消火器から火薬火工品へ、火薬火工品から特殊鋼へ。日本冶金工業は11年のあいだに二度、主力製品を入れ替えている。二度目の転換で決め手になったのは技術の蓄積ではなく、資金の置き場所だった。1934年に軽合金の研究の場が日本電気工業ではなく日本火工に置かれたのは、森矗昶傘下の企業で研究開発費を負担できる余力がそこにしかなかったからである。高級特殊鋼もアルミニウムも大部分を輸入に依存していた当時、国産化の機会は誰の前にも開いていた。それを取れたのは、火工品で稼いだ資金を新しい材料へ回せる会社だった。川崎大師の先の沼沢地を坪平均2円未満で買い集めた土地が、そのまま主力工場の敷地になった。
1942年からの1年半で起きたのは、資本市場へのアクセス、現在の社名、原料の上流という三つの取得である。なかでも1943年12月の大江山ニッケル工業の合併は、ステンレス鋼の主要合金成分であるニッケルを、鉱石の採掘から最終製品まで自前で賄う構造を作った。戦後の低迷から抜け出す鍵も、また技術の側にあった。1950年7月にアーク炉で酸素製鋼法を成功させるまで、ステンレス鋼は容量500キログラムの誘導炉で少量ずつ作るもので、朝鮮動乱で注文が増えても応じようがなかった。量産を縛っていたのは需要ではなく炉であり、その制約を外したのは他社から買った設備ではなく自社の技術陣であった。
1925年8月、東京で中央理化工業株式会社が設立された。当初の事業は消火器の製造販売で、服部時計店系の出資により発足した小規模な化学工業会社にすぎなかった。3年後の1928年9月、商号を日本火工株式会社と改称し、火薬・火工品の製造販売へ業態を転換する。消火器単体では事業規模が限られたため、当時拡大していた軍需向け火工品市場に活路を求めた判断であった。当時の日本は昭和金融恐慌から世界恐慌へ向かう時期にあり、中小化学会社が経営難に陥っていたなか、軍需依存度を高めることで生き残りを図った。
1928年9月に火薬・火工品へ転じた日本火工が、さらに金属材料へ踏み出した背景には、高級特殊鋼と軽合金を輸入に依存する供給構造があった。1932年から1937年にかけて特殊鋼の生産量は約5.5倍に伸びたが、自給率は87%であった。ステンレス鋼の国内生産量は1935年度の約1,500トンから1937年度の約4,500トンへ増えた。森矗昶は1934年10月、冶金技術者の松永陽之助を日本火工に招き、前年から買収を進めていた川崎の土地に試験工場を置いた。それでも需要を満たせず、高級特殊鋼の多くを欧米からの輸入に頼っていた。軽合金の開発拠点に選ばれたのは日本火工であり、日本電気工業ではなかった。理由は、傘下の企業で研究開発費を背負える余力を持つのが日本火工だけだったことにある。
1936年2月、神奈川県の川崎市大師河原に川崎製造所が稼動し、特殊鋼・軽合金及びステンレス鋼の製造販売を開始した。資本金200万円で発足し、代表取締役には森暁が就任した。これが現在の日本冶金工業の主力事業の発祥点で、火工品メーカーから金属材料メーカーへの第二の業態転換となる。1930年代の日本は重工業化が進み、軍艦・航空機・兵器向けの特殊鋼需要が拡大していた。同社は火工品で培った爆発物製造の冶金技術を応用して特殊鋼分野に参入し、当時としては先端材料だったステンレス鋼の国産化にも取り組んだ。1938年には川崎工場に1500トンプレスや鋼板用ロールを備えた第一期特殊鋼製造設備の増設工事が完成し、翌1939年には軽合金製造関係の増設工事も完成して、量産の基盤を確立した。創業から11年で消火器メーカーから特殊鋼メーカーへ変貌し、川崎製造所は現在も主力工場として約90年にわたり連続稼働している。
1942年6月、東京・大阪取引所に株式上場を果たす。戦時統制経済の真っ只中で、軍需関連企業として資本調達できる体制を構築した。同年9月、商号を日本冶金工業株式会社と改称し、火薬火工部門を昭和火薬株式会社へ譲渡する。冶金とは金属を溶解・精錬する技術全般を指す日本語で、社名から火工品の影が消え、ステンレス・特殊鋼という現在の事業ドメインが社名として明示された。火工品事業の分離売却は、特殊鋼の量産体制構築に経営資源を集中する戦略的判断で、商号変更と事業売却を同月に実施した機敏さが目を引く。
