1923年10月、日本陶器の取締役兼支配人だった加藤理三郎氏は、生産管理の合理化策を調べるためニューヨークへ出張した。同社の高級洋食器は皿やカップの種類と個数を顧客が組み合わせて注文する形をとり、大正期に売上が伸びるにつれ、伝票の仕分けと原価計算に百人を超える珠算係の女子社員を充てても追いつかなくなっていた。相談を受けた森村ブラザース商会の中山武夫副支配人は、英語力に優れた笹村氏と水品浩氏の2名を選んで加藤氏に同行させた。三人が足を運んだビジネスショーには、C-T-R社とパワーズ社のパンチ式統計会計機械が並んでいた。数回にわたり会場で資料を集めた結果、名古屋工場の停滞を解くのはこの機械だと見当をつけた。
最終調査を任された水品氏は、穿孔機・分類機・印刷統計機のそれぞれについて性能と賃貸料、販売形態を比較し、ホレリス式に軍配を上げた。調査機関に依頼したうえで自らも両社へ何度も足を運び、会社の理念や指導者の人柄、財務状況、社外の評価まで確かめた末の結論だった。ところが契約に赴いた水品氏に、IBMのブレイトマイヤー副社長は断りを告げる。同社の統計機はすべて賃貸方式であり、日本に代理店がない以上、保守ができないという理由である。すでに日本陶器は機械を据える事務室の配置まで整えて待っていた。引き下がれなくなった水品氏は、自分にその保守技術を教えてほしいと申し出た。
申し出は受け入れられ、水品氏はエンディコット工場で三カ月あまりの実習に入った。半日は工場技師から機械工学と電気理論の講義を受け、半日は現場でドライバーの握り方から教わった。営業職から保守技術員への転換である。実習の間に、水品氏の構想は日本陶器一社を超えた。この機械の働きを必要とする官庁や会社は国内にも数多くあるはずで、自分たちの力で普及させられれば日本の進歩に役立つはずだと考えた。構想を森村ブラザースとIBMの双方に持ちかけると異存はなく、1925年5月21日、森村ブラザース取締役の中山武夫氏とブレイトマイヤー副社長のあいだで、極東における代理店契約が結ばれた。
1925年9月、第一号機が日本陶器名古屋事務所に据えられた。45桁丸穴式のパンチカードによる加算専用機で、日米間の電圧と周波数の差を調整したため稼働は翌年へずれ込んだ。代理店となった森村商事は年5台の契約義務を負っており、水品氏は東京へのデモンストレーション機の設置も申請したが、幹部は常設機の追加注文には慎重だった。結局、名古屋へ納めた集計作表機を一時借り受けて展示会を準備した。これに先立ち、三菱造船から2台の注文が入る。欧州大戦後の造船不況を克服するため早くから給与計算にカードを使ってきた同社は、船舶と舶用機器の原価計算事務全般へ機械化を広げようとしていた。
1926年11月19日から2週間、東京・日本橋の森村銀行4階で国内初のIBM機械展示会が開かれた。森村開作社長は諸官庁や大手銀行、保険会社へ案内状を送り、日本銀行総裁をはじめ政府と大企業の要人が大勢集まった。ところが申込者は事実上皆無だった。理由は3つある。契約が賃貸方式であり当時の商慣行に馴染まなかったこと、学卒幹部職員の初任給が100円を下回る賃金水準では人手で集計するほうが安かったこと、そして統計会計機一式の月額賃貸料590円が、最も高価なモンロー式計算機の取得価格500円をも上回っていたことである。水品氏は展示会の直後に有望と見た会社を訪ねて回ったが、契約はひとつも取れなかった。
展示会の成果を誰よりも期待していた森村開作社長は、この結果に深く失望した。当時の財界には欧州大戦後の不況と関東大震災からの復興に対処するため本業へ戻れという動きがあり、森村商事は着手したばかりのこの事業を断念する。残る代理店契約の期間と、日本陶器・三菱造船への保守をどう継ぐかが問題として残り、森村社長はニューヨーク時代からの知己で事務機械用品の輸入販売を手がけていた黒澤貞次郎氏に相談を持ちかけた。1927年1月、代理権は黒澤商店へ移り、水品氏も同店へ移籍した。年間最低契約台数の条項は外された。ブレイトマイヤー副社長が、機械の漸進的な普及を待つ方針へ転じたためである。
