住友金属工業の事業は、銅から始まった。住友家は元禄四年から伊予の別子銅山を経営し、明治以降は採鉱と精錬に加えて関連する諸事業[1]へ広げた。その一つとして、1897年4月に大阪市安治川へ住友伸銅場を開設している[2]。まず銅と真鍮の板・棒・線の製造に着手し、翌1898年からはアルミニウム板を製作した[3]。わが国民間で最初の軽金属加工にあたる。日露戦争後には建艦材料の自給要請にこたえ、1909年に銅・真鍮の引抜管、1912年に冷間引抜鋼管の製造を始めた[4]。いずれも国内で最初の製品であり、復水器用の真鍮管と缶用の鋼管は以後も独自の品種として残った。参入の順序は銅から真鍮、そして鋼であり、鉄鋼専業としての出発ではなかった。
1913年に住友伸銅所と改称したのち[5]、第一次世界大戦の好況を受けて設備を広げた。1919年には尼崎の岸本製鉄所を買収して尼崎工場とし、スウェーデンから購入[6]していた鋼管材料を自給する体制に切り替えた。1921年には熱間仕上鋼管の製造も始めている。1920年に着手したジュラルミンの製造は、大戦中に撃墜されたドイツのツェッペリン飛行船の金属製骨格の破片を海軍から交付され[7]、それを研究して試作に成功したものであった。1926年7月には株式組織に改めて資本金1,500万円[8]の住友伸銅鋼管となり、大阪桜島に新工場を建設して1928年に安治川工場を移した。軽合金材は航空機の機体と発動機向けに需要を伸ばし、1933年には金属プロペラの製造に入った。
もう一つの系譜は製鋼である。1901年6月、大阪伝法に住友鋳鋼場を開設した。三屯半の小平炉から発足したわが国民間最初の平炉工場であり[9]、のちに大阪島屋町へ新工場を建設して1907年9月に移転している。1915年12月には資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所[10]となり、設備を拡充して1920年9月に1,200万円へ増資、同年11月に住友製鋼所と改称した。この間に製品は鍛鋼品にも及び、1918年には本多光太郎博士が発明したKS磁石鋼の工業化に成功している[11]。伸銅側が銅から鋼へ降りてきたのに対し、製鋼側は最初から鋼を扱い、両者は原料も工程も違う事業として並走した。
住友製鋼所が独自の地位を築いたのは鉄道車輌用品である。1919年に鉄道用外輪の圧延を始め、1922年からは主台枠、連結器、電車用台車、輪バネといった新製品に着手[12]した。鉄道車輌用品工場としての地位は高まり、販路は外地[13]にも及んだ。1934年3月には資本金1,500万円へ増資している。銅の加工から出発した伸銅鋼管と、平炉から出発した製鋼所は、住友合資の傘下で別会社として運営された[14]。品種はほとんど重ならず、統合の必要は必ずしも明らかではなかった。それでも軍需の拡大が両社に共通の顧客を与え、1935年の合併へ向かう条件が揃った。
1935年9月、住友伸銅鋼管が住友製鋼所を合併し、資本金4,000万円[15]で住友金属工業が発足した[16]。合併直後に5,000万円へ増額し[17]、その後も数次の増資を経て1943年11月には4億1,875万円に達している。準戦時から戦時にかけて製品中の軍需品比率は上がり、超ジュラルミン、超々ジュラルミン、ハミルトン式およびVDM式プロペラ、発動機用特殊鋼鍛圧品といった航空機部品が総販売高の7割以上を占めた[18]。工場は既設の桜島、島屋、尼崎に加えて1941年以降に鉄鋼五、非鉄六、プロペラ五工場を各地へ設けている。民需の加工品メーカーから航空機部品の供給者へ、事業の内容は十年で入れ替わった。
生産は1944年が最高で、鉄鋼20万屯、非鉄八万屯[19]、プロペラ三万本を数え、終戦時の主要工場は十九に達した。しかし戦争末期には12工場が爆撃を受けている[20]。終戦後は軍需生産の停止、財閥の解体、大工場の賠償指定という三つの制約が同時にかかった。1945年11月には商号を扶桑金属工業へ変更し、八工場で生産を再開[21]した。住友の名を外したのは財閥解体の要請によるもので、事業の実体が変わったためではない。もっとも、航空機部品という最大の需要を失った以上、社名だけでなく品種の構成も組み替えるほかなかった。
