日本鋼管 の歴史

創業

1912年

創業者

白石元治郎

創業地

横浜市

Q なぜ日本鋼管は1934年の製鉄大合同に加わらず、民間企業として独立を選んだのか
A 1934年1月に半官半民の日本製鉄が発足した際、日本鋼管にも合同への参加要請が届いたが、創業社長の白石元治郎氏はこれを断った。避けたのは競争の消滅だった。「製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ」というのが本人の言葉である。合同後の鋼塊生産は日本製鉄が51%、日本鋼管が12%で、規模で並ぶ相手ではない。独立の代償は販売に出た。槇田久生氏は、日鉄が問屋を呼びつけたのに対し、日本鋼管は買ってもらうために頭を下げて回ったと書いている
Q なぜ1962年に広島県福山へ第4の製鉄所を建てたのか
A 1961年秋に第4の総合製鉄所を福山へ置くと決め、翌1962年1月に埋立から着手した。京浜地区の粗鋼能力350万トンが限界に達し、これ以上伸ばすには他所に広大な土地が要った。最終粗鋼年産600万トン、投資約2,500億円という規模は、1963年の全社売上高810億円の3倍にあたる。赤坂武社長が決めたこの計画を、槇田久生氏は「京浜製鉄所の二倍の生産量を誇る工場をつくろうというのだから、社運をかけた計画だった」と書いている。1966年8月に第1期が完成し、1975年には高炉5基・1,600万トンで世界一の規模になった
Q なぜ1998年に上場子会社トーア・スチールを清算し、受け皿会社へ事業を移したのか
A 1998年9月、日本鋼管はトーア・スチールの任意清算を決め、新設のエヌケーケー条鋼へ事業を承継させた。トーアは1987年に東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併して発足し、従業員を2,866人から1,700人台へ絞って1988〜92年度は年100億円超の経常利益を出していた。引き金は総工費1,300億円の鹿島製造所だった。原資に見込んだ東京製造所の土地は1,000億円で売れるはずが、実際は330億円余にとどまった。最終損失900億円で債務超過が避けられなくなり、従業員1,300人のうち1,000人を受け皿会社が引き受けた

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1912年〜 八幡が作らなかった鋼管から始め、製鉄大合同に加わらなかった民間会社

  1. 1912年白石元治郎が資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で日本鋼管を設立。本社は横浜市。官営八幡製鉄所でさえ手がけていなかった継目無鋼管の製造を専業として発足した
  2. 1918年第一次世界大戦の鉄鋼需要増を受けて平炉7基、小形中形条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉を増設。資本金は1,600万円へ急増した
  3. 1919年大戦休戦にともなう反動不況で注文が途絶。丸棒はトン当り200円から70〜80円へ暴落し、株価は5円まで下落した
  4. 1921年減資したうえで直ちに増資を実施。前例のない手続きのため職員をほぼ全員全国へ派遣し、株主の委任状を集めた
  5. 1923年関東大震災で川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒壊。大戦休戦後の反動と恐慌に震災が重なり、拡張した諸工場のうち平炉・鋼管・条鋼を除く各工場は操業中止または廃棄となった
  6. 1934年官営八幡製鉄所と5製鉄会社の合同で半官半民の日本製鉄が発足。日本鋼管は製鉄合同への参加を拒否し、民間企業として独立独歩の道を選んだ
  7. 1936年扇町製銑工場の第一高炉に火入れし、銑鋼一貫態勢を確立した。日中戦争へ向かう鉄鋼需要増で政府が民間企業育成へ政策転換し、高炉建設が認可されたことによる

需要が小さく輸入に頼っていた継目無鋼管を、専業として引き受けた

1912年6月、白石元治郎氏が資本金200万円で日本鋼管を設立した。設備は20トン平炉2基と製管工場1工場、本社は横浜市、工場は川崎に置いた。狙いを継目無鋼管に定めたのは、需要が大きいからではなく、むしろ小さかったからである。当時の鋼管は製造に特別の設備と高度の技術を要するわりに数量が出ず、官営八幡製鉄所でさえ手をつけずに輸入へ委ねていた。民間の鉄鋼会社が数社しかなかった時代に、日本鋼管はその空白を専業として引き受けた。設備の規模は控えめだった。1918年に入社し、のちに社長となる河田重氏は、初出社の日に「見渡すかぎり殺風景なたんぼの中の一本道」を歩いた。その先の川崎工場には、平炉が3基か4基と、小さなパイプ工場が2つあるだけだった。 [1][2][3][4]

  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [1]1912年6月、白石元治郎により資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で創立。継目無鋼管の製造を専業として発足した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
    • [2]鋼管が輸入依存だったのは、需要が数量的に少なかったうえ、製造に特別の設備と高度の技術を要したためである
  • 日本産業史 日本産業総年表(明治45年の項)
    • [3]設立時の本社は横浜市、社長は白石元治郎
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
    • [4]1918年に入社した河田重が初出社の日に歩いたのは田んぼの中の一本道で、川崎工場には平炉が3〜4基と小さなパイプ工場が2つあるだけだった

第一次世界大戦の需要が、この小さな専業会社を一息に膨らませた。平炉は7基に増え、小形中形条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉が加わった。資本金は1,600万円へ跳ね上がる。だが休戦とともに注文は止まった。トン当り200円だった丸棒は70円から80円へ落ち、それでも買い手がつかない。株価は5円まで下げた。増設した工場のうち平炉・鋼管・条鋼を除く各工場は、操業を止めるか廃棄された。1923年の関東大震災では、川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒れている。昭和初頭の世界恐慌では二度の減資に追い込まれた。 [5][6][7][8]

  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [5]第一次大戦期に平炉7基・条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉を増設し、資本金は1,600万円へ増加した
    • [8]昭和初頭の世界恐慌による打撃で再度にわたる減資を余儀なくされた
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
    • [6]大戦休戦後の反動で丸棒はトン当り200円から70〜80円へ暴落し、株価は5円まで下落した
    • [7]1923年の関東大震災で川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒壊した

苦境のなかでも手は打った。富山の電気製鉄所を合併して合金鉄の製造に入り、鍛接鋼管工場を新設した。1921年には減資したうえで、直ちに増資に踏み切った。手続に見本がなく、しかも過半数の委任状を集めなければならなかったため、職員をほぼ全員全国へ送った。資金の出どころは終始、株主と借入だった。河田重氏は、その事実を会社の性格として書き残している。「鋼管会社は純然たる民間会社である。だから資金はすべて株主から集め、あとは借金でまかなってきた。政府の金や援助なしに、よくここまでこられたものだとおもう」。 [9][10][11]

  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [9]経営合理化と並行して富山の電気製鉄所の合併、合金鉄の製造、鍛接鋼管工場の新設という積極策を採った
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
    • [10]河田重は日本鋼管を「純然たる民間会社」と位置づけ、資金を株主と借入だけでまかなってきたと記している
    • [11]1921年に減資したうえで直ちに増資を行い、前例がないため職員をほぼ全員全国へ派遣して委任状を集めた
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [1]1912年6月、白石元治郎により資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で創立。継目無鋼管の製造を専業として発足した
    • [5]第一次大戦期に平炉7基・条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉を増設し、資本金は1,600万円へ増加した
    • [8]昭和初頭の世界恐慌による打撃で再度にわたる減資を余儀なくされた
    • [9]経営合理化と並行して富山の電気製鉄所の合併、合金鉄の製造、鍛接鋼管工場の新設という積極策を採った
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
    • [2]鋼管が輸入依存だったのは、需要が数量的に少なかったうえ、製造に特別の設備と高度の技術を要したためである
  • 日本産業史 日本産業総年表(明治45年の項)
    • [3]設立時の本社は横浜市、社長は白石元治郎
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
    • [4]1918年に入社した河田重が初出社の日に歩いたのは田んぼの中の一本道で、川崎工場には平炉が3〜4基と小さなパイプ工場が2つあるだけだった
    • [6]大戦休戦後の反動で丸棒はトン当り200円から70〜80円へ暴落し、株価は5円まで下落した
    • [7]1923年の関東大震災で川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒壊した
    • [10]河田重は日本鋼管を「純然たる民間会社」と位置づけ、資金を株主と借入だけでまかなってきたと記している
    • [11]1921年に減資したうえで直ちに増資を行い、前例がないため職員をほぼ全員全国へ派遣して委任状を集めた

