オービック創業30年での東証二部上場と一度きりの公募増資、1年余りでの市場第一部指定

借入も増資もせずに回ってきた会社が、なぜ1998年に上場し、2000年1月に60万株だけ公募したか

時期 1998年12月
意思決定者(推定) 野田順弘 社長
論点 資本政策と上場市場
概要
1998年12月、創業から30年目のオービックが東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。2000年1月に600,000株の有償一般募集を行い、同年3月に市場第一部へ指定された。資本市場から資金を受け取ったのは、この公募増資の一度に限られている。
背景
1997年に統合業務ソフト「OBIC7シリーズ」を開発し、1998年のウィンドウズ98の登場でハードメーカー間の互換性が上がると、企業ごとに作り込んでいたソフトを業務用パッケージとして売れるようになった。ほとんど利益がなかったソフト販売が、利益を生む商売へ変わった時期にあたる。
内容
1998年12月に東証二部上場。1999年10月には関連会社オービックビジネスコンサルタントを店頭市場へ公開した。2000年1月31日に発行価格61,740円で600,000株を有償一般募集し、資本金は191億78百万円、資本準備金は194億13百万円となる。同年3月に東証一部へ指定された。
含意
上場後も借入金は置かず、2006年3月期の自己資本比率は85.7%に達した。2005年1月の東京新本社ビルも自社の物件として構え、資本金は2026年3月末時点まで191億78百万円のまま動いていない。上場は資金を集めるためというより、直販で企業の基幹システムを預かる会社の信用を買う手続きに近かった。
筆者の見解

一度きりの調達が示すもの

オービックの上場は、資金が要って市場へ出た会社の型に当てはまらない。工場も在庫も持たず、社員が顧客先で業務を設計して自社製のソフトを納める商売では、成長のたびに大きな資金が要るわけではなく、実際に上場後も借入は置かれていない。2000年1月の公募60万株は、その意味で運転資金の調達というより、二部から一部へ移るための株式の流通量づくりに近い性格を持っていた。指定はその2か月後に下りている。

上場でオービックが手に入れたものを一つ挙げるなら、顧客の会計と人事を預かる会社としての素性の証明にあたる。基幹システムの入れ替えは10年単位の付き合いになり、買う側は納入業者が10年後も残っているかを見る。開示と監査を通り、市場で値の付く会社であることは、代理店を持たない直販の営業が最初の面談で示せる材料になった。1株61,740円で60万株を引き受けてもらった2000年1月の一度きりで、オービックが市場から現金を受け取る用事は終わっている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

個別開発からパッケージソフトへ

1997年、オービックは統合業務ソフトウェア「OBIC7シリーズ」を開発した。生産・販売・会計・人事・給与といった業務を一つの体系で扱う中堅企業向けの製品で、それまで顧客ごとに書き起こしてきたシステムを、業務単位の部品として売り直す作り方にあたる。同社は代理店を置かず、営業もシステムエンジニアも自社の社員が顧客先へ出向く100%直販を通してきたため、現場で拾った要望をそのまま製品の改良へ回せる構えもあった[1][2]

追い風は翌1998年に吹いた。ウィンドウズ98の登場でハードメーカー間の互換性が上がり、それまでNECのPC-9800が牙城としていた市場でも、どのメーカーの機械でも同じソフトが動くようになる。野田順弘氏はのちに、企業ごとに開発する手間が省けたことで「ほとんど利益がなかった」ソフト販売が高利益体質へ変わったと振り返っている。同じ製品を多くの顧客へ売れる商品構成と、直販で得た顧客との接点が、上場を申請できる程度の収益の安定を生んだ[3]

大阪の非上場企業が東京へ本店を移すまで

上場までの十数年、会社の重い部分は西から東へ移っている。1976年1月に東京・大阪の二本社制を敷いた後も本店は大阪に置かれ、1989年2月の区の再編で大阪市中央区南船場、1995年3月に同区博労町と、市内で移転を重ねた。ところが1996年9月、本店を東京都中央区日本橋本町へ移している。同じ時期に北関東営業所、立川営業所、厚木営業所を相次いで開き、首都圏で顧客を直接訪ねる営業網を厚くした[4]

