NTTデータグループ の歴史

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創業 1988年
母体 日本電信電話からの分離独立
創業地 東京都港区
創業 1988年5月23日、民営化直後の日本電信電話がデータ通信事業本部を切り出し、資
1988年5月23日、民営化直後の日本電信電話がデータ通信事業本部を切り出し、資本金100億円で東京都港区にエヌ・ティ・ティ・データ通信株式会社が設立された。同年6月に特別第二種電気通信事業者の登録を受け、7月1日にデータ通信事業本部の営業を譲り受けて操業を開始している。母体は1967年10月に日本電信電話公社へ置かれたデータ通信本部で、銀行決済のANSER、カード決済のCAFIS、郵便貯金や厚生年金の大型システムは、通信が自由化される前の独占のもとで築かれた資産である。1989年7月には公共・金融・産業の各システム事業本部を開設した。顧客を産業別に割る構えは、その後の事業区分の原型として残った。
決断 海外は自分で建てず、顧客基盤ごと取得することだけで広げてきた。2001年3月期に
海外は自分で建てず、顧客基盤ごと取得することだけで広げてきた。2001年3月期に売上高8,000億円で業界首位に立ったが、業界全体に占める比率は8%にとどまり、国内に伸びしろがない。そこで海外で事業を立ち上げる手立てを持たない前提から、連続買収を海外進出の唯一の手段に定めた。2007年の独itelligenceを皮切りに、Cirquent、米Keane、伊Value Team、スペインのeverisを取得し、2016年からは米Dell Servicesの事業を譲り受けた。取得先の優良顧客がそのまま加わる一方、地域ごとに法人が分かれ、国別の規模には届かない。2022年5月に親会社のNTT Ltd.を統合して規模を倍増させると、、海外セグメントの売上高は1兆398億円から1兆8,804億円へ跳ねたが、同時に引き受けた有利子負債1.7兆円が、単独で資金を調達する会社としての限界を露わにした。
現況 2025年9月、37年ぶりに親会社へ戻り、上場企業としての歴史を閉じた。最終期と
2025年9月、37年ぶりに親会社へ戻り、上場企業としての歴史を閉じた。最終期となる2025年3月期の売上高は4兆6,387億円、営業利益3,239億円、連結従業員は197,777人である。内訳は海外2兆7,509億円・セグメント利益1,002億円、日本1兆9,332億円・同2,052億円で、売上の6割を海外が占めながら、セグメント利益の3分の2は国内が生んでいる。2025年8月29日の臨時株主総会で256,029,428株を1株とする株式併合が99.99%の賛成で可決され、9月26日に東証プライム市場で上場廃止、9月30日にNTTが約2.4兆円を投じて完全子会社化した。
競合 国内では首位を保ったまま、海外では地域ごとの中位に置かれている。国内の相手は富士
国内では首位を保ったまま、海外では地域ごとの中位に置かれている。国内の相手は富士通とNECで、富士通がFujitsu Uvanceを掲げのように自社の製品群を業種横断のサービスへ組み替える道を採ったのに対し、NTTデータは現地企業を取得して顧客ごと引き継ぐ形を選んだ。資本の後ろ盾を持たないTISのような独立系とは、大型案件を受けられる規模の条件が異なる。海外ではアクセンチュアやIBMと同じ市場に並ぶが、2025年3月期の海外セグメント利益率は3.6%で、国内の10.6%を下回る。買収で積み上げた売上が利益率へ結びつかないまま親会社の傘下へ入ったことが、上場を終える判断の実質的な理由になった。
長期業績の推移 1988〜2025年
NTTデータグループ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2025年3月期

第1章 1967年〜 公社が独占した通信網の上に築いた金融・官公庁システムと、公正競争を理由とする分離独立

1967年〜公共的・技術先導的・全国的を掲げた公社のデータ通信事業

日本電信電話公社がデータ通信本部を置いたのは1967年10月である。公社は全国に張った通信網を持ち、その上に計算機を載せて他人の業務を処理する事業を始めた。1985年11月にはデータ通信事業本部へ改組された。社会保険庁の記録を扱うシステム、全国の銀行を結ぶ新全国銀行システム、気象庁のアメダスは、いずれもこの部門が動かしていた。第一勧業銀行のキャッシュカードが富士銀行で使えるのも、都市銀行を相互に結んだBANCSによる。この部門が標榜してきたのは、公共的・技術先導的・全国的の三点だった。扱う対象は、個々の企業の業務ではなく国の制度と決済の土台だった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1967年10月、日本電信電話公社にデータ通信本部を設置
    • [2]1985年11月、データ通信本部からデータ通信事業本部へ改組
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [3]分離独立時点で稼働していた主なシステムは社会保険システム、新全国銀行システム、地域気象観測データ通信システム(アメダス)、現金自動支払システム(BANCS)
    • [4]第一勧業銀行のキャッシュカードが富士銀行で使えるのはBANCS(都銀キャッシュサービスシステム)によるもので、データ通信事業本部が構築した
    • [5]データ通信事業本部は公共的・技術先導的・全国的の三点を標榜してきた(取締役開発本部長・田中義昭の説明)

この事業の受注は、競争で勝ち取ったものばかりではなかった。公社が通信事業を独占していた当時から、この部門は計算機メーカーやソフト会社と受注を競ってはいた。だが企業間や業界間をまたぐネットワークでは、参加企業ごとに資本系列が違い、使いたい計算機メーカーも割れる。複数のメーカーから機器を買って組み上げる必要があり、どこにも属さない公社の部門が取りまとめ役に担ぎ出された。あるメーカーの担当者は、劣勢の案件を自社の営業で取り戻したのに、事業本部は技術力で取ったと考えていたと証言した。中立であることが受注の理由になる構造では、営業力と技術力のどちらが効いたのかを社内で測れない。

  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [6]NTTが通信事業を独占していた当時から、データ通信事業本部はほかのコンピューターメーカーやソフト会社と受注を競い合ってきた
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [7]企業間・業界間ネットワークでは資本系列ごとに採用メーカーが分かれるため、中立的性格のあるデータ通信事業本部が取りまとめ役として担ぎ出される面が大きかった
    • [8]コンピューターメーカーのシステム担当者が、劣勢になった受注を自社の営業攻勢で取り戻したのに、データ通信事業本部は自分たちの技術力で取れたと思っていると証言した

収入の形も、競争を必要としなかった。主たる収益源はシステムの一括受注と、通信回線を使った情報サービスの二つである。銀行や信用金庫をオンラインで結んで為替決済を処理する全国銀行データ通信システムが、その代表だった。巨大システムは一度構築してしまえば、以後は使用料として毎年継続的に入ってくる。公社には営業ノルマという制度がなく、自力で食べていくという切実さが生まれにくい収入構造だった。1987年度の売上高は2400億円、従業員は6800人。親会社の売上高5兆6000億円に対して4.2%にすぎないが、情報関連業のなかでは断然の最大手である。市場別の売上構成は公共・金融・一般産業がほぼ5対4対1で、官庁向けと金融向けが収益の大半を稼いだ。