製鉄大合同に加わらない代償を払い、自前の高炉に届くまで24年かけた

1934年1月、官営八幡製鉄所と5つの製鉄会社が合同して半官半民の日本製鉄が発足した。日本鋼管には参加の要請が届いたが、創業社長の白石元治郎氏はこれを断った。理由として伝わるのは、政府の一企業になれば競争がなくなるという判断である。「製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ」。合同後の鋼塊生産では日本製鉄が51%を占め、日本鋼管は12%で第2位についた。規模で並ぶ相手ではない。独立を選ぶとは、その差を抱えたまま鉄を売り歩くことを意味した。 [12][13][14][15]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄
    • [12]製鉄大合同への参加要請に対し、白石社長は民間企業として競争しながら発展すべきだとして加わらなかった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「戦時経済への移行期の会社」
    • [13]昭和9年前後の鋼塊生産シェアは日本製鉄51%に対し日本鋼管12%、鋼材は日本製鉄47.5%に対し日本鋼管13.6%だった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [14]製鉄合同すなわち日本製鉄の設立に際し、日本鋼管は合同体への参加を拒否して独自の道を歩んだ
  • 日本産業史 日本産業総年表(昭和9年1月の項)
    • [15]1934年1月、官営八幡製鉄所と釜石・輪西・三菱・九州・富士の5製鉄会社の合併により日本製鉄が設立された(製鉄大合同)

代償は販売の現場に出た。統制下の日鉄は問屋を呼びつけた。のちに社長となる槇田久生氏によれば、日本鋼管の側は買ってもらうために頭を下げて回った。「問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらい、それをどこかに売ってもらわなければならない」。訪ねた先で碁を打たれながら待たされ、勝負がついたと思えば「もう一番」と言われる。そこまで辛抱しなければ鉄が売れなかった、というのが槇田久生氏の回想である。独立の選択は理念として語りうるが、現場では毎日の営業条件として跳ね返っていた。 [16][17]

  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [16]日鉄大合同に参加せず民間として独立した日本鋼管は、販売面で問屋に頭を下げて買ってもらう立場に置かれた
    • [17]商談相手に碁を打たれながら待たされる状況が販売現場にあった

高炉は創立以来の宿願だった。しかし国策に添わないという理由で、高炉建設計画は商工省に握りつぶされた。事情を変えたのは自社の努力ではなく戦争だった。満州事変から日中戦争へ進むにつれ、官営製鉄所だけでは鉄鋼需要を満たせなくなる。政府は民間企業の育成へ方針を転じ、日本製鉄以外の熔鉱炉建設も認可した。1934年10月に高炉3基を含む扇町製銑工場へ着手し、1936年6月に第一高炉へ火入れした。創立から24年を経て、ようやく銑鋼一貫に届いている。ただし民営で最初の銑鋼一貫は、1903年に釜石製鉄所が実現した。日本鋼管が最初に立ったのは高炉ではなく、八幡が手をつけなかった鋼管のほうだった。 [18][19][20]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [18]高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされたが、鉄鋼需要の増加で民間企業育成へ政策が転換し認可された
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [19]1934年10月に高炉3基と付帯設備を含む扇町製銑工場の建設に着手し、1936年6月に第一高炉へ火入れして銑鋼一貫態勢を確立した
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「鉄鋼」概説
    • [20]民営として最初の銑鋼一貫作業は1903年に釜石製鉄所が開始したものであり、日本鋼管の創立は大正元年にあたる
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄
    • [12]製鉄大合同への参加要請に対し、白石社長は民間企業として競争しながら発展すべきだとして加わらなかった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「戦時経済への移行期の会社」
    • [13]昭和9年前後の鋼塊生産シェアは日本製鉄51%に対し日本鋼管12%、鋼材は日本製鉄47.5%に対し日本鋼管13.6%だった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [14]製鉄合同すなわち日本製鉄の設立に際し、日本鋼管は合同体への参加を拒否して独自の道を歩んだ
    • [19]1934年10月に高炉3基と付帯設備を含む扇町製銑工場の建設に着手し、1936年6月に第一高炉へ火入れして銑鋼一貫態勢を確立した
  • 日本産業史 日本産業総年表(昭和9年1月の項)
    • [15]1934年1月、官営八幡製鉄所と釜石・輪西・三菱・九州・富士の5製鉄会社の合併により日本製鉄が設立された(製鉄大合同)
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [16]日鉄大合同に参加せず民間として独立した日本鋼管は、販売面で問屋に頭を下げて買ってもらう立場に置かれた
    • [17]商談相手に碁を打たれながら待たされる状況が販売現場にあった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [18]高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされたが、鉄鋼需要の増加で民間企業育成へ政策が転換し認可された
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「鉄鋼」概説
    • [20]民営として最初の銑鋼一貫作業は1903年に釜石製鉄所が開始したものであり、日本鋼管の創立は大正元年にあたる

1936年〜 統制・空襲・公職追放という三つの外圧が、経営陣と設備を入れ替えた

  1. 1936年扇町製銑工場の第一高炉に火入れし、銑鋼一貫態勢を確立した。日中戦争へ向かう鉄鋼需要増で政府が民間企業育成へ政策転換し、高炉建設が認可されたことによる
  2. 1938年国内唯一のトーマス転炉工場が竣工。屑鉄を使わない製鋼設備であり、のちの純酸素転炉導入の素地となった
  3. 1940年初代浅野総一郎が創設した鶴見製鉄造船を合併。造船・船渠と造船用鋼材の製鉄所を併せ持つ同社の取り込みにより、製鉄と造船を兼営する体制となった。資本金は1億4,335万円へ増加した
  4. 1945年京浜空襲で工場が壊滅。7月には高炉の火が消え、終戦時は高炉・平炉が全面休止し圧延のみ4分の1が稼働する状態だった。鉄鋼各社のなかで日本鋼管の戦災被害が最も大きく、戦後復興の遅れの最大の理由となった
  5. 1947年渡辺政人も公職追放となり、常務・鶴見造船所長だった河田重が急遽社長に就任。株主総会では推薦者となるべき上位役員が全員追放されており、河田は自己紹介の形で就任の挨拶をした
  6. 1949年財閥解体・過度経済力集中排除・企業再建整備の各法令の適用を受けたが、製鉄・造船の両部門を分割することなく一本建で存続した。約4倍の増資を行い資本金は10億円となった
  7. 1955年第二次設備合理化計画に着手し、水江製鉄所を新設して薄板の集中大量生産体制を築いた。純酸素転炉の採用、中径管工場の建設と併せて1959年度にほぼ完了した

独立を選んだ会社が、販売も原料も国家に握られた

自前の高炉を持った途端、市場そのものが消えた。1937年に共同販売組合ができ、鉄の販売統制が始まる。翌1938年には日本鋼材連合会が設立され、配給規制に基づく切符制へ移った。1941年2月には社員が企画院へ出向し、国内の鉄屑回収計画を立てた。同年7月に鉄鋼統制会が設立されると、原料・生産・配給のすべてが国家の管理下に入った。合同に加わらないという選択で守ったはずの独立は、開戦へ向かう過程で意味を失った。この間、設備の側では1938年6月に国内唯一のトーマス転炉工場が竣工している。屑鉄を使わない製鋼設備であり、のちに純酸素転炉を導入する素地となった。 [21][22][23][24]

  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [21]1937年の共同販売組合、1938年の日本鋼材連合会設立により鉄は配給規制に基づく切符制へ移行した
    • [22]1941年2月に企画院へ出向し鉄屑回収計画を立案、同年7月の鉄鋼統制会設立にともない移籍した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
    • [23]1938年6月に国内唯一のトーマス転炉工場が竣工し、屑鉄を必要としない製鋼設備として、のちの純酸素転炉導入の素地となった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [24]トーマス転炉工場の竣工は1938年6月で、国内唯一のものだった