資金の面では、外から借りる必要のない会社であった。オービックの商売は、社員が顧客先で業務を設計し、自社で書いたソフトを納め、納入後も同じ担当者が保守を続ける形で、工場も在庫も抱えない。設備投資の山がなく、売掛の回収と人件費の間で資金が回るため、銀行から借り入れて設備を据える製造業の資金繰りとは性質が違った。この構造は上場後も変わらず、2006年3月期の有価証券報告書の借入金等明細表は「該当事項はありません」と記している[5]

決断

1998年12月、創業30年での東証二部上場

1998年12月、オービックは東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1968年4月の設立から数えて30年、非上場のまま三大都市圏に支店を張り、機能別の子会社を並べてきた会社が、初めて外部の株主を迎えた。顧客の会計・人事・給与という基幹の業務を預かる商売では、取引先の与信審査で会社の素性を問われる場面が増える。開示義務を負い、監査を受け、日々の株価で外から値付けされる立場に入ることは、直販で企業の中枢へ入り込む営業の裏づけにもなった[6]

翌1999年10月には、関連会社の株式会社オービックビジネスコンサルタントが株式を店頭市場へ公開した。同社は23歳で公認会計士の二次試験に合格した和田成史氏が1980年暮れに設立し、オービックが設立時に出資した会社である。和田氏は公開後の取材で、出資を受けて以来オービックの野田順弘社長とは家族ぐるみの付き合いだが、経営に口を出された覚えも金融支援を受けたこともないと述べている。資本でつながりながら経営は分ける関係が、公開によって外からも見える形になった[7][8]

2000年1月の公募増資と、1年余りでの一部指定

2000年1月31日、オービックはブックビルディング方式による有償一般募集で600,000株を発行した。発行価格は61,740円、うち資本に組み入れたのは1株あたり29,453円である。この募集で発行済株式総数は9,960,000株となり、資本金は191億78百万円、資本準備金は194億13百万円に達した。増資はこの一度で、以後の期に資本金の増減は記録されていない。借入を持たない会社が、株式市場から資金を受け取った唯一の機会にあたる[9]

増資からおよそ2か月後の2000年3月、東京証券取引所の市場第一部へ指定された。1998年12月の二部上場から1年3か月であり、二部で数年を過ごしてから一部へ移る例が多かった当時としては短い。売上の規模はまだ数百億円だったが、機関投資家が買える市場に籍を移したことで、株主の顔ぶれは個人中心から広がっている。2006年3月末の株主名簿では、金融機関65社と外国法人等88社が単元ベースで所有株式数の上位を占めた[10][11]

結果

借入のない財務と、自社で建てた本社

上場と増資を経ても、財務の形は変わらなかった。2006年3月期の連結自己資本比率は85.7%、純資産は976億円、総資産は1,139億円で、借入金は計上されていない。2002年3月期からの5年間の自己資本比率も84.0〜87.4%の範囲に収まっている。公募で得た資金と毎期の利益は、社員を採って育てる費用と、拠点の取得に向かった。2005年1月には東京新本社ビルが竣工し、本店を東京都中央区京橋へ移している。借りた床で商売をしてきた会社が、東京の拠点を自社の物件へ切り替えた[12][13]

関連会社の上場も続いた。オービックビジネスコンサルタントは2004年3月に東京証券取引所の市場第一部へ上場し、2023年6月には株式会社オービーシステムが東証スタンダード市場へ上場している。1972年と1980年に設けた会社が、それぞれ独立した上場会社として市場から評価を受ける形になった。オービック自身の資本金は、2000年1月に積み増した191億78百万円のまま、2026年3月末時点の会社概要にも同じ額が記されている[14][15]

出典・参考
  • オービック 有価証券報告書 第39期(2006年3月期)【沿革】【発行済株式総数、資本金等の推移】【主要な経営指標等の推移】【借入金等明細表】【所有者別状況】
  • オービック 有価証券報告書 第57期(2025年3月期)【沿革】
  • オービック 沿革・会社概要(公式サイト)
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号「中途採用ゼロ、独自の新人育成で好業績」
  • 週刊東洋経済 2000年2月5日号「トップの履歴書 オービックビジネスコンサルタント社長 和田成史」

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