一の支店への来店客は通常で1日3500人、報道翌日の22日に1万4000人、28日は2万人超
    • [74]1965年5月28日 田中蔵相が日銀法25条の発動を決断
    • [76]6月7日に日銀特融45億円を実施、以降7月まで8回、合計282億円
    • [78]1965年7月27日 政府が国債発行を決定し株価は反発へ
    • [80]1965年10月 旧経営陣が日銀の指示にもとづき私財提供
    • [81]日本証券業協会の東京研修センターがある東京・世田谷の約850坪の土地は、創業一族の小池がこのとき手放した自宅の敷地
    • [82]65年の証券恐慌時にも、関連会社に資金を貸し付け含み損のある保有株を買い取らせて決算を繕う操作を行っていた

1966年〜 新旧勘定分離による再建と、企画畑が受け継いだ密室の損失処理

山一證券の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1966年 新旧勘定分離により新会社を設立
  2. 1969年 新旧両社を合併し日銀特融を完済
  3. 1970年 1970年9月期に復配(3円、年6分)
  4. 1972年 日高輝氏が会長に就任
  5. 1972年 植谷久三氏が社長に就任
  6. 1973年 東京証券取引所第二部に再上場
  7. 1986年 三菱重工業の転換社債をめぐる問題が社会問題化

新旧勘定分離による再建と、免許制の第一号

返済の枠組みには、戦後の金融機関再建整備で用いられた新旧勘定分離が採られた[83]。1966年7月7日に新会社を設立し、9月に証券業の免許を取得したうえで旧会社から商号と営業権を譲り受ける[84]。旧会社は「株式会社山一」となって日銀特融の返済を主業務とし[85]、商号を受け継いだ新会社が稼いだ利益を旧会社へ渡して返済に充てる仕組みだった。新会社は募集設立とし、一口5,000万円と3,000万円で出資を募って120億円余の申し込みを集め、払込資本金90億円・株主八十五で発足している。社名を変える案もあったが、日高輝氏は八十店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考えて名称を残した[88]。8月には営業譲渡を理由に株式の上場を廃止し、終値は20円だった。 [86][87][89]

    • [83]返済には新旧勘定分離が採られ、新会社が営業を、旧会社が債務を負う形とした
    • [86]募集設立は一口5000万円と3000万円、株主85で発足
    • [88]日高は約80店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考えて伝統ある名称を残した
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [84]1966年7月 新会社として株式会社山一を設立。9月に証券業の免許を取得し山一証券から商号と営業権を譲り受ける
    • [85]旧会社は(株)山一となり、日銀特融の返済を主業務とする
    • [87]新会社には資本金90億円のところに120億円の申し込みがあった
    • [89]1966年8月 営業譲渡を理由に株式の上場廃止。終値は20円

新会社が営業を始めた1966年9月の時点で、従業員は5,200人強、店舗は七十八と最盛期の約六割に縮み、四大証券のなかでは最も小さい規模になっていた。1967年3月末には従業員が4,970人と5,000人を割っている。1968年4月、証券会社は登録制から大蔵大臣の免許を前提とする免許制へ移行し[92]、山一證券は再建にからんで先に免許を受けていたため第一号となった。免許制の導入を最初に主張したのは蔵相時代の田中角栄氏で、銀行と証券は車の両輪であり銀行だけが免許制というのはおかしい[93]、というのがその持論である。免許を受けた会社は二百七十七社で、二年半で半数に減っていた[94][90][91]

  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [90]66年9月に新会社が営業を始めた時点で従業員5200人強、78店舗とピークの約6割、4社の中で最小規模
    • [91]1967年3月末の従業員は4970人と5000人を割る
  • 日経ビジネス 1998年3月2日号「実録 山一証券100年目の破綻 最終回 保身に走った大蔵省」
    • [92]1968年4月 証券会社の免許制がスタートし、山一は第1号免許を受けた
    • [93]免許制導入を最初に主張したのは蔵相時代の田中角栄。「銀行と証券は車の両輪。銀行だけが免許制というのはおかしい」が持論
    • [94]免許制がスタートした68年4月、証券会社の数は第1号免許の山一を筆頭に277社と、2年半で半分に減っていた

返済は市況の回復に助けられ、1969年1月に日本証券保有組合が解散すると、設立以来の売却益503億円のうち67億3,000万円が還付金として入って返済額の約三割を占めた。大阪北浜に確保していた自社用地は野村證券へ売却して返済に[97]充てている。当初は完済まで十八年八か月を要する計算だった[98]が、1969年9月30日に完済し、10月1日に新旧両社が合併[99]して山一證券へ戻った。実質四割の減資をともなうため[100]、日高氏は反対する株主全員の了解を求めている。特融は無担保・無利息と非難されたものの、完済までに日歩一・六八銭から一・八八銭で総額61億7,000万円余の利息が支払われ、担保も提供されていた。 [95][96][101]

