高炉メーカーが握る規格と価格の外側に、自前の生産性で居場所を作り続けた45年だった。1934年に東京・足立区で平炉2基と電気炉1基から出発した東京製鐵が、1958年の鉄鋼公開販売に加わらず、同じ年に鉄屑カルテルからも脱退したのは、協調の枠へ入ればシェアが固定され、原価を下げる理由が消えると見たからである。池谷太郎氏が戦後にGHQと通商産業省の双方へ許可を仰いで工場を動かした経験は、規制が保護であると同時に足かせでもあるという見方を残した。倉敷と北九州へ拠点を移した判断も、東京の工場では規模を取れないという同じ計算から出ている。
投資の時期を市況の逆に置いたことが、この会社の輪郭を決めた。1977年11月期に経常損益で24億円の赤字を出した直後、岡山工場へ2年で220億円を投じ、1978年4月に年産120万トンの電気炉を立ち上げている。従業員を1,200人のまま据え置いて粗鋼の生産能力を倍にしたため、1人当たりの生産量は1,000トンとなり、米国の電炉会社の平均の2倍に届いた。平炉をすべて止めて電炉へ寄せた決定も、公害規制と燃料価格の反転を先に読んだ結果だった。1974年の株式公開と1976年の一部上場は、この速度を支える資金と信用を用意するためのものだったとみられる。
1934年11月、東京都足立区にて各種鋼材の製造販売を目的として、岡田菊治郎氏が資本金100万円で東京製鐵株式会社を設立した。平炉2基・電気炉1基・中形小形圧延工場で各種特殊鋼の生産に従事する小規模な発足で、戦前の電炉鋼メーカーとして創業した。電炉鋼の量産化を志向するこの起点が、後に"鉄鋼業界の暴れん坊"と呼ばれる独自路線の経営姿勢の原型となる。戦後は池谷太郎氏(1917年8月生まれ、池谷正一氏の次男)が岡田創業者から経営を継承し、1958年6月の鉄鋼公開販売には加わらず、同年9月には全国の平電炉が相次いで加盟するなか第1回以来の鉄屑カルテルから脱退した(復帰は新日本製鐵が発足した1970年7月)。
池谷太郎氏は1917年8月に東京で生まれ、1935年に日本大学付属中学校を卒業した。同年、父・池谷正一氏が営む鉄鋼問屋の池谷正一商店へ取締役として入社した。20歳で父と死別したのち、1939年に鋼管メーカーの東亜鋼管工業を設立した。1949年、池谷太郎氏は東京製鐵の社長へ就いた。戦後の千住工場は戦勝国への賠償指定施設とされ、建物も生産設備もGHQの管理下に置かれて、稼働のたびに許可を仰がねばならなかった。賠償施設の稼働申請に通商産業省が動かないため無断で操業したところ、GHQのマーカット少将に呼び出されて軍事裁判にかけられた。判定は、通産省の側が怠慢であるというものだった。統制と価格カルテルを嫌う姿勢は、この許認可との衝突を通じて固まった。
1953年3月に東亜鋼管工業(資本金250万円)を吸収合併、戦後復興期の電炉再編に乗じて事業基盤を拡大した。1960年7月、岡山県倉敷市に工場用地約50万3,000平方メートルを工場誘致条例に基づき取得し、西日本電炉の中核拠点づくりに着手した。1962年10月に岡山工場第1号平炉が完成・操業開始し、以後120トン平炉5基と中形小形圧延設備が稼動する量産体制が立ち上がった。1969年1月には岡山工場大形圧延工場が完成し、電炉メーカーとしては初の大形H形鋼量産に乗り出した。建築鋼材市場への参入基盤を整えた本工場稼動は、同社が高炉メーカー独占品種への挑戦に乗り出す転換点となる。
1969年2月に土佐電気製鋼所より高知工場を譲受、1970年2月に福岡県北九州市に工場用地約15万4,000平方メートルを取得し、四国・九州への展開を始めた。1971年9月、1969年7月以降全株式を取得していた大丸製鋼を吸収合併して九州工場として操業開始、同年11月には同工場に50トン電気炉2基・連続鋳造設備2基が完成した。九州工場の電炉化と連続鋳造への切替で生産性が一段引き上がり、西日本に続く九州拠点獲得で全国カバレッジの土台が整った。1973年2月の九州工場圧延工場完成・中形形鋼の生産開始、1973年6月の岡山工場連続鋳造設備完成は、連続鋳造によるコスト競争力向上をもたらした。