1949年7月、企業再建整備計画の認可に基づき第二会社の新扶桑金属工業が資本金7億円で設立[22]され、扶桑金属工業は解散した。現在に続く法人格はここから始まる。新扶桑金属は稼動していた八工場を承継したが、1950年12月に鳴海と豊橋の二工場を分離し、1951年には堅田工場を閉鎖した。残ったのは製鋼所、鋼管製造所、和歌山製造所、吹田製作所、伸銅所[23]の五工場である。1949年9月には東京、大阪、名古屋の各証券取引所へ上場[24]した。戦時に十九あった主要工場が五つになった事実は、この会社が戦後を規模の縮小から始めたことを示している。
最大の弱点は銑鉄を自前で持たないことにあった。終戦直後、国内に残った高炉は八幡製鉄所の三基だけで、戦時最盛期の三十七基[25]から激減していた。1947年3月にGHQ反トラスト課が示した日本製鉄の解体案では広畑製鉄所の扱いが定まらず、これに目をつけたのが川崎重工、神戸製鋼、扶桑金属といった関西系メーカーである[26]。日産千屯の高炉二基とすぐれた鋼板生産設備を持つ最新鋭工場を共同管理し、銑鉄の安定した供給を確保するとともに、有力な競争相手とみられる鋼板設備を先に手中へ収めることを狙った。日本製鉄の巻き返しによってこの主張は通らず、銑鉄[27]をどこから得るかという問題は未解決のまま残った。
1952年5月、商号を住友金属工業に[28]戻した。翌1953年7月には小倉製鋼を合併して小倉製鉄所を発足させ、銑鋼一貫の態勢を確立している。合併に伴い資本金は25億円となり、1954年6月には50[29]億円へ増えた。1952年いっぱい続いた不況のもとでは平炉メーカーと単圧メーカーの系列化が進み、八幡製鉄[30]による徳山鉄板・大阪鉄板の合併、富士製鉄による大同鋼板などの系列化と並んで、住友金属の小倉製鋼吸収は再編の代表例に数えられた。広畑で果たせなかった銑鉄の確保を、内陸の高炉メーカーを買収して実現したことになる。
1955年3月期の売上高は133億3,000万円に達し、鉄鋼部門[31]がその8割を占めて六大メーカーの一つとなった。品種の構成は他の高炉メーカーと異なっていた。鉄道車輌用品は戦前から国鉄と私鉄に納め、インドやアルゼンチンへ輪軸[32]を大量に輸出していた。鋼管は二大メーカーの一つで、高級鋼管を主体に米国と南米へ油井用鋼管を出した。和歌山製造所には1951年に米国製の電縫管設備、1953年にドイツ製の帯鋼圧延機を据え、小倉製鋼の合併に伴って線材と棒鋼にも進出している[33]。薄板の量産ではなく、車輪と鋼管という特定用途で稼ぐ構造がこの時期に定まった。
1950年代末から60年代初めにかけて、住友金属工業は非鉄部門を相次いで分離した。1959年8月に伸銅とアルミニウム圧延部門を分けて住友軽金属工業を設立し[34]、1961年1月には航空機器事業部門から住友精密工業を、1963年1月には磁鋼と電子材料製造部門から住友特殊金属を独立させている。分離した事業はいずれも創業以来の系譜に属する。伸銅は1897年の住友伸銅場そのものであり、KS磁石鋼は1918年に工業化した製品であった[35]。社名に金属を残しながら、非鉄と特殊材料を手放す判断であった。分離先はいずれも住友グループ内に残り[36]、資本関係を通じて取引は続いた。
この選択には合理性があった。高炉と転炉の大型化が進む時代に、伸銅・軽金属・磁性材料はそれぞれ別の設備投資と販路を必要とし、同一の会社で抱えれば投資判断が競合する。分社によって各事業は自らの市場に合った規模で設備を持てるようになった。もっとも、分離した各社が後に上場企業として成長したことを考えれば、住友金属工業[37]は成長事業を手放して鉄鋼という単一の市場に賭けた形にもなる。1970年3月には住友精密工業が東京と大阪の証券取引所へ上場した[38]。鉄で稼げるかどうかに、会社の帰趨が集まった。
