ユニオンツール店頭登録を経た東証二部上場と、2年後の一部指定・香港子会社の設立

時期 1996年9月
意思決定者(推定) 片山一郎 創業者・会長
論点 株式公開の段取りと市場区分の引き上げ
概要
ユニオンツールは1996年9月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場し、1998年5月に市場第一部へ上場した。二部への最初の申請は1988年11月期の決算をもとに行われたが、売上高が小さすぎるとして認められず、同社は1989年6月の店頭登録を経て8年をかけて二部へ入った。
背景
1988年11月期の売上高は61億円、経常利益は18億円で、経常利益率は約30%であった。加工機械をすべて自社で設計・製作する生産体制と、値引き販売をしない方針により、同社は創業以来およそ50%の粗利益率を保っていた。収益力は基準を上回っていた一方、規模の一点で申請は通らなかった。
内容
店頭登録では新株70万株を発行して28億5,100万円を調達し、借入金の返済に充てて借入金依存度を6.89%まで下げた。二部への再挑戦は売上高100億円の達成を目安に置かれ、連結売上高が103億円となったのは1995年11月期であった。
含意
二部上場後、同社は1997年8月に台湾子会社を100%子会社化し、1998年2月に香港へ販売子会社を設立、同年5月に一部へ上場した。二部から一部までは1年8か月であった。片山一郎会長は一部上場の最大の要因として、事業を広げず土地や株式に投資しなかったことを挙げている。
筆者の見解

筆者見解

店頭登録から二部、二部から一部という段取りを、成長企業がたどる当然の道筋と読むと、この会社が何を待っていたのかが見えなくなる。1988年に足りないと判定されたのは収益力ではなく売上高であり、片山一郎氏は値引きをしないという条件を外せば規模をつくれる立場にいた。それを選ばず、経常利益率を30%近くに保ったまま売上高が100億円に届くのを待った点に、この判断の性格が表れているとみることができる。

もっとも、待つことには代償がついた。店頭登録で経理内容を開示した途端、取引先はもうけ過ぎを理由に値引きを求め、1989年11月期の売上高は見通しを4億円近く下回っている。公開は資金と信用をもたらす一方で、高い利益率そのものを交渉材料に変えた。それでも片山氏が1998年に一部上場の要因として挙げたのは、新製品でも買収でもなく、事業を広げず土地や株式に手を出さなかったという不作為であった。何をしたかではなく何をしなかったかで市場区分を上がる会社もあるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

売上高が小さすぎるという回答

ユニオンツールが東京証券取引所市場第二部への上場を最初に申請したのは、1988年11月期の決算を終えた時点であった。この期の売上高は61億円、経常利益は18億円で、経常利益率はおよそ30%に達していた。申請は認められなかった。理由は売上高が小さすぎるというもので、片山一郎社長は翌1989年7月の日本証券アナリスト協会企業分析部会で、これを心外だったと述べている[1]

同社は創業以来、粗利益率をおよそ50%に保ってきた。製品をつくる加工機械をすべて自社で設計・製作し、少人数で運転する生産体制を敷いていたことに加え、値引き販売を行わないという方針を崩さなかったことが、この水準を支えていた。主力のプリント配線板用超硬ドリルは国内首位を長年占め、世界市場でも25%のシェアを得ていた。収益力では上場企業の水準を上回りながら、規模の一点で退けられた形であった[2][3]

店頭登録で得たものと失ったもの

二部を断られた同社は、1989年6月22日に日本証券業協会の店頭登録銘柄として株式を公開した。登録に際して新株70万株を発行し、28億5,100万円を調達している。この資金を借入金の返済に充てた結果、借入金依存度は6.89%まで下がり、金融収支は初めて黒字に転じた。手元流動性比率は3.9倍に達し、長岡工場第三工場に投じる13億円もここから賄う計画が立った[4][5]

公開には代償も伴った。経理内容の開示によって売上高経常利益率が29〜30%に及ぶことが取引先の知るところとなり、もうけ過ぎであるとして値引きを強く求められた。1989年11月期の売上高は当初見通しの71億円に対して67億300万円にとどまっている。もっとも経常利益は19億5,300万円と見通しを上回り、2億5,000万円を見込んでいた公開費用も1億4,000万円ほどで収まった[6][7]

決断

100億円を待つ

片山一郎社長は店頭登録の直後、二部への再挑戦の時期をはっきり口にしていた。1989年7月の講演では、3年後ぐらいに売上高100億円を達成する時点がチャンスになると述べ、続けて、売上高が増えて利益率が下がったのでは面目ないので今後も利益率を下げないように頑張り、経常利益を30億円ぐらいにもっていきたいと語っている。規模と利益率の双方を条件に置いた発言であった[8]

連結売上高が100億円を超えたのは1995年11月期で、103億円であった。予告した3年後ではなく6年後にあたる。この間に同社は米国とスイスの販売子会社を100%子会社とし、1995年12月には中国に佑能工具(上海)有限公司を設けている。1996年に入ると1月に本社事務所を東京都品川区南大井へ移し、2月に同所を本店所在地とし、3月には静岡県長泉町に三島研究所を開設した。二部上場はその年の9月であった[9][10]

結果

1年8か月で一部へ

東証二部への上場は1996年9月に実現した。最初の申請から8年、店頭登録からは7年が経っていた。上場後の同社は増産と海外拠点の整備を続け、1997年8月に台湾佑能工具股份有限公司を100%子会社とし、同年11月には長岡工場第四工場を新設している。1998年2月には香港の九龍に佑能工具香港有限公司を設立した。資本金180万香港ドルの全額出資会社で、同社製品の販売を担った[11][12]

東京証券取引所市場第一部への上場は1998年5月であった。二部からは1年8か月である。上海に続く香港の拠点と市場区分の引き上げは、同じ年に重なった[13]

事実根拠:出所
  • 証券アナリストジャーナル 1989年 第27巻第8号(片山一郎社長講演、平成元年7月4日)
    • [1]
    • [2]
    • [3]
    • [8]
  • 証券アナリストジャーナル 1990年 第28巻第3号(片山一郎社長講演、平成2年2月22日)
    • [4]
    • [5]
    • [6]
    • [7]
  • ユニオンツール 会社年鑑(連結業績)
    • [9]
  • ユニオンツール 有価証券報告書【沿革】
    • [10]
    • [11]
  • ユニオンツール 有価証券報告書(2005年11月期・連結)
    • [12]
  • 日経ビジネス 1998年7月6日号
    • [13]

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出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1989年 第27巻第8号(片山一郎社長講演、1989年7月4日)
  • 証券アナリストジャーナル 1990年 第28巻第3号(片山一郎社長講演、平成2年2月22日)
  • 日経ビジネス 1998年7月6日号
  • ユニオンツール 有価証券報告書【沿革】
  • ユニオンツール 有価証券報告書(2005年11月期・連結)
  • ユニオンツール 会社年鑑(連結業績)

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