三菱商事 の歴史

更新:

創業 1954年
創業者 岩崎彌太郎
創業地 東京都
創業・決断・現況・競合について
創業
1954年7月、三菱商事は不二商事・東京貿易・東西交易の3社を吸収合併し、資本金6億5,000万円の総合商社として新発足した四社合同で総合商社として再結集し。母体は1950年4月に資本金3,000万円で設立された不動産賃貸業の光和実業で、1952年8月に財閥商号に関する法令に基づき三菱商事へ商号を戻した。源流は1870年に岩崎彌太郎氏が興した九十九商会だが、旧三菱商事はGHQの財閥解体で約150社へ分割され、商権はいったん断ち切られている。1954年6月には東京証券取引所へ株式を上場した。四社合同で商号は戻ったものの、取引先との関係まで解体前に復元されたわけではなく、商権は一件ずつ取り戻すところから始まった。
決断
口銭を取るトレーディングから、権益と長期契約の両方を握る側へ回った。1969年12月、ブルネイのLNG開発へ資本を入れ、シェル45%・三菱商事45%・ブルネイ政府10%の出資比率で合弁契約を締結した。採掘技術は持たないまま生産会社と対等の権益を得て、半年後の1970年6月に東京電力・東京瓦斯・大阪瓦斯と年間365万トン・20年の長期契約を結んだ。配当が次の投資の原資になる循環がここから始まった。一方で取扱高の量を競う体質は残り、1990年3月の日本企業初の大型LBOで米アリステック・ケミカルを取得したは黒字化まで6年を要している。1995年、槙原稔社長は取扱高で序列を競う経営から訣別し、特金・ファントラの含み損など2年で約1,600億円を処理し、代表権を持つ役員数を半減させた。商社を測る物差しが、取扱高から利益と資本効率へ移った。
現況
利益の半分近くを、ガスと金属資源が生んでいる。2025年3月期のセグメント利益9,087億円のうち金属資源が2,278億円、地球環境エネルギーが1,986億円を占め、この2つで47%にあたる。2026年3月期の売上収益は18兆9,159億円、親会社株主に帰属する当期純利益は8,004億円である。川下では2019年11月に中部電力と共同で蘭エネコを約5,000億円で買収し、発電から小売りまでを一貫して持つ形へ広げた。一方2025年8月には落札済みの国内洋上風力3海域から資材価格の高騰で採算が崩れたとして撤退した。同じ年度に総額1.2兆円で米シェールガス開発会社エーソンを取得し、資本を天然ガスの上流へ戻している。2024年4月からは事業ポートフォリオの入れ替えを本格化させ、日本KFCを売却しローソンを連結から外した。長期保有を前提にしていた事業投資が、期限を持つ資産へ変わった。
競合
5大商社で唯一、資源の権益と国内の需要家を同時に持っている。2026年3月期の親会社株主に帰属する当期純利益は、伊藤忠商事9,003億円、三井物産8,340億円に対し三菱商事8,004億円で、首位ではない。それでも1969年のブルネイLNG以来、権益と電力・ガス会社との長期契約を組みで押さえる型を保ち、2000年1月には再建中のダイエーからローソン株20%を取得し、消費の現場まで商流を伸ばした。一方、2011年11月のチリ銅山AASへの約4,200億円の投資は市況に直結する資産で、2016年3月期に2,712億円の減損となり、1969年度に連結決算を始めて以来初めての最終赤字を招いた。長期契約で価格の決まる燃料と、市況で値の動く金属とでは、同じ権益でも結末が分かれた。
長期業績の推移 1954〜2026年
三菱商事:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 会社設立の経緯