1974年5月に本社を東京都足立区から千代田区に移転、同年7月に東京証券取引所市場第二部に上場した。1975年12月には土佐電気製鋼所を吸収合併し高松工場として生産開始、旧土佐電気製鋼所の事業を取り込み高松拠点を整備した。1975年に長男・池谷正成氏が父・太郎氏から社長職を継承、創業家第二世代経営の時代に入った。1976年9月、二部上場からわずか2年で東京証券取引所市場第一部と大阪証券取引所市場第一部に同時上場し、主要鉄鋼株として評価された。株式公開により資金調達手段を多様化し、電炉メーカーの上場会社入りを果たす急速な資本市場への参入を参入した。
池谷太郎氏は、経営者が決断力と勇気を保てるのは60歳までだという持論を持ち、社長を退く年齢を早くから公言していた。当初は55歳と言っていたが、社内の定年が3年延びたのに合わせて58歳へ改めた。若いうちから実務を担ってきたため、世代交代も早くすべきだという考えを終始持っていた。後継者と定めた長男の正成氏には、米国での2年間と、丸紅などとともに買収した土佐電気製鋼所の社長を4、5年務めさせた。適任と思えなければ他の親族から探し、それでも見つからなければ社員から選ぶ覚悟だったという。1974年の株式公開も同じ時期の判断で、設備と売上の規模からみて個人企業のまま置くべきではないと考えたためだった。相続税の面では公開しないほうが得だとしながら、知名度と信用力を取った。
1977年12月、岡山工場平炉操業停止により平炉から電炉への移行を完了した。1978年1月に江戸川工場を閉鎖し首都圏の旧来拠点を整理、岡山・九州中心の生産体制に再編する選択と集中を行った。1978年4月、岡山工場に第1号・第2号140トン電気炉が完成・操業開始した。当時としては140トン級の電気炉を導入し、電炉メーカーの設備規模競争で先行する転換点となった。同年12月には岡山工場中形形鋼工場改造工事完成、1979年1月には岡山工場小形棒鋼工場完成と、岡山工場への棒鋼ライン集約化と品種拡充が進んだ。
岡山工場の全面改修は、1976年に池谷正成社長が担当者へ与えた指示から始まった。『15年先でも最新鋭と呼ばれるような工場を作れ』という水準を置き、直近2年間で220億円を投じた。1978年4月に完成した電気炉の粗鋼生産能力は年産120万トンで、重油を燃料とする平炉時代の60万トンから倍増した。一方、従業員は1,200人と改修前から増えなかった。従業員1人当たりの粗鋼生産量は1,000トンとなり、米国の電炉会社の平均500トンの2倍に達した。製品1トン当たりのエネルギー消費量は重油換算で約35リットルと、業界の常識とされた60リットルを下回った。電気炉は日本鋼管、連続鋳造装置は住友重機械工業と神戸製鋼所、受電所は日立製作所と、設備は一社にまとめず分散して調達した。1977年11月期に経常損益で24億円の赤字を出した直後の投資だった。
1979年4月、大阪営業所開設・高知工場でビーム・ブランク鋳込みに成功した。ビーム・ブランク連鋳技術の確立は、後のH形鋼向け連続鋳造の前提となる工程短縮の道を開いた。1979年9月の千住工場大・中形形鋼工場改造工事完成で、首都圏拠点の品質改善を行った。創業時の東京足立区から始まった電炉鋼メーカーは、戦後復興・高度成長期を通じて岡山・九州・四国・関東の4極で生産網を構築し、平炉から電炉への完全移行と140トン電気炉導入により、電炉専業化を進める基盤を完成させた。創業者・岡田菊治郎氏から始まり池谷太郎氏が中興の祖として育てたこの45年間は、戦前の小規模電炉メーカーから全国規模の電炉専業メーカーへの転身を完成させた時期にあたる。
