日本冶金工業 の歴史

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創業 1925年
母体 中央理化工業として設立
創業地 東京都
創業 1925年8月、東京で中央理化工業として設立され、消火器から出発した。1928年
1925年8月、東京で中央理化工業として設立され、消火器から出発した。1928年9月に日本火工へ改称して火薬・火工品へ移り、1936年2月には川崎大師河原の埋立地に川崎製造所を稼働させて、特殊鋼・軽合金・ステンレス鋼の製造に入る。11年のあいだに二度、主力製品を替えたことになる。1942年6月に東京・大阪の取引所へ上場し、同年9月には日本冶金工業へ改称して火薬火工部門を昭和火薬へ譲渡した。1943年12月には大江山ニッケル工業を合併し、ニッケル鉱石の採掘とフェロニッケル製錬を引き継いでいる。
決断 合金の成分を外から調達せず自分で作る、という選択を80年変えていない。1943年
合金の成分を外から調達せず自分で作る、という選択を80年変えていない。1943年12月の大江山ニッケル工業の合併で京都府の鉱山と製錬所を本体へ入れ、原料から冷延薄板までを社内でつないだ。1975年12月にフェロニッケル製錬を大江山ニッケルへ分離したが、1983年10月に再び合併して大江山製造所へ戻している。2003年4月には川崎・大江山を分社して製造所ごとに損益責任を持たせ、7年後の2010年4月に2社を吸収合併して一体運営へ回帰した。工程を外へ出す試みは二度とも本体へ引き戻され、川崎で溶かして圧延し、大江山でフェロニッケルを作る一体運営に落ち着いた。
現況 汎用ステンレスの会社から、ニッケル基合金の会社へ客層が入れ替わった。2026年3
汎用ステンレスの会社から、ニッケル基合金の会社へ客層が入れ替わった。2026年3月期は売上高1,509億円・営業利益110億円で、過去最高だった2023年3月期の売上1,993億円・経常利益277億円からは3期続けて減った。それでもリーマンショック後の2013年3月期に経常損失64億円を計上した頃とは違い、市況が緩んだ年にも利益が残る。地域別の売上は日本1,126億円、中国134億円、その他249億円。2022年1月に川崎製造所で高効率電気炉Eを、2024年12月には35年ぶりの新冷間圧延機を動かし、半導体製造装置・LNG・原子力向けの高耐食材へ品種を寄せたことが、相場に振られにくい採算を作った。
競合 ステンレス薄板の大手が高炉系へ吸収されるなか、日本冶金工業は原料側を自前で持つ。
ステンレス薄板の大手が高炉系へ吸収されるなか、日本冶金工業は原料側を自前で持つ。2016年に新日鐵住金が日新製鋼を買収し、独立系の薄板メーカーは高炉系の傘下へ移った。特殊鋼では大同特殊鋼のように、大型の電気炉へ投じて量産と高付加価値を同じ設備で両立させる道もある。売上1,509億円の日本冶金工業は規模で及ばないが、大江山でフェロニッケルを自製するため、ニッケル相場が上がる局面で原料費の上昇を製品価格へ乗せやすい。量の出ない代わりに置き換えの効かない高耐食材へ絞ったことが、原料を外から調達する同業より利幅を厚くしている。
長期業績の推移 1942〜2026年
日本冶金工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

第1章 1925年〜 消火器・火工品から特殊鋼・ステンレスへの二度の業態転換期

筆者考察y.sugiura, author

消火器から火薬火工品へ、火薬火工品から特殊鋼へ。日本冶金工業は11年のあいだに二度、主力製品を入れ替えている。二度目の転換で決め手になったのは技術の蓄積ではなく、資金の置き場所だった。1934年に軽合金の研究の場が日本電気工業ではなく日本火工に置かれたのは、森矗昶傘下の企業で研究開発費を負担できる余力がそこにしかなかったからである。高級特殊鋼もアルミニウムも大部分を輸入に依存していた当時、国産化の機会は誰の前にも開いていた。それを取れたのは、火工品で稼いだ資金を新しい材料へ回せる会社だった。川崎大師の先の沼沢地を坪平均2円未満で買い集めた土地が、そのまま主力工場の敷地になった。

1942年からの1年半で起きたのは、資本市場へのアクセス、現在の社名、原料の上流という三つの取得である。なかでも1943年12月の大江山ニッケル工業の合併は、ステンレス鋼の主要合金成分であるニッケルを、鉱石の採掘から最終製品まで自前で賄う構造を作った。戦後の低迷から抜け出す鍵も、また技術の側にあった。1950年7月にアーク炉で酸素製鋼法を成功させるまで、ステンレス鋼は容量500キログラムの誘導炉で少量ずつ作るもので、朝鮮動乱で注文が増えても応じようがなかった。量産を縛っていたのは需要ではなく炉であり、その制約を外したのは他社から買った設備ではなく自社の技術陣であった。

1925年〜消火器から火工品、特殊鋼へと続いた業態転換の連鎖

1925年8月、東京で中央理化工業株式会社が設立された。当初の事業は消火器の製造販売で、服部時計店系の出資により発足した小規模な化学工業会社にすぎなかった。3年後の1928年9月、商号を日本火工株式会社と改称し、火薬・火工品の製造販売へ業態を転換する消火器単体では事業規模が限られたため、当時拡大していた軍需向け火工品市場に活路を求めた判断であった。当時の日本は昭和金融恐慌から世界恐慌へ向かう時期にあり、中小化学会社が経営難に陥っていたなか、軍需依存度を高めることで生き残りを図った。

  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1925年8月 東京で中央理化工業株式会社を設立し消火器の製造販売を開始
    • [2]服部時計店系の出資により発足した
    • [3]1928年9月 商号を日本火工株式会社と改称し火薬・火工品の製造販売へ業態転換

