1944年に井上浅次氏が姫路で創立した川西航空機の協力工場が起源。
戦後は軌道用品へ転じ、1987年に米ニューコアとの合弁でH形鋼の北米事業へ進出し、タイ・中東へ同じ合弁の形を重ねた。H形鋼を主力とする電炉メーカーで、海外が売上の6割を占め、利益の大半を合弁の持分法利益が生む。
井上浅次氏は1944年11月8日、兵庫県飾磨郡御国野村(現姫路市)で大和工業を設立した。資本金は19万8000円で、川西航空機の姫路地区協力工場としての出発。発足と同時に定めた社章は、創業者である井上浅次氏の家紋「丸に横もっこ」を模した意匠だった。紋の外形を社名「大和」の大の字に見立て、内側の和の字には和の精神という意味を持たせた。設立時の大和工業は航空機メーカー1社に部品を納める協力工場で、自社の製品名を掲げた事業はまだ持っていなかった。軍用機の増産を急ぐ川西航空機が姫路周辺で部品の外注先を広げ、井上浅次氏はその需要に応じて法人を起こしたとみられる。
1945年8月の終戦で、川西航空機の協力工場としての仕事は設立から9か月で途絶えた。井上浅次氏は事業を国鉄と各私鉄向けの軌道用品に切り替え、その製作と修理を請け負った。軌道用品の中心は、線路の分岐に据えるポイント、クロッシング、ガードといった分岐器の部材である。1968年の時点でも大和工業は転轍器・轍叉・護輪器を事業の筆頭に掲げており、終戦直後の転換がその後の主力事業を決めた。転換後の仕事は新しい軌道用品の製作に加え、既に敷かれた軌道用品の修理も請け負う内容だった。戦時中の酷使で傷んだ線路の補修は敗戦後も止められず、国鉄と私鉄は軍需に代わる数少ない安定した発注元だったと考えられる。
大和工業は1948年1月、資本金を19万8000円から100万円へ増資した。設立から3年2か月で、資本金は約5倍に膨らんだ計算になる。翌2月には東京営業所を開設し、姫路の工場の外に初めて営業の拠点を置いた。東京営業所は大阪営業所より3年3か月早く開設され、大和工業にとって最初の営業所となった。1945年8月の転換以来、大和工業の顧客は国鉄と各私鉄の鉄道事業者だった。国鉄の調達を決める本社は東京にあり、井上浅次氏は増資資金の一部を国鉄向けの販路づくりに充当したようだ。
大和工業は1949年9月、本社工場を姫路市日出町3丁目37番地へ移し、建屋を増築した。資本金は1950年5月に200万円、1951年4月に500万円へと段階的に増額。1948年1月の100万円から数えると、3年3か月で5倍の規模である。500万円への増資の翌月にあたる1951年5月、大和工業は大阪営業所を開設した。これで営業所は東京と大阪の2か所となり、本社工場のある姫路を両側から支える配置が整った。関西には路線を持つ私鉄が多く、大阪営業所はその各社との取引を姫路から近い距離で受け持つために置かれたと推察される。
大和工業は1953年10月、JIS表示許可工場の認定を受けた。あわせてJISの登録を受けたのは、黒皮ボールトと継目板ボールトの2品目である。認定は、東京と大阪の2営業所体制が整った1951年5月から2年5か月後のことだった。翌1954年3月には資本金を500万円から1500万円へ増やし、3倍にした。登録の2品目はいずれもボールトで、継目板ボールトはレールの継ぎ目を締結する部品にあたる。規格への適合を表示で示せる工場の製品は国鉄や私鉄の受入検査を通しやすく、JISの取得は姫路の工場が販路を固める手段だった可能性が高い。
大和工業は1956年7月、姫路市仁豊野900番地にあった須鎗航空兵器を買収し、その工場を仁豊野工場とした。仁豊野工場では、同じ時期に鋼塊の製造を始めた。設立の次に沿革へ刻まれた出来事が、この買収だった。翌1957年4月には本社工場を日出町から仁豊野へ移し、生産の中心を新しい工場に置いた。1958年6月には資本金を1500万円から2000万円へ増やした。軌道用品の素材を外部から調達していては価格と数量を自社で決められず、鋼塊の内製はその依存を断つ判断だったのではないか。
大和工業は1958年9月、仁豊野工場で鋳鋼品の製造を始めた。鋼塊に続き、素材から形をつくる製品がもう1つ加わった。1959年8月には資本金を2500万円に増やした。同じ1959年11月には、エルー式15トン電気炉1基を仁豊野工場に増設。この電気炉は外部から購入した設備ではなく、大和工業が自ら製作したものだった。1964年時点で仁豊野工場が手がけた品目は、鋼塊・軌道用品・鋳鋼品の3つである。鋼を溶かす炉を自前で持てば鋼塊と鋳鋼品に使う溶鋼を社内で賄えるので、井上浅次氏は炉の製作まで社内で手がけたのだろう。
大和工業は1960年4月、仁豊野工場に大形圧延工場を完成させた。これで鋼塊の製造から圧延、軌道用品への加工までを1社で通す体制が整った。軌道附属品を一貫して造るメーカーは、当時の国内で大和工業だけだった。1956年7月に仁豊野工場を取得してから3年9か月で、製鋼・鋳鋼・圧延の工程をそろえた。資本金は1960年5月に5000万円、同年11月に1億円へ増やした。1958年6月の2000万円と比べると、2年5か月で5倍の規模にあたる。工程をそろえるほど設備の資金は膨らみ、相次ぐ増資はその負担を株主資本で賄うための手当てだったと思われる。
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事実根拠:出所(大和工業)