1691年に開坑した別子銅山へ坑木と薪炭を供給するために植え継がれた住友の山林が起源。
1975年に木造軸組工法で注文住宅へ参入し、2024年には豪州最大級のMetriconを子会社化した。
売上の6割強を米国と豪州の戸建住宅から得る住宅大手である。
1955年に四国林業と東邦農林の合併で住友林業が発足。
1987年に住友林業ホーム・大阪殖林を吸収合併し、2006年に安宅建材を吸収合併した。
2014年にGehan Homes、2024年にMetriconを子会社化。
住宅事業のクロスボーダーM&Aで事業ポートフォリオを広げた。
財閥解体が住友林業から奪ったのは組織であって、山ではなかった。持株会社整理委員会が1948年2月に住友本社を割ったとき、四国・九州・北海道に散った山林はそれぞれの新会社の手元に残り、動かしようがないまま同じ場所で育ち続けた。ヒノキが伐り頃になるまでには数十年がかかる。その時間の尺度から見れば、6社への分離も、扶桑農林・東邦農林を経て1955年に1社へ戻るまでの7年も、木の一生の途中に過ぎない。再統合が地域単位の中間統合を2度も経由しながら滞りなく進んだ背景には、分けられた資産が動かず、腐らず、待てるものだったという性質がある。
山を持つ会社が木材商社になり、住宅会社になった順序は、手元の資源が足りなくなった順序と重なっている。自社の4万1,000町歩から出る木では全国の集荷販売機構を賄えず、1956年に外材輸入へ踏み出した。輸入材だけでは新建材の波に応じきれず、1961年に建材課を、1964年にスミリン合板工業を置いた。そして建材を使い切る出口として、同じ1964年に分譲住宅へ入った。1970年の不動産事業で地価暴落に遭ったことが、1975年に始める注文住宅から土地を外させ、上物だけを売る方式を定めた。川下へ降りるたび、住友林業は前の段で足りなかったものを次の段で取りに行った。
住友林業の山林経営は、住友家が開坑した別子銅山(愛媛県)へ、坑木と精錬用薪炭を自給する事業として始まった。本格的な林業へ乗り出したのは明治維新以後で、経営面積を約2万町歩へ広げ、近代的な林業技術による大規模な人工造林に着手した。1894年には住友本店林業所が設置され、当時の林業所長だった伊庭貞剛氏が、銅山の煙害で荒地化した別子山地への植林を組織的に進めた。1917年ごろからは九州・北海道・朝鮮でも林野の買収と直営を進め、住友合資の設立と同時に林業所を置いて造林計画を立て、経営面積は12万町歩余に達した。委託経営を含めた戦前の総経営面積は14万町歩に及び、太平洋戦争中はジャワ・スマトラ・ボルネオへも進出したが、終戦で朝鮮と南方の事業を失った。
1948年2月、持株会社整理委員会の指定で住友本社が解体され、同社が保有していた山林経営は四国林業・九州農林・北海農林・扶桑林業・兵庫林業・東海農林の地域別6社に分離された。企業再建整備法に基づいて住友本社の林業部門を継承した6社は、それぞれが所有山林の経営を始めている。同年12月には扶桑林業・兵庫林業・東海農林の3社が合併して扶桑農林が設立され、分離からわずか10か月で最初の再結集が始まった。1951年2月には扶桑農林・九州農林・北海農林の3社が合併して東邦農林となり、本州・九州・北海道の山林経営が一法人にまとまった。東邦農林の資本金は1,350万円で、のちに6,000万円へ積み増している。
1955年2月、四国林業と東邦農林が合併し、住友林業株式会社が大阪市本店で発足した。合併時の資本金は2億1,000万円で、四国林業は増資後の1億5,000万円を持ち寄っている。財閥解体による分離から7年、地域単位の中間統合を2度経由して6社が1社へ戻った。新会社は山林経営と国内材の集荷販売を主たる事業として始動し、経営山林面積は北海道1万4,000町歩・四国1万9,000町歩・九州8,000町歩の計4万1,000町歩余、その蓄積は1,100万石に達した。戦後は木材商事部門にも進出し、大阪・四国・九州・東海・北海道の5支店に営業所・出張所を加えたほぼ全国の集荷販売機構を持ち、年間木材取扱高は約100万石、総売上高は約20億円となった。