  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [95]1969年1月 日本証券保有組合が解散。設立以来の売却益503億円
    • [98]当初18年かかるとされた特融の返済はわずか4年で終わった
    • [99]1969年9月30日に特融を完済し、10月1日に新旧両社が合併して山一證券と改称
    • [96]日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円が返済額の約3割を占めた
    • [97]大阪北浜に確保していた自社用地を野村證券へ売却し返済に充てた
    • [100]合併は実質4割の減資を伴い、日高は反対する株主全員の了解を求めた
    • [101]完済までに日歩1.68銭から1.88銭で総額61億7000万円余の利息を支払い、担保も提供した
    • [83]返済には新旧勘定分離が採られ、新会社が営業を、旧会社が債務を負う形とした
    • [86]募集設立は一口5000万円と3000万円、株主85で発足
    • [88]日高は約80店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考えて伝統ある名称を残した
    • [96]日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円が返済額の約3割を占めた
    • [97]大阪北浜に確保していた自社用地を野村證券へ売却し返済に充てた
    • [100]合併は実質4割の減資を伴い、日高は反対する株主全員の了解を求めた
    • [101]完済までに日歩1.68銭から1.88銭で総額61億7000万円余の利息を支払い、担保も提供した
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [84]1966年7月 新会社として株式会社山一を設立。9月に証券業の免許を取得し山一証券から商号と営業権を譲り受ける
    • [85]旧会社は(株)山一となり、日銀特融の返済を主業務とする
    • [87]新会社には資本金90億円のところに120億円の申し込みがあった
    • [89]1966年8月 営業譲渡を理由に株式の上場廃止。終値は20円
    • [90]66年9月に新会社が営業を始めた時点で従業員5200人強、78店舗とピークの約6割、4社の中で最小規模
    • [91]1967年3月末の従業員は4970人と5000人を割る
    • [95]1969年1月 日本証券保有組合が解散。設立以来の売却益503億円
    • [98]当初18年かかるとされた特融の返済はわずか4年で終わった
    • [99]1969年9月30日に特融を完済し、10月1日に新旧両社が合併して山一證券と改称
  • 日経ビジネス 1998年3月2日号「実録 山一証券100年目の破綻 最終回 保身に走った大蔵省」
    • [92]1968年4月 証券会社の免許制がスタートし、山一は第1号免許を受けた
    • [93]免許制導入を最初に主張したのは蔵相時代の田中角栄。「銀行と証券は車の両輪。銀行だけが免許制というのはおかしい」が持論
    • [94]免許制がスタートした68年4月、証券会社の数は第1号免許の山一を筆頭に277社と、2年半で半分に減っていた

銀行管理からの独立と、企画畑の系譜

1972年5月、日高輝氏が会長に退き[102]、証券不況以来ともに再建に当たった植谷久三氏が社長に就いた。1972年9月期の営業収益は601億円と1965年9月期の四・五倍、経常利益は230億円と四十倍に達し、過去最高を記録している。同年には創業七十五周年を迎え、普通配当五円と記念株式配当一円を実施した[104]。植谷氏は銀行からの独立志向を強め、日高氏を除く銀行出身の役員はその時代に一掃される[105]。社長就任後に早々と打ち出した施策は下半期の交際費の一か月分増額だった[106]。1970年9月期には三円・年六分の復配にこぎつけている[107][103]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [102]1972年5月 日高輝会長、植谷久三社長が就任
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [103]植谷が社長に就いた72年9月期は営業収益が65年9月期の4.5倍の601億円、経常利益が40倍の230億円で過去最高
    • [105]植谷は銀行からの独立志向を強め、銀行から来ていた役員は日高を除き植谷時代に一掃された
    • [106]植谷が社長就任後、早々に打ち出した施策は「下半期の交際費の1カ月分増額」だった
    • [104]1972年の創業75周年に普通配当5円と記念株式配当1円を実施
    • [107]1970年9月期に3円・年6分の復配

市場への復帰も進み、新旧分離の際に自ら廃止していた株式を1973年4月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所第二部へ再上場し、初値は530円だった。同年9月に公開増資を行い、1974年2月に東京証券取引所第一部へ指定替えしている[109]。日高氏は1973年12月、野村證券の瀬川美能留氏を継いで日本証券業協会の会長にも選ばれた[110]。植谷氏の社長時代は、他の大手三社との収益格差がじりじり広がった時期[111]にもあたる。証券恐慌の後遺症で財務基盤が弱く先行投資に後れを取り[112]、この時期に進んだ国際化とコンピューター化の流れに乗り遅れた。支店網を大幅に縮小した個人営業部門の弱さも[113]残った。 [108]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [108]1973年4月 株式を東京・大阪・名古屋証券取引所2部に再上場、初値530円
  • 日本大百科全書「山一證券」
    • [109]1973年9月に公開増資、1974年2月に東証第一部へ指定替え
    • [110]1973年12月 日高輝が瀬川美能留を継いで日本証券業協会会長に選出
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [111]植谷の社長時代は他の大手3社との収益格差がじりじり広がっていった時期
    • [112]証券恐慌の後遺症で財政基盤が脆弱だったため先行投資に後れを取り、急速に進んだ国際化やコンピューター化の流れに乗り遅れた
    • [113]山一は証券恐慌で支店網を大幅に縮小したうえ、もともと法人偏重の風潮が強くリテール部門が弱かった