大江山との関わりは合併に先立って始まっていた。同社は早くから大江山鉱石による含ニッケル粒鉄の企業化を試み、1939年には七尾セメント(現・住友セメント)の回転炉を借りて製錬を開始し、1941年1月には大江山含ニッケル粒鉄によるN・K鋼の製造に成功した。1942年11月には大江山製造所が竣工し、含ニッケル粒鉄の本格生産に入った。そのうえで1943年12月、京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併し、ニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承した。これが日本冶金工業を"ニッケル基合金専業"たらしめた決定的な合併である。ニッケルを鉱石採掘から最終製品まで内製する体制は当時の日本では稀有で、長期的な競争力の源泉となった。1942年6月の上場、9月の現社名確立、1943年12月の大江山合併と、わずか1年半で資本市場アクセス・現社名・上流統合の3点を獲得した。
戦後の立て直しは、経営者の不在と原料の途絶という二重の空白から始まった。戦災は比較的軽微で生産はいち早く再開したものの、原料面の制約が重く業績は低迷していた。森暁は1947年1月に公職追放で衆議院議員を辞し、3月には昭和電工の社長も退任した。追放が解けたのは1948年5月、日本冶金工業の社長へ戻ったのは1949年3月であった。当時のステンレス鋼は誘導式電気炉で作るのが世界の通例で、炉の容量は500キログラムから1トンにすぎなかった。1950年7月、川崎製造所の技術陣はアーク炉による酸素製鋼法をわが国で初めて成功させ、朝鮮動乱で急増した注文に応じられる量産の道を拓いた。溶鋼へ酸素を吹き込み、酸化熱で温度を上げて短時間で脱炭を進めるこの精錬法は、ドイツやアメリカの同業も採っていなかった。
1952年8月、輸入鉱石による大江山製造所の含ニッケル粒鉄の生産再開を機に、日本冶金工業は発展期へ転じた。戦後の経済混乱を経て、1948年8月に東亜精機株式会社(現・ナストーア株式会社)が設立され、グループ企業形成が始まる。1953年5月には精密線材を担う三信特殊線工業株式会社(現・日本精線株式会社)が、1954年11月には商社機能を担う株式会社上野半兵衛商店(現・ナス物産株式会社)がグループ会社となった。製造・販売の機能分担をグループ全体で行う体制が10年がかりで整備された。1950年代には川崎製造所の設備拡張も続き、1956年2月には川崎製造所研究所が完成、同年8月には石川県の金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売を開始するなど製品ラインも多様化した。
1959年には川崎製造所の隣接埋立地39万7000平方メートルに新工場の建設へ着手し、薄板量産の拠点づくりが本格化する。新工場ではまず1959年に厚板用、続いて1960年2月に薄板用、1964年10月に第二薄板用と各センジミアミル(冷間圧延機)を順次完成させ、家電・自動車・建材向けの薄板需要拡大に対応した。1960年10月にはステンレス加工子会社の株式会社ナスステンレス製作所も設立される。1965年3月には鋼の歩留改善と生産性向上を両立する連続鋳造設備が稼動し、鋼塊鋳造からの移行を完了した。1966年4月の熱間圧延機(プラネタリーミル)、1968年2月の60トン電気炉と設備増強が続き、冷延から熱延までを揃えた一貫体制が確立した。1968年時点の年間売上高は約300億円強に達し、うち輸出が約25%を占めるまでに成長した。
1975年に手放したのは、1943年に苦労して手に入れたものだった。大江山ニッケル工業の合併で得たニッケル鉱石の採掘と製錬は、ステンレス鋼の主要合金成分を自前で賄う構造そのもので、日本冶金工業をニッケル基合金の専業たらしめた土台である。それを約119億9,900万円で子会社へ譲り渡したのは、上流を持つ価値が下がったからではない。市況が長期に低迷し、月ごとに20億円の資金が足りなくなる状況では、事業形態の違う製錬所を抱えたまま本体を立て直すことができなかったからである。垂直統合は、資金が回っているあいだだけ成り立つ構造だった。
