水品浩

日本アイ・ビー・エム・元取締役会長

Mizushina Ko(敬称略)

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社長就任 1941年10月
生年月日 —
学歴 —
出自 —
社長就任までの出自
出自

1915年に森村組横浜出張所へ入り、1920年からニューヨークに駐在した。1923年、日本陶器の加藤理三郎氏の渡米に同行して機械の選定を任され、日本に代理店がなく保守ができないと断られると、自らエンディコット工場で3カ月の実習を受けて保守技術員へ転じた。1927年に代理権が黒澤商店へ移ると同店へ移籍したが、11年間で取れた受注は15件にとどまる。1937年の日本ワットソン統計会計機械の設立時は営業部長で、資本金50万円は米IBMの全額払い込みであり、持ち株の裏づけは持たない。

社長に選ばれた経緯
抜擢

設立時の社長は渋沢栄一氏の孫にあたる渋沢智雄氏で非常勤にとどまり、代表取締役兼技術顧問にはベルギー出身のギー・ド・ラ・シュヴァルリー氏が就任していた。水品氏は1939年4月に支配人となり、1941年10月に代表取締役へ就任する。開戦の2カ月前であり、米国資本100%の会社の代表を日本人へ移す人事だったとみられる。1949年6月にはIBM本社の利益代表としてデッカー氏が代表取締役となり水品氏は常務取締役へ退いたが、1956年9月に社長へ戻った。

在任中の主な施策
施策

1942年3月、日本ワットソンの資産は全面凍結され、業務は指定管理人のもとでの保守に限られた。1943年6月に東京芝浦電気を母体とする日本統計機が発足して正味資産173万円を引き継ぎ、事業は別会社で1949年まで続いた。1949年8月にGHQの指令で凍結が解け、299万円が返還される。二度目の在任では1958年に日本原子力研究所へ国内初の電子計算機650を納め、1959年に商号を日本アイ・ビー・エムへ改めて千鳥町工場が竣工した。売上高は1956年の19.3億円から1960年に57.2億円へ伸びた。

在任の評価
評価

執筆予定

経歴 1915〜1960年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
参考文献 2件
参考文献

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