  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [9]システムインテグレーション(情報システムの一括受注)と、通信回線を活用した各種情報サービスを両輪に事業を拡大してきた
    • [10]銀行や信用金庫をオンラインで結び為替決済を処理する全国銀行データ通信システムなど、大規模オンラインシステムの構築を得意としてきた
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [11]巨大システムは一度構築すれば使用料の形で毎年継続的に安定収入が入る収入構造だった
    • [12]公社には営業ノルマという制度がなかった
    • [13]1987年度(昭和62年度)の売上高は2400億円、従業員は6800人
    • [14]日本電信電話本体は売上高5兆6000億円・従業員29万1000人で、売上高で4.2%、従業員で2.3%にあたるが、情報処理会社・VAN会社を含む情報関連業では断然大きいトップ企業
    • [15]市場別の売上構成は公共・金融・一般産業界がほぼ5対4対1で、官庁向けや金融が収入の大半を占めた
参考文献[1]-[15]
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1967年10月、日本電信電話公社にデータ通信本部を設置
    • [2]1985年11月、データ通信本部からデータ通信事業本部へ改組
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [3]分離独立時点で稼働していた主なシステムは社会保険システム、新全国銀行システム、地域気象観測データ通信システム(アメダス)、現金自動支払システム(BANCS)
    • [4]第一勧業銀行のキャッシュカードが富士銀行で使えるのはBANCS(都銀キャッシュサービスシステム)によるもので、データ通信事業本部が構築した
    • [5]データ通信事業本部は公共的・技術先導的・全国的の三点を標榜してきた(取締役開発本部長・田中義昭の説明)
    • [7]企業間・業界間ネットワークでは資本系列ごとに採用メーカーが分かれるため、中立的性格のあるデータ通信事業本部が取りまとめ役として担ぎ出される面が大きかった
    • [8]コンピューターメーカーのシステム担当者が、劣勢になった受注を自社の営業攻勢で取り戻したのに、データ通信事業本部は自分たちの技術力で取れたと思っていると証言した
    • [11]巨大システムは一度構築すれば使用料の形で毎年継続的に安定収入が入る収入構造だった
    • [12]公社には営業ノルマという制度がなかった
    • [13]1987年度(昭和62年度)の売上高は2400億円、従業員は6800人
    • [14]日本電信電話本体は売上高5兆6000億円・従業員29万1000人で、売上高で4.2%、従業員で2.3%にあたるが、情報処理会社・VAN会社を含む情報関連業では断然大きいトップ企業
    • [15]市場別の売上構成は公共・金融・一般産業界がほぼ5対4対1で、官庁向けや金融が収入の大半を占めた
  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [6]NTTが通信事業を独占していた当時から、データ通信事業本部はほかのコンピューターメーカーやソフト会社と受注を競い合ってきた
    • [9]システムインテグレーション(情報システムの一括受注)と、通信回線を活用した各種情報サービスを両輪に事業を拡大してきた
    • [10]銀行や信用金庫をオンラインで結び為替決済を処理する全国銀行データ通信システムなど、大規模オンラインシステムの構築を得意としてきた

1988年〜分離独立と、公社の体質を剥がす作業

1985年4月に日本電信電話が発足すると、データ通信部門の切り出しが動き出した。民営化を推進した真藤恒氏が、この事業は成長が見込めるため早く独立させたほうがよいと判断したという。エヌ・ティ・ティ・データ通信は1988年5月に資本金100億円で設立された。7月に日本電信電話からデータ通信事業本部の営業を譲り受け、営業を開始する。事業本部の社員は出向ではなく、ほぼ全員が新会社へ転籍した。子会社へは出向で社員を送るのが通例だったNTTにあって異例であり、親会社との人事交流も最小限に抑えられた。掲げた看板は、企業戦略の立案という川上からシステムの開発・運用まで一貫して請け負うプロフェッショナル・サービスだった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1985年4月、日本電信電話が設立
    • [18]1988年5月、エヌ・ティ・ティ・データ通信を設立。資本金100億円
    • [19]1988年7月、日本電信電話から同社データ通信事業本部に属する営業を譲り受け、営業を開始
  • Decide 1999年3月号
    • [17]民営化推進の実力者だった真藤恒が、データ通信事業はNTTのなかでも最も成長が見込めるため早く独立させたほうがよいと判断して分離したとされる
  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [20]データ通信事業本部所属の社員はほぼ全員がNTTデータ通信へ転籍した。NTTが通常は出向の形で子会社・関連会社へ社員を派遣するのに比べて異例
    • [21]藤田史郎社長が、NTTとの人事交流は最小限に抑えていると述べた
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [22]藤田史郎社長が、ユーザーの中に入り込んで企業戦略立案という川上からシステム開発・運用の川下まで一貫して請け負いたいと述べ、これをプロフェッショナル・サービスと呼び始めた

独立して最初に突きつけられたのは、顧客からの評価だった。ある情報システム担当者は、NTTから派遣された担当者について『夕方5時になると決まって帰り支度をする。これでは一緒に仕事がしにくいことこの上ない』と語っている。職制意識が強く責任者でなければ対応できない、顧客固有の業務の理解に時間がかかる、とも並べた。事業本部時代の自己認識は誇り高き技術集団であり、良いものさえ作れば文句はないという意識も残っていた。CIMを担当していた米野和則氏は自社を官庁体質と呼び、雑事に若手を使うなと課長級に言い続けた。営業を学ばせる場として選ばれたのは、NTTと日本IBMの合弁である日本情報通信だった。社員600人のうち450人がNTT出身で、その65%が旧事業本部からの出向者。数年のローテーションで戻ってくる彼らが、IBMの営業の型を持ち帰る道筋だった。

  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [23]顧客の情報システム担当者が、NTTから派遣された担当者の勤務体制について問題点を挙げた
    • [24]同じ担当者が、階層化された職制意識が強く責任者でないと対応できない、ユーザー固有の業務を理解するのに時間がかかると問題点を挙げた
    • [25]NTTデータの幹部が、データ通信事業本部のアイデンティティーは誇り高き技術集団であり、良いものさえ作れば文句はないという意識が払拭されていないと述べた
    • [27]NTTと日本IBMの合弁会社である日本情報通信(NI+C)で、旧データ通信事業本部出身者にIBMの研修をもとにした教育を行った
    • [28]日本情報通信の社員600人のうち450人がNTT出身で、その65%が旧データ通信事業本部からの出向者。数年のローテーションでNTTデータへ戻る
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号
    • [26]産業システム事業部企画開発部CIM担当部長の米野和則が、自社を官庁体質と呼び、コピー取りや清書などの雑事に若手を使わないよう課長クラスに指示していた

