川崎製鉄千葉製鉄所の建設と、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへの転換
資本金5億円の新会社に高炉は持てるか——日銀総裁の反対を押し切って選んだ千葉の埋立地
- 概要
- 1951年2月、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地で銑鋼一貫の千葉製鉄所の建設に着手した。前年に川崎重工業から分離したばかりの資本金5億円の新会社が、高炉から圧延までを一つの工場でつなぐ製鉄所を新設する計画であった。
- 背景
- 川崎製鉄は薄鋼板と高級仕上鋼板で国内首位を占めながら、銑鉄を他社から買う平炉メーカーであった。既設設備だけでは質・量・原価のいずれでも合理化の限界にきており、朝鮮動乱後の需要増も老朽設備をフル稼働させて凌いでいた。
- 内容
- 最終目標はホットストリップミルとコールドストリップミル各1基、これに原材料を連続供給する製銑・製鋼・分塊の各設備。第1期工事に熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉・分塊圧延機を据えた。資金は倍額増資の三度の繰り返しと協調融資、のちに世界銀行の借款で賄った。
- 含意
- 日本銀行の一万田尚登総裁は「ペンペン草を生やす」と反対したが、西山弥太郎社長は押し切った。1953年6月に第1高炉が火入れし、1958年に熱間・冷間の連続圧延機がそろって、日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された。
買わずに建てるという選び方
「ペンペン草を生やす」と反対した日本銀行の一万田尚登総裁の見立ては、当時の相場観として無理のないものであった。会社は発足して半年、資本金は5億円、実績は圧延の工程に限られていた。銑鉄を買う立場から、埋立地で鉄鉱石を受けて圧延までを自前で回す立場へ移ることは、工程を足すのではなく会社の形を変える話であった。西山弥太郎社長がそれを押し通せたのは、薄鋼板と高級仕上鋼板で国内首位を占めながら素材の原価だけは他社次第という不均衡を、圧延の現場で長く見ていたからだとみられる。
とはいえ、自力の資金で建てた製鉄所ではない。5億円で発足した資本金は倍額増資を三度重ねて40億円になり、それでも足りずに複数行の協調融資と、1956年から1958年にかけて2,800万ドルの世界銀行借款が要った。圧延の近代化そのものでも、戦後最初の連続式ストリップミルは1954年1月に富士製鉄広畑が先に動かしている。融資の可否を「経営者が信用できる人であるかどうか」で決めざるを得ないと井上薫氏が書いた時代に、7年にわたって資金が途切れなかったこと自体が、この計画の後ろ盾だった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
造船から分かれた製鉄部門
川崎製鉄は1950年8月、川崎重工業の製鉄部門が分離独立して発足した。源流は1907年、川崎造船所が造船用鋼材の自給と車輌製造を目的に兵庫東尻池へ開いた兵庫工場にさかのぼり、第一次大戦期には神戸市脇浜の埋立地に葺合工場を設けている。膨張した製鉄部門が、直接の関連の薄い造船業と同じ経営の傘下にあることには種々の障害があり、基幹産業として健全に発達させるため、川崎重工業はこれを第二会社として切り離した。資本金は5億円、初代社長には西山弥太郎氏が就いた[1]。
戦後の生産は1946年に年3万トンまで落ち込んだが、1950年には33万トンへ回復した。普通鋼圧延鋼材の生産量では全国第4位にとどまる一方、薄鋼板と高級仕上鋼板ではそれぞれ第1位を占めていた。輸入に頼っていた薄鋼板の圧延に1924年に成功して以来の蓄積があり、圧延の工程では先発の大手に伍していた。ただし高炉を持たず銑鉄を他社から買う平炉メーカーであり、鉄鉱石から鋼材までを一つの工場でつなぐ力は持たなかった[2][3]。
合理化の限界と朝鮮動乱
設備の改善合理化には努めてきたものの、既設設備のみでは質的にも量的にも、原価の面でも合理化の限界にきていた。とりわけ主製品の薄板は近代生活の必需資材であり、増える需要にこたえ、輸出産業としての使命を果たすには大量生産方式によるストリップミルが要る。ストリップミルは鋼片を高速で連続圧延する設備で、原材料を高速度かつ連続的に供給する製銑・製鋼・分塊の設備がそろわなければ能力を出しきれない。圧延だけを新しくしても、素材を外から買う限り原価は他社次第であった[4]。
1950年6月の朝鮮動乱がもたらした特需と内外市場の急拡大は経営者層を刺激し、戦後初めて企業が意欲的に近代化・合理化に乗り出す契機となった。もっとも当初の生産増加は、運転資金と原料を注ぎ込んで既存の設備をフルに動かして得たものであった。鉄鋼をはじめ残存能力の比較的大きかった重工業部門では老朽設備が圧倒的に多く、この事情がその後の技術近代化を必然のものとした。1951年には42社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足している[5][6]。