再統合直後の住友林業は山林経営と国内材の仕入販売で出発したが、1956年10月には外材輸入業務に着手し、アメリカ・フィリピン・インドネシアからの調達を始めた。合板・加工合板・窯業建材・プラスチック建材・金属建材といった新しい建築資材が出回りはじめたのを受けて1961年3月に建材課を設け、1962年2月には建材の取り扱いを開始した。1964年3月にはスミリン合板工業株式会社を設立して住宅資材の製造事業に着手し、仕入れて売る商社機能に、自ら作る製造機能を重ねた。建材部門はのちに、石膏ボード・アルミサッシ・流し台・洗面台・浴槽まで、住宅に使う建築資材のすべてを対象とする部門へ広がった。
同じ1964年9月、住友林業はスミリン土地株式会社(現在の住友林業ホームサービス)を設立して分譲住宅事業に進出し、木材建材と並ぶもう一本の柱をここで立てた。新設住宅着工戸数は1960年の42万戸から1972年の186万戸まで4倍以上に拡大しており、自社が扱う木材・建材の出口を住宅として内部に確保する狙いがあった。1970年5月には大阪証券取引所市場第二部に株式を上場し、1972年2月には大証1部へ指定替えとなった。1990年11月30日には東京証券取引所市場第一部へ上場している。
地価が急騰していた1970年、住友林業は不動産事業に乗り出し、仕入れた土地に住宅を建てれば利益が見込める局面に入った。業績も伸び、売上高は1970年9月期の567億円が1973年9月期には948億円となり、経常利益は10億円から43億円に増えた。しかし1972年に地価が暴落すると、大量の購入は控えていたにもかかわらず、痛手は4〜5年にわたって尾を引いたという。ところが第一次石油ショックを挟んだ1974年9月期は、売上高1,274億円に対し経常利益が12億円にとどまった。1975年9月期には売上高1,044億円に対し経常利益3億円まで低下している。木材の市況と土地の値動きという二つの相場に収益が振られる状態から、住友林業は土地を持たない事業へ構えを移していった。
1970年9月、住友林業はインドネシアの現地資本カルティメクス・ジャヤと合弁でクタイ・ティンバー・インドネシアを設立した。資本金は20億7,500万ルピア、出資比率は住友林業65%・カルティメクス・ジャヤ35%である。日本全体が資源確保に走り出す少し前の進出で、相前後して進出した三菱商事と並ぶ早さだった。戦時中に日本軍の依頼でインドネシアの森林管理にあたった経緯があり、現地の事情に通じていたことも下地になっている。林区は東カリマンタンのスブル地区に5万ヘクタールを得て、政府は年間10万2,000立方メートルの伐採を許可した。同じ月には浜田産業の株式の過半数も取得しており、外材を買う立場から、山を持って伐り出す立場へ移る手を国内外で同時に打った。
インドネシア政府は森林開発で国内に落ちる付加価値を増やそうと木材加工業を後押ししており、原木の確保を目的とした合弁会社クタイも加工にまで参入することになった。その約束を果たすための設備として、クタイは東部ジャワのプロボリンゴに合板工場を建てた。だが当時の現地では合板がほとんど売れず、米国は台湾・韓国が先に押さえ、欧州は参入の条件が厳しかった。日本向けも、20%の合板関税を原価の引き下げで吸収しきれなかった。八方が塞がったところへ、計画を知った現地資本が先に工場を建てて国内需要の開拓を始め、住友林業もこれに追随して内需重視へ転じた。1976年3月期には製品の100%が内需向けとなり、売上高は40億ルピアを超えている。長期的な木材資源の確保という1979年の経営の重点は、買い付けではなく現地に工場を置いて進んだ。
1975年10月、住友林業はスミリン住宅販売を東京と大阪に設立し、本格的に注文住宅事業へ進出した。第一次石油ショックの直後で立ち上がりは苦しく、日本の気候風土には木造住宅が最も適しているという判断が出発点にあった。長く木を扱ってきた蓄積があれば良いものを作れるという自信と、近代的な工法で原価を下げれば大きな事業になるという読みが動機である。ただし年間2,000戸を建てなければ黒字にはならないと当初から試算しており、実際に年間千数百戸へ届くまでの4〜5年は赤字が続いた。顧客からの注文を工務店へ丸投げして建てていたため苦情も多く、社員が住宅建設の要領を身につけるまでの3年ほどが最も苦しい時期となった。1979年9月期の売上構成は国内材27%・外材26%・建材40%で、住宅はまだ数字に現れる規模ではなかった。
