川崎製鉄 の歴史

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創業 1950年
創業者 西山弥太郎
創業地 兵庫県神戸市
創業
1950年8月、川崎重工業から製鉄部門を分離し、資本金5億円の第二会社として神戸市葺合区脇浜町で川崎製鉄が発足した。初代社長は西山弥太郎氏である。年産33万トン、圧延鋼材の生産量は全国4位、薄鋼板と高級仕上鋼板ではそれぞれ首位に立ちながら、銑鉄は他社から買い、自前の高炉は持たなかった。発足の半年後、1951年2月に千葉市の埋立地で高炉から圧延までを一つに並べる工事へ着手する。日本銀行の一万田尚登総裁は反対したが、1953年6月に第1高炉へ火が入った。
決断
先に高炉を建て、規模はあとから合わせるという順序を崩さなかった。千葉は資本金5億円の会社が組むには過大な計画で、圧延機は世界銀行の借款で据えている。稼働が原価を下げると、次の投資はさらに早く来た。千葉の完成から間もない1961年7月、岡山県倉敷市に二つ目の一貫製鉄所を新設する。1970年に稼働した3号高炉は炉内容積3,363立方メートルに達し、1974年には高炉4基で粗鋼年産1,200万トンに達する。粗鋼生産の世界順位は1973年の7位から1974年に6位へ上がった。1985年にはLSI事業推進部を置いてASICへ参入し、設備規模を競う汎用品ではなく設計で稼ぐ領域を選んでいる。
現況
鉄鋼事業を引き受けたのは、統合の相手ではなく川崎製鉄の登記だった。2002年9月、NKKとの共同株式移転で完全親会社JFEホールディングスが設立され、川崎製鉄はその完全子会社となって上場を廃止した。発足から52年である。翌2003年4月の会社分割で、川崎製鉄はNKKの鉄鋼事業を承継してJFEスチールへ商号を変更した。千葉と水島の製鉄所も従業員もそのまま引き継がれている。1985年に始めた半導体だけは2001年7月に川崎マイクロエレクトロニクスとして分社され、2012年にメガチップスへ譲渡された。
競合
規模で最後に足りなかったのは高炉ではなく、投資に回す現金だった。1999年度、支配力基準の導入で連結子会社は55社から209社へ増え、不動産子会社へ過去に売却した利益約500億円が消去されて約250億円の連結欠損金が残る。中期経営計画が掲げた3年間の連結フリーキャッシュフロー目標は2,500億円で、新日本製鐵の5,000億円、NKKの4,000億円を下回った。設備を先に建てて量で伸びる形は、投資の原資を自前で作れるあいだしか続かない。2001年4月にNKKとの経営統合を発表し、国内2強の一方をNKKと組んで確保する。同じ年に神戸製鋼所が合併ではなく相互出資と業務提携を選んだのとは、規模の取り方が分かれた。
川崎製鉄:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1956年4月期1985年3月期

創業ストーリー 川崎重工業から分かれた製鉄部門が、千葉で銑鋼一貫に踏み切るまで (1950年〜)

