日本アイ・ビー・エム の歴史

創業

1937年

創業者

水品浩

創業地

神奈川県横浜市

直近売上高(2025/12)

8,321億円

長期業績と転換点(1996/12〜2025/12)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1937年にIBMは日本法人の日本ワットソン統計会計機械を設立したのか
A 代理店任せでは12年間で15件しか受注が取れなかった一方、1934年に登場したIBM405が生命保険業界の需要を開いたためである。IBMは1925年に森村商事へ日本の代理店権を与え、1927年には黒澤商店へ移していた。日本生命と帝国生命が相次いで405を採用したのを見て直接進出を決め、1937年6月17日に横浜市中区山下町へ日本ワットソン統計会計機械を設立した。資本金50万円は全額IBMの払い込みで、渋沢栄一氏の孫にあたる渋沢智雄氏が非常勤の社長に就いた。
Q なぜ1960年に日本IBMは最大の武器だった特許を国内の競合へ公開したのか
A 日本での現地生産の認可を得るためである。通商産業省は日本IBMがIBMワールド・トレード社の100%子会社であることを理由に技術導入申請の認可を渋り、一方で国内メーカーはIBMの特許の壁にぶつかってコンピュータの商品生産ができずにいた。通産省は認可の条件として日本メーカーへの特許公開を求め、1960年夏に三者が一括して解決することで合意した。公開の範囲は製造特許権にとどまり、製造とサービスのノウハウは日本IBMだけが持ち続けた
Q なぜ1993年12月期に日本IBMは創業以来初の赤字決算を計上したのか
A 早期退職に応じた約3100名への上積み退職金など約490億円を特別損失として計上したためである。1993年12月期の純損失は184億円で、この特別損失がなければ101億円の税引利益が出ていた。売上高は1990年の1兆3265億円から1兆1578億円へ減っており、日本IBMは1992年10月の3分社化から1994年末まで三次にわたるリストラクチャリングを行った。削減した人員のうち1500名はシステムインテグレーションとソフトウェア開発へ移された

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1923年〜 日本陶器の受注処理に始まり、日本法人の設立に至る十四年(1923〜1937)

  1. 1924年 水品浩氏がエンディコット工場で保守技術の実習を受ける
  2. 1925年 森村商事がIBMの日本代理店権を獲得
  3. 1925年 日本陶器名古屋工場にIBM統計機第1号機を設置
  4. 1927年 黒澤商店へ代理店権を移管
  5. 1937年 日本ワットソン統計会計機械を横浜山下町に設立
  6. 1937年 事務所を東京の三菱東9号館から横浜山下町へ移転

洋食器の受注をさばけず、統計機械にたどり着いた出張

1923年10月、日本陶器の取締役兼支配人だった加藤理三郎氏[1]は、生産管理の合理化策を調べるためニューヨークへ出張した。同社の高級洋食器は皿やカップの種類と個数を顧客が組み合わせて注文する形[2]をとり、大正期に売上が伸びるにつれ、伝票の仕分けと原価計算に百人を超える珠算係の女子社員を充てても追いつかなくなっていた[3]。相談を受けた森村ブラザース商会の中山武夫副支配人は、英語力に優れた笹村氏と水品浩氏の2名を選んで[4]加藤氏に同行させた。三人が足を運んだビジネスショーには、C-T-R社とパワーズ社のパンチ式統計会計機械[5]が並んでいた。数回にわたり会場で資料を集めた結果、名古屋工場の停滞を解くの[6]はこの機械だと見当をつけた。

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [1]1923年10月に日本陶器の加藤理三郎氏がニューヨークへ出張した
    • [2]日本陶器の洋食器は顧客が種類と個数を組み合わせる受注形態だった
    • [3]伝票処理に百人を超える珠算係を動員しても追いつかなかった
    • [4]森村ブラザース商会の中山武夫副支配人が笹村・水品浩の両名を選任した
    • [5]ビジネスショーにC-T-R社とパワーズ社の統計会計機械が出品されていた
    • [6]数回にわたり会場で資料を集めた結果、名古屋工場の停滞を解くのはこの機械だと見当をつけた

最終調査を任された水品氏は、穿孔機・分類機・印刷統計機のそれぞれについて性能と賃貸料、販売形態を比較[7]し、ホレリス式に軍配を上げた[8]。調査機関に依頼したうえで自らも両社へ何度も足を運び、会社の理[9]念や指導者の人柄、財務状況、社外の評価まで確かめた末の結論だった。ところが契約に赴いた水品氏に、IBMのブレイトマイヤー副社長は断りを告げる[10]。同社の統計機はすべて賃貸方式であり、日本に代理店がない以上、保守ができないという理由[11]である。すでに日本陶器は機械を据える事務室の配置まで整えて待[12]っていた。引き下がれなくなった水品氏は、自分にその保守技術を教えてほしいと申し出た[13]

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [7]水品浩氏が穿孔機・分類機・印刷統計機の性能と賃貸料を比較した
    • [8]比較の結果ホレリス式を採用と判断した
    • [9]調査機関に依頼したうえで自らも両社へ何度も足を運び、会社の理念や指導者の人柄、財務状況、社外の評価まで確かめた末の結論だった
    • [10]IBMのブレイトマイヤー副社長が契約を断った
    • [11]断りの理由は賃貸方式と日本国内での保守体制の不在だった
    • [12]すでに日本陶器は機械を据える事務室の配置まで整えて待っていた
    • [13]水品氏が自ら保守技術の習得を申し出た

申し出は受け入れられ、水品氏はエンディコット工場で三カ月あまりの実習[14]に入った。半日は工場技師から機械工学と電気理論の講義[15]を受け、半日は現場でドライバーの握り方から教わった。営業職から保守技術員への転[16]換である。実習の間に、水品氏の構想は日本陶器一社[17]を超えた。この機械の働きを必要とする官庁や会社は国内にも数多くあるはず[18]で、自分たちの力で普及させられれば日本の進歩に役立つはずだと考えた。構想を森村ブラザースとIBMの双方に持ちかけると異存はなく[19]、1925年5月21日、森村ブラザース取締役の中山武夫氏とブレイトマイヤー副社長[20]のあいだで、極東における代理店契約が結ばれた。

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [14]水品氏はエンディコット工場で約3カ月の実習教育を受けた
    • [15]実習は半日が機械工学と電気理論の講義、半日が現場作業だった
    • [16]営業職から保守技術員への転換である
    • [17]実習の間に、水品氏の構想は日本陶器一社を超えた
    • [18]この機械の働きを必要とする官庁や会社は国内にも数多くあるはずで、自分たちの力で普及させられれば日本の進歩に役立つはずだと考えた
    • [19]水品氏は国内普及の構想を森村ブラザースとIBMへ提案した
    • [20]1925年5月21日に極東における代理店契約が締結された
  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [1]1923年10月に日本陶器の加藤理三郎氏がニューヨークへ出張した
    • [2]日本陶器の洋食器は顧客が種類と個数を組み合わせる受注形態だった
    • [3]伝票処理に百人を超える珠算係を動員しても追いつかなかった
    • [4]森村ブラザース商会の中山武夫副支配人が笹村・水品浩の両名を選任した
    • [5]ビジネスショーにC-T-R社とパワーズ社の統計会計機械が出品されていた
    • [6]数回にわたり会場で資料を集めた結果、名古屋工場の停滞を解くのはこの機械だと見当をつけた
    • [7]水品浩氏が穿孔機・分類機・印刷統計機の性能と賃貸料を比較した
    • [8]比較の結果ホレリス式を採用と判断した
    • [9]調査機関に依頼したうえで自らも両社へ何度も足を運び、会社の理念や指導者の人柄、財務状況、社外の評価まで確かめた末の結論だった
    • [10]IBMのブレイトマイヤー副社長が契約を断った
    • [11]断りの理由は賃貸方式と日本国内での保守体制の不在だった
    • [12]すでに日本陶器は機械を据える事務室の配置まで整えて待っていた
    • [13]水品氏が自ら保守技術の習得を申し出た
    • [14]水品氏はエンディコット工場で約3カ月の実習教育を受けた
    • [15]実習は半日が機械工学と電気理論の講義、半日が現場作業だった
    • [16]営業職から保守技術員への転換である
    • [17]実習の間に、水品氏の構想は日本陶器一社を超えた
    • [18]この機械の働きを必要とする官庁や会社は国内にも数多くあるはずで、自分たちの力で普及させられれば日本の進歩に役立つはずだと考えた
    • [19]水品氏は国内普及の構想を森村ブラザースとIBMへ提案した
    • [20]1925年5月21日に極東における代理店契約が締結された

政財界を集めた展示会と、代理店権の黒澤商店への移管

1925年9月、第一号機[21]が日本陶器名古屋事務所に据えられた。45桁丸穴式のパンチカードによる加算専用機[22]で、日米間の電圧と周波数の差を調整したため稼働は翌年へずれ込んだ。代理店となった森村商事は年5台の契約義務[23]を負っており、水品氏は東京へのデモンストレーション機の設置も申請したが、幹部は常設機の追加注文には慎重だった。結局、名古屋へ納めた集計作表機を一時借り受けて展示会を[24]準備した。これに先立ち、三菱造船から2台の注文[25]が入る。欧州大戦後の造船不況を克服するため早くから給与計算にカードを[26]使ってきた同社は、船舶と舶用機器の原価計算事務全般へ機械化を広げようとしていた。

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [21]1925年9月に第一号機が日本陶器名古屋事務所へ設置された
    • [22]第一号機は45桁丸穴式カードによる加算専用機だった
    • [23]森村商事は年5台の成約義務を負っていた
    • [24]結局、名古屋へ納めた集計作表機を一時借り受けて展示会を準備した
    • [25]三菱造船から2台の注文が入った
    • [26]欧州大戦後の造船不況を克服するため早くから給与計算にカードを使ってきた同社は、船舶と舶用機器の原価計算事務全般へ機械化を広げようとしていた

