1897年〜 兜町の株式仲買商が屋号を社名に変え、戦時統合で創業家の会社になるまで
- 1897年小池国三が東京・兜町で小池国三商店を創業
- 1907年小池合資会社に改組し公社債引受業務に進出
- 1917年小池合資会社を解散し山一合資会社を設立
- 1926年山一證券株式会社に改組
- 1935年杉野喜精が東京株式取引所理事長に転じ、太田収が社長に就任
- 1938年太田収社長が鐘淵紡績株の投機の失敗で辞任し、同月自殺
- 1943年小池証券と合併し新・山一證券株式会社が発足
山一證券の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
創業者の名を外し、屋号を社名に据えるまで
山梨県甲府出身の小池国三氏が1897年、東京・兜町で株式仲買商として小池国三商店を開いた。1907年に小池合資会社へ改組し、証券業者としては初めて公社債の引受業務に踏み込んでいる。1917年4月、小池合資会社を解散して山一合資会社を設立し、杉野喜精氏が社長に就いた。「山一」の名はこのとき生まれ、1926年の山一證券株式会社への改組を経て、1998年に営業を停止するまで八十年あまり使われた。会社は4月15日を創業記念日とし、1967年に創業七十周年、1972年に七十五周年を祝っている。 [1][2][3]
- 日本大百科全書「山一證券」
- [1]1897年に小池国三が東京・兜町で小池国三商店を創業し、1907年に小池合資会社へ改組して証券業者として初めて公社債引受業務に進出、1917年に山一合資会社を設立、1926年に山一證券株式会社へ改組した
- [2]創業者の小池国三は山梨県甲府出身。1917年設立の山一合資会社の社長は杉野喜精
- [3]会社は創業記念日を4月15日とし、1967年が創業70周年、1972年が75周年にあたった。1975年の連載時点で創業78年
創業から二十年で商号から創業者の名が消えたことには、事業の性質が関わる。株式仲買は個人の信用で客を集める商いだが、公社債の引受は発行者と投資家の間に立って残高を抱える仕事であり、個人商店の身丈では受けきれない。小池国三商店から小池合資会社、そして山一合資会社へと器を替えた十年は、個人の信用を組織の信用に載せ替える作業だった。屋号を社名にしたことで、創業者が退いたあとも同じ看板で商いを続けられるようになった。山一合資会社そのものが、解散した小池合資会社の受け皿として設けられた会社だった。この看板の重さは、のちに二度、経営の判断を左右する。 [4][5]
- 日本大百科全書「山一證券」
- [4]1917年の山一合資会社は、解散した小池合資会社の受け皿として設立された
- [5]1966年の新旧勘定分離では、日高輝が約80店の看板を替える費用を特融返済に回すべきだと考え、新会社の商号を「山一証券」として伝統ある名称を残した
- 日本大百科全書「山一證券」
- [1]1897年に小池国三が東京・兜町で小池国三商店を創業し、1907年に小池合資会社へ改組して証券業者として初めて公社債引受業務に進出、1917年に山一合資会社を設立、1926年に山一證券株式会社へ改組した
- [2]創業者の小池国三は山梨県甲府出身。1917年設立の山一合資会社の社長は杉野喜精
- [4]1917年の山一合資会社は、解散した小池合資会社の受け皿として設立された
- [3]会社は創業記念日を4月15日とし、1967年が創業70周年、1972年が75周年にあたった。1975年の連載時点で創業78年
- [5]1966年の新旧勘定分離では、日高輝が約80店の看板を替える費用を特融返済に回すべきだと考え、新会社の商号を「山一証券」として伝統ある名称を残した
自己売買で社長を失い、戦時統合を迎える
1935年12月、杉野喜精氏が東京株式取引所の理事長に転じ、後任の社長に太田収氏が就いた。杉野氏の社長在任は十八年に及び、山一合資会社の設立から山一證券株式会社への改組までを指揮していた。太田氏は東京帝国大学を出た兜町人として知られ、学歴を備えた新しい型の経営者だった。しかし就任から二年余りのち、自ら指揮した鐘淵紡績の新株買いが暴落によって失敗する。私財を投じても損失は埋まらず、太田氏は1938年5月4日に社長を辞任し、同月28日に青酸カリで自らの命を絶った。野村證券に入った北裏喜一郎氏は、入社まもなく太田収氏の伝記を手渡された記憶を書き残している。 [6][7][8]