1940年10月、鶴見製鉄造船を合併した。初代浅野総一郎氏が興した造船所・船渠と、造船用鋼材を自給するための製鉄所とが一体になった会社である。これを取り込み、日本鋼管は製鉄と造船を併せ持つ会社になった。世界を見ても両部門を兼営する高炉メーカーは米国のベスレヘム・スチールくらいで、国内では日本鋼管だけである。造船は以後60年余にわたって日本鋼管の一部門であり続け、のちに重工事業部を生む母体にもなった。合併にともない資本金は1億4,335万円へ増えた。鶴見製鉄所では、造船所と厚板工場が一組になっていた。槇田久生氏が所長を務めた当時の生産量は年50万トン、これに対し川崎工場は年100万トンだった。 [25][26][27]

  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [25]1940年10月に鶴見製鉄造船を合併し、製鉄部門に加えて造船部門を併有することとなった。資本金は1億4,335万円へ増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [26]製鉄と造船を兼営する会社は世界でも米ベスレヘム・スチールくらいで、日本では日本鋼管1社だった
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [27]鶴見製鉄所はもと旧浅野財閥系の鶴見製鉄造船で、造船所と厚板工場がワンセットになった工場だった

京浜の臨海部に設備を集めていたことが、戦争では最悪の条件になった。1942年4月18日の初の関東大空襲で、米軍機は真っ先に日本鋼管の工場を爆撃した。1945年7月には京浜への爆撃で高炉の火が消え、8月の空襲で再び被災した。終戦時、高炉と平炉は全面休止し、圧延だけが4分の1ほど動く状態で、本来の鋼材のほかにタライやバケツをつくって凌いだ。槇田久生氏は被害の程度をこう書いている。「なかでも日本鋼管の打撃が、もっともひどかった。被害なんてものではなく、何が残っているか、という感じだった」。 [28][29][30]

  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [28]終戦時の鉄鋼生産は全国で年産60万トンを切り、なかでも日本鋼管の被害が最も大きかった
    • [29]1942年4月18日の初の関東大空襲で、米軍の爆撃機が最初に爆弾を投下したのは日本鋼管の工場だった
    • [30]敗戦時は高炉も平炉も全面休止で圧延だけが4分の1ほど稼働し、タライやバケツといった生活必需品まで製造していた
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [21]1937年の共同販売組合、1938年の日本鋼材連合会設立により鉄は配給規制に基づく切符制へ移行した
    • [22]1941年2月に企画院へ出向し鉄屑回収計画を立案、同年7月の鉄鋼統制会設立にともない移籍した
    • [27]鶴見製鉄所はもと旧浅野財閥系の鶴見製鉄造船で、造船所と厚板工場がワンセットになった工場だった
    • [28]終戦時の鉄鋼生産は全国で年産60万トンを切り、なかでも日本鋼管の被害が最も大きかった
    • [29]1942年4月18日の初の関東大空襲で、米軍の爆撃機が最初に爆弾を投下したのは日本鋼管の工場だった
    • [30]敗戦時は高炉も平炉も全面休止で圧延だけが4分の1ほど稼働し、タライやバケツといった生活必需品まで製造していた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
    • [23]1938年6月に国内唯一のトーマス転炉工場が竣工し、屑鉄を必要としない製鋼設備として、のちの純酸素転炉導入の素地となった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [24]トーマス転炉工場の竣工は1938年6月で、国内唯一のものだった
    • [25]1940年10月に鶴見製鉄造船を合併し、製鉄部門に加えて造船部門を併有することとなった。資本金は1億4,335万円へ増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [26]製鉄と造船を兼営する会社は世界でも米ベスレヘム・スチールくらいで、日本では日本鋼管1社だった

公職追放が社長を決め、遅れて始まった復興が次の20年を規定した

戦後の経営陣は、会社の意思ではなく占領政策によって入れ替わった。終戦時の社長・浅野良三氏は公職追放を予知して退き、後を継いだ渡辺政人氏も追放される。1947年、常務で鶴見造船所長だった河田重氏が急遽社長に就いた。河田氏が残ったのは能力の評価によるものではない。1933年に川崎疑獄で110日間勾留され、第一審で無罪となった。その後は日満鋼管の常務として満州へ、次いで北支の石炭山の調査へと回る。本社の取締役になったのは1942年12月である。重役になる時期が遅れたことが、結果として追放を免れさせた。株主総会では推薦者となるべき上位の役員が一人も残っておらず、河田氏は自己紹介の形で就任の挨拶をした。「その紹介してくれる立場の人たちが、みんなパージになって一人もいない。そこでやむを得ず『このたび私が社長になりました。どうぞよろしく……』と自己紹介みたいなあいさつをした」。 [31][32][33][34][35]

  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [31]終戦時の社長・浅野良三が公職追放を予知して退任し、渡辺政人も追放されたため、1947年に河田重が急遽社長へ就任した
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
    • [32]株主総会で社長を推薦すべき上位役員が全員追放されており、河田は自己紹介の形で就任挨拶をした
    • [33]1933年7月から12月まで110日間、川崎疑獄にからめて横浜刑務所の独房に勾留され、第一審で無罪となった
    • [34]独房での勾留と満州・北支勤務により本社重役への就任が遅れ、それが公職追放を免れる結果となった
    • [35]1942年春に総務部長として本社へ戻り、同年12月に取締役総務部長となった

復興は現物のやりくりから始まった。コークス炉が1基残っても入れる石炭がない。北海道の炭鉱へ飛べば、掘る人も運ぶ人もトラックもガソリンもなかった。京浜の工場から200人を送って積み出しを手伝う条件で、別枠の石炭を確保した。コークスと交換に、いすゞ自動車からトラックを、日本鉱業からガソリンをドラム缶で回してもらっている。石炭と鉄鋼への傾斜生産方式に支えられて1948年4月に川崎製鉄所第五高炉が動き、銑鋼一貫に復帰した。翌1949年4月、財閥解体・過度経済力集中排除・企業再建整備の各法令の適用を受ける。それでも製鉄と造船は分割されず、約4倍の増資で資本金を10億円として一本建で存続した。 [36][37][38]

  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [36]終戦直後、コークス炉が残っても石炭がなく、北海道の炭鉱には掘る人も運ぶ人もトラックもガソリンもなかった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [37]傾斜生産方式の採用を受けて1948年4月に川崎製鉄所第五高炉が稼働し、銑鋼一貫態勢に復帰した
    • [38]1949年4月、財閥解体・経済力集中排除・企業再建整備の各法令の適用を受けたが製鉄・造船両部門を分割せず一本建で存続し、約4倍の増資で資本金10億円となった

それでも戦災の後始末は数年を要し、日本鋼管は鉄鋼各社のなかで復興が最も遅れた。1951年度を初年度とする第一次設備合理化計画は、総工事費289億円を高炉の復旧と圧延設備の刷新にあてた。1955年度からの第二次計画で、ようやく新工場の建設へ進む。労使の対立も残り、1955年から1957年にかけて3年連続で大規模なストライキが起きた。品質もまだ「カマボコのように丸くなった厚板、波を打ったわかめのような薄板」が通用する水準にあった。この遅れは20年後まで尾を引いた。福山製鉄所の建設が遅れたのは京浜地区の復興に時間がかかったことが大きい、というのが槇田久生氏の総括である。 [39][40][41][42]