1926年11月19日から2週間、東京・日本橋の森村銀行4階で国内初のIBM機械展示会[27]が開かれた。森村開作社長は諸官庁や大手銀行、保険会社へ案内状を送り、日本銀行総裁をはじめ政府と大企業の要人が大勢集まった[28]。ところが申込者は事実上皆無[29]だった。理由は3つある。契約が賃貸方式であり当時の商慣行に馴染まなかったこと、学卒幹部職員の初任給が100円を下回る賃金水準[31]では人手で集計するほうが安かったこと、そして統計会計機一式の月額賃貸料590円が、最も高価なモンロー式計算機の取得価格500円をも上回っていた[32]ことである。水品氏は展示会の直後に有望と見た会社を訪ねて回ったが、契約は[33]ひとつも取れなかった。 [30]

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [27]1926年11月19日から2週間、森村銀行4階で国内初のIBM機械展示会が開かれた
    • [28]日本銀行総裁をはじめ政財界の要人が来場した
    • [29]展示会の来場者は多かったが申込者は事実上皆無だった
    • [30]理由は3つある
    • [31]学卒幹部職員の初任給は100円以下だった
    • [32]統計会計機一式の月額賃貸料590円はモンロー式計算機の取得価格500円を上回った
    • [33]水品氏は展示会の直後に有望と見た会社を訪ねて回ったが、契約はひとつも取れなかった

展示会の成果を誰よりも期待していた森村開作社長は、この結果に深く失望した[34]。当時の財界には欧州大戦後の不況と関東大震災からの復興に対処するため本業へ戻れという動きがあり、森村商事は着手したばかりのこの事業を断念する[35]。残る代理店契約の期間と、日本陶器・三菱造船への保守をどう継ぐ[36]かが問題として残り、森村社長はニューヨーク時代からの知己で事務機械用品の輸入販売を手がけていた黒澤貞次郎氏に相談を持ちかけた。1927年1月、代理権は黒澤商店へ移り[37]、水品氏も同店へ移籍した。年間最低契約台数の条項[38]は外された。ブレイトマイヤー副社長が、機械の漸進的な普及を待つ方針へ転じ[39]たためである。

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [34]森村開作社長は展示会の結果に失望した
    • [35]財界の本業回帰の動きを背景に森村商事は事業を断念した
    • [36]残る代理店契約の期間と、日本陶器・三菱造船への保守をどう継ぐかが問題として残り、森村社長はニューヨーク時代からの知己で事務機械用品の輸入販売
    • [38]黒澤商店との契約では年間最低契約台数の条項が外された
    • [39]ブレイトマイヤー副社長が、機械の漸進的な普及を待つ方針へ転じたためである
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [37]1927年1月に代理権が黒澤商店へ移り水品氏も移籍した
  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [21]1925年9月に第一号機が日本陶器名古屋事務所へ設置された
    • [22]第一号機は45桁丸穴式カードによる加算専用機だった
    • [23]森村商事は年5台の成約義務を負っていた
    • [24]結局、名古屋へ納めた集計作表機を一時借り受けて展示会を準備した
    • [25]三菱造船から2台の注文が入った
    • [26]欧州大戦後の造船不況を克服するため早くから給与計算にカードを使ってきた同社は、船舶と舶用機器の原価計算事務全般へ機械化を広げようとしていた
    • [27]1926年11月19日から2週間、森村銀行4階で国内初のIBM機械展示会が開かれた
    • [28]日本銀行総裁をはじめ政財界の要人が来場した
    • [29]展示会の来場者は多かったが申込者は事実上皆無だった
    • [30]理由は3つある
    • [31]学卒幹部職員の初任給は100円以下だった
    • [32]統計会計機一式の月額賃貸料590円はモンロー式計算機の取得価格500円を上回った
    • [33]水品氏は展示会の直後に有望と見た会社を訪ねて回ったが、契約はひとつも取れなかった
    • [34]森村開作社長は展示会の結果に失望した
    • [35]財界の本業回帰の動きを背景に森村商事は事業を断念した
    • [36]残る代理店契約の期間と、日本陶器・三菱造船への保守をどう継ぐかが問題として残り、森村社長はニューヨーク時代からの知己で事務機械用品の輸入販売
    • [38]黒澤商店との契約では年間最低契約台数の条項が外された
    • [39]ブレイトマイヤー副社長が、機械の漸進的な普及を待つ方針へ転じたためである
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [37]1927年1月に代理権が黒澤商店へ移り水品氏も移籍した

軍需と官庁が支えた受注、そして日本法人の設立

黒澤商店へ移った水品氏は、新たに用意したカタログと機種別の賃[40]貸料一覧を携えて客先を回った。受注は軍と官庁から届く。呉海軍工廠は1927年9月に総務部、翌年10月に会計部へ統計会計機一式を据え[42]、会計部のものはギャングパンチと複写パンチを含むフルセットで、1928年には砲熕工事の原価計算に使われた[43]。海軍は建艦中の戦艦長門の戦闘力を高める艦体改装設計にも米国海軍に先駆けてこの機械を用いており、納入経路は日本陶器名古屋工場を経由する形で秘匿された[44]。1928年には内閣統計局が第二次国勢調査のためキーパンチ31台を含む47台を発注した[45]。黒沢商店は1901年の創業直後からコンプトメーター計算機を扱い[46]、大正の初めにはバロース計算機も販売しており、事務機械の販路をすでに持っていた。 [41]

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [40]黒澤商店へ移った水品氏は、新たに用意したカタログと機種別の賃貸料一覧を携えて客先を回った
    • [41]受注は軍と官庁から届く
    • [42]呉海軍工廠は1927年9月に総務部、1928年10月に会計部へ統計会計機を導入した
    • [43]1928年に呉海軍工廠会計部で砲熕工事の原価計算に使われた
    • [44]戦艦長門の艦体改装設計に用いられ納入経路は日本陶器経由で秘匿された
    • [45]1928年に内閣統計局が第二次国勢調査用に合計47台を発注した
  • 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)序章 創立前史
    • [46]黒沢商店は1901年創業直後からコンプトメーター計算機、大正初めからバロース計算機を販売していた

民間からの注文は続かなかった。1927年から1933年までの7年間、水品氏の営業日誌には千代田生命保険へ1930年1月以降10数カ月にわたり日参した記録[48]が残るが、契約には至っていない。記載のある約50社も同[49]様だった。1929年の世界恐慌は日本企業に徹底した経費削減を強い、1931年には三菱造船の長崎・神戸両造船所が解約を申し入れた[50]。潮目が変わったのは1934年のIBM405の登[51]場である。角孔80桁カードは丸孔45桁を性能で圧倒[52]し、同年に日本生命と帝国生命が相次いで採用した。黒澤商店に代理権が移ってからの11年間で水品氏が得た受注は15件である[53][47]

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [47]民間からの注文は続かなかった
    • [48]1930年1月以降千代田生命保険へ10数カ月日参したが受注できなかった
    • [49]記載のある約50社も同様だった
    • [50]1931年に三菱造船の長崎・神戸両造船所が解約を申し入れた
    • [51]潮目が変わったのは1934年のIBM405の登場である
    • [52]1934年のIBM405は角孔80桁カードでパワーズ社を圧倒し日本生命と帝国生命が採用した
    • [53]黒澤商店の11年間で水品氏が獲得した受注は15件だった

1937年6月17日[54]、IBMは日本法人として日本ワットソン統計会計機械株式会社を設立した。資本金50万円は実際にはIBMの全額払い込み[56]であり、発起人の持ち株は名義上の出資にすぎない。本店は明治以来の外資系企業が集まる横浜市中区山下町に置かれ、白い木造二階建ての正面には社是の「THINK」が掲げられた[57]。渋沢栄一氏の孫にあたる渋沢智雄氏が非常勤の社長に就き、代表取締役兼技術顧問にはベルギー出身のギー・ド・ラ・シュヴァルリー氏[58]、営業部長には水品氏、技術サービス部の責任者には本社から派遣されたチャールズ・M・デッカー[59]が就いた。黒澤商店時代と違い、営業と技術サービスの業務がここで分[60]けられた。設立時の事務所は東京・丸の内の三菱東9号館内に置かれ[61]、同年10月に横浜山下町へ移った。 [55]

  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [54]1937年6月17日に日本ワットソン統計会計機械が設立された
    • [60]黒澤商店時代と違い、営業と技術サービスの業務がここで分けられた
  • 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代
    • [55]1925年5月の森村商事との代理店契約、1927年1月の黒沢商店への移管、1937年6月の日本ワットソン設立という順に事業が引き継がれた
    • [61]設立時の事務所は三菱東9号館内にあり、1937年10月に横浜山下町へ移転した
  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [56]資本金50万円は全額IBMの払い込みだった
    • [57]本店は横浜市中区山下町に置かれ正面にTHINKが掲げられた
    • [58]渋沢智雄氏が非常勤社長、シュヴァルリー氏が代表取締役兼技術顧問に就いた
    • [59]水品氏が営業部長、デッカー氏が技術サービス部責任者に就いた
  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [40]黒澤商店へ移った水品氏は、新たに用意したカタログと機種別の賃貸料一覧を携えて客先を回った
    • [41]受注は軍と官庁から届く
    • [42]呉海軍工廠は1927年9月に総務部、1928年10月に会計部へ統計会計機を導入した
    • [43]1928年に呉海軍工廠会計部で砲熕工事の原価計算に使われた
    • [44]戦艦長門の艦体改装設計に用いられ納入経路は日本陶器経由で秘匿された
    • [45]1928年に内閣統計局が第二次国勢調査用に合計47台を発注した
    • [47]民間からの注文は続かなかった
    • [48]1930年1月以降千代田生命保険へ10数カ月日参したが受注できなかった
    • [49]記載のある約50社も同様だった
    • [50]1931年に三菱造船の長崎・神戸両造船所が解約を申し入れた
    • [51]潮目が変わったのは1934年のIBM405の登場である
    • [52]1934年のIBM405は角孔80桁カードでパワーズ社を圧倒し日本生命と帝国生命が採用した
    • [53]黒澤商店の11年間で水品氏が獲得した受注は15件だった
    • [56]資本金50万円は全額IBMの払い込みだった
    • [57]本店は横浜市中区山下町に置かれ正面にTHINKが掲げられた
    • [58]渋沢智雄氏が非常勤社長、シュヴァルリー氏が代表取締役兼技術顧問に就いた
    • [59]水品氏が営業部長、デッカー氏が技術サービス部責任者に就いた
  • 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)序章 創立前史
    • [46]黒沢商店は1901年創業直後からコンプトメーター計算機、大正初めからバロース計算機を販売していた
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [54]1937年6月17日に日本ワットソン統計会計機械が設立された
    • [60]黒澤商店時代と違い、営業と技術サービスの業務がここで分けられた
  • 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代
    • [55]1925年5月の森村商事との代理店契約、1927年1月の黒沢商店への移管、1937年6月の日本ワットソン設立という順に事業が引き継がれた
    • [61]設立時の事務所は三菱東9号館内にあり、1937年10月に横浜山下町へ移転した