1980年12月、植谷久三氏が会長に退き、横田良男氏が社長に就いた[114]。植谷氏が推した横田氏に対し、日高氏が目をかけていた新谷勝氏は1978年に系列の内外証券社長へ転出している[115]。1970年代に株式市場が時価発行増資の時代へ入ると、企業は販売力で主幹事証券を選ぶようになり、強力な個人営業網を持つ野村證券が主幹事会社を急拡大した[116]。横田氏の在任四期八年のうち経常利益が最高を更新したのは六回にのぼり[117]、会長に退く前年の1987年9月期には2,209億円に達している。ただし同じ期に野村證券はその二倍を超える4,937億円を稼ぎ、山一證券の四位が定着したのもこの時代だった。 [118]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [114]1980年12月 植谷久三会長、横田良男社長が就任
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [115]植谷の後継候補は植谷が推す横田と、日高が目をかけた新谷勝。新谷は78年に系列の内外証券社長に転出
    • [116]70年代に株式市場が時価発行増資の時代になり、企業は販売力で主幹事証券を選ぶようになって野村が主幹事会社を急拡大した
    • [117]横田の4期8年の在任中、経常利益が最高を更新したのは6回。87年9月期には経常利益2209億円
    • [118]87年9月期に野村は2倍以上の4937億円の経常利益を稼ぎ「利益日本一」となった。山一の「万年4位」が定着したのも横田の時代
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [102]1972年5月 日高輝会長、植谷久三社長が就任
    • [108]1973年4月 株式を東京・大阪・名古屋証券取引所2部に再上場、初値530円
    • [114]1980年12月 植谷久三会長、横田良男社長が就任
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [103]植谷が社長に就いた72年9月期は営業収益が65年9月期の4.5倍の601億円、経常利益が40倍の230億円で過去最高
    • [105]植谷は銀行からの独立志向を強め、銀行から来ていた役員は日高を除き植谷時代に一掃された
    • [106]植谷が社長就任後、早々に打ち出した施策は「下半期の交際費の1カ月分増額」だった
    • [111]植谷の社長時代は他の大手3社との収益格差がじりじり広がっていった時期
    • [112]証券恐慌の後遺症で財政基盤が脆弱だったため先行投資に後れを取り、急速に進んだ国際化やコンピューター化の流れに乗り遅れた
    • [113]山一は証券恐慌で支店網を大幅に縮小したうえ、もともと法人偏重の風潮が強くリテール部門が弱かった
    • [115]植谷の後継候補は植谷が推す横田と、日高が目をかけた新谷勝。新谷は78年に系列の内外証券社長に転出
    • [116]70年代に株式市場が時価発行増資の時代になり、企業は販売力で主幹事証券を選ぶようになって野村が主幹事会社を急拡大した
    • [117]横田の4期8年の在任中、経常利益が最高を更新したのは6回。87年9月期には経常利益2209億円
    • [118]87年9月期に野村は2倍以上の4937億円の経常利益を稼ぎ「利益日本一」となった。山一の「万年4位」が定着したのも横田の時代
    • [104]1972年の創業75周年に普通配当5円と記念株式配当1円を実施
    • [107]1970年9月期に3円・年6分の復配
    • [110]1973年12月 日高輝が瀬川美能留を継いで日本証券業協会会長に選出
  • 日本大百科全書「山一證券」
    • [109]1973年9月に公開増資、1974年2月に東証第一部へ指定替え

債券先物の損失と、決算期をまたぐ移し替え

1985年10月19日、国債先物取引が102円で始まった。五日後の日本銀行総裁の澄田智氏による円高誘導のための金利引き上げもやむを得ないという発言[120]をきっかけに債券相場は急落し、先物は25日から三日連続で値幅制限いっぱいまで下げる[121]。先物を買い建てていた山一證券と顧客の損失が膨らみ、同社が負った損失は百億円を超えた[122]。債券売買益は1985年9月期まで大和證券・日興証券とほぼ肩を並べていたが、1986年9月期には両社の二割から三割の水準へ落ち込んでいる[123][119]

  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [119]1985年10月19日 国債先物取引が102円でスタート
    • [120]5日後の澄田智日銀総裁の「円高誘導のため金利引き上げもやむを得ない」との発言で債券相場が暴落
    • [122]この債券暴落で山一が負った損失額は100億円を超えた
    • [123]債券売買益は85年9月期までは大和・日興とほぼ肩を並べていたが、86年9月期に両社の2〜3割の水準へ落ち込んだ
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [121]1985年10月25日に相場急落、先物は3日連続で値幅制限いっぱいまで下落

1986年8月、三菱重工業が千億円の国内転換社債を起債した[124]。引受幹事団に入った山一證券は、発行会社の指示に従って15億円の新発転換社債を出入りの総会屋へ配分する。1982年の商法改正で総会屋への利益供与が禁じられた[126]のちの割り当てであり、重工事件へ発展した。同年12月、事業法人担当専務だった行平次雄氏が退任してロンドン現地法人の会長へ移る[127]。配分先の名簿を入手した副社長の成田芳穂氏ら四名は行平氏の退任を求めて動いた[128]とされ、その後、成田氏は1987年1月16日に自宅で自らの命を絶った[129]。取締役だった吉田允昭氏は退社し、行平氏は同年12月に副社長として復帰している[130][125]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [124]1986年8月 三菱重工業が1000億円の転換社債を発行
    • [127]1986年12月 行平次雄専務が退任しロンドン現地法人会長に就任
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [125]引受幹事団に入った山一が三菱重工の指示に従い15億円の新発CBを三菱重工出入りの総会屋に配った
    • [126]1982年の商法改正で総会屋への利益供与が禁じられた
    • [128]配分先の総会屋リストを入手した副社長の成田芳穂ら4人が行平降ろしの工作を行ったとされる
    • [129]成田芳穂は1987年1月16日に自宅で自ら命を絶った
    • [130]行平は1年後の87年12月に副社長として本体に復帰

