設立1年で経営危機に陥ったミニチュアベアリング専業メーカーが、1952年に鮎川義介の仲介で高橋精一郎を筆頭株主に迎えて再建の道筋をつけた。1966年に社長に就任した高橋高見は1971年のニクソン・ショック後にシンガポールへ、1980年にタイへと生産を移し、1988年までにベアリング生産の99%を海外に置く大胆な移管を断行した。国内銀行が尻込みした投資をスイスなどの外債で賄い、円高のたびに競合の価格競争力が削られる一方で、同社の利益が厚みを増していった。1961年に東証2部、1971年に東証・大証・名証の第一部に上場し、同年9月には米SKF社のREED工場を買収して米国生産にも踏み込むなど、この時期の動きの速さがそのまま同社の成長スピードを特徴づけ、以後の経営モデルの骨格となった。
しかし1984年のDRAM参入や1985年の三協精機TOBなど多角化は迷走し、2008年まで連結売上高3000億円前後の壁を越えられず、ベアリング偏重の構造のまま20年が過ぎた。2008年の貝沼由久社長就任後はドイツmyonic取得に始まる中小M&Aを連打して事業領域を広げ、2017年のミツミ電機統合を起点に「部品のユニクロ」と称する垂直統合戦略を掲げた。2019年のユーシン、2020年のエイブリック、2023年のホンダロック、2024年の日立パワーデバイスと、自動車・半導体・電子部品領域の買収を続けて事業領域を広げ、2017年3月期に6389億円だった売上収益は2025年3月期には1兆5227億円へと倍増した。2025年には貝沼がベアリング・半導体・モーター・アクセス製品を「4本槍」と定義し、光デバイス・機構部品を非コア事業として整理する方針を打ち出した。
歴史概略
1951年〜1989年ミニチュアベアリングの専業化と東南アジア生産移管
設立1年で経営危機、鮎川義介の仲介で再建された創業期
1951年7月、日本ミネチュアベアリング株式会社が東京都板橋区で設立された。国内初のミニチュアベアリング(極小ベアリング)専業メーカーで、戦時中に米軍B29の計器にミニチュアベアリングが使われていた事実から国産化を構想した会社だった。設立メンバーは戦後の物資不足期に精密機械産業の自立化を目指した技術者・経営者の集団で、国防上の意味合いも含んでいた。ところが精密部品の量産は予想以上に難航し、設立から1年で経営危機に陥る。ミニチュアベアリングは内外輪・ボール・リテーナすべてに極めて高い精度を要求されるうえ、当時の国内には量産技術そのものが確立されていなかった。精密部品の国産化を構想から実現まで持っていく難しさが、短期間のうちに経営危機として現れた。
創業者の富永五郎が別会社設立に移ったため、日産財閥創業者の鮎川義介が取引先の高橋精一郎に再建を依頼した。高橋は1952年に200万円を出資して筆頭株主となり、以後私財を投じて再建に従事する。1959年には長男の高見をカネボウから呼び寄せて経営参画させた。「高橋の父はミネベアの再建に命を賭けた」「もし精一郎に資金力がなかったら、現在のミネベアは存在しなかっただろう」と後年の記事は伝える(『異色のミネベア経営 高橋高見の秘密』1984/5)。創業危機を個人の資金力と人脈で切り抜けた特異な再建経緯が、後のトップダウン経営スタイルの原型となった。高橋家という資産・人的ネットワークが会社に注ぎ込まれた特殊な成立事情は、以後の経営判断の速さと大胆さの背景として働いた。
500種の在庫で国内シェア70%を取った地方工場モデル
1956年に本社・工場を埼玉県川口市へ、1963年には軽井沢工場を新設し、1965年には全施設を軽井沢に集約して本社を長野県御代田町へ移した。都市部の大工場ではなく地方工場を母体とする体制が早い段階で固まった。1961年に東京証券取引所市場第二部に上場し、1970年には第一部に指定替えとなった。地方での労働力確保と土地の取得コストを抑えつつ大量のミニチュアベアリングを安定生産するには、都市から離れた工場立地が合理的だった。軽井沢への集約は、単なる拠点統合ではなく、生産能力と品質管理を同時に引き上げるための布石でもあった。地方工場モデルは戦後日本製造業の中でも早い部類の事例で、他社が後に追随した。労働力と土地の制約を回避しつつ量産体制を築く発想だった。
1963年時点でミニチュアベアリングの国内シェアは70%前後に達した。500種類のミニチュアベアリングを常時在庫として保有し、多品種小口の注文にも即納できる体制を敷いたことが背景にある。1966年には高橋精一郎の長男・高橋高見が38歳で社長に就任し、以後1989年に急逝するまで社長としてトップダウンで経営を主導する。1968年には米国にNIPPON MINIATURE BEARING CORPORATIONを設立し、1971年4月には英国に販売会社N.M.B.(U.K.)を、5月には大阪・名古屋両証券取引所の市場第一部へ上場、同年9月には米SKF社のREED工場を買収して米国での自社生産に踏み込んだ。米国市場への販売網と生産拠点を同一年内に揃えた動きは、当時の中堅メーカーとしては異例の速度感で、海外展開を同時多発的に進める経営姿勢がこの時期に確立された。
