八幡製鐵と富士製鐵の合併・新日本製鐵の誕生

1970年成立

なぜ「世紀の合併」は公正取引委員会との2年がかりの攻防を経て成立したのか?

更新:

時期 1969年5月
概要
1968年に公表された八幡製鐵と富士製鐵の合併。公正取引委員会との約2年の攻防を経て、1970年3月31日に新日本製鐵が発足した案件。
背景
1950年に国策会社・日本製鐵が過度経済力集中排除法で分割されて生まれた両社が、資本自由化と過当な設備投資競争を背景に再統合へ向かった。
内容
公取委は鉄道用レール・食缶用ブリキ・鋳物用銑・鋼矢板の4品種で競争制限のおそれを認定。両社は設備・株式の譲渡など競争回復措置を約し、同意審決で合併が承認された。
含意
わが国で唯一、正式の届出・審判手続を経て成立した合併事例とされ、企業結合規制と産業再編をめぐる議論の原点として今も参照される。
筆者の見解

シェアだけでは測れない企業結合

八幡・富士の合併が今なお参照されるのは、企業結合の可否をどう判断するかという問いを正面から突きつけたからである。財界が説く効率性向上効果と、近代経済学者が懸念する競争制限効果——この相反する2つの効果をどう比較考量するかは、半世紀を経た現在の企業結合審査にも通じる論点であろう。RIETIの定量分析が、マーケットシェアやHHIの大小だけで合併の可否を判断することの経済学的な妥当性は乏しいと結論づけている点は、シェアの数字に引きずられがちな議論への一つの問い直しとして読める。

同時に本件は、競争回復措置という条件付き承認の難しさも示している。4品目の設備・株式の譲渡という措置は、合併を成立させる現実的な落としどころとして機能した一方、RIETIの分析は、その措置が必ずしも社会厚生の観点から最適ではなかった可能性を指摘する。条件を課して合併を通すか、課さずに認めるか、あるいは認めないか——この三択のいずれが望ましいかは一義的には決まらない。正式の届出・審判手続を経た唯一の事例とされる新日本製鐵の誕生は、産業再編と競争政策のあいだの緊張を映す原点として、なお検討に値する題材であり続けている。

Yutaka Sugiura

統合の背景

分割された日本製鐵——再統合へ向かう構図

八幡製鐵と富士製鐵は、もともと一つの会社であった。1934年に官営製鉄所と民間製鉄会社が合同して発足した国策会社・日本製鐵は、戦後、過度経済力集中排除法の対象となり、1950年に製鉄部門が2つに分割される[1]。こうして生まれたのが八幡製鐵と富士製鐵である。RIETIの定量評価論文によれば、成立直後の1934年度における日本製鐵の粗鋼生産シェアは53%に達しており[2]、その高い市場シェアゆえに分割の対象となった経緯がある。両社の合併は、戦後の分割で人為的に分けられた旧日本製鐵が、四半世紀を経て再び一つに戻る再結合という性格を帯びていた。

マクロ環境——資本自由化と設備投資競争

合併へ向かう動機の中心には、過当な設備投資競争への危機感があったとされる。日本製鐵の分割後、八幡・富士の両社に日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼所を加えた「大手6社」が大きなシェアを持ち[3]、業界をリードしていた。1960年代に資本の自由化が段階的に進むなか、世界規模の競争に耐える企業体質を築くには投資主体を集約するほかないという声が財界で強まる。八幡製鐵の稲山嘉寛社長は、合併計画が表面化した直後のインタビューで、1965年の設備調整が紛糾してまとまりがつかなかったとき、永野重雄・富士製鐵社長との間で「いっしょになろうか」という話が出て二人で腹を決めた[4]、と語ったと伝えられている。

合併から6年後、稲山は日経ビジネスのインタビューで、その動機をより具体的に語っている。「八幡・富士の合併は価格の安定効果を高めたと考えているのか」と問われた稲山は、「そんなことは考えておりません。われわれは最もコストを安くする方法を選んだ」と答えた。溶鉱炉は1基で年400万トンを生産できる規模になり、需要が毎年400万トンずつ増えるとしても本来は1基で足りるのに、競争で5社がそれぞれ建設すれば2000万トン分もの過剰設備が生じ、装置産業では大変なコスト高になる——だから「無駄なことはやめて大グループになっていかないと、国民経済的にみて不幸をきたす」と考えた、というのである。設備投資の重複回避という合併の核心が、主導者本人の言葉で説明されていた[5][6]