1987年9月、タテホ化学工業の債券投資の失敗が発覚した[131]。山一證券が運用を任されていた営業特金では、一定の利回りを保証したうえで三井銀行と住友信託銀行が運用資金を貸し付けた形の資金[132]の損失が大きく、顧客は地方の信用組合・信用金庫・警察共済などで、損失額は400億円から500億円にのぼる。翌10月20日のブラックマンデーで日経平均株価は3,836円下げ、株式で運用していた事業会社の資金にも穴があいた。負わされた損失はこの時点で千億円前後にのぼり[135]、含み損を抱えた債券を決算期の異なる別の会社へ一時避難させたことが、同社の簿外債務の原点[136]となった。 [133][134]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [131]1987年9月 タテホ化学工業の債券先物取引で286億円の損失発生が発覚(タテホ・ショック)
    • [134]1987年10月20日 米国株暴落で日経平均株価が3836円安(ブラックマンデー)
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [132]損失が大きかったのは一定利回りを保証したうえで三井銀行と住友信託銀行が運用資金を貸し付けた「バックファイナンス付きファンド」
    • [133]客は地方の信用組合や信用金庫、警察共済などで損失額は400億〜500億円
    • [135]タテホ・ショックとブラックマンデーで山一が責任を負わされた損失額はこの時点で1000億円前後
    • [136]含み損を抱えた債券を決算期の異なる別の会社に一時避難させたのが山一の簿外債務の原点になった
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [119]1985年10月19日 国債先物取引が102円でスタート
    • [120]5日後の澄田智日銀総裁の「円高誘導のため金利引き上げもやむを得ない」との発言で債券相場が暴落
    • [122]この債券暴落で山一が負った損失額は100億円を超えた
    • [123]債券売買益は85年9月期までは大和・日興とほぼ肩を並べていたが、86年9月期に両社の2〜3割の水準へ落ち込んだ
    • [125]引受幹事団に入った山一が三菱重工の指示に従い15億円の新発CBを三菱重工出入りの総会屋に配った
    • [126]1982年の商法改正で総会屋への利益供与が禁じられた
    • [128]配分先の総会屋リストを入手した副社長の成田芳穂ら4人が行平降ろしの工作を行ったとされる
    • [129]成田芳穂は1987年1月16日に自宅で自ら命を絶った
    • [130]行平は1年後の87年12月に副社長として本体に復帰
    • [132]損失が大きかったのは一定利回りを保証したうえで三井銀行と住友信託銀行が運用資金を貸し付けた「バックファイナンス付きファンド」
    • [133]客は地方の信用組合や信用金庫、警察共済などで損失額は400億〜500億円
    • [135]タテホ・ショックとブラックマンデーで山一が責任を負わされた損失額はこの時点で1000億円前後
    • [136]含み損を抱えた債券を決算期の異なる別の会社に一時避難させたのが山一の簿外債務の原点になった
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [121]1985年10月25日に相場急落、先物は3日連続で値幅制限いっぱいまで下落
    • [124]1986年8月 三菱重工業が1000億円の転換社債を発行
    • [127]1986年12月 行平次雄専務が退任しロンドン現地法人会長に就任
    • [131]1987年9月 タテホ化学工業の債券先物取引で286億円の損失発生が発覚(タテホ・ショック)
    • [134]1987年10月20日 米国株暴落で日経平均株価が3836円安(ブラックマンデー)

1988年〜 帳簿の外へ移した含み損と、百一年で幕を引いた自主廃業

営業特金の膨張と、小松委員会の密室処理

1988年9月、横田良男氏が会長に退き、行平次雄氏が社長に就いた[137]。行平氏は就任直後、簿外の損失を隠密裏に処理するための非公式な委員会を設ける[138]。責任者は副社長となっていた小松正男氏で、副社長で財務担当の松本良之助氏[139]、専務債券本部長の石原弘康氏、専務金融法人本部長の新村鋭男氏、のちに社長となる専務企画室長の三木淳夫氏、常務事業法人本部長の高木眞行氏が中心にいた。小松委員会と呼ばれたこの組織は損失の穴埋めにあたり、1989年ごろには損失額が200億円程度まで縮小したという。処理の全体を知る者は、のちに監査役の木下公明氏と企画担当常務の藤橋忍氏らごく一部に限られた[141][140]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [137]1988年9月 横田良男会長、行平次雄社長が就任
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [138]行平は就任直後、簿外の損失を隠密裏に処理するための非公式な委員会を設置した
    • [139]責任者は副社長の小松正男。中心メンバーは松本良之助(副社長・財務担当)、石原弘康(専務・債券本部長)、新村鋭男(専務・金融法人本部長)、三木淳夫(専務・企画室長)、高木眞行(常務・事業法人本部長)
    • [140]「小松委員会」は損失の穴埋めに狂奔し、89年ごろには損失額は200億円程度に縮小した
  • 週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」
    • [141]行平体制では木下公明監査役や藤橋忍企画担当常務らごく一部の役員によって隠蔽工作が行われ、その全容を知る者はほとんどいなかった

営業特金は特定金銭信託の一種で、投資家に代わって証券会社が運用を指示する商品[142]である。山一證券の社内には営業特金を1兆円集めろという号令がかかり、残高はピーク時に2兆円あったといわれる。証券取引法が禁じている利回り保証は握りと呼ばれ[144]、財テク競争のなかで企業側があからさまに要求するようになった。企業がちらつかせたのが主幹事の変更であり[145]、法人取引に強みを置く山一證券にとって主幹事を外されることは避けたい事態だった。退職を決めた幹部社員が営業特金の縮小を進言したとき、行平氏は、危険なのはわかっているが野村が続けているうちは手を引けない、大手の座を守るためにもやめられない[146]と答えたという。 [143]

  • 日経ビジネス 1998年2月23日号「実録 山一証券100年目の破綻4 市場の歪み背負って狂奔」
    • [142]営業特金は特定金銭信託の一種で、投資家や投資顧問会社に代わって証券会社が運用を指示する金融商品
    • [143]「営業特金を1兆円集めろ」の号令がかかり、山一の営業特金の総額はピーク時2兆円あったといわれる
    • [144]証券取引法で禁止されている利回り保証は「握り」と呼ばれ、財テク競争で企業側があからさまに要求するようになった
    • [145]企業がちらつかせたのが主幹事の変更で、「法人の山一」の伝統にこだわる山一は主幹事を外されることを絶対に避けたかった
    • [146]行平は「営業特金の拡大が危険なのはわかっているが、野村が続けているうちは手を引けない。大手の座を守るためにもやめられないんだ」と答えた

1989年10月に大和証券が営業特金の運用で生じた顧客の損失を補填していた事件が発覚し[147]、同年12月、証券局長の角谷正彦氏が営業特金を翌年3月末までに解消するよう求める通達を出した[148]。野村證券は補填する必要のある特金はすべて補填する方針を打ち出して3月末までに一斉に片づけた[149]が、山一證券は運用規模の大きい企業の処理を後回しにし、会社数では半分、金額では三割を処理するにとどまった[150]。1990年3月期の経常利益は2,336億円と過去最高を記録しており、この期に損失を表へ出す余力はあった。 [151]

