1942年〜 戦後食生活洋風化のなかでの業界再編と日本ハム誕生
日本ハムの業績推移:単体
- 1942年 徳島食肉加工場を創業
- 1945年 工場が戦災で焼失
- 1945年 事業を再開
- 1951年 徳島ハムに法人化
- 1956年 大阪工場を新設(業界初の鉄筋コンクリート工場)
- 1963年 鳥清ハムを合併し日本ハムに商号変更
- 1973年 日本ハム球団を買収
総勢7人から始まった食肉加工業の出発
1942年3月、創業者の大社義規氏は徳島市寺島本町に総勢7人の食肉加工場を設立した。旧制高松高商を家庭事情で中退したのちに叔父の藤沢克太郎氏が理事長を務める香川県養豚組合で営業を手伝っていた26歳の大社氏は、「こうなったら、おれが頑張って金を儲け、家を再興してやる」(日経新聞連載 私の履歴書 1977/07)という意地を原動力に独立した。1県1業1社の経済統制で隣県の徳島にハム工場が一つもなかった点が独立先に徳島を選んだ理由で、大社氏は「志望とか選択とかとは関係のない全くの偶然によるもの」(日経ビジネス 1987/6/15)と後年振り返った。成長産業に偶然入ったという楽観的な解釈が、以後の経営の基調を作った。
養豚組合時代に京都出張所を任された大社氏は、市内の肉屋をしらみつぶしに歩き、1年後には市内の約半数と取引にこぎつけた。「熱心にやったら何でもできる」(日経ビジネス 1987/6/15)という確信を得ている。1945年に工場は戦災で焼失したが、百十四銀行取締役営業部長の中條氏から「伸びる産業だから、大いにやりなさいよ」(日経ビジネス 1987/6/15)と励まされ、1948年に同市内で加工場を再建した。1952年にはパン食の普及とともにプレスハムやウインナー・ソーセージの家庭需要が急拡大したことが全国紙でも報じられており(読売新聞 1952/06/06)、戦後の食生活洋風化が市場の基調となった。焼け跡からの再出発で設備と職人集団を整え直した姿勢が、のちの業界再編を主導する推進力の原点となった。 [1][2]
- 日経ビジネス 1987年6月15日
- [1]百十四銀行取締役営業部長の中條氏が大社を励ました
- 読売新聞 1952年6月6日
- [2]1952年にプレスハムやウインナー・ソーセージの家庭需要が急拡大したと全国紙で報じられた
1951年12月に資本金150万円で徳島ハム株式会社として法人化し、1956年5月に業界初の鉄筋コンクリート工場を大阪に建設した。「命運を賭けたというと、少々大げさかもしれないが、この大阪進出の成功は大きな自信になった」(日経新聞連載 私の履歴書・大社義規氏 1977/07)と大社氏は後年書き、地方企業の全国展開への転換点と位置づけた。続いて1960年に広島・旭川、1962年に諫早、1963年に関東進出の基地として茨城に工場を建設し、1961年10月に大阪証取第二部、1962年2月に東京証取第二部へ相次いで上場した。徳島の地方企業から上場食肉メーカーへの転身は、需要拡大と設備投資をにらんだ積極姿勢と、百十四銀行に代表される地元金融機関との強固な結びつきに支えられ、後の全国再編戦略の土台を作った。 [3][4][5]
- 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
- [3]1951年12月に資本金150万円で徳島ハム株式会社として法人化した
- [4]1961年10月に大阪証券取引所第二部に上場した
- [5]1962年2月に東京証券取引所第二部に上場した
- 日経ビジネス 1987年6月15日
- [1]百十四銀行取締役営業部長の中條氏が大社を励ました
- 読売新聞 1952年6月6日
- [2]1952年にプレスハムやウインナー・ソーセージの家庭需要が急拡大したと全国紙で報じられた
- 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
- [3]1951年12月に資本金150万円で徳島ハム株式会社として法人化した
- [4]1961年10月に大阪証券取引所第二部に上場した
- [5]1962年2月に東京証券取引所第二部に上場した
業界防衛の論理が生んだ「日本ハム」
1963年8月、旭化成工業の宮崎輝社長の提案を受けて、徳島ハムは業界4位の鳥清ハムを吸収合併し、本社を大阪へ移して資本金7億320万円の日本ハムへ社名を変更した。鳥清ハムは1930年に辻本満氏が和歌山市で個人創業し1954年に鳥清畜産工業へ改組した同業大手で、合併時の資本金は徳島ハム4億320万円・鳥清ハム3億円が合算された(企業の歴史(明治百年)1968)。米スイフト社を筆頭とする欧米大手の日本市場参入への警戒感から、国内再編で外資進出に備える防衛的な論理が働いた。大社氏は合併直後に「食肉加工業は小さな狭い部分しかやっていない。市場占拠を広くし、消費者と直結するためのセールスマンの必要性のため、徳島ハムと鳥清ハムが合併した」(野田経済 1963/11)と語り、関東進出の基地となる茨城工場への一本化によるコスト削減も統合の狙いに挙げた。合併後のポジションは3位から一躍トップへ躍進したが、労使紛争と新ブランド「ニッポンハム」の浸透遅れで業績低迷は4〜5年続き、急速な規模拡大は必ず統合コストを伴うというパターンを露呈した。 [6][7][8][9][10][11]