造船所の一工場として育った鋼板技術と、製鉄部門の分離独立

川崎製鉄の鉄は、造船所の一工場から始まった。1906年、川崎造船所は造船所用の鋳鍛鋼品を作る目的で分工場を設け、1907年7月には造船用鋼材の自給と車両製造を兼ねて兵庫東尻池に兵庫工場を開いた。第一次世界大戦で輸入鋼材が途絶えると同工場は繁忙をきわめ、1917年に神戸市脇浜の埋立地へ主力工場として葺合工場を新設して、翌1918年から中板・厚板の製造に入った。1924年には、需要が多いにもかかわらず製造が難しく大半を輸入に頼っていた薄鋼板の圧延に国内で初めて成功する。1937年の生産実績は約34万トンに達した。造船会社の内製部門が、薄板という民需の主力品種で全国有数の供給者に育った。 [1][2][3]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」/日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「機械-信用を得た国産品」
    • [1]明治39年(1906年)5月に川崎造船所が造船所用鋳鍛鋼品製造の目的で分工場を設立し兵庫分工場と呼び翌年に鋳鋼品製造を開始(日本産業史 第1巻)、明治40年(1907年)7月に造船用鋼材自給と車輌製造の目的で兵庫東尻池に兵庫工場を開設(会社銀行八十年史)。両者は年が食い違うのではなく、1906年5月の分工場設立と1907年7月の兵庫工場開設という別の出来事で、本文の併記は正しい
    • [2]1917年5月に兵庫県神戸市に葺合工場を開設、大正7年(1918年)に中板・厚板の製造を開始、大正13年(1924年)に薄鋼板の圧延製造に初めて成功
  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [3]昭和12年(1937年)における生産実績は約34万トン

1950年8月、製鉄部門は川崎重工業から分離して川崎製鉄となった。企業再建整備法をはじめとする戦後の諸法令による制約に加え、直接の関連が薄い造船業と同じ経営のもとに置かれることが製鉄の拡張を妨げていた。資本金5億円の第二会社として発足し、初代社長には葺合工場で製鋼・製板を率いた西山弥太郎氏が就いた。1950年の生産は年33万トンで、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位にとどまる。ただし薄鋼板と高級仕上鋼板ではそれぞれ第1位を占めた。高炉を持たず、銑鉄を他社から買う平炉メーカーとしての独立である。 [4][5]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [4]昭和25年(1950年)8月、川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円の第二会社として川崎製鉄が創立、初代社長に西山弥太郎が就任
    • [5]昭和25年の生産は年間33万トン、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位、薄鋼板・高級仕上鋼板では第1位
  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」/日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「機械-信用を得た国産品」
    • [1]明治39年(1906年)5月に川崎造船所が造船所用鋳鍛鋼品製造の目的で分工場を設立し兵庫分工場と呼び翌年に鋳鋼品製造を開始(日本産業史 第1巻)、明治40年(1907年)7月に造船用鋼材自給と車輌製造の目的で兵庫東尻池に兵庫工場を開設(会社銀行八十年史)。両者は年が食い違うのではなく、1906年5月の分工場設立と1907年7月の兵庫工場開設という別の出来事で、本文の併記は正しい
    • [2]1917年5月に兵庫県神戸市に葺合工場を開設、大正7年(1918年)に中板・厚板の製造を開始、大正13年(1924年)に薄鋼板の圧延製造に初めて成功
  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [3]昭和12年(1937年)における生産実績は約34万トン
    • [4]昭和25年(1950年)8月、川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円の第二会社として川崎製鉄が創立、初代社長に西山弥太郎が就任
    • [5]昭和25年の生産は年間33万トン、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位、薄鋼板・高級仕上鋼板では第1位

日銀総裁の反対を越えて着手した千葉の銑鋼一貫

独立の翌年、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地に一貫製鉄所を建設すると決め、1951年2月に着手した。既設の工場は戦時中に増やしたものが多い。1939年に岩手県久慈町へ粒鉄の久慈工場、1941年に西宮へ電気炉による特殊鋼の工場、1943年に愛知県半田市へ鋳鍛鋼品の知多工場を開いている。いずれも平炉と圧延を持つだけで、銑鉄は外部から買う。主力の薄板は近代生活の必需資材として需要が伸びる一方、質でも量でも原価でも既設設備は合理化の限界にきていた。計画の最終目標はホットストリップミルとコールドストリップミル各1基、これに原材料を高速かつ連続的に供給する製銑・製鋼・分塊の各設備で、資本金5億円で発足した会社が構想する規模ではない。 [6][7][8]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [6]昭和26年(1951年)2月、千葉市南方海岸埋立地に最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざして建設に着手
    • [7]計画の最終目標はホットストリップミル・コールドストリップミル各1基と、製銑・製鋼・分塊等の付帯設備
    • [8]昭和14年(1939年)に岩手県久慈町へ久慈工場(ロータリーキルンによる粒鉄)、16年(1941年)に西宮工場(電気炉による特殊鋼)、18年(1943年)に愛知県半田市へ知多工場(電気炉による鋳鍛鋼品)を開設