  • 日経ビジネス 1998年3月2日号「実録 山一証券100年目の破綻 最終回 保身に走った大蔵省」
    • [147]1989年10月に大和証券が営業特金の運用で出た客の損失を補填していた事件が発覚したのがきっかけ
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [148]1989年12月 大蔵省が営業特金の一任勘定の廃止を通達(角谷通達)。証券局長は角谷正彦
    • [151]1990年3月期決算で経常利益が2336億円と過去最高
  • 日経ビジネス 1998年2月23日号「実録 山一証券100年目の破綻4 市場の歪み背負って狂奔」
    • [149]野村は「補填する必要のある特金はすべて補填する」という方針を打ち出し3月末までに一斉に片づけた
    • [150]山一は運用規模の大きい企業の処理を後回しにして、会社数では半分、金額では3割を片づけるのがやっとだった
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [137]1988年9月 横田良男会長、行平次雄社長が就任
    • [148]1989年12月 大蔵省が営業特金の一任勘定の廃止を通達(角谷通達)。証券局長は角谷正彦
    • [151]1990年3月期決算で経常利益が2336億円と過去最高
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
    • [138]行平は就任直後、簿外の損失を隠密裏に処理するための非公式な委員会を設置した
    • [139]責任者は副社長の小松正男。中心メンバーは松本良之助(副社長・財務担当)、石原弘康(専務・債券本部長)、新村鋭男(専務・金融法人本部長)、三木淳夫(専務・企画室長)、高木眞行(常務・事業法人本部長)
    • [140]「小松委員会」は損失の穴埋めに狂奔し、89年ごろには損失額は200億円程度に縮小した
  • 週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」
    • [141]行平体制では木下公明監査役や藤橋忍企画担当常務らごく一部の役員によって隠蔽工作が行われ、その全容を知る者はほとんどいなかった
  • 日経ビジネス 1998年2月23日号「実録 山一証券100年目の破綻4 市場の歪み背負って狂奔」
    • [142]営業特金は特定金銭信託の一種で、投資家や投資顧問会社に代わって証券会社が運用を指示する金融商品
    • [143]「営業特金を1兆円集めろ」の号令がかかり、山一の営業特金の総額はピーク時2兆円あったといわれる
    • [144]証券取引法で禁止されている利回り保証は「握り」と呼ばれ、財テク競争で企業側があからさまに要求するようになった
    • [145]企業がちらつかせたのが主幹事の変更で、「法人の山一」の伝統にこだわる山一は主幹事を外されることを絶対に避けたかった
    • [146]行平は「営業特金の拡大が危険なのはわかっているが、野村が続けているうちは手を引けない。大手の座を守るためにもやめられないんだ」と答えた
    • [149]野村は「補填する必要のある特金はすべて補填する」という方針を打ち出し3月末までに一斉に片づけた
    • [150]山一は運用規模の大きい企業の処理を後回しにして、会社数では半分、金額では3割を片づけるのがやっとだった
  • 日経ビジネス 1998年3月2日号「実録 山一証券100年目の破綻 最終回 保身に走った大蔵省」
    • [147]1989年10月に大和証券が営業特金の運用で出た客の損失を補填していた事件が発覚したのがきっかけ

決算期の外から帳簿の外への移し替え

損失を抱えた有価証券を決算期末に他の企業へ売り、決算後に金利を付けて買い戻す操作は疎開と呼ばれ、取引所への報告義務がある媒介によって行われていた[152]。取引所が時価と大きく離れた価格の媒介を制限すると[153]、企業同士の直取引によって損失を移す飛ばしが広がる。取引所への報告がないため、実態を知るのは当事者と仲介した証券会社だけになった[154]。1990年5月、小松正男氏の子会社転出にともなって小松委員会は解散し、副社長の延命隆氏が引き継ぐ[155]。延命氏は会議を一度開いただけで委員会を解き、以後の処理は近い人間だけで詰められた[156]。同年8月の湾岸危機による外債取引の為替損は、オーストラリアの現地法人に移された[157]

  • 日経ビジネス 1998年2月23日号「実録 山一証券100年目の破綻4 市場の歪み背負って狂奔」
    • [152]損失を抱えた有価証券を決算期末直前に他の企業に売却し、決算後に「帳簿の汚し代」といえる金利を付けて買い戻す手法が「疎開」。使われた売買手法は「媒介」で取引所にも報告義務があった
    • [153]取引所が時価と大きく離れた価格で買い戻す媒介を厳しく制限するようになり「疎開」は難しくなった
    • [154]飛ばしは企業同士の直取引で行い、取引所にも報告せず、取引の実態を知るのは当事者と仲介役の証券会社だけになる
    • [155]1990年5月に副社長の小松正男の子会社転出で「小松委員会」が解散、後任には副社長の延命隆が就いた
    • [156]延命は会議を1度開いただけで委員会を解散し、延命に近い人間だけで処理策が詰められて密室処理の度合いが深まった
    • [157]90年8月の湾岸危機が引き起こした為替相場の波乱で外債取引に関わる為替損が出て、後にオーストラリアの現地法人に隠された

1991年6月、大口顧客に対する損失補填が表に出た[158]。山一證券は六十四法人と二個人に対し、総額456億円の損失補填を行っていた。最大の補填先は阪和興業グループ[160]である。同年9月4日、社長の行平次雄氏は参議院の特別委員会で証人喚問を受け[161]、野村證券と日興証券の社長が辞任するなかで職にとどまる理由を質された。行平氏は、失った信頼を取り戻す筋道をつけるまで努力を続けたいと答えている[162]。損失をすべて表に出すよう進言した副社長がいたものの、その副社長は関係会社へ移された[163][159]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [158]1991年6月 4大証券を中心とした損失補填が発覚(証券スキャンダル)
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
    • [159]山一証券は64法人と2個人に総額456億円の損失補填を行っていた
  • 週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」
    • [160]最大の補填先は阪和興業グループ
  • 週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
    • [161]1991年9月4日 行平次雄社長が参議院の特別委員会で証人喚問を受けた
    • [162]行平は「失った信頼を取り戻す筋道をつけるまで努力を続けたい」と答えた
    • [163]損失をすべて表に出すよう進言した副社長は関係会社へ移された