- 日本大百科全書「山一證券」
- [6]1935年12月に杉野喜精が東京株式取引所理事長へ転じ、後任の社長に太田収が就任した。杉野の社長在任は1917年から1935年12月まで
- [7]太田収は東京帝国大学卒で、学歴を備えた兜町人として知られた。1938年5月4日に鐘淵紡績新株の投機失敗の責任をとって社長を辞任し、同月28日に青酸カリで自殺した
- [8]太田収は東大卒の兜町人として有名で山一証券の社長であったが、仕手戦に敗れて自殺した。北裏喜一郎は野村證券入社まもなく太田収の伝記を手渡された
この一件を、相場を読み違えた個人の失敗として片づけることはできる。だが同じことが起きる条件は、当時の証券会社の作りのなかにあった。顧客の注文を取り次ぐ業務と、自社の資金で建玉を持つ業務と、新株の発行を引き受ける業務が一つの会社に同居しており、しかも社長がその自己売買を自ら指揮できた。損が出たときに損を抱えるのは会社であり、判断を止める者は社内にいない。顧客の損を自社で引き取る取引も、自社の建玉を顧客に持たせる取引も、同じ同居の上に成り立つ。会社が自らの売買で傾く危うさを、山一證券は戦前のうちに一度経験している。 [9]
- 日本大百科全書「山一證券」
- [9]当時の証券会社は顧客の注文の取次、自社資金による自己売買、新株の引受を一社で兼ね、社長が自己売買を自ら指揮できた(太田収が自ら鐘紡株の思惑買いを進めた事実から)
1943年9月、山一證券は小池証券と合併し、新たな山一證券株式会社として発足した。小池証券は創業者小池国三氏が1930年に興した小池銀行を改組した会社であり、この合併によって創業家の二つの事業が一つになった。社長には国三氏の子である小池厚之助氏が就いている。戦時下の金融統合のなかで進んだ再編だが、結果として創業家が経営を握る体制が固まり、その体制は戦後の証券ブームを通じて1954年まで続き、後任の社長には大神一氏が就いた。小池厚之助氏は社長を退いたのちも会長、相談役、顧問として社内にとどまり、1965年の危機に際して退任している。 [10][11][12]
- 日本大百科全書「山一證券」
- [10]1943年9月、山一證券は小池証券と合併して新・山一證券株式会社が発足した。小池証券は創業者小池国三の小池銀行(1930年創業)が改組した会社である
- [11]1943年9月の合併で小池国三の子である小池厚之助が社長に就き、1954年に大神一へ交代した
- [12]小池厚之助は社長退任後も会長・相談役・顧問として在社し、1965年の日銀特融に際して大神一会長とともに退任に追い込まれた
- 日本大百科全書「山一證券」
- [6]1935年12月に杉野喜精が東京株式取引所理事長へ転じ、後任の社長に太田収が就任した。杉野の社長在任は1917年から1935年12月まで
- [7]太田収は東京帝国大学卒で、学歴を備えた兜町人として知られた。1938年5月4日に鐘淵紡績新株の投機失敗の責任をとって社長を辞任し、同月28日に青酸カリで自殺した
- [9]当時の証券会社は顧客の注文の取次、自社資金による自己売買、新株の引受を一社で兼ね、社長が自己売買を自ら指揮できた(太田収が自ら鐘紡株の思惑買いを進めた事実から)
- [10]1943年9月、山一證券は小池証券と合併して新・山一證券株式会社が発足した。小池証券は創業者小池国三の小池銀行(1930年創業)が改組した会社である
- [11]1943年9月の合併で小池国三の子である小池厚之助が社長に就き、1954年に大神一へ交代した
- [8]太田収は東大卒の兜町人として有名で山一証券の社長であったが、仕手戦に敗れて自殺した。北裏喜一郎は野村證券入社まもなく太田収の伝記を手渡された
- [12]小池厚之助は社長退任後も会長・相談役・顧問として在社し、1965年の日銀特融に際して大神一会長とともに退任に追い込まれた