藤田氏は、社員の9割方はSEであり、その全員が営業も兼ね備える人材だと位置づけた。製造部門を持たない会社にとって、原価は人の時間そのものである。1990年4月、全社員の作業時間を集計する仕組みが導入された。11月には社員約7400人のうち約6500人に、カシオ計算機製の電子手帳が配られた。約400の作業項目から選ぶだけで、誰がどの作業を何時間したか、残業がどれだけかが記録される。集計はプロジェクト単位にとどめ、個人別には管理せず人事考課にも使わないという原則が置かれた。基本設計にSEを寄せ、プログラムを書く作業は社内で持つより安い外注へ出す方針が、ここから引かれた。人月を測る装置を、まず自社に据えたことになる。

  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [29]藤田史郎社長が、当社の9割がたはSE(システムエンジニア)であり、このSEは営業も兼ね備える人材だと述べた
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [30]1990年4月、稼働集計システムを全社に導入した
    • [31]1990年11月から社員約7400人のうち約6500人にカシオ計算機製の電子手帳を配布した
    • [32]入力する作業項目は約400。誰がどんな作業を何時間したか、残業がどのくらいかを自動的に記録する
    • [33]稼働集計システムには、情報の個人別管理を行わずプロジェクト単位で把握する、人事考課には利用しない、出勤簿が自動出力され社員のメリットになる、という3つのルールを置いた
    • [34]ソフト開発部門はSEを基本設計や製作など付加価値の高い工程に注力させ、プログラムを書く作業は社内で作るよりコストの安い外注へ出す方針を取った
参考文献[16]-[34]
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1985年4月、日本電信電話が設立
    • [18]1988年5月、エヌ・ティ・ティ・データ通信を設立。資本金100億円
    • [19]1988年7月、日本電信電話から同社データ通信事業本部に属する営業を譲り受け、営業を開始
  • Decide 1999年3月号
    • [17]民営化推進の実力者だった真藤恒が、データ通信事業はNTTのなかでも最も成長が見込めるため早く独立させたほうがよいと判断して分離したとされる
  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [20]データ通信事業本部所属の社員はほぼ全員がNTTデータ通信へ転籍した。NTTが通常は出向の形で子会社・関連会社へ社員を派遣するのに比べて異例
    • [21]藤田史郎社長が、NTTとの人事交流は最小限に抑えていると述べた
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [22]藤田史郎社長が、ユーザーの中に入り込んで企業戦略立案という川上からシステム開発・運用の川下まで一貫して請け負いたいと述べ、これをプロフェッショナル・サービスと呼び始めた
    • [23]顧客の情報システム担当者が、NTTから派遣された担当者の勤務体制について問題点を挙げた
    • [24]同じ担当者が、階層化された職制意識が強く責任者でないと対応できない、ユーザー固有の業務を理解するのに時間がかかると問題点を挙げた
    • [25]NTTデータの幹部が、データ通信事業本部のアイデンティティーは誇り高き技術集団であり、良いものさえ作れば文句はないという意識が払拭されていないと述べた
    • [27]NTTと日本IBMの合弁会社である日本情報通信(NI+C)で、旧データ通信事業本部出身者にIBMの研修をもとにした教育を行った
    • [28]日本情報通信の社員600人のうち450人がNTT出身で、その65%が旧データ通信事業本部からの出向者。数年のローテーションでNTTデータへ戻る
    • [29]藤田史郎社長が、当社の9割がたはSE(システムエンジニア)であり、このSEは営業も兼ね備える人材だと述べた
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号
    • [26]産業システム事業部企画開発部CIM担当部長の米野和則が、自社を官庁体質と呼び、コピー取りや清書などの雑事に若手を使わないよう課長クラスに指示していた
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [30]1990年4月、稼働集計システムを全社に導入した
    • [31]1990年11月から社員約7400人のうち約6500人にカシオ計算機製の電子手帳を配布した
    • [32]入力する作業項目は約400。誰がどんな作業を何時間したか、残業がどのくらいかを自動的に記録する
    • [33]稼働集計システムには、情報の個人別管理を行わずプロジェクト単位で把握する、人事考課には利用しない、出勤簿が自動出力され社員のメリットになる、という3つのルールを置いた
    • [34]ソフト開発部門はSEを基本設計や製作など付加価値の高い工程に注力させ、プログラムを書く作業は社内で作るよりコストの安い外注へ出す方針を取った

1991年〜金融偏重の露呈と、ICカード600万枚での一般産業開拓

1991年度、経常利益は前期比で3割強の減益になる見通しとなった。金融・証券業界の情報化投資が冷え込んだためである。組織は顧客の業態別に金融・公共・産業の3事業本部へ分かれ、売上比率は5対3対2と金融に偏っていた。藤田氏は、金融・証券への依存では立ち行かないと認識を改めた。比率をいずれ3対3対3へ持っていきたい、と方向を示す。1988年の独立時にも、産業の比重を当時の13%から3年で30%、7年で50%へ高める計画が掲げられていた。産業部門の売上高は1985年度の120億円から300億円へ伸びてはいた。それでも3年が過ぎて2割にとどまり、計画は遅れていた。

  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [35]1991年度は経常利益が前期比3割強の減益になる見通しで、金融・証券業界の情報化投資が冷え込んだことが要因
    • [36]組織は業態別に金融システム・公共システム・産業システムの3事業本部に分かれ、各事業本部の売上比率は5対3対2
    • [37]藤田史郎社長が、金融・証券に頼っていてはだめだということがはっきりしてきたと述べた
    • [38]藤田史郎社長が、金融・公共・産業の売上比率をいずれ3対3対3に持っていきたいと語った
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [39]産業システム事業部長の松井嘉正が、全社売上の半分を産業界で上げたいとし、当時13%の比重を3年で30%、7年で50%へ高める計画を示した
    • [40]産業システム事業部門の売上高は1985年度(昭和60年度)の120億円から300億円へ急成長していた

一般産業を開拓する手として選ばれたのがICカードだった。1990年2月、全社の組織を横割りにした社長直轄のICカード事業推進本部が置かれ、藤田氏が本部長を兼ねた。横割りの組織は同社で初の試みで、社員7800人の約2割にあたる1500人がこの事業に携わった。同じ年の7月には中堅企業向けの販売を担うSIS推進本部を設けた。10月には東海・関西・中国・九州の4地域へ、販売・サービス会社を新設している。ICカードは8ビットの演算装置と8キロバイトのメモリーを1チップに収め、どこで何を買ったかという履歴まで持てる。だが普及を阻んでいたのは価格で、磁気ストライプ型が1枚60〜100円なのに対し、ICカードは2000〜5000円と10倍以上した。