1928年9月に火薬・火工品へ転じた日本火工が、さらに金属材料へ踏み出した背景には、高級特殊鋼と軽合金を輸入に依存する供給構造があった。1932年から1937年にかけて特殊鋼の生産量は約5.5倍に伸びたが、自給率は87%であった。ステンレス鋼の国内生産量は1935年度の約1,500トンから1937年度の約4,500トンへ増えた。森矗昶は1934年10月、冶金技術者の松永陽之助を日本火工に招き、前年から買収を進めていた川崎の土地に試験工場を置いた。それでも需要を満たせず、高級特殊鋼の多くを欧米からの輸入に頼っていた。軽合金の開発拠点に選ばれたのは日本火工であり、日本電気工業ではなかった。理由は、傘下の企業で研究開発費を背負える余力を持つのが日本火工だけだったことにある

  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1928年9月 商号を日本火工株式会社と改称し火薬・火工品の製造販売へ業態転換
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)1章 冶金事業への転進
    • [5]満州事変以降の軍備拡張と国際連盟脱退により高級特殊鋼やアルミニウム合金の欧米依存が許されない状況となった
    • [6]1932年から1937年にかけて特殊鋼の生産量は約5.5倍に増えたが自給率は87%
    • [7]ステンレス鋼の国内生産量は1935年度が約1,500トン、1937年度が約4,500トン
    • [8]1934年10月 冶金技術者の松永陽之助を日本火工に迎え川崎作業所内に試験工場を設けて軽合金の研究を開始
    • [9]ステンレス鋼をはじめ高級特殊鋼のほとんどを欧米からの輸入に依存していた
    • [10]軽合金の新材質開発の場を日本電気工業ではなく日本火工に求めたのは、森矗昶傘下の企業の中で日本火工が研究開発費を負担する余力があったため

1936年2月、神奈川県の川崎市大師河原に川崎製造所が稼動し、特殊鋼・軽合金及びステンレス鋼の製造販売を開始した。資本金200万円で発足し、代表取締役には森暁が就任したこれが現在の日本冶金工業の主力事業の発祥点で、火工品メーカーから金属材料メーカーへの第二の業態転換となる。1930年代の日本は重工業化が進み、軍艦・航空機・兵器向けの特殊鋼需要が拡大していた。同社は火工品で培った爆発物製造の冶金技術を応用して特殊鋼分野に参入し、当時としては先端材料だったステンレス鋼の国産化にも取り組んだ。1938年には川崎工場に1500トンプレスや鋼板用ロールを備えた第一期特殊鋼製造設備の増設工事が完成し、翌1939年には軽合金製造関係の増設工事も完成して、量産の基盤を確立した。創業から11年で消火器メーカーから特殊鋼メーカーへ変貌し、川崎製造所は現在も主力工場として約90年にわたり連続稼働している

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [11]川崎製造所は川崎市大師河原に立地
    • [13]川崎製造所稼動時の資本金は200万円
    • [14]川崎製造所稼動時の代表取締役は森暁
    • [15]1938年 第一期特殊鋼製造設備(1500トンプレス・鋼板用ロール)増設完成、1939年 軽合金製造設備増設完成
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1936年2月 神奈川県川崎に川崎製造所が稼動し特殊鋼・軽合金及びステンレス鋼の製造販売を開始
    • [16]創業(1925年)から川崎製造所稼動(1936年)まで11年
    • [17]川崎製造所は現在も主力工場として約90年連続稼働
参考文献[1]-[17]
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1925年8月 東京で中央理化工業株式会社を設立し消火器の製造販売を開始
    • [2]服部時計店系の出資により発足した
    • [3]1928年9月 商号を日本火工株式会社と改称し火薬・火工品の製造販売へ業態転換
    • [4]1928年9月 商号を日本火工株式会社と改称し火薬・火工品の製造販売へ業態転換
    • [12]1936年2月 神奈川県川崎に川崎製造所が稼動し特殊鋼・軽合金及びステンレス鋼の製造販売を開始
    • [16]創業(1925年)から川崎製造所稼動(1936年)まで11年
    • [17]川崎製造所は現在も主力工場として約90年連続稼働
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)1章 冶金事業への転進
    • [5]満州事変以降の軍備拡張と国際連盟脱退により高級特殊鋼やアルミニウム合金の欧米依存が許されない状況となった
    • [6]1932年から1937年にかけて特殊鋼の生産量は約5.5倍に増えたが自給率は87%
    • [7]ステンレス鋼の国内生産量は1935年度が約1,500トン、1937年度が約4,500トン
    • [8]1934年10月 冶金技術者の松永陽之助を日本火工に迎え川崎作業所内に試験工場を設けて軽合金の研究を開始
    • [9]ステンレス鋼をはじめ高級特殊鋼のほとんどを欧米からの輸入に依存していた
    • [10]軽合金の新材質開発の場を日本電気工業ではなく日本火工に求めたのは、森矗昶傘下の企業の中で日本火工が研究開発費を負担する余力があったため
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [11]川崎製造所は川崎市大師河原に立地
    • [13]川崎製造所稼動時の資本金は200万円
    • [14]川崎製造所稼動時の代表取締役は森暁
    • [15]1938年 第一期特殊鋼製造設備(1500トンプレス・鋼板用ロール)増設完成、1939年 軽合金製造設備増設完成

1942年〜戦時下わずか1年半で得た上場・現社名・上流統合

1942年6月、東京・大阪取引所に株式上場を果たす。戦時統制経済の真っ只中で、軍需関連企業として資本調達できる体制を構築した。同年9月、商号を日本冶金工業株式会社と改称し、火薬火工部門を昭和火薬株式会社へ譲渡する。冶金とは金属を溶解・精錬する技術全般を指す日本語で、社名から火工品の影が消え、ステンレス・特殊鋼という現在の事業ドメインが社名として明示された。火工品事業の分離売却は、特殊鋼の量産体制構築に経営資源を集中する戦略的判断で、商号変更と事業売却を同月に実施した機敏さが目を引く。

  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1942年6月 東京・大阪取引所に株式上場
    • [19]1942年9月 商号を日本冶金工業株式会社と改称し火薬火工部門を昭和火薬株式会社へ譲渡