1987年10月に住友林業ホームを本体へ吸収したとき、住友林業が得たのは注文住宅の売上ではなく、山から家までの全工程を一つの勘定に載せる帳簿である。山林の管理、伐採、輸入、流通、加工、そして建築。それまで子会社が担っていた最後の一段を内側へ引き取ったことで、工程と工程のあいだに埋もれていた無駄が初めて見える位置に来た。大西和男氏が上から下まで一貫して経験することの意味をそこに置いたのは、川下が儲かるからではない。顧客が何を望んでいるかという情報は、家を引き渡す人の手元にしか溜まらず、木を伐る側からは決して見えないからである。
続く数年で住友林業が進めたのは、大工の腕の中にあった判断を図面と機械へ移す作業だった。同じ設計図から大工10人が10通りの木拾いを出していた工程は、部材寸法の標準化とCADによって答えが一つに絞られ、刃柄材まで含めた全面プレカット化で1棟当たりの延べ人数が3割減った。だが技能のすべてが移せたわけではない。木の狂いの修正と和室の仕上げは人に残り、その人を確保するために1988年に四街道へ学校を建て、年3億円をかけて自前で育てた。ヒノキを100年、スギを80年かけて育てる会社が、大工を6年で育てる仕組みを併せ持つことになった。
1984年10月、東京と大阪に分かれていたスミリン住宅販売2社が合併し、住友林業ホームとなった。木造住宅は近代化が遅れ、大工の手仕事や個々の技能と経験に頼る部分の大きい産業である。住友林業は注文住宅を長く子会社の売る事業として育て、両社は1980年7月に住友林業ホーム・住友林業住宅へと商号を改めていた。1987年10月に住友林業ホームを吸収し、大阪殖林もあわせて合併したことで、林業という上流から住宅という下流までを一社で手がける体制が整った。こうした手仕事の工程を自社の損益に取り込むか否かが、住宅を売り物として扱うにとどめるか、事業として持つかを分けた。
同じ1984年10月、住友林業はニュージーランドにNelson Pine Industries Ltd.を設立した。クタイ・ティンバー以来2件目の海外製造拠点である。1990年6月にはインドネシアにPT. Rimba Partikel Indonesiaを設けた。増設の背景にあったのは、木材の調達構造そのものの変化である。日本の木材需要の7割は輸入で賄われ、住友林業の扱いもアメリカ・カナダ・マレーシア・ニュージーランド・チリの輸入材が多くを占めた。丸太の輸入は次第に減り、現地生産された製材品や合板といった二次・三次加工商品へ比重が移る。この流れに合わせて海外の生産拠点を増やし、輸入品の保管・配送・加工という国内の受け渡しにも手を加えた。売上高は1987年9月期の2,935億円から1988年9月期の3,943億円へ伸びた。
住友林業の山林は四国・九州・北海道・和歌山県に約4万ヘクタールあり、日本の国土のおよそ1,000分の1にあたる。住友林業が掲げた伐採の目標は、ヒノキで100年、スギで80年であり、通常の40〜50年を大きく超える。山林は人工林が多く、北海道のエゾマツ・カラマツを別にすると、木造住宅の資材に最も多く使われるヒノキとスギが大半である。考え方は法正林で、区画の中でヒノキの100年生が100分の1を占めるなら、毎年その100分の1を伐って同じ量を植え戻せば森は保たれる。こうした経営の結果、一般に出回る材よりずっと太く高値の付く木材が得られていた。1990年3月期の売上高は4,841億円、当期純利益は151億円で、その内訳は木材部門29%・建材部門34%・住宅部門37%と、およそ3分の1ずつだった。
1980年代半ば、住宅が年間2,000棟に届いた段階で、住友林業は建て方そのものを見直した。木造は手放さないが、職人頼みの在来のやり方では建築費がかさみ、腕の立つ大工も足りなくなるとみたからである。改革の最初の対象は部材の加工を大工に任せていた工程で、加工を機械に移して精度を上げれば、工場で完成形まで仕上げた部材を現場ではただ組むだけで済む。もっとも、10人の大工に同じ図面を渡せば答えも10通りに割れていたのが実情で、設計図から木材の必要量を割り出す木拾いの正確さがその前提になった。このため部材の寸法を標準化し、設計仕様をそろえ、それに合うCADシステムを整備して、答えが一つに定まる仕組みを築いた。