海運から分かれた貿易業と、三菱合資営業部の独立

三菱の商事活動は、1870年に岩崎弥太郎氏が土佐藩の所有船の払い下げを受けて九十九商会を興したことに始まる。社章のスリーダイヤモンドには、岩崎家の紋章である三階菱を図案化したという説と、岩崎家の属した土佐藩山内家の紋章である三柏を図案化したという説がある。1881年には石炭を郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)を通じて輸出し、本格的に貿易業へ参入した。1893年、財閥としての基礎が固まったことから三菱社は三菱合資会社へ改組され、商事部門はその管轄下に置かれて三菱合資営業部となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「三菱商事」の項
    • [1]1870年 岩崎弥太郎氏が土佐藩の所有船の払い下げを受けて九十九商会を設立
    • [2]社章は岩崎家の紋章「三階菱」を図案化した説と、土佐藩山内家の紋章「三柏」を図案化した説がある
    • [3]1881年 石炭を郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)を通じて輸出し本格的に貿易業へ進出
    • [4]1893年 三菱財閥の基礎が固まり三菱社を改組して三菱合資会社が発足、商事部門は三菱合資営業部となった

1918年4月、三菱合資会社の営業部門が資本金1500万円で分離し、旧三菱商事が発足した。同年5月に営業部の事業を継承し、本店に総務・石炭・金属・雑貨・船舶の五部門を置いている。国内品の内地販売よりも対外輸出入取引や外国間取引に重点を置く構えで、昭和10年代には三井物産と並ぶ二大貿易商社として海外へ取引を広げた。開戦時の1941年、三菱本社傘下の事業会社は32社・払込資本金20億5000万円、ほかに支配会社135社・同6億500万円を数え、合計27億円に達している

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「三菱商事」の項
    • [5]旧三菱商事の設立時資本金 1500万円
    • [6]1918年(大正7年)4月 資本金1500万円で旧三菱商事が設立され、同年5月に三菱合資の営業部の事業を継承して発足
    • [7]設立当初 本店に総務・石炭・金属・雑貨・船舶の五部門を設置
    • [8]内地販売よりも対外輸出入取引や外国間取引に重点、昭和10年代には三井物産と並ぶ二大貿易商社
  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「3章 戦後の混乱の中で」
    • [9]開戦時(1941年)三菱本社傘下の事業32社・払込資本金20億5000万円、その他支配会社135社・6億500万円、合計27億円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「三菱商事」の項
    • [1]1870年 岩崎弥太郎氏が土佐藩の所有船の払い下げを受けて九十九商会を設立
    • [2]社章は岩崎家の紋章「三階菱」を図案化した説と、土佐藩山内家の紋章「三柏」を図案化した説がある
    • [3]1881年 石炭を郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)を通じて輸出し本格的に貿易業へ進出
    • [4]1893年 三菱財閥の基礎が固まり三菱社を改組して三菱合資会社が発足、商事部門は三菱合資営業部となった
    • [5]旧三菱商事の設立時資本金 1500万円
    • [6]1918年(大正7年)4月 資本金1500万円で旧三菱商事が設立され、同年5月に三菱合資の営業部の事業を継承して発足
    • [7]設立当初 本店に総務・石炭・金属・雑貨・船舶の五部門を設置
    • [8]内地販売よりも対外輸出入取引や外国間取引に重点、昭和10年代には三井物産と並ぶ二大貿易商社
  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「3章 戦後の混乱の中で」
    • [9]開戦時(1941年)三菱本社傘下の事業32社・払込資本金20億5000万円、その他支配会社135社・6億500万円、合計27億円

分割ではなく完全な解散を命じたGHQの覚書

1945年9月25日、経済科学局長のクレーマー大佐が三菱本社を訪れ、自発的に解体するよう申し入れた。応対した三菱商事社長の田中完三氏は、病気療養中の本社社長・岩崎小彌太氏に報告し、10月5日に陳述書を提出している。小彌太氏は『自分は一万三〇〇〇名の株主の信頼に背き、自発的に解散することは信義上からも断じて為しえない』との考えを崩さなかった。安田が10月13日、三井と住友が10月22日に自発的解体を受け入れ、残るは三菱だけとなる。10月29日に大蔵省が四大財閥の代表を集めた席でも三菱は留保し、理事長の船田一雄氏が小彌太氏の了承を得ないまま受諾を決めた。小彌太氏は同年12月2日、67歳で世を去った。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「3章 戦後の混乱の中で」
    • [10]1945年9月25日 経済科学局長クレーマー大佐が三菱本社を訪れ自発的解体を申し入れ
    • [11]田中完三氏が三菱商事社長としてGHQに応対、岩崎小彌太本社社長は病気療養中
    • [12]1945年10月5日 三菱本社が陳述書をクレーマー大佐へ提出
    • [13]1945年10月13日 安田、10月22日 三井・住友が自発的解体を受け入れ
    • [14]1945年10月29日 大蔵省が四大財閥代表を招集、三菱のみ留保。船田一雄理事長が受諾を決めた
    • [15]岩崎小彌太氏は1945年12月2日に67歳で死去

