1923年〜 日本陶器の受注処理に始まり、日本法人の設立に至る十四年(1923〜1937)
- 1924年 水品浩氏がエンディコット工場で保守技術の実習を受ける
- 1925年 森村商事がIBMの日本代理店権を獲得
- 1925年 日本陶器名古屋工場にIBM統計機第1号機を設置
- 1927年 黒澤商店へ代理店権を移管
- 1937年 日本ワットソン統計会計機械を横浜山下町に設立
- 1937年 事務所を東京の三菱東9号館から横浜山下町へ移転
洋食器の受注をさばけず、統計機械にたどり着いた出張
1923年10月、日本陶器の取締役兼支配人だった加藤理三郎氏[1]は、生産管理の合理化策を調べるためニューヨークへ出張した。同社の高級洋食器は皿やカップの種類と個数を顧客が組み合わせて注文する形[2]をとり、大正期に売上が伸びるにつれ、伝票の仕分けと原価計算に百人を超える珠算係の女子社員を充てても追いつかなくなっていた[3]。相談を受けた森村ブラザース商会の中山武夫副支配人は、英語力に優れた笹村氏と水品浩氏の2名を選んで[4]加藤氏に同行させた。三人が足を運んだビジネスショーには、C-T-R社とパワーズ社のパンチ式統計会計機械[5]が並んでいた。数回にわたり会場で資料を集めた結果、名古屋工場の停滞を解くの[6]はこの機械だと見当をつけた。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [1]1923年10月に日本陶器の加藤理三郎氏がニューヨークへ出張した
- [2]日本陶器の洋食器は顧客が種類と個数を組み合わせる受注形態だった
- [3]伝票処理に百人を超える珠算係を動員しても追いつかなかった
- [4]森村ブラザース商会の中山武夫副支配人が笹村・水品浩の両名を選任した
- [5]ビジネスショーにC-T-R社とパワーズ社の統計会計機械が出品されていた
- [6]数回にわたり会場で資料を集めた結果、名古屋工場の停滞を解くのはこの機械だと見当をつけた
最終調査を任された水品氏は、穿孔機・分類機・印刷統計機のそれぞれについて性能と賃貸料、販売形態を比較[7]し、ホレリス式に軍配を上げた[8]。調査機関に依頼したうえで自らも両社へ何度も足を運び、会社の理[9]念や指導者の人柄、財務状況、社外の評価まで確かめた末の結論だった。ところが契約に赴いた水品氏に、IBMのブレイトマイヤー副社長は断りを告げる[10]。同社の統計機はすべて賃貸方式であり、日本に代理店がない以上、保守ができないという理由[11]である。すでに日本陶器は機械を据える事務室の配置まで整えて待[12]っていた。引き下がれなくなった水品氏は、自分にその保守技術を教えてほしいと申し出た[13]。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [7]水品浩氏が穿孔機・分類機・印刷統計機の性能と賃貸料を比較した
- [8]比較の結果ホレリス式を採用と判断した
- [9]調査機関に依頼したうえで自らも両社へ何度も足を運び、会社の理念や指導者の人柄、財務状況、社外の評価まで確かめた末の結論だった
- [10]IBMのブレイトマイヤー副社長が契約を断った
- [11]断りの理由は賃貸方式と日本国内での保守体制の不在だった
- [12]すでに日本陶器は機械を据える事務室の配置まで整えて待っていた
- [13]水品氏が自ら保守技術の習得を申し出た
申し出は受け入れられ、水品氏はエンディコット工場で三カ月あまりの実習[14]に入った。半日は工場技師から機械工学と電気理論の講義[15]を受け、半日は現場でドライバーの握り方から教わった。営業職から保守技術員への転[16]換である。実習の間に、水品氏の構想は日本陶器一社[17]を超えた。この機械の働きを必要とする官庁や会社は国内にも数多くあるはず[18]で、自分たちの力で普及させられれば日本の進歩に役立つはずだと考えた。構想を森村ブラザースとIBMの双方に持ちかけると異存はなく[19]、1925年5月21日、森村ブラザース取締役の中山武夫氏とブレイトマイヤー副社長[20]のあいだで、極東における代理店契約が結ばれた。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [14]水品氏はエンディコット工場で約3カ月の実習教育を受けた
- [15]実習は半日が機械工学と電気理論の講義、半日が現場作業だった
- [16]営業職から保守技術員への転換である
- [17]実習の間に、水品氏の構想は日本陶器一社を超えた
- [18]この機械の働きを必要とする官庁や会社は国内にも数多くあるはずで、自分たちの力で普及させられれば日本の進歩に役立つはずだと考えた
- [19]水品氏は国内普及の構想を森村ブラザースとIBMへ提案した
- [20]1925年5月21日に極東における代理店契約が締結された
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [1]1923年10月に日本陶器の加藤理三郎氏がニューヨークへ出張した
- [2]日本陶器の洋食器は顧客が種類と個数を組み合わせる受注形態だった