1938年〜 開戦による凍結と再出発、特許公開と引き換えの国内生産(1938〜1970)

日本アイ・ビー・エムの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1941年 開戦により社長の水品浩氏を3カ月勾留
  2. 1942年 敵産管理法による全資産の凍結
  3. 1943年 日本統計機の発足と保守業務の継承
  4. 1949年 GHQ指令による資産凍結の解除
  5. 1950年 日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズとして業務再開
  6. 1954年 南糀谷工場で国産第1号の080分類機を出荷
  7. 1960年 特許の公開と引き換えに国内生産の認可を得た三者合意 日本市場への参入を止められた日本IBMは、なぜ最大の武器である特許を競合へ開いたのか

開戦による資産の凍結、別会社での継承、66名の再出発

開戦は会社を一度消した。1941年10月に代表取締役となった水品氏[63]は、12月8日の朝、残る10名ばかりの社員を集め、機械そのものは米国のものでも性能によって国力の向上に役立っている以上、動揺せず顧客への奉仕を続けようと訓示した[64]。その訓示を終える間もなく警官が踏み込み、水品氏は横浜加賀町署[65]へ連行される。米国資本100%の会社の責任者というスパイ容疑での勾留は異例の3カ月に及び、検事が現れたのは一度だけだった[66]。釈放後も2カ月の外出禁止が言い[67]渡された。1942年3月、日本ワットソンの資産は全面的に凍結され[68]、業務は指定管理人のもとで必要最小限の保守に限られた。 [62]

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [62]開戦は会社を一度消した
    • [63]水品氏は1941年10月に代表取締役へ就任した
    • [64]開戦当日に社員へ顧客サービスの継続を訓示した
    • [65]その訓示を終える間もなく警官が踏み込み、水品氏は横浜加賀町署へ連行される
    • [66]スパイ容疑で3カ月勾留され釈放後も2カ月の外出禁止が課された
    • [67]釈放後も2カ月の外出禁止が言い渡された
    • [68]1942年3月に資産が全面凍結され業務は最小限の保守に制限された

事業は別の会社で続いた。1943年6月、東京芝浦電気を推進母体とする日本統計機が発足し[70]、大蔵省の指令で日本ワットソンの正味資産173万円を引き継いだ[71]。物資動員計画のもとで統計処理の需要が高まり、陸海軍も暗号解読[72]から配船計画まで統計機械の役割に気づいていた。取締役に就いた第一生命の矢野一郎氏は発足にあたり、政府は戦争を始めたが企業家としてはIBMの事業を残しておくことが義務だと述べた[73]。同社は1949年まで保守を続け、その間にIBMへのロイヤリテ[74]ィを非居住者勘定へ積み立てた。東京芝浦電気の縁故でこのとき採用された稲垣早苗氏は、のちに日本IBMの社長となる[75][69]

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [69]事業は別の会社で続いた
    • [70]1943年6月に東京芝浦電気を母体とする日本統計機が発足した
    • [71]日本ワットソンの正味資産173万円が日本統計機へ移転された
    • [72]物資動員計画のもとで統計処理の需要が高まり、陸海軍も暗号解読から配船計画まで統計機械の役割に気づいていた
    • [73]第一生命の矢野一郎氏がIBMの事業を残すことを企業家の義務と述べた
    • [74]同社は1949年まで保守を続け、その間にIBMへのロイヤリティを非居住者勘定へ積み立てた
    • [75]稲垣早苗氏は日本統計機に採用され後年日本IBM社長となった

1949年8月、GHQの指令で日本ワットソンの資産凍結が解かれ、資産相当額299万円[76]が返還された。これに先立つ同年6月、8年ぶりに開かれた株主総会で社名を日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズへ改め[77]、本店を日本統計機の所在地である東京・神田須田町へ移した。代表取締役にはIBM本社の利益代表としてデッカー氏が、常務取締役には水品氏が就いた[78]。1950年4月に業務を再開したときの資本金は1980万円、従業員は66名[79]で、その大半は日本統計機の出身者が占めた。この年の売上高は7700万円、税引後利益は1200万円[80]である。1952年5月には麹町二番町に新社[81]屋が竣工した。正面玄関のガラスには社是の「THINK」が金文字で掲げられ、玄関脇の大理石には世界平和は世界交易からという一節が刻まれた[82]。当時の水品氏の役職は常務取締[83]役である。

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [76]1949年8月にGHQ指令で資産凍結が解除され299万円が返還された
    • [77]1949年6月の株主総会で社名を日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズへ変更した
    • [78]デッカー氏が代表取締役、水品氏が常務取締役に就いた
    • [80]1950年の売上高は7700万円、税引後利益は1200万円だった
    • [83]当時の水品氏の役職は常務取締役である
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [79]1950年4月の再開時は資本金1980万円・従業員66名だった
  • 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
    • [81]1952年5月に麹町二番町の新社屋が竣工し、玄関にTHINKの金文字が掲げられた
    • [82]玄関脇の大理石に「World peace, World trade(世界平和は世界交易から)」が刻まれた
  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [62]開戦は会社を一度消した
    • [63]水品氏は1941年10月に代表取締役へ就任した
    • [64]開戦当日に社員へ顧客サービスの継続を訓示した
    • [65]その訓示を終える間もなく警官が踏み込み、水品氏は横浜加賀町署へ連行される
    • [66]スパイ容疑で3カ月勾留され釈放後も2カ月の外出禁止が課された
    • [67]釈放後も2カ月の外出禁止が言い渡された
    • [68]1942年3月に資産が全面凍結され業務は最小限の保守に制限された
    • [69]事業は別の会社で続いた
    • [70]1943年6月に東京芝浦電気を母体とする日本統計機が発足した
    • [71]日本ワットソンの正味資産173万円が日本統計機へ移転された
    • [72]物資動員計画のもとで統計処理の需要が高まり、陸海軍も暗号解読から配船計画まで統計機械の役割に気づいていた
    • [73]第一生命の矢野一郎氏がIBMの事業を残すことを企業家の義務と述べた
    • [74]同社は1949年まで保守を続け、その間にIBMへのロイヤリティを非居住者勘定へ積み立てた
    • [75]稲垣早苗氏は日本統計機に採用され後年日本IBM社長となった
    • [76]1949年8月にGHQ指令で資産凍結が解除され299万円が返還された
    • [77]1949年6月の株主総会で社名を日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズへ変更した
    • [78]デッカー氏が代表取締役、水品氏が常務取締役に就いた
    • [80]1950年の売上高は7700万円、税引後利益は1200万円だった
    • [83]当時の水品氏の役職は常務取締役である
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [79]1950年4月の再開時は資本金1980万円・従業員66名だった
  • 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
    • [81]1952年5月に麹町二番町の新社屋が竣工し、玄関にTHINKの金文字が掲げられた
    • [82]玄関脇の大理石に「World peace, World trade(世界平和は世界交易から)」が刻まれた

事務機械化の需要と、特許公開を条件とした認可

再開後の需要は速く伸びた。1950年から1957年にかけてパンチカード・システムへの引[85]き合いが増え、日本企業の事務機械化が進んだ。初期の仕事は輸入機械の修理と米軍払い下げ機の再生、そしてカードの生産[86]である。1950年から1953年まで大森工場で修理と再生にあたり、1954年には南糀谷工場での国産開始へ移った[87]。第一号の製品となった080分類機は、ほとんど外国製と同一の製[88]品や部品で組まれた。顧客数は1950年の18社から1957年には約200社へ増え[89]、コンピュータを扱い始めてからの1963年には約700社に達した。収入は1950年からの10年で74倍[90]になった。新社屋の1階には教室が置かれ、統計会計機を採用した企業の社員[91]を1日6時間・3週間半で講習した。1952年までの修了者は557名[93]にのぼる。 [84][92]

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [84]再開後の需要は速く伸びた
    • [85]1950年から1957年にかけてパンチカード・システムへの引き合いが増え、日本企業の事務機械化が進んだ
    • [86]初期の事業は輸入機械の修理・米軍払い下げ機の再生・カード生産だった
    • [87]1954年に南糀谷工場で国産化を開始し080分類機を出荷した
    • [88]第一号の製品となった080分類機は、ほとんど外国製と同一の製品や部品で組まれた
    • [89]顧客数は1950年18社から1957年約200社、1963年約700社へ増えた
    • [90]1950年から1960年の10年間で収入が74倍になった
    • [91]新社屋の1階には教室が置かれ、統計会計機を採用した企業の社員を1日6時間・3週間半で講習した
    • [93]1952年までの修了者は557名にのぼる
  • 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
    • [92]新社屋1階の教室で1日6時間・3週間半の講習を行い、1952年までに557名が修了した

1953年に米国IBMが初の商用コンピュータIBM701を世に出し[94]、日本での生産にも乗り出そうとしたところ、計画は政府の壁に突き当たった。通商産業省は、日本IBMがIBMワールド・トレード社の100%子会社であることを理由に、現地生産の認可すなわち技術導入申請の認可を渋った[95]。基本的な産業政策にかかわる問題だという判[96]断である。一方で国内のコンピュータ・メーカーは、IBMが日本で持つ特許の壁にぶつかり、商品としての生産が困難な状態[97]にあった。通産省はIBMの技術を国内メーカーへ公開させる必要[98]を認める。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [94]1953年に米国IBMが初の商用コンピュータIBM701を発表した
    • [95]通産省は100%子会社であることを理由に技術導入申請の認可を渋った
    • [96]基本的な産業政策にかかわる問題だという判断である
    • [97]国内メーカーはIBMの特許の壁でコンピュータの商品生産が困難だった
    • [98]通産省はIBMの技術を国内メーカーへ公開させる必要を認める

