姫路にて大和工業を設立。川西航空機の協力工場として軍需生産に従事
戦時中の1944年に井上浅次氏(大和工業創業者)は、川西航空機向けの協力工場として「大和工業株式会社」を兵庫県姫路にて設立した。川西航空機は関西に拠点を置いて軍用機を製造していたため、大和工業も姫路に工場を構えた。
現在に至るまで、大和工業は兵庫県姫路市に本社を構えている。
終戦により民需転換。鉄道レール分岐器の製造修理を開始
1945年に終戦を迎えると川西航空機向けの仕事が無くなったため、鉄道用ポイント(分岐器)の製造及び修理に従事した。2022年の現在に至るまで鉄道用分岐器を事業として継続しており、この事業が大和工業の実質的な祖業といえる。
電炉への新規参入を決定
1959年に大和工業は、電炉への新規参入を決定した。ただし、国内では東京製鉄が戦前から電炉事業を経営しており、大和工業は後発参入であった。
網干工場を新設
東京証券取引所第1部に株式上場
ユニバーサルミルを設置。鋼板の生産を本格化
1975年に大和工業はユニバーサルミル(圧延機)を導入し、電炉〜鋼板生産を兼ねた鉄鋼メーカーとしての設備を整えた。
競合の東京製鉄が本格投資。国内電炉の競争が激化
1978年に東京製鉄は高炉メーカーを牽制するために、岡山工場において140t電炉を2つ稼働して西日本に注力した。これに対して、大和工業は1973年に50tの電路を新設していたが、規模感で東京製鉄に劣った。
このため、大和工業と東京製鉄は、電炉分野として本格的に競合するようになってしまう。そこで、大和工業は、競争が激化した国内市場ではなく、海外に向けてH鋼を輸出することで、グローバル化に活路を見出した。
井上浩行氏(36歳)が代表取締役社長に就任
1981年12月に創業家出身の井上浩行氏(当時36歳)が、若くして大和工業の代表取締役社長に就任。2018年に代表取締役社長を退任して、同会長に就任するまで大和工業の社長を歴任した。
このため、井上浩行氏が大和工業のグローバル展開の立役者と推察される。