大江山との関わりは合併に先立って始まっていた。同社は早くから大江山鉱石による含ニッケル粒鉄の企業化を試み、1939年には七尾セメント(現・住友セメント)の回転炉を借りて製錬を開始し、1941年1月には大江山含ニッケル粒鉄によるN・K鋼の製造に成功した。1942年11月には大江山製造所が竣工し、含ニッケル粒鉄の本格生産に入った。そのうえで1943年12月、京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併し、ニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承したこれが日本冶金工業を"ニッケル基合金専業"たらしめた決定的な合併である。ニッケルを鉱石採掘から最終製品まで内製する体制は当時の日本では稀有で、長期的な競争力の源泉となった。1942年6月の上場、9月の現社名確立、1943年12月の大江山合併と、わずか1年半で資本市場アクセス・現社名・上流統合の3点を獲得した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [20]1939年 七尾セメント(現・住友セメント)の回転炉で大江山鉱石の製錬を開始、1941年1月 大江山含ニッケル粒鉄によるN・K鋼の製造に成功
    • [21]1942年11月 大江山製造所が竣工し含ニッケル粒鉄の本格生産を開始
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1943年12月 京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併しニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承
    • [23]上場(1942年6月)・現社名確立(1942年9月)・大江山合併(1943年12月)をわずか1年半で達成
参考文献[18]-[23]
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1942年6月 東京・大阪取引所に株式上場
    • [19]1942年9月 商号を日本冶金工業株式会社と改称し火薬火工部門を昭和火薬株式会社へ譲渡
    • [22]1943年12月 京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併しニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承
    • [23]上場(1942年6月)・現社名確立(1942年9月)・大江山合併(1943年12月)をわずか1年半で達成
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [20]1939年 七尾セメント(現・住友セメント)の回転炉で大江山鉱石の製錬を開始、1941年1月 大江山含ニッケル粒鉄によるN・K鋼の製造に成功
    • [21]1942年11月 大江山製造所が竣工し含ニッケル粒鉄の本格生産を開始

1950年〜戦後のグループ機能分担と薄板の量産化

戦後の立て直しは、経営者の不在と原料の途絶という二重の空白から始まった。戦災は比較的軽微で生産はいち早く再開したものの、原料面の制約が重く業績は低迷していた。森暁は1947年1月に公職追放で衆議院議員を辞し、3月には昭和電工の社長も退任した。追放が解けたのは1948年5月、日本冶金工業の社長へ戻ったのは1949年3月であった。当時のステンレス鋼は誘導式電気炉で作るのが世界の通例で、炉の容量は500キログラムから1トンにすぎなかった。1950年7月、川崎製造所の技術陣はアーク炉による酸素製鋼法をわが国で初めて成功させ、朝鮮動乱で急増した注文に応じられる量産の道を拓いた。溶鋼へ酸素を吹き込み、酸化熱で温度を上げて短時間で脱炭を進めるこの精錬法は、ドイツやアメリカの同業も採っていなかった

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [24]戦災は比較的軽微で戦後いち早く生産を再開したが原料面の制約で業績は低迷した
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)追録 森曉相談役を悼む
    • [25]森暁は1947年1月にGHQの公職追放指令で衆議院議員を辞任し、同年3月に昭和電工代表取締役社長を辞任
    • [26]森暁は1948年5月に公職追放を解除され、1949年3月28日に日本冶金工業代表取締役社長へ就任
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)4章 復興への躍動
    • [27]当時のステンレス鋼は高周波および低周波の誘導式電気炉で製造され、誘導炉の容量は500kgから1トンであった
    • [28]1950年7月 川崎製造所の技術陣がわが国で初めてアーク炉によるステンレス鋼の酸素製鋼法に成功し大量生産への道を拓いた
    • [29]酸素製鋼法は溶鋼中に酸素ガスを吹き込み酸化熱で溶鋼の温度を上げ金属分の酸化を抑えながら短時間で脱炭を促進させる精錬法で、ドイツのクルップ社やアメリカのアレゲニー・ラドラム社も誘導炉で製造していた

1952年8月、輸入鉱石による大江山製造所の含ニッケル粒鉄の生産再開を機に、日本冶金工業は発展期へ転じた。戦後の経済混乱を経て、1948年8月に東亜精機株式会社(現・ナストーア株式会社)が設立され、グループ企業形成が始まる。1953年5月には精密線材を担う三信特殊線工業株式会社(現・日本精線株式会社)が、1954年11月には商社機能を担う株式会社上野半兵衛商店(現・ナス物産株式会社)がグループ会社となった製造・販売の機能分担をグループ全体で行う体制が10年がかりで整備された。1950年代には川崎製造所の設備拡張も続き、1956年2月には川崎製造所研究所が完成、同年8月には石川県の金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売を開始するなど製品ラインも多様化した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [30]1952年8月 輸入鉱石による大江山製造所の含ニッケル粒鉄の生産再開
    • [34]1956年2月 川崎製造所研究所が完成
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1948年8月 東亜精機株式会社(現・ナストーア株式会社)が設立
    • [32]1953年5月 三信特殊線工業株式会社(現・日本精線株式会社)がグループ会社に
    • [33]1954年11月 株式会社上野半兵衛商店(現・ナス物産株式会社)がグループ会社に
    • [35]1956年8月 石川県の金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売を開始