1946年12月、三菱商事は持株整理委員会の第三次指定を受けた。存続すら危ぶまれると見た社内はA・B・Cの三つの分割案を自ら作ってGHQへ提出し、さらに強硬な方針が伝えられたため10社分割案まで用意している。ところが1947年7月5日、大蔵省へ呼び出された渉外部長が手渡された7月3日付の覚書は、数社への分割という措置すら承認せず、三井物産とともにあらゆる形での存続を許さない完全な解散を命じるものだった。覚書は復活を防ぐため、過去10年間に役員や部長を務めた者を新会社が2名以上雇うことを禁じ、100名を超える従業員が新会社を組織すること、従来の事務所を占有すること、三菱商事に類似した商号を使うことも併せて禁じた

  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「3章 戦後の混乱の中で」
    • [16]1946年12月 三菱商事が持株整理委員会の第三次指定を受けた
    • [17]社内でA・B・Cの三分割案を作成しGHQへ提出、さらに10社分割案まで作成
    • [18]1947年7月5日 大蔵省で渉外部長が7月3日付GHQ覚書の写しと訳文を手交された
    • [20]覚書の復活防止条件——過去10年の役員・部長を2名以上雇用禁止、100名超の従業員による新会社組織の禁止、従来事務所の占有禁止、類似商号の使用禁止
  • 三菱商事 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1947年7月 連合国最高司令官により解散の指令を受けた

法的な解散日は1947年11月30日だが、この日が日曜であったため前日、高垣勝次郎社長が社員を前に別れの挨拶をした『一生の運命をこの会社とともにせんと念願しておりましたわれわれとしては、中途にして以上のごとき悲運に遭遇し、離散のやむなきにいたったことは、遺憾至極であります』。当時の従業員約4100名は、清算事務に残った若干を除いて120以上の新会社へ分散した。旧三菱商事の清算そのものは長く続き、結了したのは1987年11月であった

  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「3章 戦後の混乱の中で」
    • [21]1947年11月30日が法的な解散日、日曜のため前日に高垣勝次郎社長が別れの挨拶
    • [22]解散時の従業員 約4100名、清算事務の残留者を除き120以上の新会社へ分散
  • 三菱商事 有価証券報告書(設立の経緯)
    • [23]旧三菱商事は1947年11月に解散し清算手続に入り、1987年11月に清算結了
  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「3章 戦後の混乱の中で」
    • [10]1945年9月25日 経済科学局長クレーマー大佐が三菱本社を訪れ自発的解体を申し入れ
    • [11]田中完三氏が三菱商事社長としてGHQに応対、岩崎小彌太本社社長は病気療養中
    • [12]1945年10月5日 三菱本社が陳述書をクレーマー大佐へ提出
    • [13]1945年10月13日 安田、10月22日 三井・住友が自発的解体を受け入れ
    • [14]1945年10月29日 大蔵省が四大財閥代表を招集、三菱のみ留保。船田一雄理事長が受諾を決めた
    • [15]岩崎小彌太氏は1945年12月2日に67歳で死去
    • [16]1946年12月 三菱商事が持株整理委員会の第三次指定を受けた
    • [17]社内でA・B・Cの三分割案を作成しGHQへ提出、さらに10社分割案まで作成
    • [18]1947年7月5日 大蔵省で渉外部長が7月3日付GHQ覚書の写しと訳文を手交された
    • [20]覚書の復活防止条件——過去10年の役員・部長を2名以上雇用禁止、100名超の従業員による新会社組織の禁止、従来事務所の占有禁止、類似商号の使用禁止
    • [21]1947年11月30日が法的な解散日、日曜のため前日に高垣勝次郎社長が別れの挨拶
    • [22]解散時の従業員 約4100名、清算事務の残留者を除き120以上の新会社へ分散
  • 三菱商事 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1947年7月 連合国最高司令官により解散の指令を受けた
  • 三菱商事 有価証券報告書(設立の経緯)
    • [23]旧三菱商事は1947年11月に解散し清算手続に入り、1987年11月に清算結了