1980年代の東京製鐵は、品種を広げることと拠点を減らすことを同時に進めた。1984年7月に九州工場の大形工場を立ち上げて高炉メーカーが独占していた大形H形鋼とユニバーサルプレートへ入り、その2年後に創業の地の千住工場を、さらに翌年には高知工場を閉じている。攻める側の投資と畳む側の整理が同じ時期に並んだのは、電気炉の大型化が拠点ごとの採算を分けたからである。電気炉2基で下工程を持たない高知工場は、年20万トンを出した最盛期の設備のままでは黒字化の見込みが立たなかった。1981年11月期に経常損益が20億円の赤字へ落ちても設備投資を止めなかった会社が、稼げない拠点は年単位で畳んでいった。
畳む判断の速さは、創業者が経営から離れていたことに支えられている。池谷太郎氏は1975年に58歳で代表権のない会長へ退き、1988年には相談役となって週2回の出社だけを残した。賠償指定施設としてGHQの管理下に置かれた千住工場は創業者にとって最も古い持ち場だったが、その閉鎖は1986年に決まっている。最盛期に6か所あった工場が3か所となり、2,500人を超えた社員が1,500人まで減ったあとに売上高が2倍近く伸びたという本人の総括は、拠点を残すことと稼ぐことが別物だと認めた言葉でもある。
鉄鋼業は基礎産業として常に時の権力の保護を受けてきた産業で、戦前は軍部と財閥、戦後はGHQ、そして通商産業省がその役を担った。保護は規制と表裏で、生産設備と生産量の調整に加え、不況時には販売価格のカルテルが公然と組まれた。カルテルはシェアを固定して高炉メーカーによる寡占を強め、下位のメーカーから原価低減の動機を奪った。東京製鐵はこの枠組みに乗らず、不況カルテルに反発してあえて設備投資を断行し、生産量を増やす手を繰り返した。1981年11月期には売上高1,574億円に対して経常損益が20億円の赤字へ落ち込んだが、翌1982年11月期には経常利益67億円へ戻した。市況の谷で投資を止めない会社にとって、業界の協調は競争条件を平準化する足かせだった。
1984年7月、九州工場の大形工場が竣工し、大形H形鋼とユニバーサルプレートの生産を始めた。H形鋼はL字形の形鋼より精度の面で高度な生産技術を要したため、それまで高炉メーカーが独占的に生産していた品種だった。鉄骨コンクリート構造の高層ビルが増え、需要が急増していたことが参入の動機になった。東京製鐵は1970年以降、この品種で高炉メーカーへ何度も価格競争を挑み、H形鋼戦争と呼ばれた。厚板の領域でも大手の独占へ切り込み、業界を揺さぶる手を重ねた。1984年11月期は売上高1,611億円に対して経常損益が23億円の赤字で、大形工場の稼働は業績の谷と重なった。それでも設備の判断を市況の良否に合わせることはなかった。
高炉メーカーとの価格競争を続けた結果、東京製鐵はH形鋼でトップシェアを握るに至った。一つの商品への売上依存度が高くならないよう意識して品種を増やしてきたと、池谷正成社長はのちに語っている。その意識が働き始めたのは1970年代の末で、電炉メーカーのなかでは圧倒的に品揃えの多い会社になった。高炉が独占してきた分野へ切り込む形で多品種化が進み、市場の大小を問わず、自社の設備が使えて需要のある製品には入っていった。1982年11月期は経常利益67億円、1983年11月期は22億円、1984年11月期は23億円の赤字と、業績は年ごとに大きく振れた。個々の品種で押し返されても収益の柱が一度に倒れない形が、ここで組み上がった。
1986年1月、創業の地である東京都足立区の千住工場を閉鎖した。千住工場は戦後に戦勝国への賠償指定施設とされ、建物も生産設備もGHQの管理下に置かれた最も古い拠点だった。1979年9月に大形・中形形鋼工場の改造工事を終えたばかりで、手を入れてから7年に満たない閉鎖だった。翌1987年3月には高知工場を閉じ、2年のうちに2つの拠点が生産から外れた。首都圏の工場は1978年1月の江戸川工場閉鎖に続いて姿を消し、生産は岡山と九州へ寄った。岡山工場は1978年に140トンの電気炉を据え、九州工場は1971年に連続鋳造設備を備えており、規模と工程の両方で差がついていた。大都市の内部にある工場は用地も搬入路も広げられず、電気炉の大型化が進むほど西日本の拠点との能力差が開いた。