1991年夏、都内のホテルで会議が開かれた[164]。出席したのは行平次雄氏、副社長の三木淳夫氏、延命隆氏ほか事業法人関係を中心とする十人[165]である。飛ばしの経緯を解明し、裁判になっても勝てる相手か、山一證券が損を引き取らざるを得ない相手かを色分けする議論[166]だった。同年11月の二度目の首脳会議で、勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決まる[167]。12月20日、クレディ・スイス信託銀行に開いた特定金銭信託口座で約2,000億円の国債を購入し、これを山一エンタープライズの子会社五社へ貸し付けて資金を作り、含み損のある有価証券を時価を上回る価格で買い取らせた[169]。それまで取引先の口座で進めてきた損失処理を、この時点から自社で抱え込んでいる[170]。簿外に置かれた損失は最終的に2,648億円に達し、うち1,583億円が国内、1,065億円が海外で発生した。海外分は山一オーストラリアに集まっ[172]ている。 [168][171]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [164]1991年夏、都内ホテルで営業特金の処理を巡る会議
  • 日経ビジネス 1998年2月23日号「実録 山一証券100年目の破綻4 市場の歪み背負って狂奔」
    • [165]出席者は行平、副社長の三木淳夫、延命のほか事業法人関係を中心とする10人
    • [166]「飛ばし」の経緯を解明するとともに、裁判になっても勝てる相手なのか、山一が損を引き取らざるを得ない相手なのか色分けをした
    • [167]1991年11月の2度目の首脳会議で「戦っても勝ち目のない取引先」の損失を簿外で処理する大枠が決められた
    • [170]それまで取引先の口座で進めてきた損失処理を、この局面で山一自身のものとし抱え込んだ
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
    • [168]1991年12月20日 クレディ・スイス信託銀行の特定金銭信託口座で約2000億円の国債を購入
    • [169]国債を山一エンタープライズの子会社5社に貸し付けて資金を作り、その口座で含み損のある有価証券を時価を上回る価格で買い取った
  • 山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書(1998年4月16日公表)
    • [171]簿外債務2648億円のうち1583億円が国内、1065億円が海外で発生
    • [172]海外分は山一オーストラリアに集まっていた
  • 日経ビジネス 1998年2月23日号「実録 山一証券100年目の破綻4 市場の歪み背負って狂奔」
    • [152]損失を抱えた有価証券を決算期末直前に他の企業に売却し、決算後に「帳簿の汚し代」といえる金利を付けて買い戻す手法が「疎開」。使われた売買手法は「媒介」で取引所にも報告義務があった
    • [153]取引所が時価と大きく離れた価格で買い戻す媒介を厳しく制限するようになり「疎開」は難しくなった
    • [154]飛ばしは企業同士の直取引で行い、取引所にも報告せず、取引の実態を知るのは当事者と仲介役の証券会社だけになる
    • [155]1990年5月に副社長の小松正男の子会社転出で「小松委員会」が解散、後任には副社長の延命隆が就いた
    • [156]延命は会議を1度開いただけで委員会を解散し、延命に近い人間だけで処理策が詰められて密室処理の度合いが深まった
    • [157]90年8月の湾岸危機が引き起こした為替相場の波乱で外債取引に関わる為替損が出て、後にオーストラリアの現地法人に隠された
    • [165]出席者は行平、副社長の三木淳夫、延命のほか事業法人関係を中心とする10人
    • [166]「飛ばし」の経緯を解明するとともに、裁判になっても勝てる相手なのか、山一が損を引き取らざるを得ない相手なのか色分けをした
    • [167]1991年11月の2度目の首脳会議で「戦っても勝ち目のない取引先」の損失を簿外で処理する大枠が決められた
    • [170]それまで取引先の口座で進めてきた損失処理を、この局面で山一自身のものとし抱え込んだ
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [158]1991年6月 4大証券を中心とした損失補填が発覚(証券スキャンダル)
    • [164]1991年夏、都内ホテルで営業特金の処理を巡る会議
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
    • [159]山一証券は64法人と2個人に総額456億円の損失補填を行っていた
    • [168]1991年12月20日 クレディ・スイス信託銀行の特定金銭信託口座で約2000億円の国債を購入
    • [169]国債を山一エンタープライズの子会社5社に貸し付けて資金を作り、その口座で含み損のある有価証券を時価を上回る価格で買い取った
  • 週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」
    • [160]最大の補填先は阪和興業グループ
  • 週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
    • [161]1991年9月4日 行平次雄社長が参議院の特別委員会で証人喚問を受けた
    • [162]行平は「失った信頼を取り戻す筋道をつけるまで努力を続けたい」と答えた
    • [163]損失をすべて表に出すよう進言した副社長は関係会社へ移された
  • 山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書(1998年4月16日公表)
    • [171]簿外債務2648億円のうち1583億円が国内、1065億円が海外で発生
    • [172]海外分は山一オーストラリアに集まっていた

大蔵省への相談と、百一年で引いた幕

飛ばし先の一社である東急百貨店との間では、損の押しつけ合いが1991年夏以降続いていた[173]。1992年1月、同社は弁護士名で、全額を1月末までに返済すること、できなければ告訴するという催告書を送る[174]。副社長だった三木淳夫氏は1991年12月と1992年1月に証券局長の松野允彦氏を訪ね[175]、松野氏は、国内は大蔵省が調べざるを得ないが海外は目が届かない、国内から外に出すなら心配はない[176]と述べた。松野氏は1998年2月の衆議院大蔵委員会と参議院財政金融委員会で、1991年末に山一から飛ばしに関する相談があったことを認めている[177]。1992年6月に行平氏が会長、三木氏が社長に就いた[178]。決算では1992年3月期に1964年以来の赤字を計上し[179]、1995年3月期は506億円の経常赤字、1997年3月期は1,647億6,300万円の当期損失を出している。 [180][181]