1959年には川崎製造所の隣接埋立地39万7000平方メートルに新工場の建設へ着手し、薄板量産の拠点づくりが本格化する。新工場ではまず1959年に厚板用、続いて1960年2月に薄板用、1964年10月に第二薄板用と各センジミアミル(冷間圧延機)を順次完成させ、家電・自動車・建材向けの薄板需要拡大に対応した。1960年10月にはステンレス加工子会社の株式会社ナスステンレス製作所も設立される。1965年3月には鋼の歩留改善と生産性向上を両立する連続鋳造設備が稼動し、鋼塊鋳造からの移行を完了した。1966年4月の熱間圧延機(プラネタリーミル)、1968年2月の60トン電気炉と設備増強が続き、冷延から熱延までを揃えた一貫体制が確立した。1968年時点の年間売上高は約300億円強に達し、うち輸出が約25%を占めるまでに成長した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [36]1959年 川崎製造所隣接埋立地39万7000平方メートルに新工場建設へ着手
    • [43]1968年時点の年間売上高は約300億円強、うち輸出が約25%
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1959年 厚板用、1960年2月 薄板用、1964年10月 第二薄板用の各センジミアミル(冷間圧延機)を順次完成
    • [38]1960年2月 川崎製造所に冷間圧延機(ゼンジミアミル)が稼動
    • [39]1960年10月 株式会社ナスステンレス製作所を設立
    • [40]1965年3月 連続鋳造設備が稼動
    • [41]1966年4月 熱間圧延機(プラネタリーミル)が稼動
    • [42]1968年2月 60トン電気炉が稼動
参考文献[24]-[43]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [24]戦災は比較的軽微で戦後いち早く生産を再開したが原料面の制約で業績は低迷した
    • [30]1952年8月 輸入鉱石による大江山製造所の含ニッケル粒鉄の生産再開
    • [34]1956年2月 川崎製造所研究所が完成
    • [36]1959年 川崎製造所隣接埋立地39万7000平方メートルに新工場建設へ着手
    • [43]1968年時点の年間売上高は約300億円強、うち輸出が約25%
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)追録 森曉相談役を悼む
    • [25]森暁は1947年1月にGHQの公職追放指令で衆議院議員を辞任し、同年3月に昭和電工代表取締役社長を辞任
    • [26]森暁は1948年5月に公職追放を解除され、1949年3月28日に日本冶金工業代表取締役社長へ就任
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)4章 復興への躍動
    • [27]当時のステンレス鋼は高周波および低周波の誘導式電気炉で製造され、誘導炉の容量は500kgから1トンであった
    • [28]1950年7月 川崎製造所の技術陣がわが国で初めてアーク炉によるステンレス鋼の酸素製鋼法に成功し大量生産への道を拓いた
    • [29]酸素製鋼法は溶鋼中に酸素ガスを吹き込み酸化熱で溶鋼の温度を上げ金属分の酸化を抑えながら短時間で脱炭を促進させる精錬法で、ドイツのクルップ社やアメリカのアレゲニー・ラドラム社も誘導炉で製造していた
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1948年8月 東亜精機株式会社(現・ナストーア株式会社)が設立
    • [32]1953年5月 三信特殊線工業株式会社(現・日本精線株式会社)がグループ会社に
    • [33]1954年11月 株式会社上野半兵衛商店(現・ナス物産株式会社)がグループ会社に
    • [35]1956年8月 石川県の金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売を開始
    • [37]1959年 厚板用、1960年2月 薄板用、1964年10月 第二薄板用の各センジミアミル(冷間圧延機)を順次完成
    • [38]1960年2月 川崎製造所に冷間圧延機(ゼンジミアミル)が稼動
    • [39]1960年10月 株式会社ナスステンレス製作所を設立
    • [40]1965年3月 連続鋳造設備が稼動
    • [41]1966年4月 熱間圧延機(プラネタリーミル)が稼動
    • [42]1968年2月 60トン電気炉が稼動

第2章 1970年〜 フェロニッケル部門の分離と大江山ニッケルの再合併、川崎のAOD精錬

筆者考察y.sugiura, author

1975年に手放したのは、1943年に苦労して手に入れたものだった。大江山ニッケル工業の合併で得たニッケル鉱石の採掘と製錬は、ステンレス鋼の主要合金成分を自前で賄う構造そのもので、日本冶金工業をニッケル基合金の専業たらしめた土台である。それを約119億9,900万円で子会社へ譲り渡したのは、上流を持つ価値が下がったからではない。市況が長期に低迷し、月ごとに20億円の資金が足りなくなる状況では、事業形態の違う製錬所を抱えたまま本体を立て直すことができなかったからである。垂直統合は、資金が回っているあいだだけ成り立つ構造だった。

再建の中身は、原価の作り方を入れ替えることだった。20億円のAOD炉は安価な高炭素フェロクロムを制約なく使えるようにし、電力と工程を減らした。石油危機の直後に見送った投資を、累積赤字58億円を抱えた1976年11月に決めたのは、原価で他社に劣る限り市況が戻っても赤字は消えないと判じたからである。1979年に繰越損失を一掃し、転換社債50億円とスイスフラン債2本、優先株1,000万株で資本金を110億円まで積み上げたうえで、1983年10月に大江山ニッケルを買い戻した。切った順序と戻した順序は同じで、資金の余力が先、上流が後だった。

売上高の推移 1971年3月期から1985年3月期まで(単体)(億円)

590 71年3月期 821 75年3月期 610 76年3月期 667 79年3月期 768 82年3月期 891 85年3月期

1970年〜30万トン体制の完成と重なった需要の消失

1970年度の日本のステンレス鋼生産量は約160万トンに達し、アメリカを上回って世界第1位になった。ところが国内の需要は1970年秋から急に落ち込み、1971年には需給の大きな開きに直面する。30万トン体制を狙って積み上げた設備は、2基目の60トンアーク炉、連続鋳造設備2号機、わが国初の5フィート幅20段ゼンジミアミルのいずれも、完成したとたんに不況で力を発揮する場を失った。輸出に出口を探しても、1971年8月のアメリカの新経済政策で成約がいったん途絶え、同年12月のスミソニアン協定では円が16.88%切り上げられて1ドル308円となった。1971年3月期に590億円だった売上高は翌1972年3月期に471億円へ落ち、経常損益は18億円の黒字から29億円の赤字へ転じた

  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
    • [44]わが国のステンレス鋼生産量は1970年度に約160万トンとなりアメリカを抜いて世界第1位
    • [45]ステンレス鋼の国内需要は1970年秋以降急速に低落し1971年に入って大幅な需給ギャップに直面した
    • [46]30万トン体制の確立を目指して建設した2基目の60トンアーク炉、CCM2号設備、わが国初の5フィート幅20段ゼンジミアミルは不況に直面し威力を発揮する機会を失った
    • [47]1971年8月のアメリカの新経済政策により一時は輸出成約が全く途絶した
    • [48]1971年12月のスミソニアン協定で円は1ドル308円、16.88%の切上げとなった
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [49]売上高は1971年3月期590億円から1972年3月期471億円へ、経常損益は18億円の黒字から29億円の赤字へ