  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [41]1990年2月、全社の組織を横割りにした社長直轄のICカード事業推進本部を設置し、藤田史郎社長自らが事業本部長を兼ねた
    • [42]全社の組織を横割りにした組織は同社初の試み。ICカードビジネスに携わる人数は総計1500人で、社員7800人の約2割にあたる
    • [45]ICカードは8ビットの中央演算処理装置と8キロバイト(漢字4000字分)のメモリーを1チップにまとめたLSIを埋め込み、ID情報のほか購買履歴も収容できる
    • [46]磁気ストライプ型カードの原価は1枚60〜100円程度、ICカードは2000〜5000円程度で10倍以上
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [43]1990年7月、中堅企業へのSIS(戦略情報システム)販売を目的にSIS推進本部を設立した
    • [44]1990年10月、SISを地方企業にも広めるため東海・関西・中国・九州の4地域に販売・サービス会社を新設した

1991年4月、同社は600万枚のICカードの買い入れを官報に公告する。日本での出荷枚数は1990年度で約20万枚、1991年度でも約50万枚と見られていた。市場そのものの十倍を超える発注をぶつけ、1枚1000円弱まで価格を落とす賭けだった。当初の入札は想定価格に届かず不調に終わり、8社が応札したのは同じ年の暮れである。狙いはカードを売ることではなく、『ICカードを使ったシステム全体の開発を請け負うこと』にあった。応用の一つだった島根県出雲市のカードは、1991年に65歳以上の市民約7400人へ配られた。同市は1993年11月から、市内の児童約1万6800人を対象とする発行にも踏み出している。

  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [47]1991年4月、ICカード600万枚の入札による買い入れを官報に公告した
    • [48]ICカードの日本での出荷枚数は1990年度で約20万枚、1991年度が約50万枚と言われた
    • [49]一気に大量調達することでICカードを安くする戦略を取り、調達価格は1000円弱に落ち着く見通しとされた
    • [50]1991年5月に予定した入札は、想定価格をメーカーが提示できず不調に終わり、同年末に8社が応札した
    • [51]藤田史郎社長が、半導体ビジネスに進出するのではなく、ICカードを使ったシステム全体の開発を請け負うことが狙いだと述べた
    • [52]島根県出雲市役所で1991年4月から運用が始まったICカードは、65歳以上の市民約7400人に配布され、健康保険証・健康手帳・年金手帳などの保健情報と血液型・病歴などの医療情報を収める
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [53]島根県出雲市は1993年11月から3年をかけて、市内の新生児から中学3年生までの児童約1万6800人を対象に児童カードを発行する

賭けを打てる体力があったわけではない。1993年、協力会社で同年3月期に31億5600万円の赤字を出したジャパンシステムへ、顧問の前田隆正氏を社長として送り込んだ。協力会社の系列化という批判を避けて特定の会社に肩入れしてこなかった同社には異例で、藤田氏は水中のクリを拾うと表現した。翌1994年の取材では、自社を極めて底が浅い経営と呼んでいる。普通の企業は過去の蓄積があるため単年度の赤字では構造が動かないが、自社は借金こそあれ蓄積がない、というのがその理由である。同年7月、パッケージインテグレーション事業部が新設された。オーダーメードでなければ嫌だという要求がソフトを高くしてきた、という認識に立った転換だった。

  • 日経ビジネス 1993年6月14日号
    • [54]1993年、NTTデータ通信は協力会社のジャパンシステムの要請に応じ、顧問の前田隆正を社長として送り込んだ。ジャパンシステムは1993年3月期に31億5600万円の赤字を計上
    • [55]NTTデータは協力会社の系列化という批判を避けるため特定の協力会社に肩入れしたことがなく、今回の社長派遣は極めて異例。藤田史郎社長は水中のクリを拾うと表現した
  • 日経ビジネス 1994年8月22日号 編集長インタビュー 藤田史郎氏
    • [56]藤田史郎社長が、自社の経営を極めて底が浅い経営と表現した
    • [57]藤田史郎社長が、普通の企業は過去の蓄積があるので単年度赤字でも構造は微動だにしないが、自社は借金こそあれ蓄積がなく、赤字になれば資金も借りられなくなると述べた
    • [58]1994年7月にパッケージインテグレーション事業部を新設した
    • [59]藤田史郎社長が、日本ではパッケージソフトが嫌われオーダーメードでなければ嫌だとされてきたことがソフトを高くしてきたと述べた
参考文献[35]-[59]
  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [35]1991年度は経常利益が前期比3割強の減益になる見通しで、金融・証券業界の情報化投資が冷え込んだことが要因
    • [36]組織は業態別に金融システム・公共システム・産業システムの3事業本部に分かれ、各事業本部の売上比率は5対3対2
    • [37]藤田史郎社長が、金融・証券に頼っていてはだめだということがはっきりしてきたと述べた
    • [38]藤田史郎社長が、金融・公共・産業の売上比率をいずれ3対3対3に持っていきたいと語った
    • [41]1990年2月、全社の組織を横割りにした社長直轄のICカード事業推進本部を設置し、藤田史郎社長自らが事業本部長を兼ねた
    • [42]全社の組織を横割りにした組織は同社初の試み。ICカードビジネスに携わる人数は総計1500人で、社員7800人の約2割にあたる
    • [45]ICカードは8ビットの中央演算処理装置と8キロバイト(漢字4000字分)のメモリーを1チップにまとめたLSIを埋め込み、ID情報のほか購買履歴も収容できる
    • [46]磁気ストライプ型カードの原価は1枚60〜100円程度、ICカードは2000〜5000円程度で10倍以上
    • [47]1991年4月、ICカード600万枚の入札による買い入れを官報に公告した
    • [48]ICカードの日本での出荷枚数は1990年度で約20万枚、1991年度が約50万枚と言われた
    • [49]一気に大量調達することでICカードを安くする戦略を取り、調達価格は1000円弱に落ち着く見通しとされた
    • [50]1991年5月に予定した入札は、想定価格をメーカーが提示できず不調に終わり、同年末に8社が応札した
    • [51]藤田史郎社長が、半導体ビジネスに進出するのではなく、ICカードを使ったシステム全体の開発を請け負うことが狙いだと述べた
    • [52]島根県出雲市役所で1991年4月から運用が始まったICカードは、65歳以上の市民約7400人に配布され、健康保険証・健康手帳・年金手帳などの保健情報と血液型・病歴などの医療情報を収める
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [39]産業システム事業部長の松井嘉正が、全社売上の半分を産業界で上げたいとし、当時13%の比重を3年で30%、7年で50%へ高める計画を示した
    • [40]産業システム事業部門の売上高は1985年度(昭和60年度)の120億円から300億円へ急成長していた
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [43]1990年7月、中堅企業へのSIS(戦略情報システム)販売を目的にSIS推進本部を設立した
    • [44]1990年10月、SISを地方企業にも広めるため東海・関西・中国・九州の4地域に販売・サービス会社を新設した
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [53]島根県出雲市は1993年11月から3年をかけて、市内の新生児から中学3年生までの児童約1万6800人を対象に児童カードを発行する
  • 日経ビジネス 1993年6月14日号
    • [54]1993年、NTTデータ通信は協力会社のジャパンシステムの要請に応じ、顧問の前田隆正を社長として送り込んだ。ジャパンシステムは1993年3月期に31億5600万円の赤字を計上
    • [55]NTTデータは協力会社の系列化という批判を避けるため特定の協力会社に肩入れしたことがなく、今回の社長派遣は極めて異例。藤田史郎社長は水中のクリを拾うと表現した
  • 日経ビジネス 1994年8月22日号 編集長インタビュー 藤田史郎氏
    • [56]藤田史郎社長が、自社の経営を極めて底が浅い経営と表現した
    • [57]藤田史郎社長が、普通の企業は過去の蓄積があるので単年度赤字でも構造は微動だにしないが、自社は借金こそあれ蓄積がなく、赤字になれば資金も借りられなくなると述べた
    • [58]1994年7月にパッケージインテグレーション事業部を新設した
    • [59]藤田史郎社長が、日本ではパッケージソフトが嫌われオーダーメードでなければ嫌だとされてきたことがソフトを高くしてきたと述べた