通産省が日本IBMへの技術援助契約を認可する条件として出した[99]のが、日本メーカーへの特許公開だった。1960年夏、通産省とIBMワールド・トレード社、日本IBMの三者[100]はこの懸案を一括して解決することで合意する。日本IBMは合意の2年後にあたる1963年から、千鳥町工場でIBM1440の現地生産を始めた[101]。国内メーカーが得たのは製造特許権にとどまり[102]、製造やサービスのノウハウは含まれていない。これに対して日本IBMへの技術援助契約にはコンピュータの製造・サービス全般に関する特許とノウハウが含まれており[103]、この差が1960年代の急成長を支えた。1968年の国内シェアは33.6%で首位を占めた[104]が、国産各社の育成策が進んだ1970年には31.9%へ下がった。現地生産に先立ち、千鳥町工場は1961年5月に拡張とレイアウトの全面変更[105]を行った。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [99]通産省が日本IBMへの技術援助契約を認可する条件として出したのが、日本メーカーへの特許公開だった
    • [100]1960年夏に通産省・IBMワールド・トレード社・日本IBMの三者が一括合意した
    • [101]1963年から千鳥町工場でIBM1440の現地生産を開始した
    • [102]国内メーカーが得たのは製造特許権のみでノウハウは含まれなかった
    • [103]日本IBMの技術援助契約には製造・サービス全般の特許とノウハウが含まれた
    • [104]国内シェアは1968年33.6%から1970年31.9%へ低下した
  • 荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利(荷役研究所)
    • [105]千鳥町工場は1961年5月に拡張しレイアウトを全面変更した
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [84]再開後の需要は速く伸びた
    • [85]1950年から1957年にかけてパンチカード・システムへの引き合いが増え、日本企業の事務機械化が進んだ
    • [86]初期の事業は輸入機械の修理・米軍払い下げ機の再生・カード生産だった
    • [87]1954年に南糀谷工場で国産化を開始し080分類機を出荷した
    • [88]第一号の製品となった080分類機は、ほとんど外国製と同一の製品や部品で組まれた
    • [89]顧客数は1950年18社から1957年約200社、1963年約700社へ増えた
    • [90]1950年から1960年の10年間で収入が74倍になった
    • [91]新社屋の1階には教室が置かれ、統計会計機を採用した企業の社員を1日6時間・3週間半で講習した
    • [93]1952年までの修了者は557名にのぼる
    • [94]1953年に米国IBMが初の商用コンピュータIBM701を発表した
    • [95]通産省は100%子会社であることを理由に技術導入申請の認可を渋った
    • [96]基本的な産業政策にかかわる問題だという判断である
    • [97]国内メーカーはIBMの特許の壁でコンピュータの商品生産が困難だった
    • [98]通産省はIBMの技術を国内メーカーへ公開させる必要を認める
    • [99]通産省が日本IBMへの技術援助契約を認可する条件として出したのが、日本メーカーへの特許公開だった
    • [100]1960年夏に通産省・IBMワールド・トレード社・日本IBMの三者が一括合意した
    • [101]1963年から千鳥町工場でIBM1440の現地生産を開始した
    • [102]国内メーカーが得たのは製造特許権のみでノウハウは含まれなかった
    • [103]日本IBMの技術援助契約には製造・サービス全般の特許とノウハウが含まれた
    • [104]国内シェアは1968年33.6%から1970年31.9%へ低下した
  • 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
    • [92]新社屋1階の教室で1日6時間・3週間半の講習を行い、1952年までに557名が修了した
  • 荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利(荷役研究所)
    • [105]千鳥町工場は1961年5月に拡張しレイアウトを全面変更した

送金の禁止が生んだ自己金融と、資本金の膨張

認可までの十数年、親会社への送金は禁じら[106]れていた。ロイヤリティの外貨送金が外資法の許可を得られなかった[107]ため、年々の税引利益は剰余金として積み立てられ、実質的な利益剰余金となって運転資金に充てられた[108]。不足分は三菱信託銀行と東京銀行からの融資[109]に頼った。資本金の源泉が国内の円貨であることを理由に、配当金の外貨送金[110]も認められなかった。日本IBMは決算処理のうえでロイヤリティと配当金の相当額をIBMワールド・トレード社への負債として貸借対照表に累積させ[111]、親会社の側も当初は機械の輸入代金の受け取りが増えることで満足していた。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [106]認可までの十数年、親会社への送金は禁じられていた
    • [107]外資法の許可を得られずロイヤリティの外貨送金ができなかった
    • [108]送金できない利益が実質的な利益剰余金となり運転資金へ充当された
    • [109]不足分は三菱信託銀行と東京銀行の融資で補った
    • [110]資本金の源泉が国内の円貨であることを理由に、配当金の外貨送金も認められなかった
    • [111]ロイヤリティと配当金相当額をIBM・WTCへの負債として累積させた

1960年2月、日本IBMは初めて株式配当の形で増資を行い、資本金は2980万円から1億1920万円へ増えた[112]。同年に技術援助契約が外資法に基づいて認可され発効すると、1961年からロイヤリティの海外送金が始まる[113]。配当金はなお送金されず、利益配当分は資本金へ繰り入[114]れられた。1963年以降は繰越利益に加えて積立金を取り崩す大幅な増資が続き、1964年末の資本金は66億7531万円に達した[115]。利益を全額自己資本へ繰り入れたため財務は自己金融で回り、1967年からは現金配当も加わって親会社への送金が実現した[116]

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [112]1960年2月の株式配当による増資で資本金が2980万円から1億1920万円になった
    • [113]1961年からロイヤリティの海外送金が始まった
    • [114]配当金はなお送金されず、利益配当分は資本金へ繰り入れられた
    • [115]1964年末の資本金は66億7531万円に達した
    • [116]1967年から株式配当に加えて現金配当が行われ送金が実現した

1958年には茨城県東海村の日本原子力研究所へ、国内で初めてとなる電子計算機650[117]を納入した。翌1959年には大和銀行と塩野義[118]製薬にも導入した。同じ年に社名を日本アイ・ビー・エム株式会社へ改め、千鳥町工場の第一期工事を終えて[119]国内の生産体制を整えた。1970年の売上高は984億円、純利益は228億円[120]で、売上高利益率は23.2%に達する。従業員は7358名[121]だった。1962年にはシステムズ・エンジニアの職種を設け、1964年[122]の東京五輪では競技結果の集計に協力した。1967年には神奈川県に藤沢工場が[123]完成した。

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [117]1958年に日本原子力研究所へ国内初の電子計算機650を納入した
    • [118]翌1959年には大和銀行と塩野義製薬にも導入した
    • [121]1970年の従業員は7358名だった
    • [122]1962年にはシステムズ・エンジニアの職種を設け、1964年の東京五輪では競技結果の集計に協力した
    • [123]1967年には神奈川県に藤沢工場が完成した
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [119]1959年に社名を日本アイ・ビー・エムへ変更し千鳥町工場が竣工した
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [120]1970年の売上高984億円・純利益228億円・売上高利益率23.2%だった
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [106]認可までの十数年、親会社への送金は禁じられていた
    • [107]外資法の許可を得られずロイヤリティの外貨送金ができなかった
    • [108]送金できない利益が実質的な利益剰余金となり運転資金へ充当された
    • [109]不足分は三菱信託銀行と東京銀行の融資で補った
    • [110]資本金の源泉が国内の円貨であることを理由に、配当金の外貨送金も認められなかった
    • [111]ロイヤリティと配当金相当額をIBM・WTCへの負債として累積させた
    • [112]1960年2月の株式配当による増資で資本金が2980万円から1億1920万円になった
    • [113]1961年からロイヤリティの海外送金が始まった
    • [114]配当金はなお送金されず、利益配当分は資本金へ繰り入れられた
    • [115]1964年末の資本金は66億7531万円に達した
    • [116]1967年から株式配当に加えて現金配当が行われ送金が実現した
    • [120]1970年の売上高984億円・純利益228億円・売上高利益率23.2%だった
  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [117]1958年に日本原子力研究所へ国内初の電子計算機650を納入した
    • [118]翌1959年には大和銀行と塩野義製薬にも導入した
    • [121]1970年の従業員は7358名だった
    • [122]1962年にはシステムズ・エンジニアの職種を設け、1964年の東京五輪では競技結果の集計に協力した
    • [123]1967年には神奈川県に藤沢工場が完成した
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [119]1959年に社名を日本アイ・ビー・エムへ変更し千鳥町工場が竣工した

1971年〜 国産勢の逆転と日本化路線、売上高一兆円までの二十年(1971〜1992)

日本アイ・ビー・エムの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1973年 貸借対照表を初めて社外に公表
  2. 1975年 外資の現地法人を「日本の企業」として売る日本化路線 国産勢に抜かれつつあった日本IBMで、椎名武雄社長は何を日本の側へ寄せたのか
  3. 1979年 富士通が売上高で日本IBMを抜き国内首位に
  4. 1982年 IBM特約店制度の発足
  5. 1983年 マルチステーション5550の発表
  6. 1987年 売上高が1兆円を突破
  7. 1992年 本体と情報サービス・サービスの3分社化を発表

値引きが削った利益率と、富士通による売上高の逆転

1971年7月、IBMは周辺装置の貸借方式の変更を発表[124]し、日本IBMも米国とカナダに続いてこの方式を採った。一定期間使用方式と呼ばれ、顧客が12カ月の契約使用期間を選べば従来の月額料金より約8%、24カ月なら約16%安い料金[125]で使える。周辺装置をめぐる競争が激しくなったことに加え、この値引きと価[126]格の引き下げが利益率を押し下げた。1975年の売上高は2455億円まで増えたにもかかわらず、純利益は237億円にとどまり[127]、売上高利益率は9.7%へ落ちた。1970年の23.2%から5年で半分以下[128]になった。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [124]1971年7月にIBMが周辺装置の貸借方式変更を発表し日本IBMも追随した
    • [125]12カ月契約で約8%、24カ月で約16%の値引きとなる方式だった
    • [126]周辺装置をめぐる競争が激しくなったことに加え、この値引きと価格の引き下げが利益率を押し下げた
    • [127]1975年の売上高2455億円・純利益237億円・売上高利益率9.7%だった
    • [128]1970年の23.2%から5年で半分以下になった

