1958年〜 米Sperryと三井物産の合弁で始めたメインフレーム代理店業
BIPROGYの業績推移:単体
- 1958年 スペリー・コーポレーションと第一物産の協定で日本レミントン・ユニバックを設立
- 1968年 日本ユニバックに商号を変更
- 1969年 日本ユニバック総合研究所発足
- 1970年 本社を移転
- 1970年 株式額面変更のため日本ユニバックに吸収合併
- 1970年 伊豆エグゼクテブ・センターを伊東市に開設
- 1970年 東京証券取引所に上場
米Sperry・第一物産の2社合弁で生まれた日本レミントン・ユニバック
1958年3月、米スペリー・コーポレーション(Univac事業部)と第一物産(後の三井物産)が出資して[1]、東京に日本レミントン・ユニバック株式会社が設立された[2]。資本金7,000万円[3]、米Sperry製メインフレーム「Univac」の日本総代理店として営業を始めるための合弁会社で、IBM・富士通・日立・NECがしのぎを削る黎明期の日本コンピューター市場に、米国第二位のメインフレームメーカーが商社経由で参入した形だった。発足の翌1959年9月には親会社のスペリー・コーポレーション[4]が追加出資して資本参加し、米国本体が日本市場に資本面でも直接関与する体制を固めた。商社(三井物産)と米メーカーの2社合弁という出自は、以降30年以上にわたって資本構成と経営の自由度を規定する構造として残った。
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [1]出資者は米スペリー・コーポレーション(Univac事業部)と第一物産(後の三井物産)
- [2]1958年3月 日本レミントン・ユニバック株式会社が設立(米Sperryと第一物産の合弁)
- [3]設立時資本金 7,000万円
- [4]1959年9月 スペリー・コーポレーションの資本参加
事業はSperryブランドのメインフレームの輸入販売と保守を軸に進み、1968年4月には商号を日本ユニバックに変更[5]してUnivacブランドを社名に取り込んだ。1969年に日本ユニバック総合研究所を設立し[6]、1970年4月には本店を東京都港区に移し[7]、同年10月に東京証券取引所に株式を上場した[8]。当時の日本市場では通産省がIBMに対抗する国産メインフレーム振興策(電子計算機相互運用システム開発、後の通称「特定電子工業振興臨時措置法」体系)を進めていたが、日本ユニバックは米Sperryの製品を輸入して国内顧客に提供する代理店型の事業モデルで、官需よりも金融機関・流通業の事務処理基幹システムに販売チャネルを築いた。みずほ・農林中金・地方銀行などへの勘定系システム導入で実績を積み、メインフレーム事業者として国内中堅の位置を確保した。
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [5]1968年4月 商号を日本ユニバックに変更
- [6]1969年 日本ユニバック総合研究所を設立
- [7]1970年4月 本店を東京都港区に移転
- [8]1970年10月 東京証券取引所に上場
1970年代から1980年代前半にかけて、日本ユニバックはUnivacメインフレームの後継機種を顧客に切り替えさせる「機種更新」中心の事業を回し、保守サービスとソフトウェア受託開発を周辺収益として広げた。1983年7月には日本ユニバック[9]総合研究所を改組して日本ユニバック情報システムを設立し[10]、OA・コンピューターグラフィックス領域を子会社化して事業の縦の分化を始めた。しかし米Sperryから供給される製品の世代交替に業績が連動する構造は変わらず、米国本体の戦略変更がそのまま日本側の事業計画に反映される非対称な親子関係が30年続いた。1986年に米Sperryが米Burroughsと合併してユニシス・コーポレーションが誕生したとき[11]、日本側もそれを追って組織再編に着手する以外の選択肢はなかった。
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [9]1983年設立子会社の社名は日本ユニバック情報システム、移管領域はOA・コンピューターグラフィックス
- [10]1983年7月 日本ユニバック総合研究所を改組し日本ユニバック情報システムを設立
- [11]1986年 米Sperryと米Burroughsが合併しユニシス・コーポレーションが誕生
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [1]出資者は米スペリー・コーポレーション(Univac事業部)と第一物産(後の三井物産)
- [2]1958年3月 日本レミントン・ユニバック株式会社が設立(米Sperryと第一物産の合弁)
- [3]設立時資本金 7,000万円
- [4]1959年9月 スペリー・コーポレーションの資本参加
- [5]1968年4月 商号を日本ユニバックに変更
- [6]1969年 日本ユニバック総合研究所を設立
- [7]1970年4月 本店を東京都港区に移転
- [8]1970年10月 東京証券取引所に上場
- [9]1983年設立子会社の社名は日本ユニバック情報システム、移管領域はOA・コンピューターグラフィックス
- [10]1983年7月 日本ユニバック総合研究所を改組し日本ユニバック情報システムを設立
- [11]1986年 米Sperryと米Burroughsが合併しユニシス・コーポレーションが誕生
国産勢に挟まれたメインフレーム代理店の制約
1970年代の日本のメインフレーム市場は、IBM[12]日本法人と通産省主導の国産メーカー連合(富士通・日立・三菱・NEC・東芝・沖電気の6社2グループ体制)が市場の8割超を抑えており、米Sperryの代理店として参入した日本ユニバックの市場地位は3〜5%前後にとどまった[13]。国産勢が官公庁・製造業の基幹システムに食い込むなかで、日本ユニバックは三井物産の販売網と長年の顧客関係を頼りに金融・流通分野で受注を積み上げる差別化に進んだ。1965年に三井銀行の本支店オンラインシステムを受注[14]したのを皮切りに、地方銀行・信用金庫の勘定系システムにUnivacメインフレームを導入する案件を重ね、「金融に強いSI(システムインテグレーター)」という業界内位置を確立した。