再建の中身は、原価の作り方を入れ替えることだった。20億円のAOD炉は安価な高炭素フェロクロムを制約なく使えるようにし、電力と工程を減らした。石油危機の直後に見送った投資を、累積赤字58億円を抱えた1976年11月に決めたのは、原価で他社に劣る限り市況が戻っても赤字は消えないと判じたからである。1979年に繰越損失を一掃し、転換社債50億円とスイスフラン債2本、優先株1,000万株で資本金を110億円まで積み上げたうえで、1983年10月に大江山ニッケルを買い戻した。切った順序と戻した順序は同じで、資金の余力が先、上流が後だった。
1970年度の日本のステンレス鋼生産量は約160万トンに達し、アメリカを上回って世界第1位になった。ところが国内の需要は1970年秋から急に落ち込み、1971年には需給の大きな開きに直面する。30万トン体制を狙って積み上げた設備は、2基目の60トンアーク炉、連続鋳造設備2号機、わが国初の5フィート幅20段ゼンジミアミルのいずれも、完成したとたんに不況で力を発揮する場を失った。輸出に出口を探しても、1971年8月のアメリカの新経済政策で成約がいったん途絶え、同年12月のスミソニアン協定では円が16.88%切り上げられて1ドル308円となった。1971年3月期に590億円だった売上高は翌1972年3月期に471億円へ落ち、経常損益は18億円の黒字から29億円の赤字へ転じた。
不況カルテルで凌いだ先に、1973年10月の石油危機が重なった。ステンレス鋼6社は1971年11月26日に生産カルテルの認可を受け、四半期の生産限度量を5万2,500トンに絞った。1972年12月には各社の冷間圧延機1基を封印する設備カルテルも申請している。1973年半ばに市況は回復し、1974年3月期の売上高は697億円、経常利益は21億円と持ち直した。しかし石油危機後の総需要抑制で設備投資は冷え込み、1975年3月期は在庫調整の遅れも重なって29億円を超える赤字となった。追い討ちとなったのが1975年2月14日の川崎製造所PLミル工場の火災である。屋根約8,390平方メートルを焼失し、損害は約7億9,300万円に達した。
資金繰りは1975年5月に破綻の一歩手前まで行った。日本冶金工業は5月28日、取引先へ支払猶予と期日延長の協力を要請する。これが支払停止と受け取られ、経営危機説と金融不安説が世間に流布された。資金不足は1975年2月の10億円弱に始まり、3月と4月はそれぞれ20億円に達した。1975年1年間の資金不足は約172億円で、うち137億円を日本興業銀行の支援に仰いだ。同年9月期の借入金は長短合計で約478億円、金利の支払いだけで39億円余に上った。取引銀行と商社は、不振の原因が不動産への過大投資や放漫経営ではなくステンレス鋼市況の長期低迷にあるとみて、全面支援の姿勢を崩さなかった。1976年3月期の経常損益は105億2,900万円の赤字となった。
1975年、日本冶金工業はニッケル製錬部門を本体から切り離した。減量政策の骨子は、ニッケル製錬部門の分離、人員削減、関係会社の集約統合の3つであった。大江山製造所を分離する目的は、事業形態の異なる事業所を外に置いて効率的な経営を行うことにあった。7月31日に大江山ニッケル株式会社の設立と同社への分離譲渡を労働組合へ発表し、10月14日の第9回団体交渉で妥結する。大江山ニッケルは9月12日に資本金1億円・全額出資で設立され、11月18日には資本金5億円まで増資された。12月1日、大江山製造所に属する営業の全部が譲渡され、譲渡価格は約119億9,900万円であった。1943年12月の大江山ニッケル工業の合併で手に入れた上流工程は、32年を経て本体から外れた。
経営陣の交代は、支援した3社からの人事で行われた。加納安久が社長、佐藤正と石黒嘉人が副社長に就いたのは、1976年3月12日の臨時株主総会を経てのことである。それに先立ち森暁は、主力銀行の日本興業銀行と新日本製鐵、昭和電工の3社に後を託して退くことを決めていた。新体制の3人は4月2日、社長が委員長を務める再建委員会を発足させ、基本問題を扱う分科会を六つ組んだ。再建計画は、1年後の月次損益の均衡、2年後の期間損益の黒字化、3年後の累積赤字58億円の解消という3点を柱に置き、3年後までに人員は1976年4月の2,101人から1,818人へ減り、売却した固定資産の価額は35億4,000万円に達した。再建初年度の1977年3月期は、売上高801億6,100万円に対し経常損益が37億3,600万円の赤字であった。