第二会社による商号の保存と、四社合同への道

1950年4月1日、旧三菱商事が発起人となり、特定の債権債務を継承して処理しながら営業する第二会社として光和実業が設立された。資本金は3000万円、事業目的は不動産の賃貸業・倉庫業・運送取扱業・保険代理業に限られている。同年11月には三井物産、三菱商事両社の旧役職員の就職制限等に関する政令』が閣議決定され、これを契機に合同を目指す動きが急速に進み始めた。1952年4月にサンフランシスコ平和条約が発効すると三菱の商号とスリーダイヤモンドの商標が自由に使えるようになり、同年8月、光和実業は三菱商事の商号を登記して社名を取り戻した

  • 三菱商事 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1950年4月1日 光和実業株式会社を設立(資本金3千万円、事業目的は不動産の賃貸業・倉庫業・運送取扱業・保険代理業)
    • [25]光和実業の資本金3000万円、事業目的は不動産の賃貸業・倉庫業・運送取扱業・保険代理業
    • [28]1952年8月 財閥商号に関する法令に基づき商号を三菱商事株式会社に変更
  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「4章 三菱グループの結集」
    • [26]1950年11月「三井物産、三菱商事両社の旧役職員の就職制限等に関する政令」が閣議決定され合同への動きが進んだ
    • [27]1952年4月 サンフランシスコ平和条約発効で三菱の商号とスリーダイヤモンドの商標が使用可能に

一方、解散で分かれた新会社の再編も進み、1952年には12社が不二商事・東京貿易・東西交易の三社に集約された。残るはこの三社と光和実業の合同であったが、規模も収益力も異なる会社をまとめる交渉は容易に進まなかった『小異を捨てて、大同に就く』を合い言葉に、旧三菱商事の社長を務めた田中完三氏・服部一郎氏・高垣勝次郎氏の三長老が主導し、四社の首脳が努力を重ねた結果、1953年12月に合意が成り、翌1954年1月に合併契約書へ調印した

  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「4章 三菱グループの結集」
    • [29]1952年 旧商事系の12社が不二商事・東京貿易・東西交易の三社に集約
    • [30]合同への道は簡単でなく、いろいろと曲折があった
    • [31]旧三菱商事社長を務めた田中完三氏・服部一郎氏・高垣勝次郎氏の三長老が合同を主導
    • [32]1953年12月に合意が成立し、1954年1月に合併契約書へ調印
  • 三菱商事 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1950年4月1日 光和実業株式会社を設立(資本金3千万円、事業目的は不動産の賃貸業・倉庫業・運送取扱業・保険代理業)
    • [25]光和実業の資本金3000万円、事業目的は不動産の賃貸業・倉庫業・運送取扱業・保険代理業
    • [28]1952年8月 財閥商号に関する法令に基づき商号を三菱商事株式会社に変更
  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「4章 三菱グループの結集」
    • [26]1950年11月「三井物産、三菱商事両社の旧役職員の就職制限等に関する政令」が閣議決定され合同への動きが進んだ
    • [27]1952年4月 サンフランシスコ平和条約発効で三菱の商号とスリーダイヤモンドの商標が使用可能に
    • [29]1952年 旧商事系の12社が不二商事・東京貿易・東西交易の三社に集約
    • [30]合同への道は簡単でなく、いろいろと曲折があった
    • [31]旧三菱商事社長を務めた田中完三氏・服部一郎氏・高垣勝次郎氏の三長老が合同を主導
    • [32]1953年12月に合意が成立し、1954年1月に合併契約書へ調印

