TKCの歴史

顧客基盤としてのTKC全国会が磐石。高収益を持続する
updated: 2022-01-19
1946

栃木県鹿沼にて会計事務所を創立

終戦により陸軍から戻った飯塚毅は、地元の栃木県鹿沼にて「飯塚毅会計事務」を開設した。当初は顧問先の企業は少なかったが、空き時間で海外の会計事務所の状況を本を読んで調査するなど、業界の行く末を考えていた。1社目の顧客は、店の看板を見て依頼をしに来た木工所で、開業から1年が経過した1947年のことだった。

その後は徐々に顧客を獲得。書籍を通じて欧米の事例から学んだ、1ヶ月に1回顧問先の財務をチェックする「巡回監査」を導入するなど、その仕事ぶりが評価されて北関東地域で顧問先企業を拡大した。1965年には従業員10名を抱え、顧問先は150社に及んだという。

事業展開は北関東が中心ではあったものの、TKCの意思決定は「欧米の先進事例を参考にする」という点で一貫しており、地方の会計事務所としては異例であった。

1962

飯塚事件で国税庁と対立

1962年に関東甲信越国税局は、飯塚毅が顧問に就任していた36社について更生決定を通達し、脱税指導をしたと指摘した。この結果、飯塚氏の会計事務所の数名が逮捕されるという事態に陥る。

この決定に対して、飯塚氏は自らに非はないとして徹底抗戦を決意し、行政訴訟に踏み切った。最終的に脱税の指導はなく、逮捕者の無罪が確定したものの、この間、マスコミなどの報道によって飯塚氏は「国賊」として世間からバッシングを受けるなど、大きな打撃を受けた。

国税による無謀な捜査とされ、当時の国会では「飯塚事件」として取り上げられて社会問題になるなど、大きな事件として話題になった。

1966

栃木県計算センターを設立

飯塚事件が未解決ではあったものの、飯塚剛は会計事務所の事業領域に、銀行などの金融機関が参入しつつあった事例を海外から学び、危機感を覚えた。加えて、コンピューターが発達しつつあり、手作業の会計処理が時代遅れになると判断した。

当時は日本国内でシャープの電卓が実用化されつつあったが、それでもデスクサイズであり、コンピュータや計算機を中小企業が活用することが一般的ではなく、飯塚氏の判断は異色であったと言える。

そこで、飯塚毅は「会計事務所の職域防衛と運命打開のため受託する計算センターの経営」という方針を掲げ、銀行による税務分野への参入を、コンピューターによって防衛する方針を掲げた。

具体的には、栃木県計算センター(TKC)を設立し、1968年から富士通から時間単位でコンピューターを貸借して、会計処理事業に乗り出した。当時のコンピュータは高額品であったため、TKCが計算業務を一手に請け負うことで、顧問先企業の計算サービスを提供した。

ただし、会社設立当初は、コンピュータの利用料金が重くなり、業績を圧迫したという。当時、コンピュータの計算利用料は、1分につき1000円であり、1社あたりの計算に36分かかっていたため、赤字が累積していった。

1971

TKC全国会創設

TKCはコンピューターの処理能力を活かすために、顧問先を開拓するために「TKC全国会」を結成した。

この団体は非営利団体として運営され、コンピュータを活用して監査業務を行いたい会計事務所によって構成され、TKCの提供するサービスを軸に、「巡回監査」などの仕組みを取り入れて、会計業務を組み立てた。

加えて、実質的にTKCの戦略的な意思決定を担っており、TKCの上場後は株主でもあった。

しかし、飯塚事件の直後でもあり、評判が良くなく、全国会に勧誘するための講演会を開くために、会計事務所にDMを1000件に送っても、実際に来客するのは1名だけのことも珍しくなく、集客に苦戦した。

それでも、講演会を頻繁に開催することで徐々に会員数を増やしていった。2002年の時点でTCK全国会に連なる地域会に所属する税理士・公認会計士は8500名に及び、顧問先企業は55万社を擁した。

TKCは全国会によって顧客基盤を確立し、競合他社に顧客が流出しない仕組みを作り上げたと言える。

1987

東京証券取引所第2部に株式上場

1996

東京証券取引所第1部に指定

2004

飯塚毅が逝去

TKCの創業者である飯塚毅が86歳にて逝去した

2017

株式をTKC会員に無償譲渡

TKCでは、創業者である飯塚毅氏の生誕100周年を記念して、「租税正義の実現」というミッションを実現しているTKCの会員に対して株式の無償譲渡を決定した。2018年〜2022年の5カ年にわたり、飯塚会長の個人株式100万株をTKCに譲渡する計画を発表した。

売上高の推移

売上高の推移

業績推移