原価構造を作り替えたのは、20億円を投じたアルゴン-酸素脱炭設備であった。AODの導入は1973年9月に決めていたが、直後の第1次石油危機で投資を見送っていた。再建委員会は原料・製鋼分科会とともに投資効果を検討し、1976年11月19日の経営会議で導入を決定する。技術面の相手は、AOD法で実績のある新日本製鐵で、12月15日に技術協力の契約を交わした。資金面では、それまで返済の猶予に応じていた日本興業銀行が全面支援を引き受けた。60トンAOD炉の工事は1977年2月17日に始まり、9月27日に完成した。初めての出鋼は10月3日である。この炉なら安い高炭素フェロクロムを制限なしに投入でき、脱硫もたやすかったため、再建計画をやり遂げるうえで大きな支えとなった。1978年3月期には、経常損益が18億700万円の黒字に転じた。
1979年9月、日本冶金工業は繰越損失を一掃して再建計画を達成した。1979年度上期の経常利益は41億9,000万円で、前期から繰り越した8億7,000万円の損失を消した。1974年9月期以来途絶えていた配当が、5年半ぶりに戻った。原資は通期で31億5,000万円となった税引利益で、1株5円・年10%を配った。再建が終わったのを機に加納安久はトロイカ方式の経営を終わらせ、1979年6月28日の定時株主総会の後、石黒嘉人に社長を譲った。石黒嘉人が同年11月に全社へ示した中期5カ年計画は、5年後に自己資本比率15%以上を目指すものであり、翌1980年4月には社長が委員長を務めるTK委員会を設け、生産技術開発から販売流通効率に至る課題を六つの分科会へ振り分けた。
1982年3月期の経常利益は8億4,000万円にとどまっていた。自己資本比率もやっと10%を上回った段階だという認識が、転換社債発行の動機になった。1982年1月8日の取締役会で決めたその第1回転換社債は、発行総額50億円、利率年5.9%だった。財務体質の立て直しに向けた資本市場からの調達は三段構えで進み、1983年1月27日に初のスイスフラン建て普通社債4,000万スイスフラン、約47億6,000万円を、1984年10月には第2回として5,000万スイスフラン、約48億7,000万円を発行した。第三が優先株式で、1984年7月2日の取締役会で1,000万株の発行を決めた。払込額59億5,000万円の全額を資本に組み入れ、資本金は同年9月1日付で110億1,768万3,500円となった。
1983年10月1日、日本冶金工業は大江山ニッケルを吸収合併し、8年ぶりに一貫体制へ戻した。大江山ニッケルのロータリーキルンによるニッケル精錬はエネルギーコストが低廉で、国内精錬工場として競争力を高めていた。それでも同社単独では限界があり、本体と一体化して競争力を強化することにした。合併により大江山ニッケルの橋立工場は大江山製造所と改称された。この合併は、1982年8月に策定した第2次中期5カ年計画の一環であった。同計画は5年後に年間売上高1,200億円、自己資本比率20%以上を目標に掲げている。1985年3月期の売上高は891億2,500万円、経常利益は26億1,400万円であった。上流を手放して本体を絞り、資本を厚くしてから買い戻すという順序で、この会社は垂直統合を作り直した。
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|---|---|---|---|---|
| 1925〜1969年消火器・火工品から特殊鋼・ステンレスへの二度の業態転換期 | 中央理化工業を設立し消火器の製造販売開始 | ★★ | ||
| 商号を日本火工に商号変更し火薬火工品の製造販売開始 | ★★ | |||
