ユニオンツール長岡への工場設置と本社工場機能の移転による生産拠点の新潟県集約

縁で持たされた雪国の工場を、東京の町工場はなぜ3年で本拠に変えたか

時期 1976年12月
意思決定者(推定) 片山一郎 社長
論点 生産拠点の立地と設備内製の集約
概要
1976年12月、ユニオンツールは新潟県長岡市妙見町に工場を設け、直線運動軸受の構成部品であるローラーガイドの専用工場とした。1979年7月には長岡市摂田屋町に長岡工場を新設して移転し、東京の本社工場が担っていた生産機能を新潟へ移した。以後45年余、同社の増産投資はすべて新潟県内で行われている。
背景
同社は1960年に東京都大田区で創業した歯科用超硬バーの町工場で、1970年からプリント配線板用超硬ドリル(PCBドリル)の生産に移った。製品をつくる加工機械をすべて自社で設計・製作する方針を採っていたため、機械を据える床面積と、それを扱い改良し続ける技能者を同じ場所に抱える必要があった。
内容
長岡との接点は、創業者の片山一郎氏が経営の悪化した知人の造船関係会社を引き取った縁から生まれた。約50人で始めた部品専用工場を、同社は3年足らずで本社工場の受け皿へ格上げし、1985年の第二工場から2001年の第五工場まで、増設を長岡南部工業団地内で連鎖させた。
含意
1981年に始めた北米での現地生産は2005年に中止され、供給は国内からの輸出に切り替わった。2006年以降は見附市にも三つの工場が建ち、生産は新潟県内に収まっている。グループ約1,500人のうち550人以上が長岡工場に勤める体制へ育った。
筆者の見解

偶然の立地を本拠に変えたもの

この判断の核心は、縁で持たされた下請の部品工場を3年で本社工場の受け皿に変えたところにある。加工機械をすべて自社でつくる会社にとって、工場の立地は製品をつくる場所であると同時に、その製品をつくる機械をつくる場所でもある。片山一郎氏が1979年に生産機能ごと長岡へ移したのは、設計と製作と量産を一つの敷地へ並べなければ内製という方針が続かないと見たからだとみられる。

もっとも、長岡が選ばれた理由そのものは立地の計算ではなく、経営が悪化した知人の造船関係会社を引き取ったという偶然の縁であった。約50人で始まった工場が550人を超える主力へ育つまでには半世紀近くを要し、その間には第二から第五までの工場と見附の三工場を建て続ける判断が繰り返されている。偶然に得た土地を本拠へ変えたのは最初の移転そのものではなく、そこへ投資を重ねた後年の選択であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

歯科用バーの町工場が選んだ内製という方針

ユニオンツールは1960年12月、片山一郎氏が東京都大田区に株式会社ユニオン化学研究所として設立した会社である。出発点は歯を削る歯科用の超硬バー、いわゆるデンタルバーで、国内では首位の生産量を持っていた。ただ市場そのものが小さく、片山氏は後年、米国の需要が月100万本であるのに対し日本は3万本にとどまると説明している。1970年3月に本社工場を新設してプリント配線板用超硬ドリルの生産を始め、翌1971年5月に商号をユニオンツールへ改めた[1][2]

PCBドリルの量産にあたって同社が採ったのは、製品をつくる加工機械そのものを自社で設計・製作する道であった。片山氏は1989年の講演で、優れた製品を生産するための製造設備をすべて自社で創り出している点を会社の最大の特徴として挙げている。機械を内製する会社は、機械を据える床面積と、それを扱い改良し続ける技能者を、同じ敷地に抱え込むことになる。大田区の本社工場でその両方を伸ばす余地は限られていた[3][4]

決断

知人の造船会社を引き取った縁から

長岡との接点は、立地の比較検討ではなく人の縁から始まった。片山貴雄氏は後年、父の友人が長岡市の隣の小千谷市で船の舵などを製造する会社を経営しており、その会社の経営が悪化して父が引き取ったことが転機になったと語っている。1976年12月、ユニオンツールは小千谷に近い長岡市妙見町に工場を設け、直線運動軸受の構成部品であるローラーガイドの専用工場とした。従業員は約50人であった[5][6]

縁で持たされた部品工場を、同社は3年足らずで本拠へ格上げした。1979年7月、長岡市摂田屋町に長岡工場を新設して移転し、東京の本社工場が担っていた生産機能を新潟へ移す。部品専用の下請工場を主力工場に置き換える判断であり、東京に残ったのは本店と営業・管理の機能であった。以後の増産投資は、2020年代に至るまで一件の例外もなく新潟県内で行われている[7][8]

結果

長岡南部工業団地で続いた増設

移転後の長岡では、20年余にわたって増設が続いた。1985年1月に長岡南部工業団地内へ第二工場、1988年12月に熱処理棟、1991年4月に第三工場、1997年11月に第四工場、2001年8月に第五工場が建った。第三工場は総額13億円・床面積8,000平方メートルの規模で、片山一郎氏は1990年の講演で、雪解けを待って着工し年末に完成させ、PCBドリルの生産能力を20%引き上げる計画だと説明している[9][10]

設備の製作と量産を同じ敷地に置いた効果は、需要変動への応答速度に表れた。片山氏は1993年の取材に、加工機械を内製していれば3カ月で増産体制が整うが、工作機械メーカーへ発注すれば稼働まで1年はかかると述べている。当時のユニオンツールは年産200万本のPCBドリル生産体制を国内に敷き、住友電気工業・東芝タンガロイ・三菱マテリアルという超硬工具大手3社を抑えて、国内40%・世界25%のシェアを保っていた[11][12]

海外生産の撤収と新潟一極への回帰

いったん海外へ散らした生産も、最終的には新潟へ戻った。1981年3月に米カリフォルニア州で合弁により始めたPCBドリルの現地生産は2005年9月に中止となり、北米向けの供給は国内からの輸出に切り替えられた。国内では2006年10月に見附工場、2016年12月に見附第二工場、2024年5月に見附第三工場が開設され、生産拠点は長岡市と見附市に並ぶ形で新潟県内に収まっている[13][14]

2017年4月には長岡工場の敷地内に地域開放型の事業所内保育所が開かれ、社員の子だけでなく地域の子どもも受け入れる施設として運営が始まった。片山貴雄氏は2025年の取材で、グループ約1,500人のうち長岡工場に550人以上が勤めていることを挙げ、会社がここまで育ったのは長岡のおかげだと述べている。1976年に約50人で始めた工場は、半世紀を経てグループ人員の3分の1を超える拠点になった[15][16]

出典・参考

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