高知工場は最盛期に年20万トンを生産していた。電気炉が2基しかなく下工程も持たないため今後とも黒字化の見込みはないと判断され、1987年3月20日に閉鎖された。現業社員50人は、岡山工場内の協力会社への出向か退職かの選択を迫られた。会社側は岡山工場で雇用を吸収する方針を示す一方、45歳から50歳で退職する場合に退職金へ700万円を上乗せする制度を設けた。勤続20年・40歳の現業社員の収入は深夜勤務を含めて月36万円から37万円に達した。賞与は年間100万円を超え、地元では金融機関などを除けば最も高い水準にあった。地元で再就職すれば月10万円から15万円にしかならないと労働組合の委員長が説いたが、出向に応じたのは6人にとどまった。転勤を知らない現業の職場では、地域を離れる配置転換が退職と同義だった。
池谷太郎氏は後年、最盛期に6か所あった工場を3か所まで減らしたと振り返っている。2,500人を超えていた社員も1,500人まで減らし、これが奏功して売上高は2倍近く伸びたと述べた。拠点を絞った先は、140トン電気炉を持つ岡山工場と、大形H形鋼の設備を備えた九州工場だった。東京製鐵の強みは少数精鋭の体質にあり、高炉メーカーを相手に競争できたのは生産性の高さによると、池谷正成社長はのちに説明している。本社の人員が少なく意思決定が速いという体質は先代から受け継いだものだった。人を不必要に増やさず、無駄な仕事を作らない経営を、池谷太郎氏が引き継がせていた。工場を減らすことは、残した工場へ需要を集めて稼働率を上げる手でもあった。
1988年、池谷太郎氏は相談役へ退き、週に2回の出社だけを残した。1975年、58歳で代表権のない会長へ退き、実質的な経営者としての活動を終えていた。1979年の時点では隠居の身と紹介されており、そこから9年をかけて関与をさらに外した。手放してまで守ろうとしたのは、自由で活力のある企業体質だったと本人は語っている。高炉メーカーを相手に自由競争を主張し続け、一匹狼とも暴れん坊とも呼ばれた経営者だった。自分が残っていれば保守的な業界の考え方に迎合していたかもしれないとも述べている。創業者が経営から離れていたことは、創業の地の工場を畳む決定を先代への配慮なしに下せる条件だった。
1989年8月、九州工場に130トンの直流電気炉が完成し、操業を始めた。九州工場は1971年に50トンの電気炉2基から始まった拠点だった。1984年に大形工場、1989年に直流電気炉と、およそ5年おきに設備を積み増してきた。岡山工場でも1978年に140トンの電気炉を2基据えており、規模を取りにいく投資はこの2拠点へ集中した。設備投資は10年先を取るという考え方でやると、池谷太郎氏は1979年の時点で語っていた。他社が採用してから同じ設備を作るのでは遅く、市場性のある品目を先に押さえるという順序を崩さなかった。千住と高知を畳んで浮いた資源は、残した工場の炉へ向かった。
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|---|---|---|---|---|
| 1934〜1979年戦前創業から電炉鋼の量産化を志向した電炉メーカーの原点 | 各種鋼材の製造販売を目的として設立 | ★★ | ||
| 東亜鋼管工業を吸収合併 | ★ | |||
| 工場用地約50万3,000平方メートルを取得 | ★ | |||
| 岡山工場第1号平炉完成・操業開始 | ★ | |||
| 岡山工場大形圧延工場が竣工・H形鋼の生産開始 | ★★ | |||
| 土佐電気製鋼所より高知工場を譲受 | ★ | |||