  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [39]空襲被害が戦後復興の遅れの最大の理由であり、それが福山製鉄所の建設遅延にもつながった
    • [41]1955年から1957年にかけて3年連続で大規模なストライキが起きた
    • [42]1950年代末の時点でも「カマボコのように丸くなった厚板、波を打ったわかめのような薄板」が通用する品質水準にあった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [40]1951年度を初年度とする第一次設備合理化計画は総工事費289億円で、川崎・鶴見の高炉復旧と圧延設備の新設・改造にあてられた
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [31]終戦時の社長・浅野良三が公職追放を予知して退任し、渡辺政人も追放されたため、1947年に河田重が急遽社長へ就任した
    • [36]終戦直後、コークス炉が残っても石炭がなく、北海道の炭鉱には掘る人も運ぶ人もトラックもガソリンもなかった
    • [39]空襲被害が戦後復興の遅れの最大の理由であり、それが福山製鉄所の建設遅延にもつながった
    • [41]1955年から1957年にかけて3年連続で大規模なストライキが起きた
    • [42]1950年代末の時点でも「カマボコのように丸くなった厚板、波を打ったわかめのような薄板」が通用する品質水準にあった
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
    • [32]株主総会で社長を推薦すべき上位役員が全員追放されており、河田は自己紹介の形で就任挨拶をした
    • [33]1933年7月から12月まで110日間、川崎疑獄にからめて横浜刑務所の独房に勾留され、第一審で無罪となった
    • [34]独房での勾留と満州・北支勤務により本社重役への就任が遅れ、それが公職追放を免れる結果となった
    • [35]1942年春に総務部長として本社へ戻り、同年12月に取締役総務部長となった
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
    • [37]傾斜生産方式の採用を受けて1948年4月に川崎製鉄所第五高炉が稼働し、銑鋼一貫態勢に復帰した
    • [38]1949年4月、財閥解体・経済力集中排除・企業再建整備の各法令の適用を受けたが製鉄・造船両部門を分割せず一本建で存続し、約4倍の増資で資本金10億円となった
    • [40]1951年度を初年度とする第一次設備合理化計画は総工事費289億円で、川崎・鶴見の高炉復旧と圧延設備の新設・改造にあてられた

1959年〜 水江・福山・扇島 ── 三度の大型投資が会社の形を変えた

  1. 1961年第4の総合製鉄所を福山に建設する方針を決定した。京浜地区の合理化が完成に近づき、粗鋼能力350万トンが限界に達していたため、他の場所に広大な土地を持つ製鉄所が必要になっていた
  2. 1962年第4の総合製鉄所として福山製鉄所の建設に着手。京浜地区の粗鋼能力350万トンが限界に達したため、最終粗鋼年産600万トン・投資約2,500億円を目標に広島県福山で埋立から始めた
  3. 1963年河田重が会長に退き、赤坂武が社長に就任した(在任8年)
  4. 1966年福山製鉄所の第一高炉に火入れし、第1期計画が完成。総工費1,000億円強を投じ、異例の速度で立ち上げた
  5. 1968年川崎・鶴見・水江の京浜三製鉄所を京浜製鉄所として統合した。同月、50万重量トン級船を建造できる津造船所(三重県)の建設に着工した
  6. 1969年老朽化と公害対策のため、京浜製鉄所を沖合の扇島へ移転する計画を決定・発表。北海道・秋田・千葉への新設案を退け、2万人以上の従業員と協力会社の生活の場である創業の地に留まる判断をした
  7. 1970年造船部門の陸上工事部門が重工として独立。1973年に鉄鋼・造船・重工の三事業部制へ移行した

薄板へ寄せた水江と、能力の限界を外へ出した福山

1955年度からの第二次設備合理化計画で建設した水江製鉄所が、日本鋼管の製品構成を変えた。あらゆる品種の薄鋼板を集中して大量に生産する工場で、内容積1,709立方メートルの高炉は当時の世界最大級にあたる。米コッパーズ社の技術による高圧操業に重油吹き込みを併用し、コークス比を470キログラムまで下げた。鉱滓を自動処理するドライピットを備えた高炉は、国内でここだけである。生産した冷延鋼板の納入先には、トヨタ・日産・日野・プリンス・富士重工の全自動車メーカーと、日立・松下・三洋が並ぶ。鋼管から出発した会社が、戦後に伸びる産業の素材供給者へ移った。 [43][44][45]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「当社主力工場の概況について」中野宏
    • [43]水江製鉄所の高炉は内容積1,709立方メートルで世界最大級にあたり、重油吹き込み40kg・コークス比470kgで運転された
    • [44]水江製鉄所の冷延鋼板はトヨタ・日産・日野・プリンス・富士重工の全自動車メーカーと日立・松下・三洋へ納入されていた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
    • [45]第二次設備合理化計画は1955年度に始まり1959年度にほぼ完了し、水江製鉄所の新設による薄板強化と純酸素転炉採用、中径管工場建設を実現した

製鋼技術では、この時期に日本鋼管が導入する側から供与する側へ回った。1958年にオーストリアで工業化された純酸素転炉(LD転炉)に早くから着目し、技術導入の交渉に入る。同じく調査を進めていた八幡製鉄とともに、その窓口となった。以後、国内のLD転炉はすべて、この2社からライセンスを受けて設けられている。従来の転炉は空気を吹き込むため窒素が入り、優れた鋼ができない。純酸素転炉は建設費が安く、品質の高い鋼を経済的に得られた。国内の設備数は数年のうちに19基から23基へ増え、日本の鉄鋼業の国際競争力を押し上げた。 [46][47]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「当社主力工場の概況について」中野宏
    • [46]純酸素転炉の技術導入では日本鋼管と八幡製鉄が窓口となり、国内のLD転炉はすべて両社からライセンスを分けてもらう形になった
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号 中野宏
    • [47]純酸素転炉は1958年にオーストリアで工業化され、建設費が安く品質の優れた鋼を経済的に生産できる特長から急速に普及した

京浜地区の合理化が完成に近づき、粗鋼能力350万トンが限界に達すると、次の成長は外に土地を求めるしかなくなった。1961年秋に第4の総合製鉄所を福山に置く方針を決め、1962年1月に着手した。水江製鉄所長を兼ねる常務の中野宏氏は、1963年の講演でこの計画の到達点を数字で示している。最終粗鋼年産600万トン、投資額は約2,500億円。1970年度の全社粗鋼能力は770万トンに達し、売上高は現在の約2倍の3,000億円になる見込みだった。第1期は総工費1,000億円強で1966年8月に完成した。第2期は約900億円を投じて1968年3月に終わり、粗鋼能力は450万トンに達する。1975年時点では高炉5基・1,600万トンで、世界一の規模の製鉄所になっていた。 [48][49][50]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号 中野宏
    • [48]川崎地区の粗鋼生産能力350万トンが限界に達したため、1961年秋に第4の総合製鉄所を福山に建設する方針を決定した
    • [49]福山製鉄所は最終粗鋼年産600万トンを目標に約2,500億円を投入する計画で、1970年度の全社粗鋼能力は770万トン、売上高は3,000億円に達する見込みだった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [50]1975年時点で福山製鉄所は高炉5基・1,600万トンの生産能力を持ち、世界一の規模だった
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「当社主力工場の概況について」中野宏
    • [43]水江製鉄所の高炉は内容積1,709立方メートルで世界最大級にあたり、重油吹き込み40kg・コークス比470kgで運転された
    • [44]水江製鉄所の冷延鋼板はトヨタ・日産・日野・プリンス・富士重工の全自動車メーカーと日立・松下・三洋へ納入されていた
    • [46]純酸素転炉の技術導入では日本鋼管と八幡製鉄が窓口となり、国内のLD転炉はすべて両社からライセンスを分けてもらう形になった
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
    • [45]第二次設備合理化計画は1955年度に始まり1959年度にほぼ完了し、水江製鉄所の新設による薄板強化と純酸素転炉採用、中径管工場建設を実現した
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号 中野宏
    • [47]純酸素転炉は1958年にオーストリアで工業化され、建設費が安く品質の優れた鋼を経済的に生産できる特長から急速に普及した
    • [48]川崎地区の粗鋼生産能力350万トンが限界に達したため、1961年秋に第4の総合製鉄所を福山に建設する方針を決定した
    • [49]福山製鉄所は最終粗鋼年産600万トンを目標に約2,500億円を投入する計画で、1970年度の全社粗鋼能力は770万トン、売上高は3,000億円に達する見込みだった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [50]1975年時点で福山製鉄所は高炉5基・1,600万トンの生産能力を持ち、世界一の規模だった