- [3]伝票処理に百人を超える珠算係を動員しても追いつかなかった
- [4]森村ブラザース商会の中山武夫副支配人が笹村・水品浩の両名を選任した
- [5]ビジネスショーにC-T-R社とパワーズ社の統計会計機械が出品されていた
- [6]数回にわたり会場で資料を集めた結果、名古屋工場の停滞を解くのはこの機械だと見当をつけた
- [7]水品浩氏が穿孔機・分類機・印刷統計機の性能と賃貸料を比較した
- [8]比較の結果ホレリス式を採用と判断した
- [9]調査機関に依頼したうえで自らも両社へ何度も足を運び、会社の理念や指導者の人柄、財務状況、社外の評価まで確かめた末の結論だった
- [10]IBMのブレイトマイヤー副社長が契約を断った
- [11]断りの理由は賃貸方式と日本国内での保守体制の不在だった
- [12]すでに日本陶器は機械を据える事務室の配置まで整えて待っていた
- [13]水品氏が自ら保守技術の習得を申し出た
- [14]水品氏はエンディコット工場で約3カ月の実習教育を受けた
- [15]実習は半日が機械工学と電気理論の講義、半日が現場作業だった
- [16]営業職から保守技術員への転換である
- [17]実習の間に、水品氏の構想は日本陶器一社を超えた
- [18]この機械の働きを必要とする官庁や会社は国内にも数多くあるはずで、自分たちの力で普及させられれば日本の進歩に役立つはずだと考えた
- [19]水品氏は国内普及の構想を森村ブラザースとIBMへ提案した
- [20]1925年5月21日に極東における代理店契約が締結された
政財界を集めた展示会と、代理店権の黒澤商店への移管
1925年9月、第一号機[21]が日本陶器名古屋事務所に据えられた。45桁丸穴式のパンチカードによる加算専用機[22]で、日米間の電圧と周波数の差を調整したため稼働は翌年へずれ込んだ。代理店となった森村商事は年5台の契約義務[23]を負っており、水品氏は東京へのデモンストレーション機の設置も申請したが、幹部は常設機の追加注文には慎重だった。結局、名古屋へ納めた集計作表機を一時借り受けて展示会を[24]準備した。これに先立ち、三菱造船から2台の注文[25]が入る。欧州大戦後の造船不況を克服するため早くから給与計算にカードを[26]使ってきた同社は、船舶と舶用機器の原価計算事務全般へ機械化を広げようとしていた。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [21]1925年9月に第一号機が日本陶器名古屋事務所へ設置された
- [22]第一号機は45桁丸穴式カードによる加算専用機だった
- [23]森村商事は年5台の成約義務を負っていた
- [24]結局、名古屋へ納めた集計作表機を一時借り受けて展示会を準備した
- [25]三菱造船から2台の注文が入った
- [26]欧州大戦後の造船不況を克服するため早くから給与計算にカードを使ってきた同社は、船舶と舶用機器の原価計算事務全般へ機械化を広げようとしていた
1926年11月19日から2週間、東京・日本橋の森村銀行4階で国内初のIBM機械展示会[27]が開かれた。森村開作社長は諸官庁や大手銀行、保険会社へ案内状を送り、日本銀行総裁をはじめ政府と大企業の要人が大勢集まった[28]。ところが申込者は事実上皆無[29]だった。理由は3つある。契約が賃貸方式であり当時の商慣行に馴染まなかったこと、学卒幹部職員の初任給が100円を下回る賃金水準[31]では人手で集計するほうが安かったこと、そして統計会計機一式の月額賃貸料590円が、最も高価なモンロー式計算機の取得価格500円をも上回っていた[32]ことである。水品氏は展示会の直後に有望と見た会社を訪ねて回ったが、契約は[33]ひとつも取れなかった。 [30]
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [27]1926年11月19日から2週間、森村銀行4階で国内初のIBM機械展示会が開かれた
- [28]日本銀行総裁をはじめ政財界の要人が来場した
- [29]展示会の来場者は多かったが申込者は事実上皆無だった
- [30]理由は3つある
- [31]学卒幹部職員の初任給は100円以下だった
- [32]統計会計機一式の月額賃貸料590円はモンロー式計算機の取得価格500円を上回った
- [33]水品氏は展示会の直後に有望と見た会社を訪ねて回ったが、契約はひとつも取れなかった
展示会の成果を誰よりも期待していた森村開作社長は、この結果に深く失望した[34]。当時の財界には欧州大戦後の不況と関東大震災からの復興に対処するため本業へ戻れという動きがあり、森村商事は着手したばかりのこの事業を断念する[35]。残る代理店契約の期間と、日本陶器・三菱造船への保守をどう継ぐ[36]かが問題として残り、森村社長はニューヨーク時代からの知己で事務機械用品の輸入販売を手がけていた黒澤貞次郎氏に相談を持ちかけた。1927年1月、代理権は黒澤商店へ移り[37]、水品氏も同店へ移籍した。年間最低契約台数の条項[38]は外された。ブレイトマイヤー副社長が、機械の漸進的な普及を待つ方針へ転じ[39]たためである。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [34]森村開作社長は展示会の結果に失望した