統合の発端

公表経緯——スクープ、そして世論の二分

表面化のきっかけは報道だった。RIETIの論文によれば、1968年4月17日の毎日新聞朝刊が、当時の鉄鋼業界をリードするトップ2社の合併をスクープする[7]。再統合による新しい日本製鐵が復活すれば、USスチールに次ぐ世界第2位の粗鋼生産高を有する製鉄会社の誕生が見込まれていた[8]。両社が最初に合併について述べた公式文書である「合併趣意書」は、「多数企業がいたずらに競争して大型設備の重複投資を行う」ことを鉄鋼業の直面する問題の筆頭に掲げ、合併のメリットの第一に「設備計画の一元化による設備投資の効率化」を据えていたとされる。財界や通商産業省は早くからこの主張に理解を示し、合併を支持したと伝えられている。

合併公表は世論を二分する大きな議論を引き起こした。財界では生産性や技術力の向上をもたらす可能性が高いとして歓迎する意見が大勢を占めた一方、近代経済学者を中心とするグループは強い反対を表明する。1968年6月、近代経済学者90人のグループは「大型合併についての意見書」を発表し[9]、市場における自由な競争を可能にする土壌の確保こそが経済発展の原動力であり、大型合併はこの自由な競争を実質的に制限するおそれがあると主張した。賛否それぞれの立場から、企業合併を評価することの難しさが正面から問われる事態となった。

八幡製鐵

両社首脳の布陣——稲山と永野

合併を主導したのは、八幡製鐵の稲山嘉寛社長と富士製鐵の永野重雄社長という両首脳であった。日本記者クラブの取材ノートによれば、1969年5月1日、両社長は共同記者会見を開き、合併を正式に発表する[10]。新会社の体制では永野重雄氏が会長、稲山嘉寛氏が社長に就くことが想定されており[11]、合併の業務を担う役員には八幡側の有田通元専務、富士側の徳永久次専務があてられたと伝えられている。旧日本製鐵の系譜を引く2社のトップが、分割で分かれた組織を再び束ねる役回りを担った。

統合の経過

公取委との攻防——勧告・審判・同意審決

合併は、独占禁止法に基づく正式の手続きを経た稀有な事例となった。RIETIの論文によれば、公正取引委員会は1968年4月30日に両社からの趣旨説明と事前相談の意向を受けて事前審査を始め、翌1969年2月に、当該合併が独禁法15条に抵触すると思料する旨とその問題点の要旨を内示する[12]。両社は1969年3月19日付で合併届出書を提出し、指摘された問題点を解消するための対応策も示したが、公取委はそれでは問題は解消しないとして審査手続を開始した。八幡・富士の合併は、わが国の合併史上で唯一知られる正式届出による合併事例とされ[13]、事前相談による企業結合審査が主流であるなかで、独禁法の運用を考えるうえでも特異な位置を占めている。

対立は法廷の手前まで進んだ。RIETIの論文によれば、公取委は1969年5月7日に両社へ合併契約に基づく合併をしないよう勧告し、両社が応諾しない旨を回答したため、同年5月19日に審判手続きを開始することを決定した[14]。さらに当時、両社が6月1日を合併期日として手続きを進めていたことから、公取委は東京高等裁判所に対し、審決があるまで合併してはならないとする緊急停止命令を申し立てた[15]。両社が合併期日を延期したことで、申し立てはその後取り下げられた。審判は1969年6月19日から同年10月14日まで計13回開かれ、両社は10月15日付で同意審決申立書を提出する。