  • 日経ビジネス 1998年3月2日号「実録 山一証券100年目の破綻 最終回 保身に走った大蔵省」
    • [173]飛ばし先の1社である東急百貨店と山一は91年夏以降、損の押しつけ合いで応酬を続けていた
    • [174]1992年1月に東急百貨店が弁護士名で「全額を1月末までに返済すること。それができないならば告訴する」という催告書を送った
    • [175]副社長だった三木淳夫が証券局長の松野允彦を訪ねたのは1991年12月と92年1月
    • [176]松野は「国内は大蔵省が調べざるを得ないが外は目が届かない」「海外から国内に持ち込むときはそうだが、国内から外に出すなら心配はない」と述べた
    • [177]松野允彦は1998年2月4日に衆院大蔵委員会、2月13日に参院財政金融委員会で「1991年末に山一から飛ばしに関する相談があった」と認めた
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [178]1992年6月 行平次雄会長、三木淳夫社長が就任
    • [180]1995年3月期決算で506億円の経常赤字
  • 山一證券 1992年3月期決算(同時代報道による)
    • [179]1992年3月期に1964年以来の赤字を計上
  • 山一證券 1997年3月期決算発表(1997年4月28日)
    • [181]1997年3月期は1647億6300万円の当期損失

1997年7月30日、総会屋の小池隆一氏への利益供与[182]と損失補填の疑いで東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が本社などを捜索した。8月11日に会長の行平次雄氏と社長の三木淳夫氏ら11人が退任し、野澤正平氏が社長に就く[184]。簿外債務を知らされたのは就任直後で[185]、10月6日に約2,600億円をメインバンクの富士銀行へ報告した。9月24日には三木前社長が逮捕されている[187]。11月3日に三洋証券が会社更生法の適用を申請し、17日には北海道拓殖銀行が営業譲渡を発表した[188]。19日、証券局長の長野厖士氏は自主廃業を選択してほしいと告げる[189]。翌20日に弁護士を東京地裁へ送って会社更生の事前相談を求めたが、受け付けられなかった[190][183][186]

  • 週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
    • [182]総会屋小池隆一グループへの利益供与事件で強制捜査を受けた
    • [189]11月19日に長野厖士証券局長が「検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい」と告げた
    • [190]11月20日に弁護士を東京地裁へ送って会社更生の事前相談を求めたが受け付けられなかった
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [183]1997年7月30日 東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が商法違反(利益供与)、証券取引法違反(損失補填と利益追加)の疑いで山一本社などを家宅捜索
    • [184]1997年8月11日 行平次雄会長、三木淳夫社長ら経営首脳が総退陣し、五月女正治会長、野澤正平社長が就任
    • [185]野澤が簿外債務の存在を三木からの引き継ぎで知らされたのは8月11日の社長就任直後
    • [186]1997年10月6日 山一役員が富士銀行に簿外債務を報告
    • [187]1997年9月24日 東京地検特捜部が三木淳夫前社長を逮捕
    • [188]1997年11月3日 三洋証券が会社更生法を申請、11月17日に北海道拓殖銀行が営業譲渡発表

11月21日にムーディーズが格付けを三段階引き下げて投資不適格とし[191]、22日の日本経済新聞が自主廃業を報じた[192]。24日午前6時の臨時取締役会で営業停止を決議し[193]、午前11時30分、野澤氏は東京証券取引所で男泣きしながら社員は悪くありませんと訴えている[194]。1998年3月31日、創業から百一年で全社員を解雇して営業を停止した[195]。4月16日に嘉本隆正氏を委員長とする社内調査委員会[196]が簿外債務の調査報告書を公表し、1999年6月2日の破産宣告によって日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた[198]。破産手続は2005年1月26日の債権者集会で終了し[199]ている。同社は1987年に九十年史の編纂を進めながら刊行せず、1997年4月の創業百周年に予定した社史も日の目を見なかった[200][197]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [191]1997年11月21日 ムーディーズが山一債の格付けを3段階引き下げ、投資不適格債に
    • [192]1997年11月22日 日本経済新聞が「山一自主廃業」を報道
    • [193]1997年11月24日 早朝6時から始まった臨時取締役会で自主廃業を決定
  • 日経ビジネス 1998年12月21日号「野澤正平氏[山一証券社長]、兵を語る 会見の涙は悔しさと心労から」
    • [194]午前11時30分に東京証券取引所で会見し、野澤社長は号泣しながら「社員は悪くありません」と訴えた
  • 週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」
    • [195]1998年3月31日に全社員を解雇して営業を停止。創業から101年
    • [196]調査報告書は弁護士を加えた9人の社内調査委員会が作成し、委員長は嘉本隆正常務
  • 山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書(1998年4月16日公表)
    • [197]1998年4月16日 社内調査委員会が簿外債務の調査報告書を公表
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」
    • [198]1999年6月2日に破産宣告を受け、日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた
    • [199]破産手続の終了は2005年1月26日の債権者集会
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [200]10年ほど前に90年史編纂のための取材が行われたが結局90年史は出版されず、97年4月の創業100周年にも社史の刊行を準備していたが計画が遅れ日の目を見なかった
  • 日経ビジネス 1998年3月2日号「実録 山一証券100年目の破綻 最終回 保身に走った大蔵省」
    • [173]飛ばし先の1社である東急百貨店と山一は91年夏以降、損の押しつけ合いで応酬を続けていた
    • [174]1992年1月に東急百貨店が弁護士名で「全額を1月末までに返済すること。それができないならば告訴する」という催告書を送った
    • [175]副社長だった三木淳夫が証券局長の松野允彦を訪ねたのは1991年12月と92年1月
    • [176]松野は「国内は大蔵省が調べざるを得ないが外は目が届かない」「海外から国内に持ち込むときはそうだが、国内から外に出すなら心配はない」と述べた
    • [177]松野允彦は1998年2月4日に衆院大蔵委員会、2月13日に参院財政金融委員会で「1991年末に山一から飛ばしに関する相談があった」と認めた
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
    • [178]1992年6月 行平次雄会長、三木淳夫社長が就任
    • [180]1995年3月期決算で506億円の経常赤字
    • [183]1997年7月30日 東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が商法違反(利益供与)、証券取引法違反(損失補填と利益追加)の疑いで山一本社などを家宅捜索
    • [184]1997年8月11日 行平次雄会長、三木淳夫社長ら経営首脳が総退陣し、五月女正治会長、野澤正平社長が就任
    • [185]野澤が簿外債務の存在を三木からの引き継ぎで知らされたのは8月11日の社長就任直後
    • [186]1997年10月6日 山一役員が富士銀行に簿外債務を報告
    • [187]1997年9月24日 東京地検特捜部が三木淳夫前社長を逮捕
    • [188]1997年11月3日 三洋証券が会社更生法を申請、11月17日に北海道拓殖銀行が営業譲渡発表
    • [191]1997年11月21日 ムーディーズが山一債の格付けを3段階引き下げ、投資不適格債に
    • [192]1997年11月22日 日本経済新聞が「山一自主廃業」を報道
    • [193]1997年11月24日 早朝6時から始まった臨時取締役会で自主廃業を決定
  • 山一證券 1992年3月期決算(同時代報道による)
    • [179]1992年3月期に1964年以来の赤字を計上
  • 山一證券 1997年3月期決算発表(1997年4月28日)
    • [181]1997年3月期は1647億6300万円の当期損失
  • 週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
    • [182]総会屋小池隆一グループへの利益供与事件で強制捜査を受けた
    • [189]11月19日に長野厖士証券局長が「検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい」と告げた
    • [190]11月20日に弁護士を東京地裁へ送って会社更生の事前相談を求めたが受け付けられなかった
  • 日経ビジネス 1998年12月21日号「野澤正平氏[山一証券社長]、兵を語る 会見の涙は悔しさと心労から」
    • [194]午前11時30分に東京証券取引所で会見し、野澤社長は号泣しながら「社員は悪くありません」と訴えた
  • 週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」
    • [195]1998年3月31日に全社員を解雇して営業を停止。創業から101年
    • [196]調査報告書は弁護士を加えた9人の社内調査委員会が作成し、委員長は嘉本隆正常務
  • 山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書(1998年4月16日公表)
    • [197]1998年4月16日 社内調査委員会が簿外債務の調査報告書を公表
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」
    • [198]1999年6月2日に破産宣告を受け、日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた
    • [199]破産手続の終了は2005年1月26日の債権者集会
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
    • [200]10年ほど前に90年史編纂のための取材が行われたが結局90年史は出版されず、97年4月の創業100周年にも社史の刊行を準備していたが計画が遅れ日の目を見なかった