| 全株式を取得済みだった子会社の取り込みと、九州工場の開設 1971年9月、東京製鐵が1969年7月以降に全株式を取得していた大丸製鋼(資本金500万円)を吸収合併し、その設備を自社の九州工場として操業を開始した経営判断。前年2月に取得していた福岡県北九州市の工場用地とあわせ、岡山・高知に続く西日本の生産拠点を九州へ広げた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 土佐電気製鋼所を吸収合併し高松工場として生産開始 | ★★ | |||
| 岡山工場の平炉停止とあわせて進めた電炉一貫体制への移行 1977年12月に岡山工場の平炉が操業を止め、1978年1月に江戸川工場が閉鎖され、同年4月に岡山工場へ第1号・第2号の140トン電気炉が入った経営判断。重油でくず鉄を溶かす平炉から電気炉への転換と、首都圏の旧拠点の整理が同時に進んだ。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 岡山工場第1号・第2号140トン電気炉完成・操業開始 | ★ | |||
| 1980〜1990年九州工場の大形H形鋼と千住・高知工場の閉鎖、直流電気炉の導入 | 九州工場大形工場が竣工・大形H形鋼とユニバーサルプレートの生産開始 | ★ | ||
| 千住工場閉鎖 | ★ | |||
| 高知工場閉鎖 | ★ | |||
| 大阪営業所を大阪支社に商号変更・アメージング設立 | ★ | |||
| 九州工場130トン直流電気炉完成・操業開始 | ★ | |||
| 1991〜2008年岡山工場の電炉ホットコイルと冷延・表面処理、宇都宮工場の新設 | 高炉独占品種だった熱延広幅帯鋼への電炉メーカーとしての量産参入 1991年10月、東京製鐵が岡山工場に熱延広幅帯鋼の圧延工場を完成させ、日本の電炉メーカーとして初めてホットコイルの生産を開始した経営判断。1989年に公表し、1992年4月には150トン直流電気炉を備えた製鋼工場が完成して、鉄スクラップから薄板までを一貫させた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡山工場熱延広幅帯鋼製鋼工場(150トン直流電気炉)完成 | ★★ | |||
| 九州工場大形工場で鋼矢板の生産開始 | ★ | |||
| 宇都宮工場圧延工場が竣工・操業開始 | ★ | |||
| 岡山工場冷延設備・表面処理設備完成・生産開始 | ★ | |||
| 岡山工場カットシート設備完成・生産開始 | ★ | |||
| 西本利一 | 九州工場厚板設備完成・生産開始 | ★ | ||
| 西本利一 | 工場用地約104万5,000平方メートルを取得 | ★ | ||
| 2009〜2026年田原工場の稼働とEcoVision 2050、低CO2鋼材「ほぼゼロ」 | 西本利一 | 田原工場熱延広幅帯鋼圧延工場が竣工・ホットコイル生産開始 | ★★ | |
| 西本利一 | 田原工場カットシート設備完成・生産開始 | ★ | ||
| 西本利一 | 田原工場造管設備完成・生産開始、アメージング清算結了 | ★ | ||
| 西本利一 | 田原工場製鋼工場が竣工・操業開始 | ★ | ||
| 西本利一 | 田原工場熱延広幅帯鋼酸洗設備完成・酸洗鋼板生産開始 | ★ | ||
| 西本利一 | 高松工場生産停止 | ★★ | ||
| 西本利一 | 長期環境ビジョン「Tokyo Steel EcoVision 2050」策定 | ★ | ||
| 西本利一 | 国内4工場で太陽光発電設備完成 | ★ | ||
| 西本利一 | 岡山工場熱延広幅帯鋼圧延工場再稼動 | ★ | ||
| 奈良暢明 | 低CO2鋼材ブランド「ほぼゼロ」発表 | ★ | ||
| 奈良暢明 | 田原工場熱延広幅帯鋼酸洗設備再稼動 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(東京製鐵)