第2章 1995年〜 東証上場をめぐる官庁の思惑と、公社から受け継いだ独占構造への批判

1995年〜上場の時期と株数を決めた大蔵省と郵政省の思惑

株式公開の目的は、分離のときに引き受けた借入金を減らすことにあった。1988年7月にデータ通信事業本部の営業を譲り受けた際、新会社は資産だけでなく借入金も背負っている。会社側の意向は、公募を厚くして市場から資金を調達し、その借入金を圧縮することにあった。一方の郵政省は、上場をNTT本体の株主への還元に使わせようとした。本体が持つ株の売り出しで株主作りを賄えば公募はゼロになり、子会社には資金が1円も入らない。エヌ・ティ・ティ・データ通信は1995年1月早々、本体にも内密のまま郵政省へ陳情に出向いたという。同じ上場から何を取るかが、親会社との間で割れていた。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1988年7月、日本電信電話から同社データ通信事業本部に属する営業を譲り受け、営業を開始
  • 日経ビジネス 1995年2月20日号
    • [61]藤田史郎社長が、上場時に公募を増やして市場から資金を調達し、NTTからの分離の際に引き受けた借入金をできるだけ減らしたいと以前から漏らしていた
    • [62]郵政省がデータ通信の上場を利用し、NTT本体の株主にできるだけ手厚い株主還元をするよう求めていたと関係者が述べた
    • [63]データ通信は郵政省の思惑を懸念し、1995年1月早々にNTT本体にも内密のまま郵政省へ陳情に行ったとされる
    • [64]郵政省とNTTとの対立だけでなく、NTTとNTTデータとの戦略にも対立があった

野村証券が握っていた公開の主幹事の座を、大和証券が奪った。会社は当初から早期の上場を望んでいたが、時期を決める主導権は会社になく、日程も株数も決まらないまま2月半ばになっても株数は7万株から8万株の幅で定まらなかった。背景にあったのは大蔵省証券局の意向で、不良債権を抱える金融機関の経営を揺らさぬよう、年度末の株価を押し下げうる大型募集は避けたいとしていた。先に控えた西日本旅客鉄道の上場が阪神・淡路大震災で流れると3月上場を狙う動きも出たが、結局は4月下旬へ送られた。上場を果たしたのは1995年4月、東京証券取引所市場第二部である。

  • 日経ビジネス 1995年2月20日号
    • [65]大和証券が、NTTの子会社として初めて上場するNTTデータ通信の公開主幹事の座をライバルの野村証券から奪った
    • [66]データ通信はもともと、できるだけ早く上場したいという希望を持っていた
    • [67]1995年2月半ばの時点でも公開株数は7万株から8万株ということで確定していなかった
    • [68]上場スケジュールが定まらない背景には大蔵省の意向への配慮があり、NTTの大株主である理財局ではなく証券市場を監督する証券局が関与した
    • [69]大蔵省は年度末の市場全体の株価に最大の関心を持ち、不良債権問題を抱える金融機関の経営問題に発展しかねないとして、証券会社の営業が年度末にデータ通信株の募集に追われないよう上場を遅らせる必要があった
    • [70]国鉄清算事業団が株を保有する西日本旅客鉄道の上場が優先されていたが、阪神大震災で3月上場が不可能になったため、データ通信と大和証券は3月上場を実現しようとした。結局は4月下旬まで遅らせた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [71]1995年4月、東京証券取引所市場第二部に上場

官庁が口を出せたのは、上場の要件そのものが親会社の持ち分に触れていたためである。東証の規定は、上場直後の決算期までに親会社など特定株主の保有を7割以下へ下げることを求めた。下げ方は二つあり、本体の持ち株を売り出すか、新株を公募するかである。どちらをどれだけ使うかが、そのまま資金の行き先を決めた。当時のNTTは株主165万人を抱え、大蔵省が発行済み株式の3分の2を握る会社だった。1987年に318万円を付けた株価は1990年に72万円まで下げている。1988年の分離そのものが、成長分野を切り離した株価の下げ要因と見なされてきた経緯もあった。