計画は金融界の反対にあった。日本銀行の一万田尚登総裁は『ペンペン草を生やす』[引用元]と述べて反対したと日本産業史は記録している。反対を押し切って建設は進み、1953年6月に千葉の第1高炉へ火入れした。この時期、鉄鋼業では42社が参加する第一次合理化計画が1951年から動いていた。1950年7月からの1年間で特需発注は3億4,000万ドルに近く、動乱前の滞貨推定額1,000億円を上回る規模で、金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めている。特需と輸出の急増が、戦後初めて経営者に近代化への意欲を与えた。翌1954年1月には富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが動き始める。千葉の一貫化は、この合理化計画と特需の数年に重なった。 [9][10][11]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「朝鮮動乱の刺激」
    • [9]昭和28年(1953年)6月、「ペンペン草を生やす」という一万田日銀総裁の反対を押し切って設立された川崎製鉄(西山弥太郎社長)の千葉銑鋼一貫工場の第一高炉が火入れ
    • [10]昭和26年(1951年)から42社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足、昭和29年(1954年)1月に富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが稼働
    • [11]昭和25年7月から26年6月の1年間の特需発注高は3億4,000万ドルに近く、動乱勃発前の滞貨推定額1,000億円を上回る。内容は金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めた

資金は増資でつないだ。資本金は1951年に10億円、1952年に20億円、1953年に40億円と倍額増資を重ね、いずれもおもに千葉の建設資金へ充てている。1954年9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基と付帯設備一式が第1期工事として完成し、稼働に入った。ここで川崎製鉄は平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ変わる。並行して葺合に亜鉛鍍金設備と酸素・水素・アセチレンの各工場、西宮に連続式帯鋼圧延機と鋼管工場、千葉にワイヤロープ・熔接棒・メタルラスの工場を設け、計量器やドラム缶といった二次製品にも手を伸ばした。1955年時点の製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額は250億円を超え、輸出が販売の約25%を占めた。 [12][13][14]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [12]資本金は昭和26年10億円、27年20億円、28年40億円と倍額増資を重ね、おもに千葉製鉄所新設資金に充当
    • [13]昭和29年(1954年)9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基および付帯設備一式を第1期工事として完成、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ
    • [14]1955年時点で製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額250億円超、輸出は販売の約25%
  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [6]昭和26年(1951年)2月、千葉市南方海岸埋立地に最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざして建設に着手
    • [7]計画の最終目標はホットストリップミル・コールドストリップミル各1基と、製銑・製鋼・分塊等の付帯設備
    • [8]昭和14年(1939年)に岩手県久慈町へ久慈工場(ロータリーキルンによる粒鉄)、16年(1941年)に西宮工場(電気炉による特殊鋼)、18年(1943年)に愛知県半田市へ知多工場(電気炉による鋳鍛鋼品)を開設
    • [12]資本金は昭和26年10億円、27年20億円、28年40億円と倍額増資を重ね、おもに千葉製鉄所新設資金に充当
    • [13]昭和29年(1954年)9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基および付帯設備一式を第1期工事として完成、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ
    • [14]1955年時点で製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額250億円超、輸出は販売の約25%
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「朝鮮動乱の刺激」
    • [9]昭和28年(1953年)6月、「ペンペン草を生やす」という一万田日銀総裁の反対を押し切って設立された川崎製鉄(西山弥太郎社長)の千葉銑鋼一貫工場の第一高炉が火入れ
    • [10]昭和26年(1951年)から42社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足、昭和29年(1954年)1月に富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが稼働
    • [11]昭和25年7月から26年6月の1年間の特需発注高は3億4,000万ドルに近く、動乱勃発前の滞貨推定額1,000億円を上回る。内容は金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めた