1961年3月、和歌山製鉄所が発足し第1高炉に火入[39]れした。1951年に電縫管設備を据えた和歌山製造所を、臨海の一貫製鉄所へ組み替える工事の帰着点にあたる。1950年夏には川崎製鉄の西山弥太郎社長が千葉での一貫製鉄所建設を構想し、銑鉄を外部から買って平炉で鋼を製造する方式[40]から脱する道を先に示していた。住友金属の和歌山は、八幡製鉄の戸畑、日本鋼管の水江、神戸製鋼の灘浜[41]と並んで、この時期に誕生した新鋭製鉄所の一つに数えられる。小倉で得た高炉が内陸の既存設備であったのに対し、和歌山は原料の輸入と製品の輸出に直結する臨海立地であった。
1960年代後半は高炉建設の競争期であった。粗鋼の内需は年率19.6%、生産は17.8%で伸び[42]、日本鋼管福山、川崎製鉄水島、八幡製鉄君津、神戸製鋼加古川と並んで住友金属工業鹿島が新規に稼働した。鹿島製鉄所は1968年12月に発足し、1971年1月に第1高炉へ火入[43]れしている。1967年度から産業構造審議会鉄鋼部会が設備調整を始め、各社が提出した五年間の高炉計画は十八基に上った。富士製鉄名古屋の一基が延期される一方、八幡製鉄君津三号、住金鹿島二号[44]、川鉄水島四号は繰り上げて着工された。和歌山と鹿島の二拠点体制は、この調整のなかで固まった。
1968年4月に八幡製鉄と富士製鉄の合併が発表され[45]、公正取引委員会の審判を経て1970年に新日本製鐵が発足した。合併の理由として両社は、設備単位の大型化と需要の鈍化による重複投資の危険[46]、技術開発力の強化、国際競争力の強化を挙げている。この合併によって業界は最大手一社と、それを追う四社に分かれた。住友金属工業は粗鋼規模で新日鉄に大きく劣り、以後40年をこの序列のなかで戦った。対米輸出については1966年から高炉九社の自主規制が始まり、1969年には日本とECが米国向け数量を調整する第一次対米自主規制へ進んだ[47]。
1985年9月のプラザ合意による円高は、高炉メーカーの採算を直接に削った。輸出価格が円ベースで下がり、国内市況も輸入鋼材の水準に引かれて値下がりが続いた。新日本製鉄、日本鋼管、住友金属工業、川崎製鉄、神戸製鋼所の高炉五社は1985年度下半期から1987年度上半期まで実質的な赤字を続け[48]、有価証券売却などを考慮した1986年度の実質赤字は4,000億円に達し、中間配当も一斉に取りやめた。住友金属工業は1987年に鋼管製造所(尼崎)のシームレス鋼管工場と和歌山製鉄所の厚板工場を休止している[49]。二拠点に広げた設備が、内需の成熟と円高のもとでは過剰になった。
合理化と並行して各社は多角化へ走った。新日本製鉄は売上高目標を4兆円に置き、製鉄事業の構成比を5割以下に下げる計画を掲げてエレクトロニクスと情報通信へ進んだ。[50]住友金属工業も事業開発センターを設けて新素材分野へ入り[51]、半導体製造装置とシリコンウエーハ、電子セラミックス部品を手がけた。1996年3月には電子セラミックス部品事業を住友金属セラミックスへ譲り、1998年10月には住友シチックスを合併[52]してシリコンウエーハ事業を本体に取り込んだ。同社傘下の住友シチックス尼崎とスミトモシチックスシリコンも、関係会社として引き継いでいる。
本業では特定品種への集中投資を選んだ。1992年10月に日本ステンレスを合併し、1993年初めには和歌山製鉄所の中径シームレスパイプ設備の全面更新を発表した。国内シェア3割を占めるシームレスパイプ[53]で競争力を高める狙いだった。1999年夏には500億円を投入した新製鋼工場も稼働した。
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|---|---|---|---|---|
| 1897〜1945年別子銅山の銅から鋼へ ―― 伸銅と製鋼の二系譜が一社に集まるまで | 住友家が大阪市安治川に住友伸銅場を開設 | ★ | ||
| 大阪伝法に住友鋳鋼場を開設 | ★ | |||
| わが国民間初の平炉工場として製鋼業に着手 | ★ | |||
| 住友伸銅場を住友伸銅所に商号変更 | ★ | |||