国産メーカーの成長は政府の保護政策に支えら[129]れていた。1961年に設立された日本電子計算機は政府資金の融資を受け[130]、国産メーカーのリース資金の負担を肩代わりする役割を果たした。1971年まで続いた輸入と資本の規制は、1972年のコンピュータの一部輸入自由化[131]を経て緩む。1974年には技術導入の自由化に続いて関連産業への輸入自由化と資本の100%自由化が実施され[132]、1976年にはソフトウェアの自由化が行われた。政府は同時に国産各社の再編と補助金による[133]育成に力を入れた。1970年から1974年にかけて市場そのものは急速に広がり、[134]国産メーカーの成長によって競争は激しさを増した。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [129]国産メーカーの成長は政府の保護政策に支えられていた
    • [130]1961年設立の日本電子計算機が政府資金で国産機のリース資金を肩代わりした
    • [131]1972年にコンピュータの一部輸入自由化が打ち出された
    • [132]1974年に技術導入と資本の100%自由化、1976年にソフトウェアの自由化が実施された
    • [133]政府は同時に国産各社の再編と補助金による育成に力を入れた
    • [134]1970年から1974年にかけて市場そのものは急速に広がり、国産メーカーの成長によって競争は激しさを増した

1970年代の汎用コンピュータの国内シェアは、日本IBMを先[135]頭に富士通・日立・NECが続く並びだった。日本IBMのシェアは1970年代はじめの33%を頂点として下がり[136]、1979年にはそれまで2位だった富士通が売上高で日本IBMを抜いて首位に立つ[137]。設置金額のシェアで富士通が首位となるのは1985[138]年である。1973年、日本IBMは貸借対照表を初めて社外に公表[139]した。それまではIBMワールド・トレード社との連結決算を行っていた[140]ため決算書を公表していなかったが、商法上の公告義務と経理公開を求める社会的な要請が背景にあった。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [135]1970年代の汎用コンピュータの国内シェアは、日本IBMを先頭に富士通・日立・NECが続く並びだった
    • [136]日本IBMの国内シェアは1970年代はじめの33%を頂点に低下した
    • [137]1979年に富士通が売上高で日本IBMを抜き、1985年に設置金額でも首位となった
    • [138]設置金額のシェアで富士通が首位となるのは1985年である
    • [139]1973年に貸借対照表を初めて社外公表した
    • [140]それまではIBMワールド・トレード社との連結決算を行っていたため決算書を公表していなかったが、商法上の公告義務と経理公開を求める社会的な要請
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [124]1971年7月にIBMが周辺装置の貸借方式変更を発表し日本IBMも追随した
    • [125]12カ月契約で約8%、24カ月で約16%の値引きとなる方式だった
    • [126]周辺装置をめぐる競争が激しくなったことに加え、この値引きと価格の引き下げが利益率を押し下げた
    • [127]1975年の売上高2455億円・純利益237億円・売上高利益率9.7%だった
    • [128]1970年の23.2%から5年で半分以下になった
    • [129]国産メーカーの成長は政府の保護政策に支えられていた
    • [130]1961年設立の日本電子計算機が政府資金で国産機のリース資金を肩代わりした
    • [131]1972年にコンピュータの一部輸入自由化が打ち出された
    • [132]1974年に技術導入と資本の100%自由化、1976年にソフトウェアの自由化が実施された
    • [133]政府は同時に国産各社の再編と補助金による育成に力を入れた
    • [134]1970年から1974年にかけて市場そのものは急速に広がり、国産メーカーの成長によって競争は激しさを増した
    • [135]1970年代の汎用コンピュータの国内シェアは、日本IBMを先頭に富士通・日立・NECが続く並びだった
    • [136]日本IBMの国内シェアは1970年代はじめの33%を頂点に低下した
    • [137]1979年に富士通が売上高で日本IBMを抜き、1985年に設置金額でも首位となった
    • [138]設置金額のシェアで富士通が首位となるのは1985年である
    • [139]1973年に貸借対照表を初めて社外公表した
    • [140]それまではIBMワールド・トレード社との連結決算を行っていたため決算書を公表していなかったが、商法上の公告義務と経理公開を求める社会的な要請

日本市場に合わせた製品と、売上高一兆円への到達

1975年2月28日、椎名武雄氏が45歳[141]で社長に就いた。就任後の3年間は前任の稲垣早苗氏が会長として代表権を持ち[142][143]、椎名氏が全権を握るのは1978年からである。椎名氏は日本市場に合う製品とサービスを通じて日本の企業として[144]認められることを目標に掲げた。コンピュータの大衆化に対応するため、日本IBMは特約店制度の[145]導入と製品開発、子会社・関連会社の設立を進める。1982年にIBM特約店制度を発足させ[146]、1979年には漢字情報システム[147]、1980年には日本語文書処理システムと3380磁気ディスク装置を発表した。1977年には製品セ[148]ンターを開設した。椎名氏は慶應義塾大学工学部を出たのち米国バックネル大学へ再入学し、1953年に入社[149]して千鳥町工場長・営業担当副社長を経ていた。就任翌年の取材では、その国の経営をその国の人間に任せるのがIBMの60年来の伝統だと述べている[150]

  • 週刊東洋経済 2015年5月8日号
    • [141]1975年2月に椎名武雄氏が45歳で社長へ就任した
    • [142]就任後3年間は稲垣早苗氏が会長として代表権を持った
    • [144]椎名氏は日本市場に合う製品とサービスを通じて日本の企業として認められることを目標に掲げた
    • [145]コンピュータの大衆化に対応するため、日本IBMは特約店制度の導入と製品開発、子会社・関連会社の設立を進める
    • [148]1977年には製品センターを開設した
  • 社史插話:日本アイ・ビー・エム『献身の譜』(日本アイ・ビー・エム、1981年)
    • [143]椎名武雄氏の社長就任は1975年2月28日、前任の稲垣早苗氏は13年の在任を経て代表権のある会長となった
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [146]1982年にIBM特約店制度を発足させた
    • [147]1979年に漢字情報システム、1980年に日本語文書処理システムを発表した
  • 日経ビジネス 1975年7月21日号「人間中心経営に国境なし。椎名武雄氏(日本アイ・ビー・エム社長)が語るIBMイズム」
    • [149]椎名氏は慶應義塾大学工学部から米バックネル大学を経て1953年に入社し、千鳥町工場長・営業担当副社長を経て社長となった
    • [150]その国の経営をその国の人間に任せるのがIBMの60年来の伝統だと椎名社長が述べた

製品も日本語を前提に作られた。1983年に発表したマルチステーション5550は日本語処理を組み込んだ機種[152]で、同じ年にはシステム/36も発表した。1985年には神奈川県に大和研究所を完成させ[153]、開発拠点としての性格を強めた。1987年にはパーソナルシステム/55と日本IBM科学賞を、[154]1988年には点字翻訳ネットワークのてんやく広場とAS/400を、1990年にはRISCシステム/6000とシステム/390を発表した。1992年にはIBMプロフェッショナル専門職制度[155]を設け、同じ年にThinkPadシリーズを送り出した。 [151]

  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [151]製品も日本語を前提に作られた
    • [152]1983年にマルチステーション5550とシステム/36を発表した
    • [153]1985年に大和研究所が完成した
    • [154]1987年にはパーソナルシステム/55と日本IBM科学賞を、1988年には点字翻訳ネットワークのてんやく広場とAS/400を、1990年には
    • [155]1992年にIBMプロフェッショナル専門職制度を発足しThinkPadを発表した

業績は1980年代を通じ[156]て伸びた。1981年から1986年にかけて売上は二桁の伸びを続け、大型[157]機種を中心とする買取需要と、米国向けを中心とした製造用部品の輸出が支えた。1987年の売上高は1兆606億円、税引後利益は742億円、従業員は2万210名[158]で、売上高で1兆円企業となった。1981年と1990年を比べると売上高は3倍、税引利益は2倍[159]である。総資本経常利益率は1988年に29.5%へ達し[160]、同年の富士通・日立製作所・NECのいずれをも大きく上回った。1989年は25.3%、1990年は19.6[161]%である。製造の評価も高かった。IBMグループが世界に持つ40余りの工場のうち、藤沢工場と野洲工場は品質と製造技術で常に上位5位以内[163]に入るとされ、藤沢工場に86あった小集団活動のエクセル・サークル[164]は、その成果が米国の研究所を通じて欧米各国の工場へ伝えられた。 [162]