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [12]1970年代に国産勢+IBM合計シェアは市場の8割超
- [13]1970年代の日本ユニバックの市場地位は3〜5%前後
- [14]1965年 三井銀行の本支店オンラインシステムを受注
しかし代理店事業の宿命として、自社の研究開発で次世代製品を生み出す余地は限られた。Univacメインフレームの性能・価格は米Sperryが決定し、新製品リリースのタイミングも米国本社の事業計画に従う構造で、日本市場の顧客要望を製品設計に反映させる経路は限られていた。1980年代に入りIBMの汎用機OS(MVS)が市場標準となる流れのなかで、Univac固有のOS(OS/1100系)を採用した顧客のシステム拡張は閉じた世界に縛られ、競合機種への移行コストの高さが顧客のロックインを支える一方、新規顧客の獲得は難しくなった。日本ユニバックの売上は1980年代後半まで横ばい圏で推移し、メインフレーム市場全体の伸び鈍化と国産勢の追い上げのなかで、事業構造の再設計が経営課題として経営陣に共有された。
加えて株主構成も特殊な制約を生んだ。米Sperry(後のユニシス・コーポレーション)が約27%、三井物産が約20%を保有する[15]典型的な日米合弁体制で、両親会社の利害調整が経営判断のスピードを縛った。米国本社は日本市場の収益最大化を求める一方、三井物産は同社株を有価証券として保有し配当と株価上昇を期待する立場で、両者の優先順位は常に一致するわけではなかった。1980年代半ばに米Burroughsとの世界規模の合併が進行する局面でも、日本側の組織再編は米国の動きに追従する形で進めるしかなく、自主的に事業構造を組み替える経営の自由度は乏しかった。1988年4月のバロース株式会社吸収合併と日本ユニシス[16]への商号変更は、この合弁構造の枠内で米国主導で実行された再編だった。
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [15]合弁時の持株比率は米Sperry約27%・三井物産約20%
- [16]1988年4月 バロース株式会社吸収合併・日本ユニシスへ商号変更
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [12]1970年代に国産勢+IBM合計シェアは市場の8割超
- [13]1970年代の日本ユニバックの市場地位は3〜5%前後
- [14]1965年 三井銀行の本支店オンラインシステムを受注
- [15]合弁時の持株比率は米Sperry約27%・三井物産約20%
- [16]1988年4月 バロース株式会社吸収合併・日本ユニシスへ商号変更
日米合弁30年の到達点と構造的限界
1988年4月、米Sperryと米Burroughsの世界合併(1986年9月発表、同年11月のユニシス・コーポレーション[17]新発足)に呼応する形で、日本ユニバックはバロース株式会社(米Burroughsの日本法人)を吸収合併し、商号を日本ユニシス株式会社に改めた[18]。同年7月には日本ユニシス情報システムからOA関連事業部門の営業[19]も譲り受けてグループ内再編を進め、日本市場におけるユニシス両ブランドの統合を完成させた。1958年の合弁設立から30年[20]、日本ユニバック総合研究所・ソフト・エンジニアリング・情報システムなど周辺機能を子会社として整備し、金融・流通中心の顧客基盤と全国規模の保守体制を備えた中堅SIerとしての姿が形になった。
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [17]ユニシス・コーポレーションは1986年9月発表・同年11月新発足
- [18]1988年4月 日本ユニバックがバロース株式会社を吸収合併し日本ユニシス株式会社に商号変更
- [19]1988年7月 日本ユニシス情報システムからOA関連事業部門の営業を譲受
- [20]1958年の合弁設立から30年が経過
ただし統合直後の日本ユニシスは、米ユニシスからの製品供給に依存するメインフレーム代理店という根本構造を継承した。米国本社で1990年代に進行するメインフレーム事業の衰退と組織再編は、日本側の事業ポートフォリオにも直接的な影響を及ぼす関係にあり、米国親会社の事業選択が日本市場の戦略を制約する状況は変わらなかった。1986年時点で米ユニシスは世界第二位のメインフレームメーカーだったが、IBMとの差は開く一方で、ダウンサイジング(メインフレームからクライアントサーバーへの移行)の波に米国本社が対応しきれない構造的問題を抱えていた。1980年代末の日本ユニシスは、米国本社の競争力低下と国産メインフレーム勢の追い上げを同時に受け止める位置に立ち、合弁出自の制約を抱えたまま1990年代の事業転換を迎えた。
加えて、合弁30年の経験を通じて社内には米Sperry/米Burroughs由来の技術者と三井物産・第一物産系の営業・管理層が並存する独特な人材構成が築かれた。技術側は米国本社のメインフレームOS(OS/1100、A series)の知見を持ち、銀行・公共領域の基幹システム構築案件に投入された一方、営業側は三井物産の商社人脈を活用して企業との商談を進める分業が定着した。この二極構造は、後のサービスインテグレーター化・パートナー連携の文化的下地となる一方、米国製品の輸入販売を超えた独自の事業モデルを生み出すことの難しさも同時に内包し、1988年の社名変更時点では事業の方向性を自前で決められない構造そのものに踏み込む議論には至っていなかった。
- BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
- [17]ユニシス・コーポレーションは1986年9月発表・同年11月新発足
- [18]1988年4月 日本ユニバックがバロース株式会社を吸収合併し日本ユニシス株式会社に商号変更
- [19]1988年7月 日本ユニシス情報システムからOA関連事業部門の営業を譲受
- [20]1958年の合弁設立から30年が経過