不況カルテルで凌いだ先に、1973年10月の石油危機が重なった。ステンレス鋼6社は1971年11月26日に生産カルテルの認可を受け、四半期の生産限度量を5万2,500トンに絞った。1972年12月には各社の冷間圧延機1基を封印する設備カルテルも申請している。1973年半ばに市況は回復し、1974年3月期の売上高は697億円、経常利益は21億円と持ち直した。しかし石油危機後の総需要抑制で設備投資は冷え込み、1975年3月期は在庫調整の遅れも重なって29億円を超える赤字となった。追い討ちとなったのが1975年2月14日の川崎製造所PLミル工場の火災である。屋根約8,390平方メートルを焼失し、損害は約7億9,300万円に達した

  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
    • [50]ステンレス鋼6社の不況カルテルは1971年11月26日に認可され、四半期の生産限度量は5万2,500トン
    • [51]1972年12月12日 各社のコールド・ストリップ・ミル1基を封印する6カ月間の設備カルテルを申請
    • [53]1975年3月期は国内販売量が前期比27%減となり在庫調整への対応の遅れもあって29億円を超える赤字を計上
    • [54]1975年2月14日 川崎製造所PLミル工場のコイラー付近から出火
    • [55]火災で約8,390平方メートルの屋根を焼失し、損害は総額約7億9,300万円
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [52]1974年3月期の売上高は697億円、経常利益は21億円

資金繰りは1975年5月に破綻の一歩手前まで行った。日本冶金工業は5月28日、取引先へ支払猶予と期日延長の協力を要請する。これが支払停止と受け取られ、経営危機説と金融不安説が世間に流布された。資金不足は1975年2月の10億円弱に始まり、3月と4月はそれぞれ20億円に達した。1975年1年間の資金不足は約172億円で、うち137億円を日本興業銀行の支援に仰いだ。同年9月期の借入金は長短合計で約478億円、金利の支払いだけで39億円余に上った。取引銀行と商社は、不振の原因が不動産への過大投資や放漫経営ではなくステンレス鋼市況の長期低迷にあるとみて、全面支援の姿勢を崩さなかった。1976年3月期の経常損益は105億2,900万円の赤字となった

  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
    • [56]1975年5月28日 取引先に対して支払猶予と期日延長などの協力を要請
    • [57]支払延期の協力要請が支払停止と受け取られ経営危機説、金融不安説が世間に流布された
    • [58]1975年2月に10億円弱、3月に20億円、4月に20億円の資金不足をきたした
    • [59]1975年1月から12月までの資金不足は約172億円、うち137億円を日本興業銀行に支援を仰いだ
    • [60]1975年9月期の借入金は長短合計で約478億円、金利の支払いだけで39億円余
    • [61]取引銀行、商社は経営不振の原因が不動産への過大投資や放漫経営ではなくステンレス鋼市況の長期低迷による収益悪化にあるとみて全面支援の姿勢を崩さなかった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [62]1976年3月期の経常損益は105億2,900万円の赤字
参考文献[44]-[62]
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
    • [44]わが国のステンレス鋼生産量は1970年度に約160万トンとなりアメリカを抜いて世界第1位
    • [45]ステンレス鋼の国内需要は1970年秋以降急速に低落し1971年に入って大幅な需給ギャップに直面した
    • [46]30万トン体制の確立を目指して建設した2基目の60トンアーク炉、CCM2号設備、わが国初の5フィート幅20段ゼンジミアミルは不況に直面し威力を発揮する機会を失った
    • [47]1971年8月のアメリカの新経済政策により一時は輸出成約が全く途絶した
    • [48]1971年12月のスミソニアン協定で円は1ドル308円、16.88%の切上げとなった
    • [50]ステンレス鋼6社の不況カルテルは1971年11月26日に認可され、四半期の生産限度量は5万2,500トン
    • [51]1972年12月12日 各社のコールド・ストリップ・ミル1基を封印する6カ月間の設備カルテルを申請
    • [53]1975年3月期は国内販売量が前期比27%減となり在庫調整への対応の遅れもあって29億円を超える赤字を計上
    • [54]1975年2月14日 川崎製造所PLミル工場のコイラー付近から出火
    • [55]火災で約8,390平方メートルの屋根を焼失し、損害は総額約7億9,300万円
    • [56]1975年5月28日 取引先に対して支払猶予と期日延長などの協力を要請
    • [57]支払延期の協力要請が支払停止と受け取られ経営危機説、金融不安説が世間に流布された
    • [58]1975年2月に10億円弱、3月に20億円、4月に20億円の資金不足をきたした
    • [59]1975年1月から12月までの資金不足は約172億円、うち137億円を日本興業銀行に支援を仰いだ
    • [60]1975年9月期の借入金は長短合計で約478億円、金利の支払いだけで39億円余
    • [61]取引銀行、商社は経営不振の原因が不動産への過大投資や放漫経営ではなくステンレス鋼市況の長期低迷による収益悪化にあるとみて全面支援の姿勢を崩さなかった
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [49]売上高は1971年3月期590億円から1972年3月期471億円へ、経常損益は18億円の黒字から29億円の赤字へ
    • [52]1974年3月期の売上高は697億円、経常利益は21億円
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [62]1976年3月期の経常損益は105億2,900万円の赤字

1975年〜ニッケル製錬部門の分離譲渡と外部から迎えた経営陣による再建

1975年、日本冶金工業はニッケル製錬部門を本体から切り離した。減量政策の骨子は、ニッケル製錬部門の分離、人員削減、関係会社の集約統合の3つであった。大江山製造所を分離する目的は、事業形態の異なる事業所を外に置いて効率的な経営を行うことにあった。7月31日に大江山ニッケル株式会社の設立と同社への分離譲渡を労働組合へ発表し、10月14日の第9回団体交渉で妥結する。大江山ニッケルは9月12日に資本金1億円・全額出資で設立され、11月18日には資本金5億円まで増資された。12月1日、大江山製造所に属する営業の全部が譲渡され、譲渡価格は約119億9,900万円であった。1943年12月の大江山ニッケル工業の合併で手に入れた上流工程は、32年を経て本体から外れた