  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [156]業績は1980年代を通じて伸びた
    • [157]1981年から1986年にかけて売上は二桁の伸びを続け、大型機種を中心とする買取需要と、米国向けを中心とした製造用部品の輸出が支えた
    • [158]1987年の売上高1兆606億円・税引後利益742億円・従業員2万210名だった
    • [161]1989年は25.3%、1990年は19.6%である
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [159]1981年から1990年で売上高3倍・税引利益2倍となった
    • [160]1988年の総資本経常利益率29.5%は国内メーカーを上回った
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「“日本”を売り込む日本IBM」
    • [162]IBMグループは世界に40余りの製造工場を持ち、日本の2工場は品質評価が高かった
    • [163]藤沢工場と野洲工場はIBMの世界40余工場のうち品質・製造技術で常に上位5位以内とされた
    • [164]藤沢工場の小集団活動エクセル・サークルは86あり、成果は欧米各国の工場へ伝えられた
  • 週刊東洋経済 2015年5月8日号
    • [141]1975年2月に椎名武雄氏が45歳で社長へ就任した
    • [142]就任後3年間は稲垣早苗氏が会長として代表権を持った
    • [144]椎名氏は日本市場に合う製品とサービスを通じて日本の企業として認められることを目標に掲げた
    • [145]コンピュータの大衆化に対応するため、日本IBMは特約店制度の導入と製品開発、子会社・関連会社の設立を進める
    • [148]1977年には製品センターを開設した
  • 社史插話:日本アイ・ビー・エム『献身の譜』(日本アイ・ビー・エム、1981年)
    • [143]椎名武雄氏の社長就任は1975年2月28日、前任の稲垣早苗氏は13年の在任を経て代表権のある会長となった
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [146]1982年にIBM特約店制度を発足させた
    • [147]1979年に漢字情報システム、1980年に日本語文書処理システムを発表した
    • [151]製品も日本語を前提に作られた
    • [152]1983年にマルチステーション5550とシステム/36を発表した
    • [153]1985年に大和研究所が完成した
    • [154]1987年にはパーソナルシステム/55と日本IBM科学賞を、1988年には点字翻訳ネットワークのてんやく広場とAS/400を、1990年には
    • [155]1992年にIBMプロフェッショナル専門職制度を発足しThinkPadを発表した
  • 日経ビジネス 1975年7月21日号「人間中心経営に国境なし。椎名武雄氏(日本アイ・ビー・エム社長)が語るIBMイズム」
    • [149]椎名氏は慶應義塾大学工学部から米バックネル大学を経て1953年に入社し、千鳥町工場長・営業担当副社長を経て社長となった
    • [150]その国の経営をその国の人間に任せるのがIBMの60年来の伝統だと椎名社長が述べた
  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
    • [156]業績は1980年代を通じて伸びた
    • [157]1981年から1986年にかけて売上は二桁の伸びを続け、大型機種を中心とする買取需要と、米国向けを中心とした製造用部品の輸出が支えた
    • [158]1987年の売上高1兆606億円・税引後利益742億円・従業員2万210名だった
    • [161]1989年は25.3%、1990年は19.6%である
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [159]1981年から1990年で売上高3倍・税引利益2倍となった
    • [160]1988年の総資本経常利益率29.5%は国内メーカーを上回った
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「“日本”を売り込む日本IBM」
    • [162]IBMグループは世界に40余りの製造工場を持ち、日本の2工場は品質評価が高かった
    • [163]藤沢工場と野洲工場はIBMの世界40余工場のうち品質・製造技術で常に上位5位以内とされた
    • [164]藤沢工場の小集団活動エクセル・サークルは86あり、成果は欧米各国の工場へ伝えられた

親会社への送金が残した薄い利益剰余金と、三分社化

収益力の高さは利益剰余金に結びつか[165]なかった。1987年12月期は税引利益742億円に対して594億円がIBMへ配当として支払われ[166]、配当性向は80%に達する。1991年は税引利益564億円に対して配当が625億円で配当性向は90%、1998年には税引利益390億円に対して配当730億円で187%に上った[167]。売上高の約1割と推定されるロイヤリティも別に支払われており、1987年は669億円、1990年は969億円、1998年は1173億円と見積もられる[168]。1991年以降は税引利益や配当金を上回るロイヤリティの支払額[169]になったとみられる。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [165]収益力の高さは利益剰余金に結びつかなかった
    • [166]1987年12月期は税引利益742億円に対し配当594億円で配当性向80%だった
    • [167]1998年は税引利益390億円に対し配当730億円で配当性向187%だった
    • [168]ロイヤリティは売上高の約1割で1990年は969億円と推定される
    • [169]1991年以降は税引利益や配当金を上回るロイヤリティの支払額になったとみられる

利益剰余金の水準は国内の競合と比べ[170]て小さい。1988年の日本IBMの利益剰余金は1761億円で、同じ年の富士通6581億円、東芝5212億円、日立製作所1兆8382億円[171]とは桁が違う。1993年には富士通8793億円、東芝8754億円、日立2兆6692億円へ増えた一方、日本IBMは純損失を計上して1721億円へ減らした[172]。総合的な収益力では国内メーカーを上回りながら利益剰余金が積み上がらなかったのは、親会社への高いロイヤリティと配当の支払いが利益を吸い上げたためである[173]。1996年に2203億円まで戻した利益剰余金は、1997年に[174]1782億円、1998年には1447億円へ減った。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [170]利益剰余金の水準は国内の競合と比べて小さい
    • [171]1988年の利益剰余金は日本IBM1761億円に対し日立は1兆8382億円だった
    • [172]1993年に純損失を計上し利益剰余金は1721億円へ減った
    • [173]利益剰余金が積み上がらなかった理由は親会社への配当とロイヤリティにある
    • [174]1996年に2203億円まで戻した利益剰余金は、1997年に1782億円、1998年には1447億円へ減った

1990年代に入ると売上高と税引利益がとも[175]に減った。1992年10月、日本IBMは本体と情報サービス、サービスの3社への分社[176]を発表する。競争力の強化と顧客ニーズへの迅速な対応、市場に焦点を絞った自[177]立経営が理由に挙げられた。分社計画の発表時の社員数は本体1万5500名、情報サービス2700名、サービス4500名、出向1300名の合計2万4000名[178]である。同年11月にはセカンドキャリア支援プログラムを設け、早期定年退職の有資格者へ年齢に応じて月額給与の3カ月から18カ月分を支給した[179]。1993年6月末までの退職者は1632名[180]に達した。当時会長だった椎名氏は、構造変革には3年ほど前から着手しており分社もその一環であるとしたうえで、リストラクチャリングは他社より多少進んでいるとしてもまだ緒についたところだと語った[181]

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [175]1990年代に入ると売上高と税引利益がともに減った
    • [176]1992年10月に本体・情報サービス・サービスの3分社化を発表した
    • [177]競争力の強化と顧客ニーズへの迅速な対応、市場に焦点を絞った自立経営が理由に挙げられた
    • [178]分社計画発表時の社員数は合計2万4000名だった
    • [179]早期退職者へ月額給与の3〜18カ月分を支給した
    • [180]1993年6月末までの退職者は1632名に達した
  • 日経ビジネス 1993年5月3日号「崩れ始めた自己制御の仕組み 暴走防ぐ社内憲法が必要」
    • [181]椎名会長は構造変革に3年ほど前から着手し分社もその一環と説明、リストラはまだ緒についたところと述べた
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [165]収益力の高さは利益剰余金に結びつかなかった
    • [166]1987年12月期は税引利益742億円に対し配当594億円で配当性向80%だった
    • [167]1998年は税引利益390億円に対し配当730億円で配当性向187%だった
    • [168]ロイヤリティは売上高の約1割で1990年は969億円と推定される
    • [169]1991年以降は税引利益や配当金を上回るロイヤリティの支払額になったとみられる
    • [170]利益剰余金の水準は国内の競合と比べて小さい
    • [171]1988年の利益剰余金は日本IBM1761億円に対し日立は1兆8382億円だった
    • [172]1993年に純損失を計上し利益剰余金は1721億円へ減った
    • [173]利益剰余金が積み上がらなかった理由は親会社への配当とロイヤリティにある
    • [174]1996年に2203億円まで戻した利益剰余金は、1997年に1782億円、1998年には1447億円へ減った
    • [175]1990年代に入ると売上高と税引利益がともに減った
    • [176]1992年10月に本体・情報サービス・サービスの3分社化を発表した
    • [177]競争力の強化と顧客ニーズへの迅速な対応、市場に焦点を絞った自立経営が理由に挙げられた
    • [178]分社計画発表時の社員数は合計2万4000名だった
    • [179]早期退職者へ月額給与の3〜18カ月分を支給した
    • [180]1993年6月末までの退職者は1632名に達した
  • 日経ビジネス 1993年5月3日号「崩れ始めた自己制御の仕組み 暴走防ぐ社内憲法が必要」
    • [181]椎名会長は構造変革に3年ほど前から着手し分社もその一環と説明、リストラはまだ緒についたところと述べた

1993年〜 初の赤字決算からサービス業への転換、事業を切り離した三十年(1993〜2026)

日本アイ・ビー・エムの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1993年 北城恪太郎氏が社長に就任
  2. 1993年 初の赤字決算と、三次にわたるリストラクチャリング 分社してから再統合するまでの三年間で、日本IBMは何を捨て、どこへ人を動かしたのか
  3. 1995年 分社した3社の再統合
  4. 2001年 売上高が過去最高の1兆7075億円に到達
  5. 2005年 パソコン事業のレノボへの売却
  6. 2007年 IBMアジア・パシフィックから分離し米本社の直属に移行
  7. 2012年 56年ぶりの外国人社長としてマーティン・イェッター氏が就任

初の赤字決算と、三次にわたる人員の削減と再配置

1993年1月、椎名氏の後任として北城恪太郎[182]が社長に就いた。同年12月期は純損失184億円を計上し、初の赤字決算[183]となる。早期退職に応じた約3100名への上積み退職金など約490億円を特別損失として計上[184]した結果であり、この特別損失がなければ101億円の税引利益が出ていた[185]。北城社長は50歳以上の社員の転身支援、仕事の進め方を変えるこ[186]とによる在庫の5割削減、物流費の3割削減を打ち出し、そのほとんどを1993年度中に実施した。人員は1992年12月から1995年12月までの3年間で4256名減った[187]。掲げた3つの目標は1994年初めにビジョン21としてまとめられ[188]、削減目標には在庫の5割と物流費の3割に加えて事務所費用の4分の1が並んだ。

  • 週刊東洋経済 1997年11月15日号
    • [182]1993年1月に北城恪太郎氏が社長へ就任した
    • [186]北城社長は50歳以上の社員の転身支援、仕事の進め方を変えることによる在庫の5割削減、物流費の3割削減を打ち出し、そのほとんどを1993年度中
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [183]1993年12月期は純損失184億円で初の赤字決算となった
    • [184]約3100名への上積み退職金など約490億円を特別損失に計上した
    • [185]特別損失を除けば101億円の税引利益が出ていた
    • [187]1992年12月から1995年12月までに4256名減った
  • 日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」
    • [188]北城社長の3つの目標は1994年初めに「ビジョン21」としてまとめられ、事務所費用4分の1削減も掲げられた