- [35]財界の本業回帰の動きを背景に森村商事は事業を断念した
- [36]残る代理店契約の期間と、日本陶器・三菱造船への保守をどう継ぐかが問題として残り、森村社長はニューヨーク時代からの知己で事務機械用品の輸入販売
- [38]黒澤商店との契約では年間最低契約台数の条項が外された
- [39]ブレイトマイヤー副社長が、機械の漸進的な普及を待つ方針へ転じたためである
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
- [37]1927年1月に代理権が黒澤商店へ移り水品氏も移籍した
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [21]1925年9月に第一号機が日本陶器名古屋事務所へ設置された
- [22]第一号機は45桁丸穴式カードによる加算専用機だった
- [23]森村商事は年5台の成約義務を負っていた
- [24]結局、名古屋へ納めた集計作表機を一時借り受けて展示会を準備した
- [25]三菱造船から2台の注文が入った
- [26]欧州大戦後の造船不況を克服するため早くから給与計算にカードを使ってきた同社は、船舶と舶用機器の原価計算事務全般へ機械化を広げようとしていた
- [27]1926年11月19日から2週間、森村銀行4階で国内初のIBM機械展示会が開かれた
- [28]日本銀行総裁をはじめ政財界の要人が来場した
- [29]展示会の来場者は多かったが申込者は事実上皆無だった
- [30]理由は3つある
- [31]学卒幹部職員の初任給は100円以下だった
- [32]統計会計機一式の月額賃貸料590円はモンロー式計算機の取得価格500円を上回った
- [33]水品氏は展示会の直後に有望と見た会社を訪ねて回ったが、契約はひとつも取れなかった
- [34]森村開作社長は展示会の結果に失望した
- [35]財界の本業回帰の動きを背景に森村商事は事業を断念した
- [36]残る代理店契約の期間と、日本陶器・三菱造船への保守をどう継ぐかが問題として残り、森村社長はニューヨーク時代からの知己で事務機械用品の輸入販売
- [38]黒澤商店との契約では年間最低契約台数の条項が外された
- [39]ブレイトマイヤー副社長が、機械の漸進的な普及を待つ方針へ転じたためである
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
- [37]1927年1月に代理権が黒澤商店へ移り水品氏も移籍した
軍需と官庁が支えた受注、そして日本法人の設立
黒澤商店へ移った水品氏は、新たに用意したカタログと機種別の賃[40]貸料一覧を携えて客先を回った。受注は軍と官庁から届く。呉海軍工廠は1927年9月に総務部、翌年10月に会計部へ統計会計機一式を据え[42]、会計部のものはギャングパンチと複写パンチを含むフルセットで、1928年には砲熕工事の原価計算に使われた[43]。海軍は建艦中の戦艦長門の戦闘力を高める艦体改装設計にも米国海軍に先駆けてこの機械を用いており、納入経路は日本陶器名古屋工場を経由する形で秘匿された[44]。1928年には内閣統計局が第二次国勢調査のためキーパンチ31台を含む47台を発注した[45]。黒沢商店は1901年の創業直後からコンプトメーター計算機を扱い[46]、大正の初めにはバロース計算機も販売しており、事務機械の販路をすでに持っていた。 [41]
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [40]黒澤商店へ移った水品氏は、新たに用意したカタログと機種別の賃貸料一覧を携えて客先を回った
- [41]受注は軍と官庁から届く
- [42]呉海軍工廠は1927年9月に総務部、1928年10月に会計部へ統計会計機を導入した
- [43]1928年に呉海軍工廠会計部で砲熕工事の原価計算に使われた
- [44]戦艦長門の艦体改装設計に用いられ納入経路は日本陶器経由で秘匿された
- [45]1928年に内閣統計局が第二次国勢調査用に合計47台を発注した
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)序章 創立前史
- [46]黒沢商店は1901年創業直後からコンプトメーター計算機、大正初めからバロース計算機を販売していた
民間からの注文は続かなかった。1927年から1933年までの7年間、水品氏の営業日誌には千代田生命保険へ1930年1月以降10数カ月にわたり日参した記録[48]が残るが、契約には至っていない。記載のある約50社も同[49]様だった。1929年の世界恐慌は日本企業に徹底した経費削減を強い、1931年には三菱造船の長崎・神戸両造船所が解約を申し入れた[50]。潮目が変わったのは1934年のIBM405の登[51]場である。角孔80桁カードは丸孔45桁を性能で圧倒[52]し、同年に日本生命と帝国生命が相次いで採用した。黒澤商店に代理権が移ってからの11年間で水品氏が得た受注は15件である[53]。 [47]