  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
    • [63]石油危機後の低成長時代に対処する減量政策はニッケル製錬部門の分離、人員削減、関係会社の集約・統合の3項目を骨子とした
    • [64]大江山製造所を分離する目的は事業形態が異なる事業所を分離して効率的な経営を行うことにあった
    • [65]1975年7月31日 労働組合に大江山ニッケル株式会社の設立と大江山製造所の分離譲渡を発表、10月14日の第9回団体交渉で妥結
    • [66]大江山ニッケル株式会社は1975年9月12日に資本金1億円・全額出資で設立、11月18日に資本金5億円へ増資
    • [67]1975年12月1日 大江山製造所に属する営業の全部を大江山ニッケルへ譲渡、譲渡価格は約119億9,900万円
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [68]1943年12月 京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併しニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承

経営陣の交代は、支援した3社からの人事で行われた。加納安久が社長、佐藤正と石黒嘉人が副社長に就いたのは、1976年3月12日の臨時株主総会を経てのことである。それに先立ち森暁は、主力銀行の日本興業銀行新日本製鐵昭和電工の3社に後を託して退くことを決めていた。新体制の3人は4月2日、社長が委員長を務める再建委員会を発足させ、基本問題を扱う分科会を六つ組んだ。再建計画は、1年後の月次損益の均衡、2年後の期間損益の黒字化、3年後の累積赤字58億円の解消という3点を柱に置き、3年後までに人員は1976年4月の2,101人から1,818人へ減り、売却した固定資産の価額は35億4,000万円に達した。再建初年度の1977年3月期は、売上高801億6,100万円に対し経常損益が37億3,600万円の赤字であった

  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
    • [69]1976年3月12日の臨時株主総会後の役員会で加納安久が社長、佐藤正と石黒嘉人が副社長に就任
    • [71]1976年4月2日 社長を委員長とする再建委員会を設置し六つの基本問題分科会を編成
    • [72]再建計画は1年後に月次損益を均衡、2年後に期間損益を黒字転換、3年後に累積赤字58億円を一掃することを基本方針とした
    • [73]人員は1976年4月1日の2,101人が3年後に1,818人となり、再建3カ年間に処分した固定資産の売却価額は35億4,000万円
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
    • [70]森暁は主力銀行の日本興業銀行、業務提携を深めた新日本製鐵、森矗昶以来の縁故の昭和電工の3社に後事を託し自らの辞任と経営陣の刷新を決意した
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [74]1977年3月期の売上高は801億6,100万円、経常損益は37億3,600万円の赤字

原価構造を作り替えたのは、20億円を投じたアルゴン-酸素脱炭設備であった。AODの導入は1973年9月に決めていたが、直後の第1次石油危機で投資を見送っていた。再建委員会は原料・製鋼分科会とともに投資効果を検討し、1976年11月19日の経営会議で導入を決定する。技術面の相手は、AOD法で実績のある新日本製鐵で、12月15日に技術協力の契約を交わした。資金面では、それまで返済の猶予に応じていた日本興業銀行が全面支援を引き受けた。60トンAOD炉の工事は1977年2月17日に始まり、9月27日に完成した。初めての出鋼は10月3日である。この炉なら安い高炭素フェロクロムを制限なしに投入でき、脱硫もたやすかったため、再建計画をやり遂げるうえで大きな支えとなった。1978年3月期には、経常損益が18億700万円の黒字に転じた

  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
    • [75]1973年9月8日にAODの導入を決定し10月30日に巴工業と再実施権許諾契約を締結したが、直後の第1次石油危機により約20億円を要する設備投資は見送られた
    • [76]再建委員会は原料・製鋼分科会および社長室とAODの投資効果を検討し1976年11月19日の経営会議で導入を決定
    • [77]日本興業銀行は長期資金の返済猶予に協力中であったにもかかわらず全面的な資金援助を行い、新日本製鐵とは1976年12月15日にAOD技術協力契約を締結
    • [78]60トンAOD炉は1977年2月17日着工、9月27日完工、初出鋼は10月3日
    • [79]AOD法は低廉な高炭素フェロクロムの使用量に制約がなく容易に脱硫でき、所期の効果を発揮して再建計画の達成に大きく寄与した
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [80]1978年3月期の経常利益は18億700万円
参考文献[63]-[80]
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
    • [63]石油危機後の低成長時代に対処する減量政策はニッケル製錬部門の分離、人員削減、関係会社の集約・統合の3項目を骨子とした
    • [64]大江山製造所を分離する目的は事業形態が異なる事業所を分離して効率的な経営を行うことにあった
    • [65]1975年7月31日 労働組合に大江山ニッケル株式会社の設立と大江山製造所の分離譲渡を発表、10月14日の第9回団体交渉で妥結
    • [66]大江山ニッケル株式会社は1975年9月12日に資本金1億円・全額出資で設立、11月18日に資本金5億円へ増資
    • [67]1975年12月1日 大江山製造所に属する営業の全部を大江山ニッケルへ譲渡、譲渡価格は約119億9,900万円
    • [70]森暁は主力銀行の日本興業銀行、業務提携を深めた新日本製鐵、森矗昶以来の縁故の昭和電工の3社に後事を託し自らの辞任と経営陣の刷新を決意した
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
    • [68]1943年12月 京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併しニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
    • [69]1976年3月12日の臨時株主総会後の役員会で加納安久が社長、佐藤正と石黒嘉人が副社長に就任
    • [71]1976年4月2日 社長を委員長とする再建委員会を設置し六つの基本問題分科会を編成
    • [72]再建計画は1年後に月次損益を均衡、2年後に期間損益を黒字転換、3年後に累積赤字58億円を一掃することを基本方針とした
    • [73]人員は1976年4月1日の2,101人が3年後に1,818人となり、再建3カ年間に処分した固定資産の売却価額は35億4,000万円
    • [75]1973年9月8日にAODの導入を決定し10月30日に巴工業と再実施権許諾契約を締結したが、直後の第1次石油危機により約20億円を要する設備投資は見送られた
    • [76]再建委員会は原料・製鋼分科会および社長室とAODの投資効果を検討し1976年11月19日の経営会議で導入を決定
    • [77]日本興業銀行は長期資金の返済猶予に協力中であったにもかかわらず全面的な資金援助を行い、新日本製鐵とは1976年12月15日にAOD技術協力契約を締結
    • [78]60トンAOD炉は1977年2月17日着工、9月27日完工、初出鋼は10月3日
    • [79]AOD法は低廉な高炭素フェロクロムの使用量に制約がなく容易に脱硫でき、所期の効果を発揮して再建計画の達成に大きく寄与した
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [74]1977年3月期の売上高は801億6,100万円、経常損益は37億3,600万円の赤字
    • [80]1978年3月期の経常利益は18億700万円