ニクソン・ショックを機にシンガポール・タイへ生産移管
1971年12月のニクソン・ショックで円高ドル安が進むと、高橋高見社長は東南アジアへの生産移管を決断した。1972年にシンガポールに現地生産会社を設立する際、国内銀行は「あなたの会社の体力では無理だ」と融資に及び腰となり、スイスなど海外での外債調達で工場建設資金を賄う判断を行った。「計算なんてありはしません。海外にしか生きる道がなかった」(日経ビジネス 1982/11/15 高橋高見発言)という言葉は、当時の危機感と覚悟を端的に示している。国内銀行が支援しないなかで、外債という当時の中堅メーカーにとって極めて異例の調達手段を採って海外移管を実行したことが、後のミネベアの経営スタイルを決定づけた。銀行との関係に頼らない資金調達と意思決定の速さは、この時期から同社の特徴として根付いた。
1980年にはタイにNMB THAI LIMITEDを設立し、アユタヤ等の地方に工場を展開した。機械設備は最新鋭とし、250メートルの直線ラインの終端で完成する設計、全体の20%を検査工程に配置する歩留まり重視の運営を組み合わせた。1980年代を通じてベアリング量産の海外比率は上昇を続け、軽井沢工場はタイ現地社員を教育するマザー工場として残る役割に切り替わった。大量の極小部品を高精度で量産するという難しい課題を、機械化と検査工程の厚みで同時に解決する運営スタイルが、ミネベアの東南アジア生産の基本形として確立された。タイ現地の人件費優位を活かしつつ品質管理は日本流を維持する二層構造が、この時期に機能し始めた。日本の親工場が技術の源泉を握りつつ海外で量産するモデルは、その後の日本製造業にも広く見られる形式となった。
1990年〜2008年多角化試行とベアリング偏重からの脱却の模索
4社合併で「ミネベア」化、商号変更と事業拡張
1981年10月、東京螺子製作所・新興通信工業・新中央工業・大阪車輪製造の系列メーカー4社を吸収合併し、社名を「ミネベア株式会社」に変更した。ベアリング専業の枠を超えた総合部品メーカーへの移行が商号に明示された。1984年にはNMBS(後の半導体事業)を設立して千葉県館山市に35万平方メートルの工場用地を確保し、300億円を投じてDRAM(256KB)の生産を1986年に開始した。販売先は主に海外だった。ベアリング・螺子・通信機・車輪という異業種4社を抱え込み、同時にDRAMへ巨額投資を行った1980年代前半の動きは、ベアリング偏重から脱却しようとする意図と裏腹に、事業集中の難しさを後に露呈させた。多角化の方向性を定めきれないまま様々な事業領域に広げていく姿勢は、長く経営課題として残った。
1985年には三協精機へのTOBを仕掛けたが失敗に終わる。当時の日本企業としては珍しく上場企業への敵対的買収も辞さなかったため、業界内では毀誉褒貶が伴った。1985年に米New Hampshire Ball Bearingsを系列化、1988年には英ROSE BEARINGS、1990年にはドイツにPAPST-MINEBEA-DISC-MOTORを設立するなど、ベアリング・モーター領域での海外M&Aは継続した。一方でDRAM事業は歩留まり不良で立ち上げが遅れ、半導体事業としての収益貢献は限定的なまま推移した。螺子・通信機・車輪という異業種4社を吸収した1981年の合併とDRAMへの300億円投資が同時並行で進んだ結果、ベアリング以外の柱を短期間で作ろうとする姿勢が浮き上がる。結果的にDRAM事業は成功に至らず、後のミネベア経営の反省材料となった。大規模単発の事業多角化がうまくいかなかった経験は、2000年代以降の段階的な買収路線の背景ともなった。
円高耐性企業の看板と、停滞する連結売上
1988年1月には同社が「日本で最も円高対応の進んだ企業」と評される状況が生まれていた(日経ビジネス 1988/1/18)。1980年代のVTR向けをはじめ、ミニチュアベアリングは低コストを武器に電子機器向け部品として採用が広がった。しかし1990年代から2000年代にかけて連結売上は伸び悩む局面が続いた。2002年3月期の売上高は2793億円、2009年3月期は2562億円で、20年近く3000億円前後の壁を越えられなかった。海外生産と円高耐性という強みを持ちながらも、ベアリング以外の柱が育たないまま、同社は構造的な成長の壁に突き当たっていた。高橋高見の急逝以降は経営のトップダウン色が薄れ、多角化も収益柱として機能せず、貝沼由久の就任まで同社は事業構造の再定義に手こずる状態が続いた。
