日本アイ・ビー・エムの決断社史:経営の意思決定を振り返る

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決断

参入の条件として、握っていた特許のほうを差し出した。1960年夏、通商産業省とIBMワールド・トレード社と日本IBMの三者は、国内生産の認可と引き換えに製造特許を国内メーカーへ公開することで一括合意した。開いたのは製造特許権にとどまり、製造とサービスのノウハウは日本IBMが持ち続けた。1970年代に入ると周辺装置の値引きが利益率を下げ、1975年の売上高2455億円に対し純利益は237億円、売上高利益率は1970年の23.2%から9.7%へ低下する。1975年2月に社長へ就任した椎名武雄氏は製品も販路も開発も国内へ寄せる日本化路線を進め、1983年のマルチステーション5550に日本語処理を組み込み、1985年には大和研究所を開設した。日本市場に合わせた製品と特約店の販路が外資の不利を打ち消し、1987年12月期の売上高は1兆606億円に達した。

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