黒澤商店へ移った水品氏は、新たに用意したカタログと機種別の賃貸料一覧を携えて客先を回った。受注は軍と官庁から届く。呉海軍工廠は1927年9月に総務部、翌年10月に会計部へ統計会計機一式を据え、会計部のものはギャングパンチと複写パンチを含むフルセットで、1928年には砲熕工事の原価計算に使われた。海軍は建艦中の戦艦長門の戦闘力を高める艦体改装設計にも米国海軍に先駆けてこの機械を用いており、納入経路は日本陶器名古屋工場を経由する形で秘匿された。1928年には内閣統計局が第二次国勢調査のためキーパンチ31台を含む47台を発注した。黒沢商店は1901年の創業直後からコンプトメーター計算機を扱い、大正の初めにはバロース計算機も販売しており、事務機械の販路をすでに持っていた。
民間からの注文は続かなかった。1927年から1933年までの7年間、水品氏の営業日誌には千代田生命保険へ1930年1月以降10数カ月にわたり日参した記録が残るが、契約には至っていない。記載のある約50社も同様だった。1929年の世界恐慌は日本企業に徹底した経費削減を強い、1931年には三菱造船の長崎・神戸両造船所が解約を申し入れた。潮目が変わったのは1934年のIBM405の登場である。角孔80桁カードは丸孔45桁を性能で圧倒し、同年に日本生命と帝国生命が相次いで採用した。黒澤商店に代理権が移ってからの11年間で水品氏が得た受注は15件である。
1937年6月17日、IBMは日本法人として日本ワットソン統計会計機械株式会社を設立した。資本金50万円は実際にはIBMの全額払い込みであり、発起人の持ち株は名義上の出資にすぎない。本店は明治以来の外資系企業が集まる横浜市中区山下町に置かれ、白い木造二階建ての正面には社是の"THINK"が掲げられた。渋沢栄一氏の孫にあたる渋沢智雄氏が非常勤の社長に就任し、代表取締役兼技術顧問にはベルギー出身のギー・ド・ラ・シュヴァルリー氏、営業部長には水品氏、技術サービス部の責任者には本社から派遣されたチャールズ・M・デッカー氏が就任した。黒澤商店時代と違い、営業と技術サービスの業務がここで分けられた。設立時の事務所は東京・丸の内の三菱東9号館内に置かれ、同年10月に横浜山下町へ移った。
開戦は会社を一度消した。1941年10月に代表取締役となった水品氏は、12月8日の朝、残る10名ばかりの社員を集め、機械そのものは米国のものでも性能によって国力の向上に役立っている以上、動揺せず顧客への奉仕を続けようと訓示した。その訓示を終える間もなく警官が踏み込み、水品氏は横浜加賀町署へ連行される。米国資本100%の会社の責任者というスパイ容疑での勾留は異例の3カ月に及び、検事が現れたのは一度だけだった。釈放後も2カ月の外出禁止が言い渡された。1942年3月、日本ワットソンの資産は全面的に凍結され、業務は指定管理人のもとで必要最小限の保守に限られた。
事業は別の会社で続いた。1943年6月、東京芝浦電気を推進母体とする日本統計機が発足し、大蔵省の指令で日本ワットソンの正味資産173万円を引き継いだ。物資動員計画のもとで統計処理の需要が高まり、陸海軍も暗号解読から配船計画まで統計機械の役割に気づいていた。政府は戦争を始めたが、企業家としてはIBMの事業を残しておくことが義務である——取締役に就任した第一生命の矢野一郎氏が発足にあたって掲げた考えである。同社は1949年まで保守を続け、その間にIBMへのロイヤリティを非居住者勘定へ積み立てた。東京芝浦電気の縁故でこのとき採用された稲垣早苗氏は、のちに日本IBMの社長となる。
1949年8月、GHQの指令で日本ワットソンの資産凍結が解かれ、資産相当額299万円が返還された。これに先立つ同年6月、8年ぶりに開かれた株主総会で社名を日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズへ改め、本店を日本統計機の所在地である東京・神田須田町へ移した。代表取締役にはIBM本社の利益代表としてデッカー氏が、常務取締役には水品氏が就任した。1950年4月に業務を再開したときの社員は66名で、その大半は日本統計機の出身者が占めた。この年の売上高は7700万円、税引後利益は1200万円である。1952年5月には麹町二番町に新社屋が竣工した。正面玄関のガラスには社是の"THINK"が金文字で掲げられ、玄関脇の大理石には世界平和は世界交易からという一節が刻まれた。当時の水品氏の役職は常務取締役である。