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歴史年表 1918〜2026年

三菱商事の沿革1918〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1870〜1953年九十九商会から旧三菱商事へ、解散が断ち切った商権三菱の営業部門を「三菱商事」として分離★★
光和実業の商号で設立
三菱商事に商号変更
1954〜1968年四社合同での再結集と、中央集権から商品本部制へ高垣勝次郎東京証券取引所に株式を上場
高垣勝次郎創業——GHQに解体された旧三菱商事から1954年の四社合同

三菱商事の現在の法人は、1954年7月1日の四社合同で総合商社として再発足した。1947年11月にGHQの財閥解体で旧三菱商事が解散し、退社した役職員が約150社の新会社に分かれたのち、清算事務を継いだ第二会社の光和実業が1952年に三菱商事へ商号を戻し、1954年に不二商事・東京貿易・東西交易の3社を吸収合併して資本金6億5000万円で総合商社の営業範囲を回復した。

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★★★
藤野忠次郎商品本部制を導入・事業投資を本格化
藤野忠次郎資源開発への参画を通じた、商いから事業投資への転換

1967年12月、三菱商事は数億ドル規模のブルネイLNG開発への参画を決断し、1969年に三者合弁の生産会社ブルネイLNG社を設立した経営判断。口銭を得るトレーディングから、資源開発に資本を投じて権益と長期契約を握る事業投資へ、商社の事業モデルを切り替える第一歩となった。

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★★★
藤野忠次郎MITSUBISHI DEVELOPMENT PTY LTDを設立
1969〜1999年資源開発への参画と、配当に支えられた収益構造田部文一郎TRI PETCH ISUZU SALES COMPANYを設立
三村庸平サウディ石油化学合弁に調印
三村庸平Kプランを策定・選択と集中を遂行
諸橋晋六チリのエスコンディーダ銅鉱山開発プロジェクト開始
諸橋晋六日本企業初の大型LBOと6年越しの黒字化

1990年3月、三菱商事は米アリステック・ケミカルを総額8億8000万ドルで買収した。買収先の資産を担保に資金を調達するLBOを用い、日本企業の大型買収では初の手法となった。買収直後の景気後退で赤字に沈んだ会社を、三菱商事は6年をかけて黒字へ建て直した。

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★★★
槙原稔サハリン沖原油・LNG開発プロジェクトに参画
槙原稔社長主導のトップダウン型の改革として進めた経営体制の作り替え

1990年代半ば、三菱商事は槙原稔社長のもとで、売上高(取扱高)の大きさを競う"GNPカンパニー"から利益の質を重んじる経営へ転じた。就任1年目に財テクの後始末で約660億円の特別損失を処理し、2年目に事業投資を全面的に見直して不採算事業を整理、意思決定機構にもトップダウンでメスを入れた。特別損失は2年間で合計約1600億円に達した。

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★★★
2000〜2026年川下への進出と、資源の振幅、事業の入れ替え佐々木幹夫取引先からの株式取得と、資本業務提携への踏み込み

2000年、三菱商事は経営再建中のダイエーからコンビニ子会社ローソンの株式を取得し、資本業務提携を締結した。SPCが発行する株式交換権付き私募債を約1,700億円で引き受け、上場時に20%を握ってダイエーに次ぐ第2位株主となった。EC・金融の拠点として全国の店舗網を得る狙いだった。

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★★★
佐々木幹夫豪州原料炭合弁会社の権益追加取得
佐々木幹夫執行役員制度を導入
佐々木幹夫取締役会の諮問機関としてガバナンス委員会を設置
佐々木幹夫日商岩井と共同新設分割でメタルワンを設立★★
小林健AAS社の株式を取得(チリ銅山)
小林健セルマック社を買収(ノルウェー・サケ養殖)
小林健約4,200億円で握った銅権益を、市況低迷のなかで2,712億円減損した