リストラクチャリングは3次[189]に及んだ。第2次では生産部門の海外移管を含む約2506名の再配置を行い、システムインテグレーションとソリューションソフトウェアの開発へ1500名[190]を振り向けた。事務所経費25%、物流経費30%、在庫50%といった経費削減の目標[191]も掲げられた。1994年1月にはスペシャリスト制度を導入し、3月からは専門[192]職年俸制度を始めた。第3次では間接部門から1000名を配置転換し、47歳以上の社員が50歳で退職することを条件に、それまでをキャリアプラン休職と認める制度[193]を設けて実質的な定年年齢の引き下げを図った。1995年1月には分社した[194]3社を再統合した。

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [189]リストラクチャリングは3次に及んだ
    • [190]第2次リストラで約2506名を再配置し1500名をSI・ソフト開発へ移した
    • [191]事務所経費25%・物流経費30%・在庫50%の削減目標を掲げた
    • [192]1994年1月にはスペシャリスト制度を導入し、3月からは専門職年俸制度を始めた
    • [193]47歳以上が50歳退職を条件にキャリアプラン休職を認める制度で定年年齢を実質引き下げた
    • [194]1995年1月に分社した3社を再統合した

転換の方向はサービスだった。米IBMは1996年にサービス事業を独立した事業部門として切り離し[196]、IBMグローバル・サービスを設立する。北城社長は就任時に、顧客サービスの向上、自由闊達な会社をつくること、業界の変革をリードする会社であることの3点[197]を目標に掲げた。社員の査定と業績評価には顧客が満足したかどうかの項目を入れ[198]、毎月の顧客満足度向上委員会には一度も欠席しなかったと後年語った。組織は硬直化を避けるため毎年1月に大きく変え、営業部門の決裁は部長・事業部長・社長の3名で足りる形へ改めた[199]。一方で1995年1月には営業体制を米IBMとアジア太平洋統括会社に合わせて業種別の12事業部へ細分化し、日本市場だけに向いていた日本化路線を軌道修正した[200][195]

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [195]転換の方向はサービスだった
    • [196]米IBMは1996年にIBMグローバル・サービスを設立した
  • 週刊東洋経済 1997年11月15日号
    • [197]北城社長は顧客サービス向上・自由闊達な会社・業界の変革の3点を目標に掲げた
    • [198]社員の査定に顧客満足度の項目を組み込んだ
    • [199]営業部門の決裁を部長・事業部長・社長の3名に絞った
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」
    • [200]1995年1月に営業体制を業種別12事業部へ細分化し、日本化路線を軌道修正した
  • 週刊東洋経済 1997年11月15日号
    • [182]1993年1月に北城恪太郎氏が社長へ就任した
    • [186]北城社長は50歳以上の社員の転身支援、仕事の進め方を変えることによる在庫の5割削減、物流費の3割削減を打ち出し、そのほとんどを1993年度中
    • [197]北城社長は顧客サービス向上・自由闊達な会社・業界の変革の3点を目標に掲げた
    • [198]社員の査定に顧客満足度の項目を組み込んだ
    • [199]営業部門の決裁を部長・事業部長・社長の3名に絞った
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [183]1993年12月期は純損失184億円で初の赤字決算となった
    • [184]約3100名への上積み退職金など約490億円を特別損失に計上した
    • [185]特別損失を除けば101億円の税引利益が出ていた
    • [187]1992年12月から1995年12月までに4256名減った
    • [189]リストラクチャリングは3次に及んだ
    • [190]第2次リストラで約2506名を再配置し1500名をSI・ソフト開発へ移した
    • [191]事務所経費25%・物流経費30%・在庫50%の削減目標を掲げた
    • [192]1994年1月にはスペシャリスト制度を導入し、3月からは専門職年俸制度を始めた
    • [193]47歳以上が50歳退職を条件にキャリアプラン休職を認める制度で定年年齢を実質引き下げた
    • [194]1995年1月に分社した3社を再統合した
    • [195]転換の方向はサービスだった
    • [196]米IBMは1996年にIBMグローバル・サービスを設立した
  • 日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」
    • [188]北城社長の3つの目標は1994年初めに「ビジョン21」としてまとめられ、事務所費用4分の1削減も掲げられた
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」
    • [200]1995年1月に営業体制を業種別12事業部へ細分化し、日本化路線を軌道修正した

機械を売る会社から仕組みを預かる会社へ、二〇〇一年の頂点

情報システム以外の事業には手を出さない方針も明[201]確だった。新聞の製作システムは作っても新聞そのものは手がけず[202]、銀行向けのシステムを構築しても決済業務には入らない。顧客のビジネスに割り込めば後々の損になるという判断で、北城社[203]長はこの点を国内の競合他社との違いとして挙げた。1994年12月期には増収増益に戻り[204]、以後は赤字に陥っていない。1997年12月期は4期連続の増収増益となり、純利益は687億円[205]に達した。1999年2月には外資系企業の申告所得ランキングで首位に返り[206]咲いた。1998年12月期には3000社から6000億円分を購買し、発行した伝票は40万枚[207]に上った。伝票1枚あたり約1000円の発行費用[208]を減らすため、電子商取引による調達へ切り替えた。

  • 週刊東洋経済 1997年11月15日号
    • [201]情報システム以外の事業には手を出さない方針も明確だった
    • [202]情報システム以外の事業には参入しない方針をとった
    • [203]顧客のビジネスに割り込めば後々の損になるという判断で、北城社長はこの点を国内の競合他社との違いとして挙げた
    • [206]1999年2月には外資系企業の申告所得ランキングで首位に返り咲いた
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [204]1994年12月期に増収増益へ戻り以後赤字はない
    • [205]1997年12月期は4期連続の増収増益で純利益687億円だった
  • 週刊東洋経済 1999年5月29日号
    • [207]1998年12月期は3000社から6000億円分を購買し伝票40万枚を発行、1枚あたり約1000円の費用がかかっていた
    • [208]伝票1枚あたり約1000円の発行費用を削るため電子商取引による調達へ切り替えた

1999年12月、大歳卓麻[209]が社長に就いた。北城氏はIBMアジア・パシフィックの責任者を兼ねる会長へ移り、IBM本社のルイス・ガースナー会長の強い希望による人事だと伝えられた[210]。就任から6年目での交代はIBMの人事慣例では任期の途中にあた[211]り、社内外の予想を外した。2001年12月期の売上高は1兆7075億円で過去最高となり、国内分は前期比9.7%増の1兆4608億円[212]だった。サービスの売上高は全体の5割を超え[213]、アウトソーシングは60%増えた。営業利益は1809億円で、同じ年に3800億円の最終赤字を見[214]込んでいた富士通とは対照的だった。

  • 週刊東洋経済 1999年12月4日号
    • [209]1999年12月に大歳卓麻氏が社長へ就任した
    • [210]北城氏の会長就任はガースナー会長の希望による人事と伝えられた
    • [211]就任から6年目での交代はIBMの人事慣例では任期の途中にあたり、社内外の予想を外した
    • [214]営業利益は1809億円で、同じ年に3800億円の最終赤字を見込んでいた富士通とは対照的だった
  • 週刊東洋経済 2002年3月9日号
    • [212]2001年12月期の売上高1兆7075億円は過去最高で国内分は9.7%増だった
    • [213]サービスの売上高が全体の5割を超えアウトソーシングは60%増えた

頂点は2001年だった。IBMは2004年12月にパソコン事業を中国のレノボへ売却する契約[216]を結び、2005年に手放した。日本IBMの売上高は2001年の1兆7075億円から縮み、2010年には9377億円になった[217]。2005年には社員による不正会計が発覚して米IBMが2004年決算の修正を迫られ[218]、以後は本社から次々に人材が送り込まれて独立色が薄れた。2007年にはIBMアジア・パシフィックから分離[219]し、米本社へ直接業務を報告する体制へ移った。2014年にはSystem xサーバー事業をレノボ・エンター[220]プライズ・ソリューションズへ譲渡した。 [215]

  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [215]頂点は2001年だった
    • [216]2004年12月にパソコン事業のレノボ売却契約を結び2005年に売却した
    • [220]2014年にはSystem xサーバー事業をレノボ・エンタープライズ・ソリューションズへ譲渡した
  • 週刊東洋経済 2012年4月6日号
    • [217]売上高は2001年1兆7075億円から2010年9377億円へ縮んだ
    • [218]2005年の不正会計発覚で米IBMは2004年決算の修正を余儀なくされた
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [219]2007年にIBM APから分離し米本社直属となった
  • 週刊東洋経済 1997年11月15日号
    • [201]情報システム以外の事業には手を出さない方針も明確だった
    • [202]情報システム以外の事業には参入しない方針をとった
    • [203]顧客のビジネスに割り込めば後々の損になるという判断で、北城社長はこの点を国内の競合他社との違いとして挙げた
    • [206]1999年2月には外資系企業の申告所得ランキングで首位に返り咲いた
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
    • [204]1994年12月期に増収増益へ戻り以後赤字はない
    • [205]1997年12月期は4期連続の増収増益で純利益687億円だった
    • [215]頂点は2001年だった
    • [216]2004年12月にパソコン事業のレノボ売却契約を結び2005年に売却した
    • [220]2014年にはSystem xサーバー事業をレノボ・エンタープライズ・ソリューションズへ譲渡した
  • 週刊東洋経済 1999年5月29日号
    • [207]1998年12月期は3000社から6000億円分を購買し伝票40万枚を発行、1枚あたり約1000円の費用がかかっていた
    • [208]伝票1枚あたり約1000円の発行費用を削るため電子商取引による調達へ切り替えた
  • 週刊東洋経済 1999年12月4日号
    • [209]1999年12月に大歳卓麻氏が社長へ就任した
    • [210]北城氏の会長就任はガースナー会長の希望による人事と伝えられた
    • [211]就任から6年目での交代はIBMの人事慣例では任期の途中にあたり、社内外の予想を外した
    • [214]営業利益は1809億円で、同じ年に3800億円の最終赤字を見込んでいた富士通とは対照的だった
  • 週刊東洋経済 2002年3月9日号
    • [212]2001年12月期の売上高1兆7075億円は過去最高で国内分は9.7%増だった
    • [213]サービスの売上高が全体の5割を超えアウトソーシングは60%増えた
  • 週刊東洋経済 2012年4月6日号
    • [217]売上高は2001年1兆7075億円から2010年9377億円へ縮んだ
    • [218]2005年の不正会計発覚で米IBMは2004年決算の修正を余儀なくされた
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [219]2007年にIBM APから分離し米本社直属となった