再開後の需要は速く伸びた。1950年の朝鮮動乱を契機に日本経済が上昇へ向かうなかで、占領下の米軍が大量に装備していたIBM機の存在と、財閥解体で三井物産という販売元を失った競合のレミントン製統計機の伸び悩みが追い風になった。1953年にはパンチカード・システムの輸入関税が免除され、同じ年に東京・大田区の糀谷工場が操業を始めてIBM405の組み立てにあたった。1953年に入社した椎名武雄氏によれば、社員はそのころ200人まで増えていた。新社屋の1階には教室が置かれ、統計会計機を採用した企業の社員を1日6時間・3週間半で講習した。1952年までの修了者は557名にのぼる。
1953年に米国IBMが初の商用コンピュータIBM701を発表し、コンピュータ事業へ踏み出した。1960年、IBMワールド・トレード社と日本IBMとの間で技術援助契約が成立した。同じ年、IBMはコンピュータ製造技術に関する基本特許を国内の7社、三菱電機・日立製作所・東芝・富士通・日本電気・沖電気・松下電器に公開した。エレクトロニクスを中心とする知識集約型産業への移行を見越した通産省は、電子工業振興臨時措置法によって業界への援助を本格化させていた。
国内での生産は、技術援助契約の成立を境に本格化した。千鳥町工場は1961年5月に拡張とレイアウトの全面変更を行い、1963年には電子計算組織の国産を本格的に始めた。1964年に発表されたIBMシステム/360も、1966年に国産が始まっている。1960年には国産IBM機の輸出第一号として分類機がインドへ船積みされ、1966年には政府から輸出貢献企業の認定を受けた。
戦後の資本は、戦時中に積み立てられた資金から組み直された。日本統計機は1943年から1949年までの間にIBMへのロイヤリティを積み立て、資産凍結の解けた日本IBMへ全額を返還し、それが再発足の資本金になった。資本金は1950年のうちに3回の増資で2980万500円となり、その増資金額は日本統計機からIBMへ半期ごとに支払われたロイヤリティを再投資したものだった。
再開から10年で、事業の規模は桁を変えた。1950年に7700万円だった売上高は1960年に57億2200万円と約74倍になり、税引後利益は1200万円から11億7400万円へ、従業員は66人から1387人へ増えた。1981年の時点でも、IBM本社との金銭面の結びつきは持ち株への配当と技術援助契約に基づく特許使用料の支払いに限られ、売上や利潤の計画からトップ人事までの経営方針のほとんどを日本IBM自身が決めていた。
1958年には茨城県東海村の日本原子力研究所へ、国内で初めてとなる電子計算機650を納入した。翌1959年には大和銀行と塩野義製薬にも導入した。同じ年に社名を日本アイ・ビー・エム株式会社へ改め、千鳥町工場の第一期工事を終えて国内の生産体制を構築した。1970年の売上高は984億円、税引後利益は228億円で、売上高利益率は23.2%に達する。従業員は7358名だった。1962年にはシステムズ・エンジニアの職種を設け、1964年の東京五輪では競技結果の集計に協力した。1967年には神奈川県に藤沢工場が完成した。
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|---|---|---|---|---|
| 1923〜1937年日本陶器の受注処理に始まり、日本法人の設立に至る十四年(1923〜1937) | 水品浩氏がエンディコット工場で保守技術の実習を受ける | ★★ | ||
| 森村商事がIBMの日本代理店権を獲得 | ★★ | |||
| 日本陶器名古屋工場にIBM統計機第1号機を設置 | ★★ | |||
| 黒澤商店へ代理店権を移管 | ★ | |||
| 渋沢智雄 | 日本ワットソン統計会計機械を横浜山下町に設立 | ★★★ | ||
| 渋沢智雄 | 事務所を東京の三菱東9号館から横浜山下町へ移転 | ★ | ||
| 1938〜1970年開戦による凍結と再出発、特許公開と引き換えの国内生産(1938〜1970) | 横浜にカード工場を開設 | ★ | ||
| 水品浩 | 開戦により社長の水品浩氏を3カ月勾留 | ★★ | ||
| 水品浩 | 敵産管理法による全資産の凍結 | ★★ | ||
| 水品浩 | 日本統計機の発足と保守業務の継承 | ★★ | ||
| GHQ指令による資産凍結の解除 | ★★ | |||
| 日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズとして業務再開 | ★★★ | |||