  • 日経ビジネス 1995年2月20日号
    • [72]東証の上場規定は、上場直後の決算期までに親会社など特定株主の保有を7割以下にすることを求めていた
    • [73]個人株主作りはNTT本体が保有する既発行株の売り出しと、新株を発行する公募の2つを組み合わせる
    • [74]NTTの株主は1995年時点で165万人を超え、大蔵省が発行済み株式の3分の2を持つ大株主だった
    • [76]NTT本体の株価は上場した1987年に318万円の最高値を付けた後、分割議論のあった1990年には72万円まで下げた
    • [77]郵政省はNTT上場の際、データ通信を1988年に分離してNTTの100%子会社として発足させる方針を十分に周知せず、成長期待分野の突然の分離がNTT株の下げ要因の一つともされた
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号 宮津純一郎社長インタビュー
    • [75]1997年時点でも日本政府がNTT株の3分の2を握り、宮津純一郎社長は政府の持ち株を早く放出してもらいたいと述べた
参考文献[60]-[77]
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1988年7月、日本電信電話から同社データ通信事業本部に属する営業を譲り受け、営業を開始
    • [71]1995年4月、東京証券取引所市場第二部に上場
  • 日経ビジネス 1995年2月20日号
    • [61]藤田史郎社長が、上場時に公募を増やして市場から資金を調達し、NTTからの分離の際に引き受けた借入金をできるだけ減らしたいと以前から漏らしていた
    • [62]郵政省がデータ通信の上場を利用し、NTT本体の株主にできるだけ手厚い株主還元をするよう求めていたと関係者が述べた
    • [63]データ通信は郵政省の思惑を懸念し、1995年1月早々にNTT本体にも内密のまま郵政省へ陳情に行ったとされる
    • [64]郵政省とNTTとの対立だけでなく、NTTとNTTデータとの戦略にも対立があった
    • [65]大和証券が、NTTの子会社として初めて上場するNTTデータ通信の公開主幹事の座をライバルの野村証券から奪った
    • [66]データ通信はもともと、できるだけ早く上場したいという希望を持っていた
    • [67]1995年2月半ばの時点でも公開株数は7万株から8万株ということで確定していなかった
    • [68]上場スケジュールが定まらない背景には大蔵省の意向への配慮があり、NTTの大株主である理財局ではなく証券市場を監督する証券局が関与した
    • [69]大蔵省は年度末の市場全体の株価に最大の関心を持ち、不良債権問題を抱える金融機関の経営問題に発展しかねないとして、証券会社の営業が年度末にデータ通信株の募集に追われないよう上場を遅らせる必要があった
    • [70]国鉄清算事業団が株を保有する西日本旅客鉄道の上場が優先されていたが、阪神大震災で3月上場が不可能になったため、データ通信と大和証券は3月上場を実現しようとした。結局は4月下旬まで遅らせた
    • [72]東証の上場規定は、上場直後の決算期までに親会社など特定株主の保有を7割以下にすることを求めていた
    • [73]個人株主作りはNTT本体が保有する既発行株の売り出しと、新株を発行する公募の2つを組み合わせる
    • [74]NTTの株主は1995年時点で165万人を超え、大蔵省が発行済み株式の3分の2を持つ大株主だった
    • [76]NTT本体の株価は上場した1987年に318万円の最高値を付けた後、分割議論のあった1990年には72万円まで下げた
    • [77]郵政省はNTT上場の際、データ通信を1988年に分離してNTTの100%子会社として発足させる方針を十分に周知せず、成長期待分野の突然の分離がNTT株の下げ要因の一つともされた
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号 宮津純一郎社長インタビュー
    • [75]1997年時点でも日本政府がNTT株の3分の2を握り、宮津純一郎社長は政府の持ち株を早く放出してもらいたいと述べた

1996年〜商号から通信が外れるまでと、親会社を上回った資本効率

上場後の数年で、会社は通信という名乗りを外した。1996年6月に英文表示をNTT DATA CORPORATIONへ改め、同年9月には東証市場第一部へ指定された。1998年8月、商号から通信の二文字を落としてエヌ・ティ・ティ・データとする。同じ年の11月には電気通信事業法の改正を受け、一般第二種電気通信事業者へ区分が変わった。回線を自ら持つ事業者ではなく、他人の回線を使ってシステムを売る会社という位置づけである。親会社の宮津純一郎氏はこの時期、同社を自分で顧客を取ってくる独立した通信会社と呼んでいた。公社のデータ通信部門という出自から、名実ともに離れる手続きだった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1996年6月、商号の英文表示をNTT DATA CORPORATIONに変更
    • [79]1996年9月、東京証券取引所市場第一部に指定
    • [80]1998年8月、商号を「エヌ・ティ・ティ・データ」に変更
    • [81]1998年11月、電気通信事業法の改正により一般第二種電気通信事業者へ変更
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号 宮津純一郎社長インタビュー
    • [82]NTT社長の宮津純一郎が、グループ会社にはNTTドコモやNTTデータ通信のように自分で顧客を取ってくる独立した通信会社もあると述べた

市場の評価は、規模ではなく資本の使い方に向いた。1998年3月末の時価総額から連結の実質株主資本を引いた株主からみた企業価値は、1兆2362億円である。連結株主資本500億円以上の全国上場企業451社を並べた集計で2位に付けた。実質株主資本に対する倍率は4.68倍で、首位に立ったセブン-イレブン・ジャパンの7.94倍に次いだ。日本電信電話は企業価値の実額こそ10兆1563億円と10倍近かったが、倍率は1.35倍で39位にとどまった。子会社が親会社の3.5倍の価値を生んでいた計算になる。連結の株主資本そのものは1998年3月末で2057億9900万円にすぎない。同じ集計で451社中201社は企業価値がマイナス、つまり資本を減らす側に回っていた。

  • 日経ビジネス 1998年7月13日号
    • [83]1998年3月末時点の株式時価総額から連結の実質株主資本額を引いた「株主からみた企業価値」で、NTTデータ通信は1兆2362億円
    • [84]連結株主資本500億円以上・実質株主資本比率10%以上の全国上場企業451社を対象にした集計で、NTTデータ通信は2位
    • [85]NTTデータ通信の「株主からみた企業価値創出度」は4.68倍で2位。1位はセブン-イレブン・ジャパンの7.94倍
    • [86]日本電信電話は企業価値10兆1563億円・創出度1.35倍で39位
    • [87]NTTデータ通信の企業価値の実額は日本電信電話の10分の1強だが、実質株主資本額に対する創出度はNTTの3.5倍
    • [89]対象451社のうち45%にあたる201社は「株主からみた企業価値」がマイナスだった
  • NTTデータ アニュアルレポート2000
    • [88]1998年3月期末の連結株主資本は205,799百万円

実体の規模も、分離時とは別の会社になっていた。連結売上高は1998年3月期に6765億8100万円、翌1999年3月期には7101億5200万円へ伸びた。2000年3月期は7253億4800万円である。分離直前の1987年度が2400億円だったから、十年余りで3倍に近い。従業員も1987年度の6800人から、1990年に約7400人、1992年には7800人へ増えた。公共と金融の巨大システムで積み上げた規模を、上場企業として市場に示せる規模へ育てたことになる。ただし2000年3月期は営業利益が507億3800万円へ落ち、当期は291億7700万円の損失を計上した。