1979年〜復配後の資本調達と大江山ニッケルの吸収合併

1979年9月、日本冶金工業は繰越損失を一掃して再建計画を達成した。1979年度上期の経常利益は41億9,000万円で、前期から繰り越した8億7,000万円の損失を消した。1974年9月期以来途絶えていた配当が、5年半ぶりに戻った。原資は通期で31億5,000万円となった税引利益で、1株5円・年10%を配った。再建が終わったのを機に加納安久はトロイカ方式の経営を終わらせ、1979年6月28日の定時株主総会の後、石黒嘉人に社長を譲った。石黒嘉人が同年11月に全社へ示した中期5カ年計画は、5年後に自己資本比率15%以上を目指すものであり、翌1980年4月には社長が委員長を務めるTK委員会を設け、生産技術開発から販売流通効率に至る課題を六つの分科会へ振り分けた

  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
    • [81]1979年度上期(1979年4月1日~9月30日)の中間決算をもって繰越損失金を一掃し再建計画を達成
    • [82]1979年度上期は経常利益41億9,000万円、税引利益20億1,000万円を計上し前期からの繰越損失8億7,000万円を一掃
    • [83]1974年9月期以来5年半ぶりの復配
    • [84]1979年度通期(第98期)の税引利益は31億5,000万円、1株につき5円(年10%)の配当を実施
    • [86]1979年11月21日 5年後の自己資本比率15%以上を目途とする中期5カ年計画を示達272号で全社に通達
    • [87]1980年4月 社長を委員長とするTK(展開力強化)委員会が発足し、生産技術開発・製品開発・資材・製造効率向上・事務効率向上・販売流通効率向上の六つの分科会から成った
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
    • [85]加納安久は経営のトロイカ方式を打ち切り1979年6月28日の定時株主総会後の役員会で石黒嘉人の社長就任が決定

1982年3月期の経常利益は8億4,000万円にとどまっていた。自己資本比率もやっと10%を上回った段階だという認識が、転換社債発行の動機になった。1982年1月8日の取締役会で決めたその第1回転換社債は、発行総額50億円、利率年5.9%だった。財務体質の立て直しに向けた資本市場からの調達は三段構えで進み、1983年1月27日に初のスイスフラン建て普通社債4,000万スイスフラン、約47億6,000万円を、1984年10月には第2回として5,000万スイスフラン、約48億7,000万円を発行した。第三が優先株式で、1984年7月2日の取締役会で1,000万株の発行を決めた。払込額59億5,000万円の全額を資本に組み入れ、資本金は同年9月1日付で110億1,768万3,500円となった

  • 会社年鑑(1986年版)
    • [88]1982年3月期の売上高は768億900万円、経常利益は8億4,000万円
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
    • [89]転換社債発行当時は自己資本比率がようやく10%を超えたところで財務体質の強化が課題であった
    • [90]1982年1月8日の取締役会で第1回転換社債の発行を決議、発行総額50億円、利率年5.9%、償還期限1988年3月31日
    • [91]1983年1月27日 初のスイスフラン建て普通社債4,000万スイスフラン(日本円約47億6,000万円)を発行、利率年5.75%
    • [92]1984年10月25日 第2回スイスフラン建て普通社債5,000万スイスフラン(日本円約48億7,000万円)を発行、利率年6%
    • [93]1984年7月2日の取締役会で第1回優先株式1,000万株の発行を決議し、8月14日に発行価格を1株595円と決定
    • [94]発行価額59億5,000万円の全額を資本に組み入れ、資本金は1984年9月1日付で110億1,768万3,500円となった

1983年10月1日、日本冶金工業は大江山ニッケルを吸収合併し、8年ぶりに一貫体制へ戻した。大江山ニッケルのロータリーキルンによるニッケル精錬はエネルギーコストが低廉で、国内精錬工場として競争力を高めていた。それでも同社単独では限界があり、本体と一体化して競争力を強化することにした。合併により大江山ニッケルの橋立工場は大江山製造所と改称された。この合併は、1982年8月に策定した第2次中期5カ年計画の一環であった。同計画は5年後に年間売上高1,200億円、自己資本比率20%以上を目標に掲げている。1985年3月期の売上高は891億2,500万円、経常利益は26億1,400万円であった上流を手放して本体を絞り、資本を厚くしてから買い戻すという順序で、この会社は垂直統合を作り直した。

