1,300億円の鹿島製造所は、東京(千住)製造所の土地が1,000億円で売れるという前提の上に組まれていた。入ったのは330億円余で、見込みの3分の1に届かない。合併時に2,866人を1,700人台へ絞り、年100億円を超える経常利益を出していた会社が、この一件で債務超過に沈んだことになる。神谷春樹社長が鹿島製造所に会社の経営資源を集中したこと自体は、地価が下がらないという当時の相場観のもとでは無謀とはいえない。狂ったのは投資の可否ではなく、原資の見積りである。
ただ、地価だけに帰すのも無理がある。営業キャッシュフローから減価償却を引いた額は鹿島の完成より3年早い1993年3月期に赤字へ転じており、投資を支える稼ぎはその時点で減少していた。撤退の進め方についても留保が残る。任意清算と承継会社という組み合わせは1,000人の雇用を引き継いだ一方、廃棄された設備は鹿島のブルーム連鋳機と大形工場にとどまり、月産能力は1万トンしか減少しなかった。日本鋼管の帳簿からは負の遺産が消え、電炉業界の過剰能力はそのまま残った。