山一證券の沿革1897〜2005年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
小池国三が東京・兜町で小池国三商店を創業
小池に改組
公社債引受業務に参入
小池を解散し山一を設立
山一證券に改組
杉野喜精が東京株式取引所理事長に転じ、太田収氏が社長に就任
太田収氏が鐘淵紡績株の投機失敗で社長を辞任★★
太田収氏が同月自殺
小池証券と合併し新・山一證券が発足★★
投資信託業務に参入
1964年9月期決算で約34億5000万円の赤字を計上★★
日高輝が日産化学工業から社長に就任
日本銀行法二十五条による特別融資の受け入れと、新旧勘定分離による再建看板を残して債務を切り離せるか——史上初の日銀特融を四年余で完済するまで 詳細を読む★★★
新旧勘定分離により新会社を設立★★
新旧両社を合併し日銀特融を完済
1970年9月期に復配(3円、年6分)
日高輝氏が会長に就任
植谷久三氏が社長に就任
東京証券取引所第二部に再上場
東京証券取引所第一部に指定替え
横田良男氏が社長に就任
三菱重工業の転換社債をめぐる問題が社会問題化★★
後継をめぐる人事抗争で副社長が自殺
行平次雄氏が社長に就任
営業特金が拡大
損失補填問題が発覚★★
営業特金で生じた含み損の飛ばしと、連結対象外会社を使った簿外への移し替え表に出すか、先へ送るか——1991年の損失補填問題で山一證券が選んだ処理 詳細を読む★★★
総会屋への利益供与事件で強制捜査★★
会社更生法の申請の見送りと、営業停止・自主廃業による全事業の終了債務超過ではない会社がなぜ市場から降りたか——1997年11月の一週間 詳細を読む★★★
全社員を解雇して営業を停止★★
破産手続が終了し法人が消滅
出典・参考
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「実録 山一證券100年目の破綻1 信用崩壊、最期の迷走」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山一証券」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「山一証券」
  • 私の履歴書 日高輝(日本経済新聞連載、1975年)
  • 日本大百科全書「山一證券」
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「実録 山一證券100年目の破綻3 受け継がれた密室経営」
  • 私の履歴書 北裏喜一郎(日本経済新聞連載)
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著、東洋経済新報社、1986年)「投資信託時代の幕明け」
  • 日経ビジネス 1998年2月9日号「実録 山一證券100年目の破綻2 65年の日銀特融と経緯が酷似、「失政」は繰り返された」
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著、東洋経済新報社、1986年)「四〇年証券不況の衝撃」
  • 私の銀行昭和史(松沢卓二著、東洋経済新報社、1985年)「未成熟な資本市場とその挫折」
  • 日経ビジネス 1998年3月2日号「実録 山一証券100年目の破綻 最終回 保身に走った大蔵省」
  • 週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」
  • 日経ビジネス 1998年2月23日号「実録 山一証券100年目の破綻4 市場の歪み背負って狂奔」
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
  • 週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
  • 山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書(1998年4月16日公表)
  • 山一證券 1992年3月期決算(同時代報道による)
  • 山一證券 1997年3月期決算発表(1997年4月28日)
  • 日経ビジネス 1998年12月21日号「野澤正平氏[山一証券社長]、兵を語る 会見の涙は悔しさと心労から」
  • 週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」

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