  • NTTデータ アニュアルレポート2000
    • [90]1998年3月期の連結売上高は676,581百万円
    • [91]1999年3月期の連結売上高は710,152百万円
    • [92]2000年3月期の連結売上高は725,348百万円
    • [96]2000年3月期の営業利益は50,738百万円、当期損失は29,177百万円
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [93]1987年度(昭和62年度)の売上高は2400億円
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [94]1990年11月時点のNTTデータ通信の社員は約7400人
  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [95]1992年時点のNTTデータ通信の社員は7800人
参考文献[78]-[96]
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1996年6月、商号の英文表示をNTT DATA CORPORATIONに変更
    • [79]1996年9月、東京証券取引所市場第一部に指定
    • [80]1998年8月、商号を「エヌ・ティ・ティ・データ」に変更
    • [81]1998年11月、電気通信事業法の改正により一般第二種電気通信事業者へ変更
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号 宮津純一郎社長インタビュー
    • [82]NTT社長の宮津純一郎が、グループ会社にはNTTドコモやNTTデータ通信のように自分で顧客を取ってくる独立した通信会社もあると述べた
  • 日経ビジネス 1998年7月13日号
    • [83]1998年3月末時点の株式時価総額から連結の実質株主資本額を引いた「株主からみた企業価値」で、NTTデータ通信は1兆2362億円
    • [84]連結株主資本500億円以上・実質株主資本比率10%以上の全国上場企業451社を対象にした集計で、NTTデータ通信は2位
    • [85]NTTデータ通信の「株主からみた企業価値創出度」は4.68倍で2位。1位はセブン-イレブン・ジャパンの7.94倍
    • [86]日本電信電話は企業価値10兆1563億円・創出度1.35倍で39位
    • [87]NTTデータ通信の企業価値の実額は日本電信電話の10分の1強だが、実質株主資本額に対する創出度はNTTの3.5倍
    • [89]対象451社のうち45%にあたる201社は「株主からみた企業価値」がマイナスだった
  • NTTデータ アニュアルレポート2000
    • [88]1998年3月期末の連結株主資本は205,799百万円
    • [90]1998年3月期の連結売上高は676,581百万円
    • [91]1999年3月期の連結売上高は710,152百万円
    • [92]2000年3月期の連結売上高は725,348百万円
    • [96]2000年3月期の営業利益は50,738百万円、当期損失は29,177百万円
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
    • [93]1987年度(昭和62年度)の売上高は2400億円
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [94]1990年11月時点のNTTデータ通信の社員は約7400人
  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [95]1992年時点のNTTデータ通信の社員は7800人

1997年〜持株会社体制への移行と、社長人事が示した親会社との距離

社長の座は、親会社の人事で動いた。藤田史郎氏は1953年に日本電信電話公社へ入り、1985年の民営化で取締役、翌1986年に常務となった。1988年5月の設立とともに、初代社長へ就任した。1994年、NTT社長の児島仁氏は副社長を退任した神林留雄氏を後任に据えようとした。だが藤田氏が児島氏より年長であったことなどから、この交代は流れたという。民営化を推進した真藤恒氏から、この事業は君の手でと託された経緯も続投の根拠になっていた。神林氏は次期社長の含みを持ったまま、顧問という職に置かれる。交代が成ったのは1995年6月で、藤田氏は会長へ回った。

  • 日経ビジネス 1994年8月22日号 編集長インタビュー 藤田史郎氏
    • [97]藤田史郎は1953年に茨城大学工学部を卒業して日本電信電話公社に入社し、1985年4月のNTT民営化とともに取締役、1986年に常務となった
    • [98]藤田史郎は1988年5月のNTTデータ通信設立に伴い社長に就任した
  • Decide 1999年3月号
    • [99]1994年、NTT社長の児島仁が副社長を退任した神林留雄をNTTデータの社長に据えようとした
    • [100]藤田史郎が児島仁より年長であったことなどから、1994年の社長交代は流れたとされる
    • [101]藤田史郎には、実力者であった真藤恒から直々にこの事業は君の手でと託されたという社長続投の理由があった
    • [102]神林留雄は次期社長の含みでNTTデータの顧問に就任した
    • [103]1995年のNTTデータのトップ人事は藤田会長、神林社長に落ち着いた

親会社の側も、自らの形を組み替える途中にあった。NTTは1999年度中に、持ち株会社と東西2つの地域会社、長距離・国際サービス会社の4つに分割されることが決まっていた。宮津氏が子会社へ繰り返し伝えていたのは、『NTTに全面的に依存するな』という一言である。NTTから独立して生きていける会社は、上場する方向で考えればよいという立場である。同じ時期、分割をさらに進める第2次分割案も論じられていた。その中身の一つが、NTT移動通信網とNTTデータ通信の完全分離だった。旧来のファミリー企業を生かすために親会社があるのではない、という整理も同時に示された。子会社の独立は、親会社が抱える競争政策上の課題でもあった。

  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
    • [104]NTTは1999年度中に、持ち株会社と東西2つの地域会社、長距離・国際サービス会社に4分割されることが決まっていた
    • [107]分割後の新NTTを完全民営化した先に第2次分割案が浮上するとの見方があった
    • [108]第2次分割の内容として、携帯電話会社のNTT移動通信網(ドコモ)と情報処理会社のNTTデータ通信の完全分離が挙げられた
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号 宮津純一郎社長インタビュー
    • [105]NTT社長の宮津純一郎が、子会社にNTTに全面的に依存するなと繰り返し言っていると述べた
    • [106]宮津純一郎が、NTTから独立して生きていける会社は上場する方向で考えればいいと述べた
    • [109]NTT社長の宮津純一郎が、旧ファミリーを生かすためにNTTがあるわけではないと述べた

独立の度合いは、上納金をめぐって顕在化した。神林氏はNTT持ち株会社への上納金負担の要請に異を唱えていた。宮津氏が恐れたのは、NTTデータが持ち株会社の言うことを聞かなくなることだったという。子会社に依存するなと説く一方で、指示は届かせたいという立場だった。1999年6月、NTT副社長の青木利晴氏が社長として送り込まれる。神林氏は代表権のある会長、藤田氏は相談役へ退き、神林氏の社長在任は4年で終わった。この人事で藤田氏を外せる神林氏は、大きな抵抗を見せなかったという。上場して4年が過ぎても、誰が経営するかは親会社が決めていた。