プレカットの導入には、大工が辞めると言い出す協力工務店まで現れ、現場の反対は予想を上回る激しさだった。住友林業はこれに対し、1985年に100%出資の直系工務店スミリン建設を設けた。プレカットで手間が減るぶん大工の工賃は下がる計算だったため、その一部を本体で補う条件もあわせて用意した。スミリン建設は大工を社員として抱え、合理化の案を現場で試して説得の材料をそろえるモデル工務店であり、扱いは他の協力工務店と変わらないものとされた。CADのデータを協力工場の数値制御機械とつなぐ作業には2年を要し、現場で大工が刻んでいた刃柄材もほぼ100%がプレカットに切り替わった。1棟当たりの延べ人数は3割削減されている。設計データを工場のプレカットへ渡すCAMの展開も進み、人手不足への備えと品質の安定という二つの効果が現れている。
1988年4月、住友林業は千葉県四街道市で住友林業建築技術専門校を開き、同校は職業能力開発促進法に基づく訓練校として自治体から認定された。運営費や学生の人件費などで、年に3億円の経費がかかる。他校にない特色は、高校を出たばかりの生徒が自分たちの手で毎年3棟前後を建て、それを住友林業が建売住宅として売る点にある。卒業生の行き先は直系工務店のスミリン建設と大阪スミリン建設で、社員大工は外部木工事・内部木工事・仕上げと難しさに応じた3段階に分けられ、新人はその最初から始める。3人単位のストラクチャーチームを組み、作業の順番と投入人数を細かく指示したマニュアルに従って現場を渡る。新人の戦力は0.6人分から半年ごとに0.1ずつ増え、各段を2年で卒業すれば最短6年ですべてをこなせる大工が育つ。
『住友林業の家』の強みは、在来工法の木造住宅を施主の希望どおりの設計で、坪当たり43万円からという価格で建てる点にあった。1棟の全国平均は約2,800万円で、坪50万円前後の売れ筋プレハブ住宅と競い合っても引けを取らない条件がそろっていた。売上の6割を建て替え需要が占め、景気の落ち込みに左右されにくかったこともその裏付けとなった。こうして住宅部門は1992年3月期に約7,700棟・約2,300億円を売り上げ、前期と比べて棟数で6.9%、金額で11.3%増え、5年間では2.7倍になった。社長の大西和男氏は、注文住宅を顧客と一緒に作り上げるものととらえ、川上・川中だけを担っていた時期とは得られる情報の量が違うと見ていた。作る側の都合で商品を開発すれば顧客の求めからずれるとして、同氏は自由設計を基本に据え続ける方針を示した。
リフォーム事業へ本格的に乗り出す受け皿となったのは、1988年10月設立のスミリンメンテナンスで、同社は1991年4月に住友林業ホームテックへ社名を変えた。同じ時期、顧客満足活動の先頭に立った専務の山口博人氏は、管理職研修を通じて顧客満足の意味をつかんでいる者が3割にすぎないと知ると、各地の支店の朝礼に足を運び、引き渡しまでより引き渡し後30年の付き合いを大切にするよう説いて回った。建て替えやリフォームの需要はこの活動から掘り起こされ、山口氏は1994年6月に社長となった。就任の時点で13年連続の経常増益が続いていた。1995年4月には工務店と組むイノスグループ事業も始まり、建てた後の顧客と地域の工務店の双方を抱える網が広がった。
1997年3月期、住友林業の売上高は8,179億円、経常利益は255億円に達し、いずれもこの時期の頂点となった。ところが翌1998年3月期は売上高7,137億円・経常利益67億円で、利益が4分の1近くまで縮小した。1999年3月期は売上高6,206億円・経常利益63億円で、当期純利益は1億円にとどまった。持ち家建設全体に占める住友林業のシェアは1993年時点で2%にとどまり、国内の住宅着工が細れば逃げ場は乏しい。木材の輸入も、熱帯雨林の減少と米国・カナダでの野生動物保護による伐採量の抑制で、今後増えていくことはまずないと見込まれていた。川上から川下までを一本につないだ体制は、住宅着工という一つの変数へ収益のほとんどを預ける構造でもあった。
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事実根拠:出所(住友林業)