2004年4月には松下電器産業モータ社と合弁でミネベア・松下モータを設立し、情報モーター4商品(ファンモーター・ステッピングモーター・振動モーター・ブラシ付DCモーター)事業を統合した。2010年にパナソニックから完全買収して吸収合併し、モーター事業を自社の柱の一つに据える準備を整えた。それでも主力はベアリングのままで、業績はリーマンショック後の2009年3月期に営業利益134億円まで落ち込んだ。ベアリングで稼ぎ、他事業では伸びない構造がそのまま継続し、2000年代のミネベアは停滞感のまま時期を過ごした。新しい経営の舵取りが求められた局面であり、以後の貝沼由久体制の発足に繋がる直前の停滞期となった。
2009年〜2023年貝沼由久体制の「相合」戦略とミツミ電機統合
LEDバックライトへの追加投資と中小型M&Aの連打
2008年に貝沼由久が代表取締役社長執行役員に就任した(前任は山岸孝行)。弁護士出身で米国留学経験のある貝沼は、伝統的な製造業の経営スタイルとは異なる経営感覚でミネベアの再構築に着手した。2009年3月には歯科・医療機器・航空宇宙向け特殊ベアリングのドイツmyonic Holdingを取得し、高付加価値ベアリング領域に軸足を広げた。2010年4月にはミネベア・松下モータを完全子会社化、8月に第一精密産業(射出成形金型)、同月にLEDバックライトの現地生産会社を中国・蘇州に設立した。立て続けの小型買収で既存ベアリング事業の周辺領域を広げ、売上の幅を段階的に拡大する路線が、この時期に形を取り始めた。貝沼の基本方針は「中核を守りつつ周辺を取り込む」という、1980年代の多角化とは対照的な段階的アプローチだった。
2010年代のスマートフォン普及でLEDバックライト需要が拡大すると、同社は中国とタイで量産体制を構築した。2013年には韓国コスダック上場の小型モーター会社MOATECH、航空機部品の塩野プレシジョン、スイスのPARADOX ENGINEERING、2015年にはドイツ計測機器大手Sartorius Mechatronicsを日本政策投資銀行との共同出資で取得した。中小型の買収を連打して事業領域を広げていく時期が続いた。ベアリングという中核は維持しつつ近接領域を買収で取り込む戦略は、1990年代の単発大型買収路線とは異なるアプローチで、貝沼体制の特徴として業界内外に認識されていった。中小型案件を連打することで、個別の失敗リスクを分散しながら事業領域を広げる狙いがあった。数多くの案件のうちいくつかが成功すれば全体として前進できるという、リスク分散型の成長モデルである。
ミツミ電機統合と「部品のユニクロ」論
2016年3月、ミツミ電機との経営統合契約及び株式交換契約を締結した。2017年1月に株式交換でミツミ電機を完全子会社化し、商号を「ミネベアミツミ株式会社」に変更した。取得原価は555億円で、スマホ向けカメラアクチュエータの不振で2016年3月期に純損失96億円を計上していたミツミを相対的に安価に取り込む形となった。同社の2017年3月期連結売上は6389億円、翌2018年3月期は8814億円と段階的に増加した。ミツミの電子部品事業とミネベアのベアリング・モーター事業を組み合わせることで、顧客基盤と製品ラインナップの両方を拡張する狙いを打ち出した統合だった。社名にもミツミを組み込むことで、統合後の一体運営を強調した。吸収合併ではなく対等統合に近い体裁を取ったことで、両社の技術と顧客の融合を円滑にする狙いもあった。
貝沼は同社を「部品業界のユニクロ」と表現した。「ユニクロはフリースから下着、パンツ、靴下にいたるまで自前でつくっています」「高性能なモーターを造るには、よいベアリングやパワー半導体が不可欠だ。当社はすべて自前なので、最適化を果たせる」(日経ビジネス 2022/11)と語っている。コングロマリットではなく8事業の垂直統合として語り、ベアリング・モーター・半導体を内製する体制を「相合」と呼んだ。事業単位の最適化ではなく組み合わせによる全体最適を経営思想の中心に据え、製品と顧客のマトリクスの両方で関係を広げていく戦略が、この時期に固まった。従来型のコングロマリットに対するアンチテーゼとして、貝沼は繰り返し「相合」を強調した。
ユーシン、エイブリック、ホンダロック、日立パワーデバイス