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川崎製鉄の沿革1950〜2002年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1950〜1958年川崎重工業から分かれた製鉄部門が、千葉で銑鋼一貫に踏み切るまで西山弥太郎川崎重工業から製鉄部門を分離し川崎製鉄を設立、初代社長に西山弥太郎が就任★★
西山弥太郎千葉製鉄所の建設と、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへの転換

1951年2月、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地で銑鋼一貫の千葉製鉄所の建設に着手した。前年に川崎重工業から分離したばかりの資本金5億円の新会社が、高炉から圧延までを一つの工場でつなぐ製鉄所を新設する計画であった。

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★★★
西山弥太郎千葉製鉄所の第1高炉に火入れ★★
西山弥太郎千葉製鉄所の第1期工事が完成
西山弥太郎世界銀行と2,000万ドルの借款契約を締結★★
1959〜1967年世界銀行の借款で据えた圧延機と、水島まで広げた二つの一貫製鉄所西山弥太郎岡山県倉敷市への水島製鉄所の建設と、千葉・水島の二極体制への移行

1961年7月、川崎製鉄が岡山県倉敷市の埋立地に水島製鉄所を開設し、千葉と水島に銑鋼一貫製鉄所を一つずつ置く二極体制へ移った経営判断。西山弥太郎社長のもとで決まり、水島はのちに高炉4基・粗鋼年産1,200万トン体制の製鉄所になった。

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★★★
西山弥太郎東京亜鉛鍍金が川鉄鋼板に商号変更
西山弥太郎川鉄鋼板が三剛鉄板と新日本鍍金を吸収合併
藤本一郎西山弥太郎氏が後任に藤本一郎氏を指名
藤本一郎藤本一郎氏が社長に就任
1968〜1990年設備調整の時代に高炉を積み増し、半導体まで広げた多角化の二十年藤本一郎水島3号高炉が稼働、炉内容積3,363立方メートルは当時の国内最大級
藤本一郎フィリピン・ミンダナオ島で焼結工場の建設に着手
藤本一郎ツバロンで3社合弁の一貫製鉄所の事業化調査に着手
藤本一郎水島製鉄所の高炉が4基体制に
藤本一郎千葉製鉄所でUOプレス方式による大口径鋼管の生産を開始
藤本一郎LSI事業推進部の発足によるASIC事業への参入と、川崎マイクロエレクトロニクスへの分社

1985年、川崎製鉄がLSI事業推進部を発足させ、特定用途向け集積回路(ASIC)の設計・販売に参入した経営判断。1990年に宇都宮工場が竣工して本格的な営業活動に入り、2001年7月に川崎マイクロエレクトロニクスとして分社した。

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★★★
藤本一郎厚板工場・製鋼工場の休止を含む合理化計画を発表★★
藤本一郎5,300人の人員削減計画を発表
藤本一郎半導体の宇都宮工場が竣工
1991〜2002年支配力基準の連結が映した実像と、NKKとの統合で閉じた五十二年藤本一郎赤字下で千葉製鉄所の大改造に踏み切り、薄板の生産体制を強化★★
江本寛治江本寛治氏が社長に就任
江本寛治川鉄商事が野崎産業を吸収合併
江本寛治13クロムシームレス鋼管の特許侵害で住友金属工業を提訴
江本寛治川崎製鉄とNKK(日本鋼管)の経営統合とJFEホールディングス発足(2002年成立)

2002年9月、業界2位のNKK(日本鋼管)と同3位の川崎製鉄が株式移転で共同持株会社JFEホールディングスを設立し、鉄鋼大手は新日鉄とJFEの2強体制に移行した案件。

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★★★
江本寛治会社分割によりJFEスチールに商号変更
出典・参考

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