1889年に黒川栄次郎氏と上田伊八氏が福井市に設けた京越組が起源。
輸出羽二重の精練から出発し、1975年にトヨタ自動車へ自動車内装材を納め始めて委託加工の下請けから一貫生産へ転じた。自動車内装材で世界首位に立ち、エレクトロニクスや人工衛星向け部材にも広がる繊維メーカーである。
前身は1889年設立の京越組。
1923年に前身5社の統合で福井精練加工を設立し、1973年にセーレンへ商号を変更した。2005年にKBセーレンを設立し、カネボウ繊維事業の営業を譲受。同業の事業承継による水平統合を進めた。
1887年(明治20年)に羽二重の生産機運が高まった時点で、福井市内には輸出向けの精練を営む業者が1軒もなかった。藩政期から染色は京都や金沢への委託に依存し、精練も設備と技術を欠く紺屋任せの状態である。機業家は羽二重商の上田伊八氏を通じて京都の金山練工場へ生機を送ったものの、敦賀・長浜・大津を乗り継ぐ輸送に日数と運賃を要した。1888年秋に地元で始まった精練は家内工業にとどまり、未精練の羽二重が滞貨として積み上がった。1889年4月、金山練工場の二男で24歳の黒川栄次郎氏と上田伊八氏が合資で京越組を設け、宝永上町で県内初の本格的な精練を開始。羽二重の生産はその後も拡大し、明治末には福井県最大の産業となった。京越組の創業は、その拡大を地元の精練で支える最初の足場になったとみられる。
京越組が操業を始めたのは、精練の主流が灰汁練りからせっけん練りへ替わりつつある時期にあたる。黒川栄次郎氏は実家で習得したせっけん精練の工程に手を加え、羽二重を釜につるして練る方法と新しい乾燥法を持ち込んだ。仕上がりは純白で小じわが出ず、後発の練工場もこの方法を採り入れた。輸出羽二重の増産で京越組の設備では注文に応じきれなくなり、黒川栄次郎氏と上田伊八氏は分かれて営むほうが得策だと合意して、1891年4月に京越組を解散した。黒川栄次郎氏は宝永上町68番地に黒川練工場を新設し、旧工場は上田伊八氏が上田練工場として継いだ。1911年の統合で福井県精練の本社兼第1工場となったのは黒川練工場であり、旧京越組の上田練工場は廃止された5工場に含まれる。分離は対立の結果ではなく、膨らむ注文を2つの工場で引き受けるための選択だったといえる。
京越組の創業に刺激され、1889年末までに福井市内で4業者が精練を始めた。1892年の福井県の機業従事者は2,776名、生産額は293万6,000円に達し、いずれも前年の2倍を超えた。1888年から1908年までに創業した練工場は累計44に上る。1890年に結成された練進会の内部でも、練賃の引き下げや職工の引き抜きが起きた。1893年3月の生糸為替の暴落を受け、合同組の精練合資会社は練賃を1寸幅1銭から4厘5毛へ下げ、自営の黒川練工場などと顧客を奪い合った。黒川栄次郎氏は同年4月にボイラーを据えて蒸気精練へ移り、精練合資会社は1895年春に解散した。その後、黒川練工場には京都・島根・三重など他府県からも精練の委託が入った。
1903年、海外から福井羽二重の量目不足と不正増量への苦情が相次いだ。水分を残して目方を増やす手口に対し、絹織物組合は同年7月に標準量目記入法を定めた。薬品による増量も判明し、農商務省は1905年1月に輸出羽二重取締規則を公布してマグネシウムや糖類などによる増量を禁じた。1907年7月施行の輸出羽二重精練業法は精練を許可制とし、蒸気汽缶や遠心式絞水機などの設備を義務づけるものである。1909年4月、検査は組合から県営の輸出織物検査所へ移り、所長に林精一氏が任じられた。同年にはロンドンやリヨンの領事から、福井羽二重の品質低下を指摘する報告が政府に届いた。検査と設備の規制が重なり、精練の出来ばえが工場の存続を分ける条件になったと考えられる。
1907年に精練業法が施行された際、設備を改めずに営業を続けられたのは黒川練工場だけである。黒川栄次郎氏は1905年に県内初の遠心式脱水機をドイツから導入し、炭火乾燥を蒸気乾燥へ改めた。重目羽二重に出る雲斑は海外の苦情を招き、農商務省は1908年9月に黒川栄次郎氏へ実験費1,000円を交付して原因の究明を命じた。黒川栄次郎氏は県技師の監督の下で試験を重ね、同年10月に織物洗浄器と針押器を考案して実用新案を得た。1909年には塩酸浴とせっけん浴を前後に加える黒川式雲除精練法をまとめ、10月23日に特許第17265号として登録。同年9月22日には、皇太子嘉仁親王が黒川練工場の練場や乾燥場、ロール場を視察した。