| チャールズ・M・デッカー | 南糀谷工場で国産第1号の080分類機を出荷 | ★★ | ||
| 水品浩 | 日本原子力研究所へ国内初の電子計算機650を納入 | ★★ | ||
| 水品浩 | 日本アイ・ビー・エムへの商号変更と千鳥町工場の竣工 | ★★ | ||
| 鈴木信治 | 特許の公開と引き換えに国内生産の認可を得た三者合意 1960年夏、通商産業省・IBMワールド・トレード社・日本IBMの三者が、日本IBMへの技術援助契約の認可と、日本のコンピュータ・メーカーへのIBM特許の公開を一括して解決することで合意した経営判断。日本IBMは1963年から千鳥町工場で現地生産を開始した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 稲垣早苗 | 千鳥町工場でIBM1440の国内生産を開始 | ★★ | ||
| 稲垣早苗 | 東京五輪の競技結果集計に協力、システム/360を発表 | ★ | ||
| 稲垣早苗 | 藤沢工場の完成 | ★ | ||
| 稲垣早苗 | 日本万国博覧会に参加、システム/370を発表 | ★ | ||
| 1971〜1992年国産勢の逆転と日本化路線、売上高一兆円までの二十年(1971〜1992) | 稲垣早苗 | 野洲工場と六本木の本社ビルが完成 | ★ | |
| 稲垣早苗 | 貸借対照表を初めて社外に公表 | ★★ | ||
| 椎名武雄 | 外資の現地法人を国内企業と同等に位置づけて売り込む構え 1975年2月に45歳で社長へ就任した椎名武雄氏が、日本市場に合う製品とサービスを通じて"日本の企業"として認められることを目標に掲げ、特約店制度・日本語対応製品・国内開発拠点を整備した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 椎名武雄 | 富士通が売上高で日本IBMを抜き国内首位に | ★★ | ||
| 椎名武雄 | IBM特約店制度の発足 | ★★ | ||
| 椎名武雄 | マルチステーション5550の発表 | ★★ | ||
| 椎名武雄 | 大和研究所の完成 | ★ | ||
| 椎名武雄 | 売上高が1兆円を突破 | ★★ | ||
| 椎名武雄 | 本体と情報サービス・サービスの3分社化を発表 | ★★ | ||
| 1993〜2026年初の赤字決算からサービス業への転換、事業を切り離した三十年(1993〜2026) | 北城恪太郎 | 北城恪太郎氏が社長に就任 | ★★ | |
| 北城恪太郎 | 三次にわたる人員と事業の絞り込みによる収益構造の立て直し 1992年10月の3分社化に始まり、1993年12月期の初の赤字決算をはさんで、1994年末まで三次にわたって行われた人員削減と再配置の経営判断。1995年1月には分社した3社を再統合した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北城恪太郎 | 分社した3社の再統合 | ★★ | ||
| 北城恪太郎 | 長野冬季五輪の情報システムを支援 | ★ | ||
| 大歳卓麻 | 大歳卓麻氏が社長に就任 | ★ | ||
| 大歳卓麻 | 売上高が過去最高の1兆7075億円に到達 | ★★ | ||
| 大歳卓麻 | パソコン事業のレノボへの売却 | ★★★ | ||
| 大歳卓麻 | IBMアジア・パシフィックから分離し米本社の直属に移行 | ★★ | ||
| 橋本孝之 | 橋本孝之氏が社長に就任 | ★ | ||
| マーティン・イェッター | 56年ぶりの外国人社長としてマーティン・イェッター氏が就任 | ★★ | ||
| マーティン・イェッター | System xサーバー事業のレノボへの譲渡 | ★★ | ||
| ポール与那嶺 | ポール与那嶺氏が社長に就任 | ★ | ||
| 山口明夫 | 山口明夫氏が社長に就任 | ★ | ||
| 山口明夫 | マネージド・インフラ事業をキンドリルとして分社化 | ★★ | ||
| 山口明夫 | 本社を日本橋箱崎町から虎ノ門へ移転 | ★ | ||
| 村田将輝 | 村田将輝氏が社長に就任 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本アイ・ビー・エム)