創業の地を離れないと決めたことが、扇島の条件を決めた

京浜製鉄所は創業以来、空いた土地を見つけては設備を足してきた結果、人家に隣接する古い工場群になっていた。老朽化と公害の二つを同時に解く必要があり、社内では他の土地に新立地を探すべきだという案も出た。それでも1969年6月には、沖合の扇島を埋め立てて移る案に決めた。理由は立地条件の優劣ではない。この地区では2万人以上の従業員が働き、下請を含めれば4万人近くが生活していた。遠隔地へ移れば社宅も学校も病院も新設が要る。需要家や地域との結びつきも深い。制約になったのは土地の条件ではなく、そこで暮らす人と築いた関係だった。 [51][52][53]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [51]新立地案も検討されたが、創業以来の場所で2万人以上の従業員と下請を含む4万人近くが生活していることから、新しい土地へ移ることは不可能と結論した
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [52]京浜は創業の地であり従業員と協力会社の生活の場であるうえ、需要家や地域社会との歴史的つながりも深く、この地を去ることは障害が多すぎると判断された
    • [53]1969年6月に扇島計画を決定・発表し、1971年暮れに起工式を行って埋立工事を始めた

残ると決めた以上、制約は全部引き受けるほかない。総工費は約9,000億円、うち土地造成だけで1,000億円近くを要し、漁業補償の交渉には1年半かかった。粗鋼は600万トンが公害防止協定上の上限で、無制限の増産はできない。亜硫酸ガスの規制値0.012PPMは、新聞が「たばこを4畳半で1本吸えば規制値に達する」と書くほどの水準だった。粗鋼トン当りの設備費は12万円から13万円と福山の倍以上になる。それでも、高炉7基でようやく600万トンを出していた体制を4,000立方メートル級2基へ集約すれば、要員は約半分で済む。負担増はそれで賄えると見ていた。1974年12月に埋立が完了し、第一高炉は1976年、第二高炉は1979年に火が入った。 [54][55][56]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [54]扇島計画は総額約9,000億円で、粗鋼600万トンを公害防止協定上の上限とし、粗鋼トン当りの設備費は12〜13万円と福山より相当高くついた
    • [55]高炉7基で600万トンを生産していた体制を4,000立方メートル級の大型高炉2基へ集約することで、要員は約半分になる想定だった
    • [56]亜硫酸ガスの規制値0.012PPMは、新聞が「たばこを4畳半で1本吸えば規制値に達する」と書くほど厳しいとされた

事業の側では、鉄以外の柱を立てる作業がこの時期に始まった。造船の陸上工事部門が1970年に重工として独立し、1973年に鉄鋼・造船・重工の三事業部制へ移る。粗鋼で売るより加工して付加価値を高める狙いである。パイプライン敷設に必要な溶接技術は造船所が持つもので、他の鉄鋼メーカーにはなかった。ただし1974年9月期の売上5,542億円の内訳は、鉄鋼4,420億円・造船620億円・重工502億円である。鉄鋼が8割を占める構成に変わりはない。しかも造船は1974年度に20万トン超の大型タンカーの引合いが1隻もなくなり、石油危機の直撃を受けた。三本柱の実態は、大きな1本と細い2本だった。 [57][58][59][60]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [57]1974年9月期の売上5,542億円の内訳は鉄鋼4,420億円・重工502億円・造船約620億円で、構成比は鉄鋼80%・重工10%・造船10%だった
    • [58]1974年度に入って20万トン以上の大型タンカーの引合いが1隻もなくなり、これは造船業界で初めてのことだった
    • [59]造船の陸上部門を母体として重工事業部が生まれ、パイプライン敷設に必要な溶接技術は造船所固有のもので他の鉄鋼メーカーは持っていなかった
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [60]造船部門から重工が独立したのは1970年、三事業部制への移行は1973年である(堀切治雄は重工本部の独立を昭和37〜38年ごろとしており、資料間で時期が食い違う)
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
    • [51]新立地案も検討されたが、創業以来の場所で2万人以上の従業員と下請を含む4万人近くが生活していることから、新しい土地へ移ることは不可能と結論した
    • [54]扇島計画は総額約9,000億円で、粗鋼600万トンを公害防止協定上の上限とし、粗鋼トン当りの設備費は12〜13万円と福山より相当高くついた
    • [55]高炉7基で600万トンを生産していた体制を4,000立方メートル級の大型高炉2基へ集約することで、要員は約半分になる想定だった
    • [56]亜硫酸ガスの規制値0.012PPMは、新聞が「たばこを4畳半で1本吸えば規制値に達する」と書くほど厳しいとされた
    • [57]1974年9月期の売上5,542億円の内訳は鉄鋼4,420億円・重工502億円・造船約620億円で、構成比は鉄鋼80%・重工10%・造船10%だった
    • [58]1974年度に入って20万トン以上の大型タンカーの引合いが1隻もなくなり、これは造船業界で初めてのことだった
    • [59]造船の陸上部門を母体として重工事業部が生まれ、パイプライン敷設に必要な溶接技術は造船所固有のもので他の鉄鋼メーカーは持っていなかった
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [52]京浜は創業の地であり従業員と協力会社の生活の場であるうえ、需要家や地域社会との歴史的つながりも深く、この地を去ることは障害が多すぎると判断された
    • [53]1969年6月に扇島計画を決定・発表し、1971年暮れに起工式を行って埋立工事を始めた
    • [60]造船部門から重工が独立したのは1970年、三事業部制への移行は1973年である(堀切治雄は重工本部の独立を昭和37〜38年ごろとしており、資料間で時期が食い違う)

1979年〜 鉄以外へ広げた20年と、子会社の清算を経て統合で幕を引くまで

  1. 1979年造船と重工の2部門が統合されて重工事業部となり、鶴見・清水・津の各造船所を「製作所」へ改称した
  2. 1980年槇田久生が9年間務めた社長を退いて会長となり、金尾実が社長に就任した。槇田は「二頭政治になりやすい」として会長に代表権を置かなかった
  3. 1984年米国第7位の高炉メーカー、ナショナル・スチールの株式50%を取得して資本参加し、米国内に生産拠点を持った。同年12月にマーチンマリエッタ社との合弁にも調印した
  4. 1986年1990年度までを対象とする5ヵ年合理化計画に着手。高炉1基の休止、福山の分塊設備休止、造船部門の設備20%削減を通じて、人員を1万9,400人から1万3,200人へ6,200人削減する内容だった
  5. 1990年京浜製鉄所の第二高炉を休止し、一炉体制となった。以後、京浜と福山の生産比率は1988年度の43対57から1997年度には27対73へ移り、福山重視が決定的になった
  6. 1998年子会社トーア・スチールの任意清算を発表し、通期の最終損益見通しを50億円の黒字から880億円の赤字へ下方修正。早期退職制度を1年半ぶりに復活させ、1999年度末までに2,000名を削減する収益改善策を公表した
  7. 2002年川崎製鉄との共同株式移転により完全親会社JFEホールディングスが発足し、日本鋼管は同社の完全子会社となって上場を廃止した

エンジニアリング・海外・新素材 ── 鉄の外に置いた三つの賭け

鉄鋼の国内需要が伸びなくなった時期に、日本鋼管が広げた先は三つある。第一がエンジニアリングで、1980年度には売上高が全社の10%を超えた。ブラジルの国営CSN社、トルコの一貫製鉄所建設、米カイザー社の再建協力と、案件は相手企業の経営全般に及んだ。第二が海外の生産拠点で、1984年8月に米国第7位の高炉メーカー、ナショナル・スチールの株式50%を取得して資本参加した。第三が新素材と電子で、1980年代後半に新材料事業部を発足させた。新日本製鉄の新素材事業開発本部、住友金属工業の事業開発センター、川崎製鉄の新事業推進部と並ぶ動きである。鉄の外を探すのは、この時期の高炉各社に共通する選択だった。 [61][62][63][64]