| 消火器から火工品へ、さらに特殊鋼へと続いた二度の作り替え 1925年に消火器の製造販売で発足した中央理化工業が、1928年9月に日本火工へ改称して火薬・火工品へ移り、1934年からは川崎大師河原に作業所を建てて金属精錬に参入、1936年2月の川崎製造所稼動で特殊鋼・軽合金・ステンレス鋼の製造販売を開始した一連の業態転換。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京・大阪取引所に株式上場 | ★ | |||
| 商号を日本冶金工業に商号変更し火薬火工部門を昭和火薬へ譲渡 | ★★ | |||
| 合併によって進めたニッケル原料の内製化と上流工程の取り込み 1943年12月、日本冶金工業が京都府の大江山ニッケル工業を合併し、ニッケル鉱石の採掘とフェロニッケル製錬の事業を継承した。1934年に大江山ニッケル鉱業として設立された会社を本体へ取り込む合併であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東亜精機(現・ナストーア)設立 | ★ | |||
| 三信特殊線工業(現・日本精線)グループ会社に | ★ | |||
| 上野半兵衛商店(現・ナス物産)グループ会社に | ★ | |||
| 金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売開始 | ★★ | |||
| 川崎製造所冷間圧延機(ゼンジミアミル)稼動 | ★ | |||
| ナスステンレス製作所(ナスステンレス)設立 | ★ | |||
| 川崎製造所連続鋳造設備稼動 | ★ | |||
| 川崎製造所熱間圧延機(プラネタリーミル)稼動 | ★ | |||
| 川崎製造所60屯電気炉稼動 | ★ | |||
| 1970〜1988年フェロニッケル部門の分離と大江山ニッケルの再合併、川崎のAOD精錬 | 三国鋼帯製造所(現・ナス鋼帯)グループ会社に | ★ | ||
| フェロニッケル製錬部門を分離し新設の大江山ニッケルへ譲渡 | ★★ | |||
| 川崎製造所60屯アルゴン酸素炉外精錬設備(AOD)稼動 | ★ | |||
| 大江山ニッケルを合併し大江山製造所に | ★★ | |||
| 1989〜2009年川崎製造所の圧延設備新鋭化と鋳造品・遊園地からの撤退、製造所の分社 | 川崎製造所冷間圧延設備新鋭化計画完了 | ★ | ||
| 川崎製造所冷間圧延製品ISO9002の認証取得 | ★ | |||
| 川崎製造所新熱間圧延機(NCHミル)稼動 | ★ | |||
| 川崎製造所冷間圧延製品ISO14001の認証取得 | ★ | |||
| 金沢工場閉鎖しステンレス鋼鋳造品の生産販売より撤退 | ★★ | |||
| 佐治雍一 | 行川アイランド(遊園地)を閉園 | ★★ | ||
| 佐治雍一 | ナスステンレスの全株式を譲渡 | ★ | ||
| 佐治雍一 | 川崎製造所と大江山製造所を分社 | ★ | ||
| 佐治雍一 | 日本精線の株式の一部を譲渡し持分法適用会社から除外 | ★ | ||
| 佐治雍一 | YAKIN川崎アルゴン酸素真空精錬設備(AVS)稼動 | ★ | ||
| 2010〜2026年分社会社の再合併と川崎製造所の高効率電気炉・新冷間圧延機 | 杉森一太 | 川崎・大江山の分社実験と、2010年の本体一体運営への回帰 2003年4月、日本冶金工業は川崎製造所と大江山製造所を分社して株式会社YAKIN川崎・株式会社YAKIN大江山を設立し、7年後の2010年4月1日に両社とナスビジネスサービスを吸収合併して本体一体運営へ戻した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 木村始 | ナストーア溶接テクノロジーの全株式を譲渡 | ★ | ||
| 久保田尚志 | 川崎製造所高効率電気炉設備(E炉)稼働 | ★ | ||
| 久保田尚志 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 浦田成己 | 川崎製造所新冷間圧延機稼働 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本冶金工業)