山一證券会社更生法の申請の見送りと、営業停止・自主廃業による全事業の終了

債務超過ではない会社がなぜ市場から降りたか——1997年11月の一週間

時期 1997年11月
意思決定者(推定) 野澤正平(社長)・臨時取締役会
論点 破綻処理の選択
概要
1997年11月24日午前6時、山一證券は臨時取締役会で営業停止を決議し、午前11時30分に東京証券取引所で自主廃業を発表した。簿外債務2648億円を含む約3300億円の損失を公表し、翌1998年3月31日に全社員を解雇して101年の営業を終えた。会社更生法の申請は事前相談の段階で道が閉ざされていた。
背景
同年8月に総会屋への利益供与で強制捜査を受け、経営陣11人が退任した。就任2週間後に簿外債務を知らされた野澤正平社長は社内調査を命じたが実態がつかめず、10月に富士銀行へ約2600億円を報告した。11月には三洋証券と北海道拓殖銀行が相次いで破綻していた。
内容
11月19日、長野厖士証券局長が自主廃業の選択を求めた。翌20日に弁護士を東京地裁へ送って会社更生の事前相談を求めたが受け付けられず、裁判官からは非公式に大蔵省の強い協力がないと難しいとの見解が示された。同日、局長は24日に大蔵省から発表すると告げ、これらは内閣の判断であると述べている。
含意
山一證券は債務超過ではなく、1998年3月末の時点でもそうであった。本来、債務超過の証券会社に自主廃業は認められず日銀特融も使えない。その両方の可能性を抱えたまま自主廃業の手順が採られ、日銀の特別融資は1999年に初めて焦げ付いた。
筆者の見解

市場の判定ではなく、行政の判断として

山一證券は債務超過ではなかった。1998年3月末の時点でもそうであったと関係者は述べている。ここに手続き上の捻れがある。債務超過の証券会社には自主廃業が認められず日銀特融も使えないし、刑事事件になれば特融は実施できない。その両方の可能性を抱えた会社に、大蔵省は自主廃業という手順を選ばせた。長野厖士証券局長は報告書公表後、橋本龍太郎首相と三塚博蔵相の指示があったと述べ、核心については国家機密に関することだと答えている。市場が引導を渡したというより、行政の判断として下りてきたとみることができる。

もっとも、この手順が誰の利益にもならなかったとはいえない。顧客の資産払い戻しには大蔵省主導の特別な金融措置が採られ、預けた側の損失は避けられた。会社更生に進んだ場合に同じ保護が働いたかは分からない。ただ、その代償として日本銀行の特別融資は1999年に初めて焦げ付き、破産手続の終了は2005年まで7年を要した。1965年に同じ制度で救われた会社が、二度目にはその制度を毀損して消えたことになる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

簿外債務を知らされた新社長

1997年8月、山一證券は総会屋の小池隆一氏への利益供与をめぐって強制捜査を受けた。8月11日、行平次雄会長と三木淳夫社長ら11人が退任し、野澤正平氏が社長に就いた。行平氏は顧問として社内に残っている。ある幹部は、社長には向かない人物をわざと指名し、何も知らない幹部を新任役員に引き上げて院政を敷いたのではないかと語っていた[1]

野澤氏が簿外債務の存在を知ったのは、就任2週間後の8月25日であった。行平前会長と三木前社長から報告を受け、業務監理を担う嘉本隆正常務に社内調査を命じたが、隠蔽に関わった幹部の協力が得られず実態の把握は難航した。10月6日、判明していた約2600億円をメインバンクの富士銀行へ口頭で伝えている。大蔵省への報告より先であった[2]

相次ぐ破綻と、格下げ

市場の側も待たなかった。1997年9月の中間決算で山一證券は大手4社のうち唯一の赤字に転落し、営業は法人部門を含めて実質的に止まっていた。10月中旬以降、株価は出来高を急増させながら急落し、情報漏れとインサイダーの疑いが持たれた。メインバンクの富士銀行も、山一は芙蓉グループではないという立場を示し、全面支援には踏み込まなかった[3]

11月3日夜に三洋証券が会社更生法の適用を申請し、17日には北海道拓殖銀行が破綻した。三洋証券の報道を知ったある幹部社員は、次は自社の番だと思ったという。21日金曜の夕方にムーディーズが格下げを発表し、連休明けの資金繰りが立たなくなった。22日の日本経済新聞が自主廃業を報じ、他紙には載っていなかったため、社員は当局が書かせたものと受け取った[4][5]

決断

閉ざされた会社更生の道

1997年11月19日午前11時30分、大蔵省で長野厖士証券局長は野澤氏にこう告げた。感情を交えずに淡々と言うが、検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい、金融機関としてこんな信用のない会社に免許を与えることはできない、と。野澤氏は「局長、なんとか助けて下さい」と頭を下げた。ただ、その日の午後の役員会でも、自主廃業を迫られていることは伏せられていた[6]

翌20日、会社は弁護士を東京地裁へ送り、会社更生について事前の相談に乗ってもらおうとした。相談は受け付けられず、裁判官から非公式に、大蔵省の強い協力がないと難しいという見解が示された。同日午前10時45分、長野局長は24日に大蔵省から発表するので準備をせよと求め、顧客の資産払い戻しには大蔵省主導で特別の金融措置をとると述べ、これらのことは内閣の判断であると告げている[7]

11月24日の決議

11月24日午前6時、臨時取締役会が営業停止を決議した。午前11時30分、東京証券取引所での記者会見で野澤氏は男泣きしながら「社員は悪くありません」と訴えた。公表された損失は約3300億円で、うち簿外債務が2648億円、保有有価証券の含み損が約300億円、関係会社への貸付金に伴う損失が約200億円、10月以降の赤字が約100億円であった。株価は102円で終わった[8]

会社更生を目指したが断念したという説明は、社内でも納得を得られなかった。会社の規模を考えると金融市場に大きな混乱が生じると予測され、顧客や取引先に多大な迷惑がかかる、という理由づけについて、ある社員は役人の言葉のようで説得力がないと書き残している。「自主」廃業ではないのだろう、というのがその受け取り方であった[9]

結果

101年の終わりと、残された報告書

1998年3月31日、山一證券は全社員を解雇して営業を停止した。創業から101年であった。顧客資産の払い戻しには、予告どおり大蔵省主導の特別な金融措置が採られている。4月16日、社内調査委員会が簿外債務の調査報告書を公表した。嘉本隆正氏を委員長に弁護士を加えた9人が約4か月をかけ、100人を超える関係者から聴取したものであった[10]

報告書は冒頭で、自ら行った事実認定を示さず抽象的な反省の言葉を並べただけの報告書であってはならないと記した。日本経済新聞はこれを歴史的資料として日本の企業史に残ると紹介している。嘉本氏は聴取を振り返り、誰も自分の責任とは言わないので、では山一の消滅は自然現象なのかと怒鳴ったことがあると述べた。会社は1999年6月2日に破産宣告を受け、日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた[11][12]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
  • 週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」
  • 週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
  • 週刊東洋経済 1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」
  • 週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」
  • 山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書(1998年4月16日公表)

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