  • Decide 1999年3月号
    • [110]神林留雄はNTT持ち株会社への上納金負担要請にクレームをつけていた
    • [111]NTT社長の宮津純一郎が恐れていたのは、NTTデータがNTT持ち株会社のいうことを聞かなくなることだったとされる
    • [113]1999年6月末、NTT副社長の青木利晴がNTTデータ社長に就任した
    • [114]神林留雄は1999年6月末に代表権のある会長となり藤田史郎は相談役に退いた。神林の社長在任は4年と短かった
    • [115]神林留雄はこの人事で藤田会長の首を切ることができるため大きな抵抗はせず、宮津純一郎の人事は藤田と神林の微妙な関係を突く形で行われた
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号 宮津純一郎社長インタビュー
    • [112]宮津純一郎は子会社にNTTへ全面的に依存するなと述べる一方、グループ各社をうまく回していくことを再編のテーマに挙げた
参考文献[97]-[115]
  • 日経ビジネス 1994年8月22日号 編集長インタビュー 藤田史郎氏
    • [97]藤田史郎は1953年に茨城大学工学部を卒業して日本電信電話公社に入社し、1985年4月のNTT民営化とともに取締役、1986年に常務となった
    • [98]藤田史郎は1988年5月のNTTデータ通信設立に伴い社長に就任した
  • Decide 1999年3月号
    • [99]1994年、NTT社長の児島仁が副社長を退任した神林留雄をNTTデータの社長に据えようとした
    • [100]藤田史郎が児島仁より年長であったことなどから、1994年の社長交代は流れたとされる
    • [101]藤田史郎には、実力者であった真藤恒から直々にこの事業は君の手でと託されたという社長続投の理由があった
    • [102]神林留雄は次期社長の含みでNTTデータの顧問に就任した
    • [103]1995年のNTTデータのトップ人事は藤田会長、神林社長に落ち着いた
    • [110]神林留雄はNTT持ち株会社への上納金負担要請にクレームをつけていた
    • [111]NTT社長の宮津純一郎が恐れていたのは、NTTデータがNTT持ち株会社のいうことを聞かなくなることだったとされる
    • [113]1999年6月末、NTT副社長の青木利晴がNTTデータ社長に就任した
    • [114]神林留雄は1999年6月末に代表権のある会長となり藤田史郎は相談役に退いた。神林の社長在任は4年と短かった
    • [115]神林留雄はこの人事で藤田会長の首を切ることができるため大きな抵抗はせず、宮津純一郎の人事は藤田と神林の微妙な関係を突く形で行われた
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
    • [104]NTTは1999年度中に、持ち株会社と東西2つの地域会社、長距離・国際サービス会社に4分割されることが決まっていた
    • [107]分割後の新NTTを完全民営化した先に第2次分割案が浮上するとの見方があった
    • [108]第2次分割の内容として、携帯電話会社のNTT移動通信網(ドコモ)と情報処理会社のNTTデータ通信の完全分離が挙げられた
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号 宮津純一郎社長インタビュー
    • [105]NTT社長の宮津純一郎が、子会社にNTTに全面的に依存するなと繰り返し言っていると述べた
    • [106]宮津純一郎が、NTTから独立して生きていける会社は上場する方向で考えればいいと述べた
    • [109]NTT社長の宮津純一郎が、旧ファミリーを生かすためにNTTがあるわけではないと述べた
    • [112]宮津純一郎は子会社にNTTへ全面的に依存するなと述べる一方、グループ各社をうまく回していくことを再編のテーマに挙げた

第3章 2005-2016 (気が向いたら執筆します!) 国内で頭打ちになった成長をM&Aで買い、欧米へ出た2005年からの十年余り

第4章 2017-2025 (気が向いたら執筆します!) 海外事業を一手に引き受けた末に、37年で親会社NTTへ再統合され上場を終えるまで

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歴史年表 1967〜2025年

NTTデータグループの沿革1967〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1967〜1994年公社が独占した通信網の上に築いた金融・官公庁システムと、公正競争を理由とする分離独立日本電信電話公社にデータ通信本部を設置★
日本電信電話が設立★
データ通信本部からデータ通信事業本部へ改組★
民営化直後のデータ通信事業本部の切り出しと資本金100億円での独立

1988年5月23日、日本電信電話が資本金100億円でエヌ・ティ・ティ・データ通信株式会社を設立し、同年7月1日に自社データ通信事業本部の営業を譲渡した経営判断。有価証券報告書は分離独立の理由を、効率的な事業展開と公正競争の確保の二点としている。

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日本電信電話から同社データ通信事業本部に属する営業を譲り受け、営業を開始★★
公共・金融・産業の各システム事業本部を設置★
1995〜2004年東証上場をめぐる官庁の思惑と、公社から受け継いだ独占構造への批判東京証券取引所市場第二部に上場★
商号の英文表示をNTT DATA CORPORATIONに変更★
東京証券取引所市場第一部に指定★
商号を「エヌ・ティ・ティ・データ」に変更★
電気通信事業法の改正により一般第二種電気通信事業者へ変更★
国際事業推進本部を設置★
2005〜2016年国内で頭打ちになった成長をM&Aで買い、欧米へ出た2005年からの十年余り浜口友一執行役員制を導入★
山下徹自前の海外拠点づくりを採らず、買収の連続だけで欧米へ出た十年余りの海外戦略

NTTデータが2005年に海外戦略を掲げ、独itelligence AG(2007年)、独Cirquent GmbH(2008年)、米Keane, Inc.(2010年)、伊Value Team S.p.A.(2011年)、西EVERIS(2014年)、米Dell Servicesの譲り受け(2016年)と、買収の連続だけで欧米市場へ出た一連の経営判断。

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山下徹経営権取得により、BMWグループの情報システム子会社Cirquent GmbHが子会社に★
山下徹カンパニー制を導入★
山下徹経営権取得により、Keane International, Inc.・Keane, Inc.が子会社に★★
岩本敏男経営権取得によりEVERIS PARTICIPACIONES, S.L.U.が子会社に★★
岩本敏男カンパニー制を廃止★
岩本敏男Dell Services部門の譲り受けの98.0%以上が完了★★
2017〜2025年海外事業を一手に引き受けた末に、37年で親会社NTTへ再統合され上場を終えるまで本間洋直接的な親会社が日本電信電話からNTTへ変更★
本間洋規模の倍増と、1兆416億円の借入金の引き受け

2022年5月9日、NTTデータは取締役会で、NTTの完全子会社であるNTT株式会社(現NTT DATA, Inc.)グループの海外事業と自社の海外事業を統合することを決議した。自社の海外事業を吸収分割でNTT, Inc.へ承継し、対価として同社の普通株式3,315株を受け取ったうえで、NTTが保有する260株を総額1,120億円で追加取得する形である。効力発生日の2022年10月1日に議決権の55%を取得し、NTT Ltd.を含むグループが連結に入った。譲渡対価の合計は5,541億円であった。

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本間洋国内事業会社であるNTTデータを設立するとともに、持株会社体制へ移行★★
佐々木裕東京証券取引所プライム市場で上場廃止★★
出典・参考 14件
出典・参考
  • NTTデータ アニュアルレポート2000
  • 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
  • 日経ビジネス 1993年6月14日号
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
  • 日経ビジネス 1994年8月22日号 編集長インタビュー 藤田史郎氏
  • 日経ビジネス 1995年2月20日号
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号 宮津純一郎社長インタビュー
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
  • 日経ビジネス 1998年7月13日号
  • Decide 1999年3月号

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