事業の切り離しと社長交代、開発をめぐる訴訟

経営者の顔ぶれも変わった。2009年1月に橋本孝之氏が社長に就き[222]、2012年5月15日には代表権のない会長へ退いて、米IBMから派遣されたマーティン・イェッター氏が社長となる。外国人の起用は1956年以来56年ぶりだった。2015年1月にはグループ生え抜きではないポール与那嶺氏が、2019年5月には7年ぶりの日本人生え抜きとして山口明夫氏が社長に就いた[224]。2026年8月には46歳の村田将輝[225]が引き継ぎ、山口氏は代表権のある会長へ移った。2021年にはマネージド・インフラストラクチャー・サービス事業をキンドリルとして分社[226]した。 [221][223]

  • 週刊東洋経済 2009年5月2日号
    • [221]経営者の顔ぶれも変わった
    • [222]2009年1月に橋本孝之氏が社長へ就任した
  • 週刊東洋経済 2012年4月6日号
    • [223]2012年5月15日にマーティン・イェッター氏が社長となり外国人起用は56年ぶりだった
  • 週刊東洋経済 2019年9月28日号
    • [224]2019年5月に山口明夫氏が7年ぶりの生え抜き社長となった
  • 日本経済新聞 2026年7月27日
    • [225]2026年8月に村田将輝氏が社長、山口氏が代表取締役会長となった
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [226]2021年にインフラ事業をキンドリルとして分社した

受注したシステムの開発をめぐる訴訟も抱[227]えている。スルガ銀行が2004年に委託した業務全般のシステム刷新は完成せず開発が中止となり、2012年3月29日に東京地方裁判所は日本IBMへ74億円の支払いを命じた[228]。海外製パッケージソフトを日本向けに手直しする手法が、日本独自の仕組みに合わなかった[229]ためである。2022年12月にNHKから受託した受信料関係の営業基幹システムでも、2024年5月に1年6カ月以上の納期延期を申し入れて契約を解除され、NHKは2025年2月3日に総額54億円の返還と損害賠償を求めて提訴した[230]。総額89億円[231]の案件だった。

  • 週刊東洋経済 2012年4月6日号
    • [227]受注したシステムの開発をめぐる訴訟も抱えている
    • [228]2012年3月29日に東京地裁がスルガ銀行の訴訟で74億円の支払いを命じた
    • [229]海外製パッケージの日本向け手直しが日本独自の仕組みに合わなかった
  • 週刊東洋経済 2025年9月27日号
    • [230]NHKは2025年2月3日に総額54億円の返還と損害賠償を求めて提訴した
    • [231]NHKの営業基幹システム刷新は総額89億円の案件だった

2025年12月期の売上高は8321億円、営業利益461億円[232]、経常利益567億円、当期純利益421億円である。資本金1053億円はIBM Japan Holdings合同会社が全額を保有し、事業所は30カ所[233]を数える。本社は2024年に日本橋箱崎町から港区虎ノ門[234]へ移った。1937年の設立時に50万円だった資本金は、戦時中の資産凍結[235]と戦後の返還、送金を禁じられた時代の自己金融を経て現在の規模になった。日本の事務機械化を先導した会社は、いまや古い技術で作られた基幹システムの更新を引き受ける側に回っている[236]

  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [232]2025年12月期の売上高8321億円・営業利益461億円・当期純利益421億円
    • [233]資本金1053億円はIBM Japan Holdings合同会社が100%保有する
    • [234]本社は2024年に日本橋箱崎町から港区虎ノ門へ移った
    • [235]1937年の設立時に50万円だった資本金は、戦時中の資産凍結と戦後の返還、送金を禁じられた時代の自己金融を経て現在の規模になった
  • 週刊東洋経済 2025年9月27日号
    • [236]古い技術で構築された基幹システムの更新を受託する立場にある
  • 週刊東洋経済 2009年5月2日号
    • [221]経営者の顔ぶれも変わった
    • [222]2009年1月に橋本孝之氏が社長へ就任した
  • 週刊東洋経済 2012年4月6日号
    • [223]2012年5月15日にマーティン・イェッター氏が社長となり外国人起用は56年ぶりだった
    • [227]受注したシステムの開発をめぐる訴訟も抱えている
    • [228]2012年3月29日に東京地裁がスルガ銀行の訴訟で74億円の支払いを命じた
    • [229]海外製パッケージの日本向け手直しが日本独自の仕組みに合わなかった
  • 週刊東洋経済 2019年9月28日号
    • [224]2019年5月に山口明夫氏が7年ぶりの生え抜き社長となった
  • 日本経済新聞 2026年7月27日
    • [225]2026年8月に村田将輝氏が社長、山口氏が代表取締役会長となった
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
    • [226]2021年にインフラ事業をキンドリルとして分社した
    • [232]2025年12月期の売上高8321億円・営業利益461億円・当期純利益421億円
    • [233]資本金1053億円はIBM Japan Holdings合同会社が100%保有する
    • [234]本社は2024年に日本橋箱崎町から港区虎ノ門へ移った
    • [235]1937年の設立時に50万円だった資本金は、戦時中の資産凍結と戦後の返還、送金を禁じられた時代の自己金融を経て現在の規模になった
  • 週刊東洋経済 2025年9月27日号
    • [230]NHKは2025年2月3日に総額54億円の返還と損害賠償を求めて提訴した
    • [231]NHKの営業基幹システム刷新は総額89億円の案件だった
    • [236]古い技術で構築された基幹システムの更新を受託する立場にある

日本アイ・ビー・エムの沿革1924〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
水品浩氏がエンディコット工場で保守技術の実習を受ける★★
森村商事がIBMの日本代理店権を獲得★★
日本陶器名古屋工場にIBM統計機第1号機を設置★★
黒澤商店へ代理店権を移管
渋沢智雄日本ワットソン統計会計機械を横浜山下町に設立★★★
渋沢智雄事務所を東京の三菱東9号館から横浜山下町へ移転
渋沢智雄横浜にカード工場を開設
水品浩開戦により社長の水品浩氏を3カ月勾留★★
水品浩敵産管理法による全資産の凍結★★
水品浩日本統計機の発足と保守業務の継承★★
チャールズ・M・デッカーGHQ指令による資産凍結の解除★★
チャールズ・M・デッカー日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズとして業務再開★★★
チャールズ・M・デッカー南糀谷工場で国産第1号の080分類機を出荷★★
水品浩日本原子力研究所へ国内初の電子計算機650を納入★★
水品浩日本アイ・ビー・エムへの商号変更と千鳥町工場の竣工★★
鈴木信治特許の公開と引き換えに国内生産の認可を得た三者合意日本市場への参入を止められた日本IBMは、なぜ最大の武器である特許を競合へ開いたのか 詳細を読む★★★
稲垣早苗千鳥町工場でIBM1440の国内生産を開始★★
稲垣早苗東京五輪の競技結果集計に協力、システム/360を発表
稲垣早苗藤沢工場の完成
稲垣早苗日本万国博覧会に参加、システム/370を発表
稲垣早苗野洲工場と六本木の本社ビルが完成
稲垣早苗貸借対照表を初めて社外に公表★★
椎名武雄外資の現地法人を「日本の企業」として売る日本化路線国産勢に抜かれつつあった日本IBMで、椎名武雄社長は何を日本の側へ寄せたのか 詳細を読む★★★
椎名武雄富士通が売上高で日本IBMを抜き国内首位に★★
椎名武雄IBM特約店制度の発足★★
椎名武雄マルチステーション5550の発表★★
椎名武雄大和研究所の完成
椎名武雄売上高が1兆円を突破★★
椎名武雄本体と情報サービス・サービスの3分社化を発表★★
北城恪太郎北城恪太郎氏が社長に就任★★
北城恪太郎初の赤字決算と、三次にわたるリストラクチャリング分社してから再統合するまでの三年間で、日本IBMは何を捨て、どこへ人を動かしたのか 詳細を読む★★★
北城恪太郎分社した3社の再統合★★
北城恪太郎長野冬季五輪の情報システムを支援
大歳卓麻大歳卓麻氏が社長に就任
大歳卓麻売上高が過去最高の1兆7075億円に到達★★
大歳卓麻パソコン事業のレノボへの売却★★★
大歳卓麻IBMアジア・パシフィックから分離し米本社の直属に移行★★
橋本孝之橋本孝之氏が社長に就任
マーティン・イェッター56年ぶりの外国人社長としてマーティン・イェッター氏が就任★★
マーティン・イェッターSystem xサーバー事業のレノボへの譲渡★★
ポール与那嶺ポール与那嶺氏が社長に就任
山口明夫山口明夫氏が社長に就任
山口明夫マネージド・インフラ事業をキンドリルとして分社化★★
山口明夫本社を日本橋箱崎町から虎ノ門へ移転
村田将輝村田将輝氏が社長に就任
出典・参考
  • 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
  • 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
  • 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)序章 創立前史
  • 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代
  • 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
  • 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
  • 荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利(荷役研究所)
  • 週刊東洋経済 2015年5月8日号
  • 社史插話:日本アイ・ビー・エム『献身の譜』(日本アイ・ビー・エム、1981年)
  • 日経ビジネス 1975年7月21日号「人間中心経営に国境なし。椎名武雄氏(日本アイ・ビー・エム社長)が語るIBMイズム」
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「“日本”を売り込む日本IBM」
  • 日経ビジネス 1993年5月3日号「崩れ始めた自己制御の仕組み 暴走防ぐ社内憲法が必要」
  • 週刊東洋経済 1997年11月15日号
  • 日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」
  • 週刊東洋経済 1999年5月29日号
  • 週刊東洋経済 1999年12月4日号
  • 週刊東洋経済 2002年3月9日号
  • 週刊東洋経済 2012年4月6日号
  • 週刊東洋経済 2009年5月2日号
  • 週刊東洋経済 2019年9月28日号
  • 日本経済新聞 2026年7月27日
  • 週刊東洋経済 2025年9月27日号

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