2019年4月、自動車アクセス製品メーカーのユーシンをTOBで子会社化した。2018年12月期のユーシンは売上高1485億円・純利益0.4億円で有利子負債423億円を抱え、設備投資余力を失った状態だった。ミネベアミツミはドア部品参入を足掛かりに完成車メーカーとの直接取引を拡大する狙いで取得原価約248億円(公正価値)でのれん91億円を計上した。自動車のドアハンドル・ドアロック・キー関連部品という生活者に直接見える領域への参入は、これまで電子機器・産業機械の内部部品に特化してきたミネベアにとって新しい挑戦だった。完成車メーカーとの直接的な関係を持つことで、自動車部品市場での位置づけを強化する狙いがあった。構造的な有利子負債を抱えた企業を取り込むというミネベアの救済型買収の特徴も、この案件に表れている。
2020年4月にはアナログ半導体専業のエイブリックを完全子会社化、2021年10月にはミツミがオムロンからMMIセミコンダクター(旧滋賀セミコンダクター)を取得して半導体工場とMEMS開発機能を内製化した。2023年1月にはホンダロックを子会社化してミネベアアクセスソリューションズに改称、2024年5月には日立製作所からパワー半導体の日立パワーデバイスを取得した(公正価値409億円)。2017年3月期6389億円だった売上収益は2025年3月期に1兆5227億円へと倍増した。M&Aを連打しながら半導体・モーター・アクセスといった事業柱を太らせていくこの時期の動きは、貝沼体制の特徴を最もよく示している。事業ポートフォリオの組み替えを買収で段階的に進めた結果、ミネベアミツミは約8事業の総合部品メーカーへと姿を変えていった。
直近の動向と展望
「4本槍」と非コア事業の切り分け
2025年5月の決算説明会で貝沼は、ベアリング・半導体・モーター・アクセス製品を「4本槍」と定義し、光デバイスと機構部品を非コア事業として位置付けた。コア事業の条件は「マーケットが成長していること」と「当社製品が差別化できてエッジが立っていること」の2つとされた。2025年3月期のボールベアリング営業利益は557億円で従来最高の478億円を更新し、エイブリックは営業利益率30%以上を確保した。「当社の事業の優等生は、やはりボールベアリングです」(決算説明会 FY24)と語り、祖業の強さが現在の収益を支えている構造を確認する発言となった。買収を連打して事業領域を広げた後も、収益の主軸は依然として1951年以来のベアリング事業にあるという事実は、同社の歴史的な連続性を示している。
一方で2024年度は2年連続の通期下方修正となった。2025年2月の第3四半期決算でSE事業を120億円下方修正(うちMPSDのPPAで30億円、残りはほぼ光デバイス)し、ロシア撤退損を含む一時費用40億円を4Qに計上した。「正直に申し上げて、2年連続下方修正をしてしまったことを深く反省しております」(決算説明会 FY24-3Q)と貝沼は述べ、来期予想の開示を5月まで先送りした。コア事業の好調さとサブコア事業の不振が同居する状態は、M&Aを通じて広げた事業領域の内部で格差が生まれていることを示した。貝沼は下方修正の責任に言及しつつ、事業ポートフォリオの次の段階の整理を示唆する姿勢を取っている。買収で得た事業のなかでどれが本当に収益源として残るのかを問い直す段階に入った。
会長室ICUと製造業の基本動作
2024年度、貝沼は「会長室ICU」と称する直轄組織を設置し、携帯・ゲーム向けのサブコア事業(カメラ用アクチュエータ・機構部品等)を自ら管理下に置いた。「アクチュエーターは完璧に競争に負けており、その理由が、歩留を上げる、生産性を高める、機械の停止を減らすなど、製造業の基本動作の欠如によるものだと考えています」(決算説明会 FY24-3Q)と語った。営業・購買・製造のラインバランス問題を現場で点検する手法で、半年程度のタイムスパンで収益改善の可否を見極める方針を示した。製造業の基本動作に立ち返るというメッセージは、M&A偏重の経営イメージを補正する意図もあった。会長室直轄という異例の組織形態は、経営陣が現場の数字まで降りて収益改善を図る覚悟を示した。
2025年3月期第4四半期には中国のデータセンター向けファンモーター需要が想定以上に回復し、ボールベアリング外販数量は計画を上回った。2026年3月期はMLS営業利益250億円ベースに対して300億円を計画し、ステッピングモーター・ファンモーター・バックライト・スマート製品で各10億円規模の増益を見込む。一方で1Qはレアアース入手難により光デバイスが赤字となる見通しで、米国生産拠点の増強は顧客要請と価格許容度次第という保守的な対応にとどまる。貝沼体制の「相合」戦略が次の段階で試される場面として、市場動向と収益性の両面の動きが注目される。2025年末に公表された中期計画の見直しと4本槍の強化方針が、今後の実績でどう検証されるかが問われる段階に入った。