  • 日本産業史 第3巻「鉄 石油ショックを機に低成長時代へ」
    • [61]1980年度にエンジニアリング事業の売上高が全社の10%を超え、ブラジル国営CSN社・トルコの一貫工場建設・米カイザー社の再建協力など経営全般に関わる案件を扱うようになった
    • [64]高炉各社は1980年代後半に新素材分野への進出体制を整え、日本鋼管は新材料事業部を発足させた
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [62]1984年に米ナショナル・スチールの株式50%を取得して資本参加し、米国内に生産拠点を持った(時期は私の履歴書が8月、日本産業総年表が4月の項に置いており資料間で食い違う)
  • 日本産業史 日本産業総年表(昭和59年の項)
    • [63]日本産業総年表は同じ取得を昭和59年4月の項に載せている

広げている最中に、本業の足元が抜けた。1985年9月のプラザ合意後の円高で、高炉5社の業績は悪化する。実質的な赤字は1985年度下半期から1987年度上半期まで続いた。有価証券売却などを除いた1986年度の実質赤字は5社合計で4,000億円に達し、中間配当も一斉に取りやめとなった。日本鋼管は1986年度から1990年度までの5ヵ年合理化計画をまとめる。高炉1基を休止し、福山の分塊設備を止め、造船部門の設備を20%削る。人員は1万9,400人から1万3,200人へ、6,200人減らす方針だった。多角化の投資と本業の人員削減が同じ数年のうちに並んだ。 [65][66]

  • 日本産業史 第4巻「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
    • [65]高炉5社の業績は1985年度下半期から1987年度上半期まで実質的な赤字が続き、1986年度の実質赤字は5社合計で4,000億円に達し中間配当も一斉に取りやめとなった
    • [66]1986年度から1990年度の5ヵ年で高炉1基休止・福山の分塊設備休止・造船部門の設備20%削減を通じ、人員を1万9,400人から1万3,200人へ6,200人削減する合理化計画を発表した

京浜製鉄所は1990年に第二高炉を休止して一炉体制に入り、以後は片肺操業と呼ばれる状態が続いた。生産は福山へ寄り、京浜対福山の比率は1988年度の43対57から1997年度には27対73へ動いた。扇島に留まると決めたときに引き受けた高い設備費は、需要が伸びる前提の上に立っていた。前提が変われば、同じ設備が重荷に変わる。1998年時点で連結鉄鋼部門の利益率は他社の半分以下にとどまり、業界からは「福山だけなら断トツの競争力があるが、実質片肺操業の京浜が大問題」と評された。鉄の外に置いた賭けのうち、電子デバイスも同じ結末をたどっている。1997年度は売上75億円に対して営業赤字145億円を出した。1998年5月に東芝とシステムLSIで包括提携し、メモリー事業からは翌1999年3月末に撤退した。 [67][68][69]

  • 週刊東洋経済 1998年11月28日「NKK 子会社のトーア・スチールは解散」
    • [67]京浜製鉄所は1990年に第二高炉を休止して以来一炉体制が続き、関東の他社製鉄所と比べても生産性が低く、連結鉄鋼部門の利益率は他社の半分以下だった
    • [68]京浜対福山の生産比率は1988年度の43対57から1997年度には27対73へ移り、福山重視が決定的になった
    • [69]電子デバイス事業は1997年度に売上75億円に対し営業赤字145億円、1998年度も130億円の営業赤字が見込まれ、東芝との包括提携とメモリー事業撤退を決めた
  • 日本産業史 第3巻「鉄 石油ショックを機に低成長時代へ」
    • [61]1980年度にエンジニアリング事業の売上高が全社の10%を超え、ブラジル国営CSN社・トルコの一貫工場建設・米カイザー社の再建協力など経営全般に関わる案件を扱うようになった
    • [64]高炉各社は1980年代後半に新素材分野への進出体制を整え、日本鋼管は新材料事業部を発足させた
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
    • [62]1984年に米ナショナル・スチールの株式50%を取得して資本参加し、米国内に生産拠点を持った(時期は私の履歴書が8月、日本産業総年表が4月の項に置いており資料間で食い違う)
  • 日本産業史 日本産業総年表(昭和59年の項)
    • [63]日本産業総年表は同じ取得を昭和59年4月の項に載せている
  • 日本産業史 第4巻「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
    • [65]高炉5社の業績は1985年度下半期から1987年度上半期まで実質的な赤字が続き、1986年度の実質赤字は5社合計で4,000億円に達し中間配当も一斉に取りやめとなった
    • [66]1986年度から1990年度の5ヵ年で高炉1基休止・福山の分塊設備休止・造船部門の設備20%削減を通じ、人員を1万9,400人から1万3,200人へ6,200人削減する合理化計画を発表した
  • 週刊東洋経済 1998年11月28日「NKK 子会社のトーア・スチールは解散」
    • [67]京浜製鉄所は1990年に第二高炉を休止して以来一炉体制が続き、関東の他社製鉄所と比べても生産性が低く、連結鉄鋼部門の利益率は他社の半分以下だった
    • [68]京浜対福山の生産比率は1988年度の43対57から1997年度には27対73へ移り、福山重視が決定的になった
    • [69]電子デバイス事業は1997年度に売上75億円に対し営業赤字145億円、1998年度も130億円の営業赤字が見込まれ、東芝との包括提携とメモリー事業撤退を決めた

電炉子会社の清算が決め手となり、統合で幕を引いた

決定的だったのは電炉子会社の処理である。トーア・スチールは1987年10月に東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併して発足し、翌1988年2月に東証一部へ上場した。両社で2,866人いた従業員を1,700人台まで絞り、1988年度から1992年度は年100億円を超える経常利益を出した。生き残りを賭けて建てたのが月産10万トン・総工費1,300億円の鹿島製造所で、1996年3月に完成する。閉鎖する東京(千住)製造所の土地を1,000億円で売り、建設費に充てる計画だった。実際の売却額は330億円余にとどまり、設備廃却損132億円も出た。1994年度以降は経常赤字に転落し、赤字幅は期を追って拡大している。 [70][71][72][73]

  • 証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」
    • [70]トーア・スチールは1988年2月3日に上場し、社長は日本鋼管の副社長を務めた神谷春樹だった
    • [71]上場時点の従業員数は1,777名だった
  • 週刊東洋経済 1998年9月19日「トーア・スチール 解散の引き金」
    • [72]鹿島製造所は月産能力10万トン・総工費1,300億円で1996年3月に完成したが、東京製造所の土地は1,000億円想定に対し330億円余でしか売れず、設備廃却損132億円も生じた
    • [73]合併以前に両社で2,866人いた従業員を1,700人台まで絞り、1988年度から1992年度は年間100億円を超える経常利益を出してピークには年10円配を実施した

1998年2月、第三者割当増資で出資比率を37%弱から51.58%へ引き上げ、トーア・スチールを連結対象とした。それでも建設用鋼材の需要低迷で最終損失は900億円に達し、期末の債務超過が避けられなくなる。同年9月、日本鋼管はトーア・スチールの解散を決め、通期の最終損益見通しを50億円の黒字から880億円の赤字へ修正した。10月にはスタンダード・アンド・プアーズが社債格付けを投機的とされるBpiへ引き下げ、株価は100円を割った。1999年3月にトーア・スチールは解散し、新設のエヌケーケー条鋼が事業を引き継ぐ。同年には京浜製鉄所の表面処理鋼板と溶接管、富山・清水製作所を分社化し、3,900人を削減した。 [74][75][76]

  • 週刊東洋経済 1998年9月19日「トーア・スチール 解散の引き金」
    • [74]1998年2月の第三者割当増資で日本鋼管の出資比率は37%弱から51.58%へ上がり連結対象となったが、最終損失900億円で期末の債務超過が必至となり解散が決定された
  • 週刊東洋経済 1998年11月28日「NKK 子会社のトーア・スチールは解散」
    • [75]1998年10月6日にスタンダード・アンド・プアーズが社債格付けをBBpiから投機的とされるBpiへ格下げし、株価は100円を割って二桁台に沈んだ
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日「鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」
    • [76]1999年に京浜製鉄所の表面処理鋼板・溶接管、富山・清水製作所を分社化し、転籍制度の導入等で3,900人を削減した