輸出羽二重は1904年の3,420万円を頂点に翌年から減少に転じ、1909年には2,341万円にとどまった。米国の恐慌や欧州の関税引き上げに加え、粗製品への苦情が重なった。福井県知事の中村純九郎氏は、不振の根本に精練業者の乱立による過当競争があると結論づけ、県下の全業者を合同させる方針を決めた。業者の一部は合同の強制に反発したものの、許可権を持つ知事と農商務省の指導の下で設立が進んだ。1911年8月24日に福井県精練株式会社が資本金20万円で発足し、社長に林精一氏、専務取締役に黒川栄次郎氏が就任した。本社は黒川練工場に置き、操業中の16工場のうち14工場の賛成を得て、9工場で10月1日に営業を始めた。社長の林精一氏は、1909年の県営検査の開始時に検査所長を務めた人物である。
第1次大戦で英仏による再輸出が止まり、米国やカナダからの直接注文が増え、輸出品にも縮緬や絹紬などの変わり織りが加わった。福井では1916年春にフランス縮緬の製織が始まったものの、精練は桐生や京都、名古屋へ委託していた。同年3月、福井県精練第4工場主任の黒川誠三郎氏が縮緬の精練に成功した。黒川栄次郎氏は輸出絹織物問屋の安本吉次郎氏と協議し、撚糸と染色を担う新会社をつくることで話をまとめた。1916年5月24日に福井撚糸染工株式会社が資本金10万円で創立し、社長に安本吉次郎氏、専務取締役に黒川栄次郎氏が選ばれた。翌1917年1月に足羽郡和田村の工場で営業を始め、この工場が現在の本社工場の前身にあたる。1918年下期の営業報告書には、総収入49万6,063円、利益15万5,782円が記録されている。
大正期に福井で広まった絹紬は、輸出生産額が1917年の45万円から1919年には641万円へ増え、岐阜を上回る全国一の産地となった。精練工場の開業が相次ぎ、技術の不統一と工場間の競争が福井絹紬の評判を損ねた。羽二重の精練でも、1888年から1908年に44の練工場が創業する乱立が起きた。1920年9月1日、県の勧誘を受けた5工場が合同し、資本金15万円で福井県絹紬精練株式会社が発足。社長に吉江多吉氏が就任し、硫黄燻蒸を亜硫酸による漂白に改めた手法は福井式絹紬精練法と呼ばれた。一方で1921年には輸出羽二重と縮緬がピーク時の半分に減り、農商務省が示したのは1県1社の方針である。知事の白男川譲介氏の勧めを受け、官民の有志は1922年1月に品種別の3会社2工場を合わせる第2次統合へ動き出した。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/3569/company.json https://the-shashi.com/api/3569/history.json https://the-shashi.com/api/3569/ceo.json https://the-shashi.com/api/3569/financials.json https://the-shashi.com/api/3569/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/3569/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/3569/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/3569/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/3569/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/3569/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/3569/financials.csv https://the-shashi.com/api/3569/financials_history.csv 免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(セーレン)