| 住友鋳鋼所を住友製鋼所に商号変更 | ★ | |||
| 住友伸銅所を株式組織に改めの住友伸銅鋼管を設立 | ★ | |||
| 住友伸銅鋼管と住友製鋼所の合併により住友金属工業が発足 | ★★ | |||
| 扶桑金属工業に商号変更 | ★ | |||
| 1946〜1960年賠償と財閥解体を越えて、小倉製鋼の高炉で銑鋼一貫を手にする | 企業再建整備計画により第二会社の新扶桑金属工業を設立 | ★★ | ||
| 東京、大阪、名古屋の各証券取引所に上場 | ★ | |||
| 鳴海、豊橋の2工場を分離 | ★ | |||
| 日本パイプ製造が東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 商号を住友金属工業に変更 | ★ | |||
| 小倉製鋼の合併による銑鋼一貫体制の確立 1953年7月、住友金属工業が小倉製鋼を吸収合併して小倉製鉄所を発足させ、銑鋼一貫の態勢を確立した経営判断。合併に伴い資本金は25億円となり、翌1954年6月には50億円へ増えた。線材・棒鋼の製造にも進出している。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 伸銅・アルミニウム圧延部門を分離し住友軽金属工業を設立 | ★ | |||
| 1961〜1995年和歌山と鹿島 ―― 高炉二拠点を築いた拡大と、円高が奪った採算 | 航空機器事業部門を分離し住友精密工業を設立 | ★ | ||
| 和歌山製鉄所が発足 | ★ | |||
| 和歌山製鉄所第1高炉に火入れ | ★★ | |||
| 磁鋼・電子材料製造部門を分離し住友特殊金属を設立 | ★ | |||
| 鹿島製鉄所が発足 | ★★ | |||
| 住友精密工業が東京・大阪の各証券取引所に上場 | ★ | |||
| 鹿島製鉄所の第1高炉に火入れ | ★ | |||
| 住友海南鋼管を合併 | ★ | |||
| 鋼管製造所のシームレス鋼管工場と和歌山製鉄所の厚板工場を休止 | ★★ | |||
| 日本ステンレスと合併 | ★★ | |||
| 和歌山製鉄所の中径シームレスパイプ工場設備の全面更新を発表 | ★ | |||
| 1996〜2012年独立を買った代償 ―― 株価40円からの再建と、新日鉄との統合 | 住友シチックスを吸収合併しシリコンウエーハ事業を取得 | ★ | ||
| 日本パイプ製造へ和歌山製鉄所の溶接鋼管事業を譲渡 | ★ | |||
| 和歌山製鉄所の再建と熱間圧延ラインの休止 1999年に始まり2005年に完了した和歌山製鉄所の再建。現場の部長級8人による特命チームが2年間で200億円のコストを削り、再建策の中核として熱間圧延ラインの休止を発案した。2003年11月には高炉を含む上工程を分社して台湾・中国鋼鉄との合弁会社の子会社とし、2005年3月に熱延ラインを止めた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 新日本製鐵との包括的提携に向けた交渉開始を発表 | ★★ | |||
| シリコンウエーハ事業をシリコンユナイテッドマニュファクチュアリングに譲渡 | ★ | |||
| 新日本製鐵・神戸製鋼所との三社資本提携 2003年1月、住友金属工業が新日本製鐵・神戸製鋼所と住友グループ各社を引受先とする第三者割当増資を実施し、二度の信用不安を断った経営判断。下妻博社長が神戸製鋼所の水越浩士社長を巻き込み、三社の資本提携を新日鉄へ提案する形で成立した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| ステンレス事業を会社分割し新日鐵住金ステンレスに承継 | ★ | |||
| 友野宏 | 和歌山製鉄所の新第1高炉に火入れ | ★ | ||
| 住友金属小倉・住友金属直江津と合併 | ★ | |||
| 新日本製鐵との合併により新日鐵住金が発足 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友金属工業)