1912年〜 八幡が作らなかった鋼管から始め、製鉄大合同に加わらなかった民間会社
- 1912年白石元治郎が資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で日本鋼管を設立。本社は横浜市。官営八幡製鉄所でさえ手がけていなかった継目無鋼管の製造を専業として発足した
- 1918年第一次世界大戦の鉄鋼需要増を受けて平炉7基、小形中形条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉を増設。資本金は1,600万円へ急増した
- 1919年大戦休戦にともなう反動不況で注文が途絶。丸棒はトン当り200円から70〜80円へ暴落し、株価は5円まで下落した
- 1921年減資したうえで直ちに増資を実施。前例のない手続きのため職員をほぼ全員全国へ派遣し、株主の委任状を集めた
- 1923年関東大震災で川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒壊。大戦休戦後の反動と恐慌に震災が重なり、拡張した諸工場のうち平炉・鋼管・条鋼を除く各工場は操業中止または廃棄となった
- 1934年官営八幡製鉄所と5製鉄会社の合同で半官半民の日本製鉄が発足。日本鋼管は製鉄合同への参加を拒否し、民間企業として独立独歩の道を選んだ
- 1936年扇町製銑工場の第一高炉に火入れし、銑鋼一貫態勢を確立した。日中戦争へ向かう鉄鋼需要増で政府が民間企業育成へ政策転換し、高炉建設が認可されたことによる
需要が小さく輸入に頼っていた継目無鋼管を、専業として引き受けた
1912年6月、白石元治郎氏が資本金200万円で日本鋼管を設立した。設備は20トン平炉2基と製管工場1工場、本社は横浜市、工場は川崎に置いた。狙いを継目無鋼管に定めたのは、需要が大きいからではなく、むしろ小さかったからである。当時の鋼管は製造に特別の設備と高度の技術を要するわりに数量が出ず、官営八幡製鉄所でさえ手をつけずに輸入へ委ねていた。民間の鉄鋼会社が数社しかなかった時代に、日本鋼管はその空白を専業として引き受けた。設備の規模は控えめだった。1918年に入社し、のちに社長となる河田重氏は、初出社の日に「見渡すかぎり殺風景なたんぼの中の一本道」を歩いた。その先の川崎工場には、平炉が3基か4基と、小さなパイプ工場が2つあるだけだった。 [1][2][3][4]
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
- [1]1912年6月、白石元治郎により資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で創立。継目無鋼管の製造を専業として発足した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
- [2]鋼管が輸入依存だったのは、需要が数量的に少なかったうえ、製造に特別の設備と高度の技術を要したためである
- 日本産業史 日本産業総年表(明治45年の項)
- [3]設立時の本社は横浜市、社長は白石元治郎
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
- [4]1918年に入社した河田重が初出社の日に歩いたのは田んぼの中の一本道で、川崎工場には平炉が3〜4基と小さなパイプ工場が2つあるだけだった
第一次世界大戦の需要が、この小さな専業会社を一息に膨らませた。平炉は7基に増え、小形中形条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉が加わった。資本金は1,600万円へ跳ね上がる。だが休戦とともに注文は止まった。トン当り200円だった丸棒は70円から80円へ落ち、それでも買い手がつかない。株価は5円まで下げた。増設した工場のうち平炉・鋼管・条鋼を除く各工場は、操業を止めるか廃棄された。1923年の関東大震災では、川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒れている。昭和初頭の世界恐慌では二度の減資に追い込まれた。 [5][6][7][8]
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
- [5]第一次大戦期に平炉7基・条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉を増設し、資本金は1,600万円へ増加した
- [8]昭和初頭の世界恐慌による打撃で再度にわたる減資を余儀なくされた
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
- [6]大戦休戦後の反動で丸棒はトン当り200円から70〜80円へ暴落し、株価は5円まで下落した
- [7]1923年の関東大震災で川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒壊した
苦境のなかでも手は打った。富山の電気製鉄所を合併して合金鉄の製造に入り、鍛接鋼管工場を新設した。1921年には減資したうえで、直ちに増資に踏み切った。手続に見本がなく、しかも過半数の委任状を集めなければならなかったため、職員をほぼ全員全国へ送った。資金の出どころは終始、株主と借入だった。河田重氏は、その事実を会社の性格として書き残している。「鋼管会社は純然たる民間会社である。だから資金はすべて株主から集め、あとは借金でまかなってきた。政府の金や援助なしに、よくここまでこられたものだとおもう」。 [9][10][11]
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
- [9]経営合理化と並行して富山の電気製鉄所の合併、合金鉄の製造、鍛接鋼管工場の新設という積極策を採った
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
- [10]河田重は日本鋼管を「純然たる民間会社」と位置づけ、資金を株主と借入だけでまかなってきたと記している
- [11]1921年に減資したうえで直ちに増資を行い、前例がないため職員をほぼ全員全国へ派遣して委任状を集めた
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
- [1]1912年6月、白石元治郎により資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で創立。継目無鋼管の製造を専業として発足した
- [5]第一次大戦期に平炉7基・条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場と小型高炉を増設し、資本金は1,600万円へ増加した
- [8]昭和初頭の世界恐慌による打撃で再度にわたる減資を余儀なくされた
- [9]経営合理化と並行して富山の電気製鉄所の合併、合金鉄の製造、鍛接鋼管工場の新設という積極策を採った
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本鋼管」
- [2]鋼管が輸入依存だったのは、需要が数量的に少なかったうえ、製造に特別の設備と高度の技術を要したためである