4品目の競争回復措置——同意審決の核心

審決の核心は、4つの取引分野に対する競争回復措置にあった。RIETIの論文によれば、公取委は1969年2月の内示で、鉄道用レール・食缶用ブリキ・鋳物用普通銑・鋼矢板の4品種について競争制限のおそれを指摘した[16]。これら4品種で合併後にも有力な競争相手が存在するよう、両社は他の大手各社に協力を求める。鉄道用レールについては日本鋼管に圧延設備を譲渡して技術指導も行い、鋳物用普通銑については八幡製鉄所の高炉1基を神戸製鋼に譲渡して技術指導をしながら競争相手とする措置が決まった[17]。食缶用ブリキと鋼矢板についても、日本鋼管や川崎製鉄に対する技術指導や株式売却が約された。

これらの対応策が確認された結果、公取委は1969年10月30日、条件付きで本件合併を承認する旨の同意審決を下した[18]。RIETIの論文によれば、審決は4品種について設備譲渡・株式譲渡および技術やノウハウの提供などの競争回復措置を採るべきこと等を命じるものとなった。同論文がこの措置を粗鋼設備に置き換えて試算したところ、合併社、すなわち八幡・富士両社の合計の1.8%の設備が日本鋼管および神戸製鋼に譲渡される計算になるという[19]。世論を二分した論争は、こうして条件付き承認という決着を見た。

統合の帰結

新日本製鐵の発足

同意審決を受けて、八幡・富士の両社は1970年3月31日をもって合併し、新日本製鐵が誕生した[20]。RIETIの論文によれば、両社の生産量はそれまで3位の日本鋼管と比べて1.5~2倍の規模であり、合計シェアは成立後もほぼ一貫して40%前後で推移した。大手6社が大手5社へと再編されたことで、業界の競争構造は新たな段階に入る。日本記者クラブの取材ノートによれば、発足時の体制は会長に永野重雄氏、社長に稲山嘉寛氏が就いた[21]。分割から20年を経て旧日本製鐵が再結合した、世界有数の規模をもつ製鉄会社の登場であった。

合併後の業界はどう変化したか。RIETIの論文によれば、合併後の大手5社の生産の伸びは1960年代に比べて著しく鈍化したが、これは他の主要鉄鋼生産国でも同様の現象であり、合併だけに帰せられるものではないとされる。同論文の定量分析は、八幡・富士の合併には競争制限効果が見られたものの、生産性向上の効果がそれを大幅に上回ったため、社会余剰は年平均で45%ほど上昇したと推定する[22]。一方で同意審決による資本譲渡は、譲渡資本を新日鉄のほうがより効率的に使えたために、全体としては社会厚生を減少させる効果を持ったとも分析しており[23]、競争回復措置の評価には慎重な見方を示している。

巨大化の功罪——合併7年後の新日鉄

合併が生んだ巨大企業は、その後どう見られたか。日経ビジネスが1977年に組んだケーススタディは、合併7年を経た新日鉄の「功罪」を同時代の視点から検証している。同誌によれば、新日鉄は1976年度の上場企業従業員ランキングで7万7489人を擁して第1位に躍り出(関連・下請けを含めれば約21万人)、売上高も全製造業のトップを占めるに至った。永野重雄・稲山嘉寛・斎藤英四郎の3首脳が経団連・日本商工会議所・日経連などの要職を握り、記事は新日鉄が「合併で増幅した政治力」と財界での発言力をもつと指摘する。富士側の合併担当役員だった徳永久次も常任顧問として経営の中枢に残っており、合併の主役たちが引き続き舵を取っていた[24][25]

もっとも同誌の評価は手放しの礼賛ではない。世界的な鉄鋼不況のなか、新日鉄は過剰設備・過剰人員を抱えたまま「コストプラス適正利潤」による値上げに依存し、"株式公社" へ傾斜していると批判的に描かれる。稲山は不況下でも人員に手をつけず、「完全雇用は企業が国に代わってする仕事だ」と語って「温情主義」「共存共栄」を掲げたが、業界内シェアは低下を続け、鋼材の値上げ交渉は自動車業界などの反発で年々長期化していた。合併の生産性向上効果をRIETIの定量分析が後年に評価する一方で、巨大化がもたらした"鉄の論理"と市場メカニズムとの緊張は、同時代の経済誌の目には早くも映っていたのである[26][27]

出典・参考

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