『ペンペン草を生やす』と反対した日本銀行の一万田尚登総裁の見立ては、当時の相場観として無理のないものであった。会社は発足して半年、資本金は5億円、実績は圧延の工程に限られていた。銑鉄を買う立場から、埋立地で鉄鉱石を受けて圧延までを自前で回す立場へ移ることは、工程を足すのではなく会社の形を変える話であった。西山弥太郎社長がそれを押し通せたのは、薄鋼板と高級仕上鋼板で国内首位を占めながら素材の原価だけは他社次第という不均衡を、圧延の現場で長く見ていたからだとみられる。
とはいえ、自力の資金で建てた製鉄所ではない。5億円で発足した資本金は倍額増資を三度重ねて40億円になり、それでも足りずに複数行の協調融資と、1956年から1958年にかけて2,800万ドルの世界銀行借款が要った。圧延の近代化そのものでも、戦後最初の連続式ストリップミルは1954年1月に富士製鉄広畑が先に動かしている。融資の可否を『経営者が信用できる人であるかどうか』で決めざるを得ないと井上薫氏が書いた時代に、7年にわたって資金が途切れなかったこと自体が、この計画の後ろ盾だった。