決断
千葉の埋立地に一から建てる
1951年2月、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地で建設に着手した。恵まれた立地条件を持つ土地に、最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざす計画であった。最終目標はホットストリップミルとコールドストリップミル各1基、これに対応する原材料を高速度かつ連続的に供給する製銑・製鋼・分塊の各設備。第1期工事には熔鉱炉700トン1基、平炉100トン3基、コークス炉1基、分塊圧延機1基と所要の付帯設備一式を据えた。会社が発足してから、まだ半年しか経っていなかった[7]。
資金は増資で積み上げた。発足時に5億円だった資本金は1951年に10億円、1952年に20億円、1953年には40億円と、倍額増資を三度重ねて8倍になり、これらはおもに千葉製鉄所の新設資金へ充てられている。ただし着工の前年には株式市場が不振で増資は困難であり、見返り資金の支出も遅れて産業界の要望に応じきれていなかった。設備金融の日本開発銀行の開業は1951年5月15日、長期輸出金融の日本輸出銀行は同年2月1日で、いずれも着工とほぼ同じ時期であった[8][9]。
「ペンペン草を生やす」という反対
日本銀行総裁の一万田尚登氏は「ペンペン草を生やす」と述べて反対したが、西山弥太郎社長はそれを押し切って千葉の銑鋼一貫工場を進めた。同じころ一貫体制を求めた他社は、すでに高炉を持つ会社を買う道を選んでいる。住友金属工業が小倉製鋼を合併して銑鋼一貫体制をとったのは1952年12月で、当時の合併としては最も顕著な例とされた。川崎製鉄は買わずに、埋立地へ一から建てる道を選んだ[10][11]。
資金の出し手にとっても難しい案件であった。川崎製鉄を主要な融資先とする第一銀行で審査を担当した井上薫氏は、当時、企業が競って海外の最新技術を導入し、できるだけ多くの資金を調達して設備の拡充へ振り向けたと振り返っている。技術担当者から直接説明を受けても「ひとつひとつの技術の評価は難しく、結局は経営者が信用できる人であるかどうかを判断の基準とせざるを得なかった」。大規模な計画は一行では賄いきれず、複数の銀行が歩調を合わせる協調融資が通常の方式になった[12]。
結果
火入れ、そして銑鋼一貫へ
1953年6月、千葉製鉄所の第1高炉が火入れした。着工から2年4カ月であった。第1期工事は1954年9月に完成し、熔鉱炉・平炉・コークス炉・分塊圧延機がそれぞれ稼働に入っている。これによって川崎製鉄は、従来の平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ移った。もっとも、戦後最初の連続式ストリップミルが動き始めたのは1954年1月の富士製鉄広畑で、圧延の近代化そのものでは先を越されている。千葉が最終目標に届くには、なお数年を要した[13][14]。
千葉の建設と並行して、既存の各工場にも設備を足している。葺合工場に亜鉛鍍金設備と酸素・水素・アセチレンの各工場、西宮工場に連続式帯鋼圧延機と鋼管工場、知多工場に特殊ロール工場を新設し、千葉製鉄所ではワイヤロープ・熔接棒・メタルラスの工場を立てた。1955年の時点で製品は30種に及び、年間生産実績は50万トン、販売金額は250億円を超えている。輸出の比重は比較的大きく、販売のおよそ25%を占めた[15]。
世界銀行の借款と「近代化のさきがけ」
最終目標のストリップミルには世界銀行の資金が入った。1956年12月19日、千葉工場のホットおよびコールドストリップミルに充てる2,000万ドルの貸出が決まり、1958年1月29日には1,000トン高炉とコークス炉向けの800万ドルが続いた。世界銀行の記録は、同社の資本に比べて巨額の借入であり、返済には生産能力の大幅な向上が不可欠だったことから、日本銀行も少なからず懸念を表明したと記している。着工から7年を経てなお、金融の側の警戒は解けていなかった[16]。
千葉に熱間連続圧延機と冷間連続圧延機がそろったのは1958年である。米国から技術を導入して千葉に完成させたこの設備を、第一銀行で審査にあたった井上薫氏は「日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された」と書き残している。井上氏は第1高炉の火入れ式にも出席し、西山社長にとって感慨深い火入れ式だったろうと述べた。厚板工場向けの600万ドルを加えた3回の借款は総額3,400万ドルに達し、粗鋼の生産能力は1956年の43万トン規模から1960年に158万トン規模へ広がった[17][18]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「朝鮮動乱の刺激」
- 私の履歴書 経済人22「井上薫」(日本経済新聞社, 1987)
- 世界銀行「日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト 川崎製鉄千葉工場」