- 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
- [6]1963年8月に鳥清ハムを合併し日本ハムへ社名変更した
- [7]合併・社名変更時の資本金は7億320万円だった
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
- [8]合併に伴い本社を大阪へ移転した
- [9]鳥清ハムは1930年に辻本満が和歌山市で個人経営の食肉加工工場として開設した
- [10]鳥清ハムは1954年に鳥清畜産工業へ改組した
- [11]合併時の資本金は徳島ハム4億320万円・鳥清ハム3億円で合算後7億320万円となった
スイフト社とは1962年に資本提携を打診されたものの大社氏は資本受け入れを拒否し、1969年に技術提携のみを締結した。独立を維持したまま「スイフトローフ」「ビーフ&ポーク」などの新商品開発にスイフトの技術を活用したこの選択は、のちに資本は渡さず技術と市場を取る姿勢として海外M&Aにも受け継がれた。1968年に消費者の声を経営に反映する「奥様重役」制度を発足させ、約4300人の営業マンによる全国規模のルートセールス網と組み合わせて、1980年代の日経ビジネス マーケティング実力度調査では2年連続トップの評価を獲得した。同業者から強引と評されるほど攻撃的なルートセールス(日経ビジネス 1989/4/10)が、奥様重役の商品開発と合流して、工場・ブランド・流通を日本ハム自身が握る体制を固めた。
- 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
- [6]1963年8月に鳥清ハムを合併し日本ハムへ社名変更した
- [7]合併・社名変更時の資本金は7億320万円だった
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
- [8]合併に伴い本社を大阪へ移転した
- [9]鳥清ハムは1930年に辻本満が和歌山市で個人経営の食肉加工工場として開設した
- [10]鳥清ハムは1954年に鳥清畜産工業へ改組した
- [11]合併時の資本金は徳島ハム4億320万円・鳥清ハム3億円で合算後7億320万円となった
球団買収がブランドを全国に届けた十余年
1973年1月、日本ハムは拓北ホームフライヤーズを買収して日本ハム・ファイターズを発足させた。大社氏は買収を担った大成専務に「田舎から高校生が出てくるやろ、それが夏は暑い車に乗って営業をやるんや。よその営業マンにない楽しみを与えたい」(日経ビジネス 1989/4/10)と狙いを説明し、合併後の労使紛争が収まった時期に従業員の気持ちを一つにする共通目標として球団買収を位置づけた。財務的な収益性よりも販売組織の統合と営業現場の活性化を優先した投資で、買収時50万人だった観客動員数は1989年に245万人とパリーグ断トツに達し、万年赤字の球団経営も前年から黒字化した。大社氏は後年「もし野球をやらんだら、このテンポでは成長していかなかった」(日経ビジネス 1989/4/10)と振り返り、プロ野球球団という広告装置が食肉事業の全国浸透を加速させた。 [12]
- 日経ビジネス 1989年4月10日
- [12]1989年の観客動員数は245万人でパリーグ断トツだった
1976年にはルクセンブルク証取に大陸預託証券を上場し、欧州の資本市場にも参加して海外から資金を調達する仕組みを整えた。1989年時点で世界の食肉企業ランキング第3位と評される規模に達した背景には、球団経営・全国営業網・消費者向けマーケティングという三つの投資が並行して動いた第1期の蓄積があった。翌1977年に日本の食肉企業として初の本格的な海外食肉会社買収に動く素地は、当時の資金調達力と国内における経営基盤の厚みが用意した。1960年代に築いた国内首位のポジションと、1970年代に深めた全国ブランドが組み合わさり、続く海外投資フェーズを支える原資と正統性の両方が同時に準備された。 [13]
- 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
- [13]1976年にルクセンブルク証取に大陸預託証券を上場した
- 日経ビジネス 1989年4月10日
- [12]1989年の観客動員数は245万人でパリーグ断トツだった
- 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
- [13]1976年にルクセンブルク証取に大陸預託証券を上場した