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [47]民間からの注文は続かなかった
- [48]1930年1月以降千代田生命保険へ10数カ月日参したが受注できなかった
- [49]記載のある約50社も同様だった
- [50]1931年に三菱造船の長崎・神戸両造船所が解約を申し入れた
- [51]潮目が変わったのは1934年のIBM405の登場である
- [52]1934年のIBM405は角孔80桁カードでパワーズ社を圧倒し日本生命と帝国生命が採用した
- [53]黒澤商店の11年間で水品氏が獲得した受注は15件だった
1937年6月17日[54]、IBMは日本法人として日本ワットソン統計会計機械株式会社を設立した。資本金50万円は実際にはIBMの全額払い込み[56]であり、発起人の持ち株は名義上の出資にすぎない。本店は明治以来の外資系企業が集まる横浜市中区山下町に置かれ、白い木造二階建ての正面には社是の「THINK」が掲げられた[57]。渋沢栄一氏の孫にあたる渋沢智雄氏が非常勤の社長に就き、代表取締役兼技術顧問にはベルギー出身のギー・ド・ラ・シュヴァルリー氏[58]、営業部長には水品氏、技術サービス部の責任者には本社から派遣されたチャールズ・M・デッカー氏[59]が就いた。黒澤商店時代と違い、営業と技術サービスの業務がここで分[60]けられた。設立時の事務所は東京・丸の内の三菱東9号館内に置かれ[61]、同年10月に横浜山下町へ移った。 [55]
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
- [54]1937年6月17日に日本ワットソン統計会計機械が設立された
- [60]黒澤商店時代と違い、営業と技術サービスの業務がここで分けられた
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代
- [55]1925年5月の森村商事との代理店契約、1927年1月の黒沢商店への移管、1937年6月の日本ワットソン設立という順に事業が引き継がれた
- [61]設立時の事務所は三菱東9号館内にあり、1937年10月に横浜山下町へ移転した
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [56]資本金50万円は全額IBMの払い込みだった
- [57]本店は横浜市中区山下町に置かれ正面にTHINKが掲げられた
- [58]渋沢智雄氏が非常勤社長、シュヴァルリー氏が代表取締役兼技術顧問に就いた
- [59]水品氏が営業部長、デッカー氏が技術サービス部責任者に就いた
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [40]黒澤商店へ移った水品氏は、新たに用意したカタログと機種別の賃貸料一覧を携えて客先を回った
- [41]受注は軍と官庁から届く
- [42]呉海軍工廠は1927年9月に総務部、1928年10月に会計部へ統計会計機を導入した
- [43]1928年に呉海軍工廠会計部で砲熕工事の原価計算に使われた
- [44]戦艦長門の艦体改装設計に用いられ納入経路は日本陶器経由で秘匿された
- [45]1928年に内閣統計局が第二次国勢調査用に合計47台を発注した
- [47]民間からの注文は続かなかった
- [48]1930年1月以降千代田生命保険へ10数カ月日参したが受注できなかった
- [49]記載のある約50社も同様だった
- [50]1931年に三菱造船の長崎・神戸両造船所が解約を申し入れた
- [51]潮目が変わったのは1934年のIBM405の登場である
- [52]1934年のIBM405は角孔80桁カードでパワーズ社を圧倒し日本生命と帝国生命が採用した
- [53]黒澤商店の11年間で水品氏が獲得した受注は15件だった
- [56]資本金50万円は全額IBMの払い込みだった
- [57]本店は横浜市中区山下町に置かれ正面にTHINKが掲げられた
- [58]渋沢智雄氏が非常勤社長、シュヴァルリー氏が代表取締役兼技術顧問に就いた
- [59]水品氏が営業部長、デッカー氏が技術サービス部責任者に就いた
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)序章 創立前史
- [46]黒沢商店は1901年創業直後からコンプトメーター計算機、大正初めからバロース計算機を販売していた
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
- [54]1937年6月17日に日本ワットソン統計会計機械が設立された
- [60]黒澤商店時代と違い、営業と技術サービスの業務がここで分けられた
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代
- [55]1925年5月の森村商事との代理店契約、1927年1月の黒沢商店への移管、1937年6月の日本ワットソン設立という順に事業が引き継がれた
- [61]設立時の事務所は三菱東9号館内にあり、1937年10月に横浜山下町へ移転した