1998年度は、高炉5社のうち日本鋼管・住友金属工業・神戸製鋼所の3社が経常赤字となった。配当を実施したのは新日本製鉄と川崎製鉄の2社にとどまる。粗鋼生産能力1億1,374万トンに対し、2005年の生産量は9,600万トン余と見込まれた。業界には15%を超える需給ギャップが残る計算だった。1912年に八幡が作らなかった鋼管から始め、製鉄大合同に加わらずに90年を通した会社は、2002年9月に上場を廃止する。川崎製鉄との共同株式移転で、JFEホールディングスの完全子会社となった。翌2003年4月、両社は会社分割によりJFEスチール・JFEエンジニアリング・JFE都市開発・JFE技研の4社へ再編された。社名と上場は消えたが、白石元治郎氏が設立した法人格はJFEエンジニアリングとして残っている。 [77][78][79][80]

  • 週刊東洋経済 1999年8月7日「鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」
    • [77]1998年度は高炉5社の経常損益が74億円の赤字となり、経常黒字は新日鉄と川崎製鉄のみ、配当したのもこの2社だけだった
    • [78]鉄鋼業界の粗鋼生産能力1億1,374万トンに対し2005年の生産量は9,600万トン余と推測され、15.5%の需給ギャップが生じるとされた
  • JFEホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [79]2002年9月、日本鋼管と川崎製鉄が共同の株式移転で完全親会社JFEホールディングスを設立し、両社の普通株式は上場廃止となった
    • [80]2003年4月、両社は会社分割によりJFEスチール・JFEエンジニアリング・JFE都市開発・JFE技研の4社へ再編された
  • 証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」
    • [70]トーア・スチールは1988年2月3日に上場し、社長は日本鋼管の副社長を務めた神谷春樹だった
    • [71]上場時点の従業員数は1,777名だった
  • 週刊東洋経済 1998年9月19日「トーア・スチール 解散の引き金」
    • [72]鹿島製造所は月産能力10万トン・総工費1,300億円で1996年3月に完成したが、東京製造所の土地は1,000億円想定に対し330億円余でしか売れず、設備廃却損132億円も生じた
    • [73]合併以前に両社で2,866人いた従業員を1,700人台まで絞り、1988年度から1992年度は年間100億円を超える経常利益を出してピークには年10円配を実施した
    • [74]1998年2月の第三者割当増資で日本鋼管の出資比率は37%弱から51.58%へ上がり連結対象となったが、最終損失900億円で期末の債務超過が必至となり解散が決定された
  • 週刊東洋経済 1998年11月28日「NKK 子会社のトーア・スチールは解散」
    • [75]1998年10月6日にスタンダード・アンド・プアーズが社債格付けをBBpiから投機的とされるBpiへ格下げし、株価は100円を割って二桁台に沈んだ
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日「鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」
    • [76]1999年に京浜製鉄所の表面処理鋼板・溶接管、富山・清水製作所を分社化し、転籍制度の導入等で3,900人を削減した
    • [77]1998年度は高炉5社の経常損益が74億円の赤字となり、経常黒字は新日鉄と川崎製鉄のみ、配当したのもこの2社だけだった
    • [78]鉄鋼業界の粗鋼生産能力1億1,374万トンに対し2005年の生産量は9,600万トン余と推測され、15.5%の需給ギャップが生じるとされた
  • JFEホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [79]2002年9月、日本鋼管と川崎製鉄が共同の株式移転で完全親会社JFEホールディングスを設立し、両社の普通株式は上場廃止となった
    • [80]2003年4月、両社は会社分割によりJFEスチール・JFEエンジニアリング・JFE都市開発・JFE技研の4社へ再編された