三菱商事は2011年11月10日、チリ国銅資源権益保有会社アングロ・アメリカン・スール社の株式24.5%を、53.9億米ドル(約4,200億円)で取得した。アングロ・アメリカン社からの打診を受けたもので、ロスブロンセス銅鉱山、エルソルダド銅鉱山、チャグレス銅製錬所と大型の未開発鉱区を持つ資産である。 だが銅市況の低迷が続き、2016年3月期に中長期の銅価格見通しを引き下げた結果、持分法で会計処理される投資として271,194百万円の減損損失を持分法による投資損益を通じて計上した。所有者に帰属する当期純利益は1,494億円の損失となった。

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★★★
垣内威彦中部電力と8対2で組み、欧州の発電から小売りまでを丸ごと抱える選択

2020年3月24日、中部電力と共同で設立したDiamond Chubu Europe B.V.を通じ、入札により欧州で総合エネルギー事業を展開する在蘭Eneco Groep N.V.の全株式を取得し、同日付で連結子会社とした。投じた額は約5,000億円、取得日時点の対価の公正価値は488,568百万円である。Diamond Chubu Europe B.V.に対する三菱商事の議決権所有割合は80%で、残る20%は中部電力が持つ。連結財務諸表には、この20%にあたる98,609百万円が非支配持分として計上されている。

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★★★
中西勝也監査役会設置会社をやめ、決定の権限を執行へ委ね、諮問機関を二つに割った選択

2024年6月21日の定時株主総会で定款の一部変更が承認され、三菱商事は同日付で監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移った。監査役5名は監査等委員である取締役となり、取締役会は9名から15名、社外取締役は4名から7名に増えている。同じ日に、取締役会の諮問機関であったガバナンス・指名・報酬委員会を、コーポレートガバナンス・指名委員会と報酬委員会の二つに分けた。 移行に伴い投融資案件の付議・報告の定量基準を引き上げ、重要な業務執行の決定の一部を業務執行取締役へ委ねる形に改めている。

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中西勝也連結で抱えた生活産業の2社を、共同経営と全量売却で持ち替えた選択

2024年、三菱商事は連結で抱えてきた生活産業の2社を相次いで持ち替えた。ローソンはKDDIによる公開買付けと株式併合によるスクイーズアウトを経て、2024年8月15日付で両社の出資比率を各50%へ調整し、単独支配を喪失して共同支配企業となった。日本KFCホールディングスは、同社が実施した自己株式の取得に応じて保有株式の全量を売却した。 資源高で当期純利益が1兆円台に乗せた直後の判断であり、ローソンの持ち替えでは残存持分の再評価益など1,821億円を計上している。

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★★★
中西勝也総取りした国内洋上風力3海域からの撤退

2025年8月、三菱商事が2021年の第1ラウンドで獲得した国内洋上風力発電の3案件からの撤退を表明した経営判断。秋田県由利本荘市沖、能代市・三種町・男鹿市沖、千葉県銚子市沖の3海域はいずれも開発段階にとどまり、最終投資決定に至らないまま手放した。 撤退に先立つ2025年3月期には、共同支配企業宛ての持分法で会計処理される投資が全額損失として処理され、法的若しくは推定的義務の範囲での追加的な損失と合わせて、持分法による投資損益に51,255百万円、有価証券損益に1,183百万円が計上された。

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★★★
中西勝也5,200百万米ドルを投じて米国シェールガスの上流を押さえる資本配分の入れ替え

2026年1月16日、米国テキサス州・ルイジアナ州でシェールガスの権益を保有し、その開発・生産・販売等を手掛けるAethon III LLC社、Aethon United LP社及び関連する会社等(エーソン)の株式等の全持分を、既存出資者から取得することで合意し、株式譲渡契約を締結した。取得価額は5,200百万米ドル、取得後の議決権所有割合は100%となる。関係当局の承認など契約に定めている前提条件が満たされると、エーソンは三菱商事の完全子会社となる見込みで、取得はまだ完了していない。

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★★★
出典・参考 5件
出典・参考
  • 三菱商事 有価証券報告書【沿革】
  • 三菱商事 有価証券報告書(設立の経緯)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「三菱商事」の項
  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「3章 戦後の混乱の中で」
  • 私の三菱昭和史(大槻文平 編著/東洋経済新報社、1987年)「4章 三菱グループの結集」

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