  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
    • [95]1983年10月1日 大江山ニッケルを吸収合併し、ニッケル精錬技術との一体化によって再び一貫体制を確立
    • [96]大江山ニッケルのロータリーキルンによるニッケル精錬方式はエネルギーコストが低廉で、生産技術の改善強化によって国内精錬工場として競争力を高めた
    • [97]大江山ニッケル単独ではおのずと限界があるため当社と一体化しより一層競争力を強化することとした
    • [98]合併によって大江山ニッケルの橋立工場は当社の大江山製造所と改称された
    • [99]1982年8月 第2次中期5カ年計画を策定し実施に移した
    • [100]第2次中期5カ年計画は5年後の目標として年間売上高1,200億円の達成と自己資本比率20%以上を掲げた
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [101]1985年3月期の売上高は891億2,500万円、経常利益は26億1,400万円
参考文献[81]-[101]
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
    • [81]1979年度上期(1979年4月1日~9月30日)の中間決算をもって繰越損失金を一掃し再建計画を達成
    • [82]1979年度上期は経常利益41億9,000万円、税引利益20億1,000万円を計上し前期からの繰越損失8億7,000万円を一掃
    • [83]1974年9月期以来5年半ぶりの復配
    • [84]1979年度通期(第98期)の税引利益は31億5,000万円、1株につき5円(年10%)の配当を実施
    • [86]1979年11月21日 5年後の自己資本比率15%以上を目途とする中期5カ年計画を示達272号で全社に通達
    • [87]1980年4月 社長を委員長とするTK(展開力強化)委員会が発足し、生産技術開発・製品開発・資材・製造効率向上・事務効率向上・販売流通効率向上の六つの分科会から成った
    • [89]転換社債発行当時は自己資本比率がようやく10%を超えたところで財務体質の強化が課題であった
    • [90]1982年1月8日の取締役会で第1回転換社債の発行を決議、発行総額50億円、利率年5.9%、償還期限1988年3月31日
    • [91]1983年1月27日 初のスイスフラン建て普通社債4,000万スイスフラン(日本円約47億6,000万円)を発行、利率年5.75%
    • [92]1984年10月25日 第2回スイスフラン建て普通社債5,000万スイスフラン(日本円約48億7,000万円)を発行、利率年6%
    • [93]1984年7月2日の取締役会で第1回優先株式1,000万株の発行を決議し、8月14日に発行価格を1株595円と決定
    • [94]発行価額59億5,000万円の全額を資本に組み入れ、資本金は1984年9月1日付で110億1,768万3,500円となった
    • [95]1983年10月1日 大江山ニッケルを吸収合併し、ニッケル精錬技術との一体化によって再び一貫体制を確立
    • [96]大江山ニッケルのロータリーキルンによるニッケル精錬方式はエネルギーコストが低廉で、生産技術の改善強化によって国内精錬工場として競争力を高めた
    • [97]大江山ニッケル単独ではおのずと限界があるため当社と一体化しより一層競争力を強化することとした
    • [98]合併によって大江山ニッケルの橋立工場は当社の大江山製造所と改称された
    • [99]1982年8月 第2次中期5カ年計画を策定し実施に移した
    • [100]第2次中期5カ年計画は5年後の目標として年間売上高1,200億円の達成と自己資本比率20%以上を掲げた
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
    • [85]加納安久は経営のトロイカ方式を打ち切り1979年6月28日の定時株主総会後の役員会で石黒嘉人の社長就任が決定
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [88]1982年3月期の売上高は768億900万円、経常利益は8億4,000万円
    • [101]1985年3月期の売上高は891億2,500万円、経常利益は26億1,400万円

第3章 1989-2009 (気が向いたら執筆します!) 川崎製造所の圧延設備新鋭化と鋳造品・遊園地からの撤退、製造所の分社

第4章 2010-2026 (気が向いたら執筆します!) 分社会社の再合併と川崎製造所の高効率電気炉・新冷間圧延機

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歴史年表 1925〜2024年

日本冶金工業の沿革1925〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1925〜1969年消火器・火工品から特殊鋼・ステンレスへの二度の業態転換期中央理化工業を設立し消火器の製造販売開始★★
商号を日本火工に商号変更し火薬火工品の製造販売開始★★
消火器から火工品へ、さらに特殊鋼へと続いた二度の作り替え

1925年に消火器の製造販売で発足した中央理化工業が、1928年9月に日本火工へ改称して火薬・火工品へ移り、1934年からは川崎大師河原に作業所を建てて金属精錬に参入、1936年2月の川崎製造所稼動で特殊鋼・軽合金・ステンレス鋼の製造販売を開始した一連の業態転換。

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★★★
東京・大阪取引所に株式上場
商号を日本冶金工業に商号変更し火薬火工部門を昭和火薬へ譲渡★★
合併によって進めたニッケル原料の内製化と上流工程の取り込み

1943年12月、日本冶金工業が京都府の大江山ニッケル工業を合併し、ニッケル鉱石の採掘とフェロニッケル製錬の事業を継承した。1934年に大江山ニッケル鉱業として設立された会社を本体へ取り込む合併であった。

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★★★
東亜精機(現・ナストーア)設立
三信特殊線工業(現・日本精線)グループ会社に
上野半兵衛商店(現・ナス物産)グループ会社に
金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売開始★★
川崎製造所冷間圧延機(ゼンジミアミル)稼動
ナスステンレス製作所(ナスステンレス)設立
川崎製造所連続鋳造設備稼動
川崎製造所熱間圧延機(プラネタリーミル)稼動
川崎製造所60屯電気炉稼動
1970〜1988年フェロニッケル部門の分離と大江山ニッケルの再合併、川崎のAOD精錬三国鋼帯製造所(現・ナス鋼帯)グループ会社に
フェロニッケル製錬部門を分離し新設の大江山ニッケルへ譲渡★★
川崎製造所60屯アルゴン酸素炉外精錬設備(AOD)稼動
大江山ニッケルを合併し大江山製造所に★★
1989〜2009年川崎製造所の圧延設備新鋭化と鋳造品・遊園地からの撤退、製造所の分社川崎製造所冷間圧延設備新鋭化計画完了
川崎製造所冷間圧延製品ISO9002の認証取得
川崎製造所新熱間圧延機(NCHミル)稼動
川崎製造所冷間圧延製品ISO14001の認証取得
金沢工場閉鎖しステンレス鋼鋳造品の生産販売より撤退★★
佐治雍一行川アイランド(遊園地)を閉園★★
佐治雍一ナスステンレスの全株式を譲渡
佐治雍一川崎製造所と大江山製造所を分社
佐治雍一日本精線の株式の一部を譲渡し持分法適用会社から除外
佐治雍一YAKIN川崎アルゴン酸素真空精錬設備(AVS)稼動
2010〜2026年分社会社の再合併と川崎製造所の高効率電気炉・新冷間圧延機杉森一太川崎・大江山の分社実験と、2010年の本体一体運営への回帰

2003年4月、日本冶金工業は川崎製造所と大江山製造所を分社して株式会社YAKIN川崎・株式会社YAKIN大江山を設立し、7年後の2010年4月1日に両社とナスビジネスサービスを吸収合併して本体一体運営へ戻した。

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★★★
木村始ナストーア溶接テクノロジーの全株式を譲渡
久保田尚志川崎製造所高効率電気炉設備(E炉)稼働
久保田尚志プライム市場に移行
浦田成己川崎製造所新冷間圧延機稼働
出典・参考 10件
出典・参考
  • 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)1章 冶金事業への転進
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)追録 森曉相談役を悼む
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)4章 復興への躍動
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
  • 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 会社年鑑(1986年版)

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