日本鋼管の沿革1912〜2003年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
白石元治郎が資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で日本鋼管を設立。本社は横浜市。官営八幡製鉄所でさえ手がけていなかった継目無鋼管の製造を専業として発足した★★★
第一次世界大戦の鉄鋼需要増を受けて平炉7基、小形中形条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉を増設。資本金は1,600万円へ急増した★★
大戦休戦にともなう反動不況で注文が途絶。丸棒はトン当り200円から70〜80円へ暴落し、株価は5円まで下落した★★
減資したうえで直ちに増資を実施。前例のない手続きのため職員をほぼ全員全国へ派遣し、株主の委任状を集めた★★
関東大震災で川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒壊。大戦休戦後の反動と恐慌に震災が重なり、拡張した諸工場のうち平炉・鋼管・条鋼を除く各工場は操業中止または廃棄となった★★
昭和初頭の世界恐慌と金解禁で業績が悪化し、再度にわたる減資を余儀なくされた。株価は50円から5円50銭まで下落し、給料辞退と定期採用停止に至った★★
定期採用を再開した。同年、創業社長の白石元治郎が神兵隊事件への援助の疑いで検挙され、川崎工場次長だった河田重も川崎疑獄にからめて110日間勾留された(河田は第一審で無罪)
官営八幡製鉄所と5製鉄会社の合同で半官半民の日本製鉄が発足。日本鋼管は製鉄合同への参加を拒否し、民間企業として独立独歩の道を選んだ★★★
高炉3基と付帯設備を含む扇町製銑工場の建設に着手。高炉建設は創立以来の宿願だったが、国策に添わないとして商工省に計画を握りつぶされた経緯があった★★
扇町製銑工場の第一高炉に火入れし、銑鋼一貫態勢を確立した。日中戦争へ向かう鉄鋼需要増で政府が民間企業育成へ政策転換し、高炉建設が認可されたことによる★★★
資本金を1億円とした
日本鋼材連合会が設立され、鉄は配給規制に基づく切符制へ移行。前年の共同販売組合設立に続き、販売が国家統制下に入った★★
国内唯一のトーマス転炉工場が竣工。屑鉄を使わない製鋼設備であり、のちの純酸素転炉導入の素地となった★★
高炉2基を中心とする大島地区製銑工場の建設に着手した
初代浅野総一郎が創設した鶴見製鉄造船を合併。造船・船渠と造船用鋼材の製鉄所を併せ持つ同社の取り込みにより、製鉄と造船を兼営する体制となった。資本金は1億4,335万円へ増加した★★★
鉄鋼統制会が設立され、原料・生産・配給が国家管理下に入った。同年2月に企画院へ出向して鉄屑回収計画の立案にあたっていた槇田久生が、統制会へ移籍した★★
初の関東大空襲で、米軍機が最初に爆弾を投下したのが日本鋼管の工場だった★★
子会社の日本鋼管鉱業が群馬鉄山の鉱業権を獲得。軍命令による突貫工事でトンネル2本と鉄道を敷き、1945年1月から川崎埠頭へ鉄鉱石を出荷した
終戦時の社長だった浅野良三が公職追放を予知して退任し、渡辺政人が後を継いだ★★
京浜空襲で工場が壊滅。7月には高炉の火が消え、終戦時は高炉・平炉が全面休止し圧延のみ4分の1が稼働する状態だった。鉄鋼各社のなかで日本鋼管の戦災被害が最も大きく、戦後復興の遅れの最大の理由となった★★★
渡辺政人も公職追放となり、常務・鶴見造船所長だった河田重が急遽社長に就任。株主総会では推薦者となるべき上位役員が全員追放されており、河田は自己紹介の形で就任の挨拶をした★★★
石炭と鉄鋼への傾斜生産方式を受けて川崎製鉄所第五高炉が稼働し、銑鋼一貫態勢に復帰した。翌1949年6月に第四高炉、7月にトーマス転炉を再開した★★
財閥解体・過度経済力集中排除・企業再建整備の各法令の適用を受けたが、製鉄・造船の両部門を分割することなく一本建で存続した。約4倍の増資を行い資本金は10億円となった★★★
電縫管工場を新設。1951年1月に鶴見製鉄所第二高炉、12月に川崎製鉄所第三高炉へ火入れした
1951年度を初年度とする第一次設備合理化計画に着手。総工事費289億円で川崎・鶴見の高炉復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った★★
インド・ゴアの鉄鉱石開発輸入契約が成立。1948年には緒方竹虎の仲介で英国との共同開発という形をとり、敗戦で没収されたマレーシア・テマンガン鉱山の権益を確保していた★★
設備合理化の資金調達のため資本金を50億円へ倍増した(1952年6月に25億円へ増額済み)
国内初の鉱石専用バラ積み船「日隆丸」(1万5,000重量トン)を清水造船所で建造・引き渡した。「あんなデカイ専用船をつくってどうするんだ」という批判があったが、運賃負担の軽減と積荷保証の双方の利を主張して実行された★★
第二次設備合理化計画に着手し、水江製鉄所を新設して薄板の集中大量生産体制を築いた。純酸素転炉の採用、中径管工場の建設と併せて1959年度にほぼ完了した★★★
1957年にかけて3年連続の大規模ストライキが発生した。前年に営業部長となった槇田久生は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」を第一声としており、鋼材需給の転換期にあたっていた★★
この年オーストリアで工業化された純酸素転炉(LD転炉)に着目して技術導入交渉に入り、従来の転炉導入の経緯から八幡製鉄とともに窓口となった。国内各社へのライセンスは以後この2社を経由した★★
第4の総合製鉄所を福山に建設する方針を決定した。京浜地区の合理化が完成に近づき、粗鋼能力350万トンが限界に達していたため、他の場所に広大な土地を持つ製鉄所が必要になっていた★★
第4の総合製鉄所として福山製鉄所の建設に着手。京浜地区の粗鋼能力350万トンが限界に達したため、最終粗鋼年産600万トン・投資約2,500億円を目標に広島県福山で埋立から始めた★★★
河田重が会長に退き、赤坂武が社長に就任した(在任8年)★★
鋼管鉱業が採掘していた群馬鉄山を閉山し、従業員約100人を扇島の原料ヤードへ移した
福山製鉄所の第一高炉に火入れし、第1期計画が完成。総工費1,000億円強を投じ、異例の速度で立ち上げた★★
総工費約900億円の福山第2期工事(2号高炉、転炉1基、厚板ミルなど)が完成し、同製鉄所の粗鋼生産能力は450万トンとなった
川崎・鶴見・水江の京浜三製鉄所を京浜製鉄所として統合した。同月、50万重量トン級船を建造できる津造船所(三重県)の建設に着工した★★
老朽化と公害対策のため、京浜製鉄所を沖合の扇島へ移転する計画を決定・発表。北海道・秋田・千葉への新設案を退け、2万人以上の従業員と協力会社の生活の場である創業の地に留まる判断をした★★★
造船部門の陸上工事部門が重工として独立。1973年に鉄鋼・造船・重工の三事業部制へ移行した★★
赤坂武社長が胃がんで急逝し、最長老の中野宏副社長の推薦で槇田久生が社長に就任した。同年暮れに扇島の起工式を行い埋立工事を始めた★★
扇島の埋立が完了し、12月8日に第1高炉のくわ入れ式を行った。総額約9,000億円の計画で、高炉7基で600万トンを生産していた体制を4,000立方メートル級2基へ集約し、要員を約半分にする設計だった★★
人事管理制度と組織を根本から改め、管理職をラインの職位と主任部員(スタッフ)に分けて役職と待遇を切り離す制度を導入した★★
扇島の第一高炉に火入れ(第二高炉は1979年)。亜硫酸ガス0.012PPMという厳しい公害協定値は、硫黄分の少ない燃料を使うことで満たせるという見通しのうえで計画されていた★★
造船と重工の2部門が統合されて重工事業部となり、鶴見・清水・津の各造船所を「製作所」へ改称した★★
エンジニアリング事業の売上高が全社の10%を超えた。ブラジルの国営CSN社、トルコの一貫製鉄所建設、米カイザー社の再建協力など、案件は相手企業の経営全般に及ぶようになった★★
槇田久生が9年間務めた社長を退いて会長となり、金尾実が社長に就任した。槇田は「二頭政治になりやすい」として会長に代表権を置かなかった★★
鉄鋼営業の組織を品種別から需要家別(自動車・電機・機械・造船・重機)へ全面的に改めた。1954年に営業部長だった槇田久生が構想しながら高度成長のなかで実現しなかった案が、30年を経て形になった★★
米国第7位の高炉メーカー、ナショナル・スチールの株式50%を取得して資本参加し、米国内に生産拠点を持った。同年12月にマーチンマリエッタ社との合弁にも調印した★★★
プラザ合意後の円高で高炉5社の業績が悪化し、1985年度下半期から1987年度上半期まで実質的な赤字が続いた。1986年度の5社合計の実質赤字は4,000億円に達し、中間配当も一斉に取りやめとなった★★
1990年度までを対象とする5ヵ年合理化計画に着手。高炉1基の休止、福山の分塊設備休止、造船部門の設備20%削減を通じて、人員を1万9,400人から1万3,200人へ6,200人削減する内容だった★★★
系列の電炉2社、東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併してトーア・スチールが発足。翌1988年2月に東京証券取引所第一部へ上場し、日本鋼管が筆頭株主となった★★
京浜製鉄所の第二高炉を休止し、一炉体制となった。以後、京浜と福山の生産比率は1988年度の43対57から1997年度には27対73へ移り、福山重視が決定的になった★★★
子会社トーア・スチールが月産能力10万トンの鹿島製造所を総工費1,300億円で完成。東京(千住)製造所の土地を1,000億円で売って建設費に充てる計画だったが、実際の売却額は330億円余にとどまった★★
電子デバイス事業の再構築を発表。東芝とシステムLSIで包括提携し、メモリー事業から1999年3月末で撤退、綾瀬研究所を閉鎖してロジック分野に特化するとした。同事業は1997年度に売上75億円に対し営業赤字145億円を計上していた★★
高炉大手のなかで最も早く、鉄鋼事業で月2回の臨時休業に踏み切った(新日本製鉄は9月から)。不採算のステンレス薄板からの撤退も宣言した★★
子会社トーア・スチールの任意清算を発表し、通期の最終損益見通しを50億円の黒字から880億円の赤字へ下方修正。早期退職制度を1年半ぶりに復活させ、1999年度末までに2,000名を削減する収益改善策を公表した★★★
スタンダード・アンド・プアーズが社債格付けをBBpiから投機的とされるBpiへ引き下げた。株価は100円を割り二桁台で低迷した★★
京浜製鉄所の表面処理鋼板(7月)と溶接管(10月)、富山・清水製作所(7月)を分社化し、転籍制度の導入などで3,900人を削減。京浜製鉄所は月産25万トン体制を固定化した★★
トーア・スチールが解散し、新設したエヌケーケー条鋼が電炉事業を承継。トーアの鹿島・姫路・仙台の各工場に福山の条鋼工場を加えた1,200人体制とし、トーアの従業員1,300人のうち1,000人を受け入れた★★
川崎製鉄との共同株式移転により完全親会社JFEホールディングスが発足し、日本鋼管は同社の完全子会社となって上場を廃止した★★★
会社分割により両社をJFEスチール・JFEエンジニアリング・JFE都市開発・JFE技研の4社へ再編。日本鋼管の法人格はJFEエンジニアリングとして存続した★★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
  • 日本産業史 日本産業総年表(明治45年の項)
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「戦時経済への移行期の会社」
  • 日本産業史 日本産業総年表(昭和9年1月の項)
  • 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
  • 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「鉄鋼」概説
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「当社主力工場の概況について」中野宏
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号 中野宏
  • 日本産業史 第3巻「鉄 石油ショックを機に低成長時代へ」
  • 日本産業史 日本産業総年表(昭和59年の項)
  • 日本産業史 第4巻「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
  • 週刊東洋経済 1998年11月28日「NKK 子会社のトーア・スチールは解散」
  • 証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」
  • 週刊東洋経済 1998年9月19日「トーア・スチール 解散の引き金」
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日「鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」
  • JFEホールディングス 有価証券報告書【沿革】

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