- 日本産業史 日本産業総年表(明治45年の項)
- [3]設立時の本社は横浜市、社長は白石元治郎
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)河田重
- [4]1918年に入社した河田重が初出社の日に歩いたのは田んぼの中の一本道で、川崎工場には平炉が3〜4基と小さなパイプ工場が2つあるだけだった
- [6]大戦休戦後の反動で丸棒はトン当り200円から70〜80円へ暴落し、株価は5円まで下落した
- [7]1923年の関東大震災で川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒壊した
- [10]河田重は日本鋼管を「純然たる民間会社」と位置づけ、資金を株主と借入だけでまかなってきたと記している
- [11]1921年に減資したうえで直ちに増資を行い、前例がないため職員をほぼ全員全国へ派遣して委任状を集めた
製鉄大合同に加わらない代償を払い、自前の高炉に届くまで24年かけた
1934年1月、官営八幡製鉄所と5つの製鉄会社が合同して半官半民の日本製鉄が発足した。日本鋼管には参加の要請が届いたが、創業社長の白石元治郎氏はこれを断った。理由として伝わるのは、政府の一企業になれば競争がなくなるという判断である。「製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ」。合同後の鋼塊生産では日本製鉄が51%を占め、日本鋼管は12%で第2位についた。規模で並ぶ相手ではない。独立を選ぶとは、その差を抱えたまま鉄を売り歩くことを意味した。 [12][13][14][15]
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄
- [12]製鉄大合同への参加要請に対し、白石社長は民間企業として競争しながら発展すべきだとして加わらなかった
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「戦時経済への移行期の会社」
- [13]昭和9年前後の鋼塊生産シェアは日本製鉄51%に対し日本鋼管12%、鋼材は日本製鉄47.5%に対し日本鋼管13.6%だった
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
- [14]製鉄合同すなわち日本製鉄の設立に際し、日本鋼管は合同体への参加を拒否して独自の道を歩んだ
- 日本産業史 日本産業総年表(昭和9年1月の項)
- [15]1934年1月、官営八幡製鉄所と釜石・輪西・三菱・九州・富士の5製鉄会社の合併により日本製鉄が設立された(製鉄大合同)
代償は販売の現場に出た。統制下の日鉄は問屋を呼びつけた。のちに社長となる槇田久生氏によれば、日本鋼管の側は買ってもらうために頭を下げて回った。「問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらい、それをどこかに売ってもらわなければならない」。訪ねた先で碁を打たれながら待たされ、勝負がついたと思えば「もう一番」と言われる。そこまで辛抱しなければ鉄が売れなかった、というのが槇田久生氏の回想である。独立の選択は理念として語りうるが、現場では毎日の営業条件として跳ね返っていた。 [16][17]
- 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
- [16]日鉄大合同に参加せず民間として独立した日本鋼管は、販売面で問屋に頭を下げて買ってもらう立場に置かれた
- [17]商談相手に碁を打たれながら待たされる状況が販売現場にあった
高炉は創立以来の宿願だった。しかし国策に添わないという理由で、高炉建設計画は商工省に握りつぶされた。事情を変えたのは自社の努力ではなく戦争だった。満州事変から日中戦争へ進むにつれ、官営製鉄所だけでは鉄鋼需要を満たせなくなる。政府は民間企業の育成へ方針を転じ、日本製鉄以外の熔鉱炉建設も認可した。1934年10月に高炉3基を含む扇町製銑工場へ着手し、1936年6月に第一高炉へ火入れした。創立から24年を経て、ようやく銑鋼一貫に届いている。ただし民営で最初の銑鋼一貫は、1903年に釜石製鉄所が実現した。日本鋼管が最初に立ったのは高炉ではなく、八幡が手をつけなかった鋼管のほうだった。 [18][19][20]
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
- [18]高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされたが、鉄鋼需要の増加で民間企業育成へ政策が転換し認可された
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
- [19]1934年10月に高炉3基と付帯設備を含む扇町製銑工場の建設に着手し、1936年6月に第一高炉へ火入れして銑鋼一貫態勢を確立した
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「鉄鋼」概説
- [20]民営として最初の銑鋼一貫作業は1903年に釜石製鉄所が開始したものであり、日本鋼管の創立は大正元年にあたる
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」堀切治雄
- [12]製鉄大合同への参加要請に対し、白石社長は民間企業として競争しながら発展すべきだとして加わらなかった
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「戦時経済への移行期の会社」
- [13]昭和9年前後の鋼塊生産シェアは日本製鉄51%に対し日本鋼管12%、鋼材は日本製鉄47.5%に対し日本鋼管13.6%だった
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「日本鋼管」
- [14]製鉄合同すなわち日本製鉄の設立に際し、日本鋼管は合同体への参加を拒否して独自の道を歩んだ
- [19]1934年10月に高炉3基と付帯設備を含む扇町製銑工場の建設に着手し、1936年6月に第一高炉へ火入れして銑鋼一貫態勢を確立した
- 日本産業史 日本産業総年表(昭和9年1月の項)
- [15]1934年1月、官営八幡製鉄所と釜石・輪西・三菱・九州・富士の5製鉄会社の合併により日本製鉄が設立された(製鉄大合同)
- 私の履歴書 経済人23(日本経済新聞社、1987年)槇田久生
- [16]日鉄大合同に参加せず民間として独立した日本鋼管は、販売面で問屋に頭を下げて買ってもらう立場に置かれた
- [17]商談相手に碁を打たれながら待たされる状況が販売現場にあった
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号 堀切治雄
- [18]高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされたが、鉄鋼需要の増加で民間企業育成へ政策が転換し認可された
- 会社銀行八十年史(東洋書館、1955年)「鉄鋼」概説
- [20]民営として最初の銑鋼一貫作業は1903年に釜石製鉄所が開始したものであり、日本鋼管の創立は大正元年にあたる