創業者の祖父江利一郎氏が名古屋で創業したのは1905年1月8日である[1]。御幸毛織は明治38年にあたるこの年を創業年としている[2]。もっとも前身は1908年に『御幸工場』の名で存在し、着尺セルを主要製品として綿毛交織品なども製造していた[3]。前身の始まりを1908年に置く年次は、会社の掲げる創業年と一致しない[4]。株式会社への改組は1918年11月27日で、愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立された[5]。設立の地である西志賀の1916番地には、後年まで本社と西志賀工場が置かれた[6]。
設立当初の御幸毛織は純毛セル地の製織を主とし、あわせて四幅服地を織った[7]。やがて広幅洋服地の生産に着目し、英国製の力織機を輸入した[8]。原料には豪州羊毛を使い、範を英国製品に採って研究を重ねた[9]。そこへ欧州大戦が重なり、舶来洋服地の輸入が困難になった[10]。この輸入難に刺激され、御幸毛織は四幅服地の製織へさらに研究の歩を進めた[11]。1919年の第1期営業報告書では、今後の勝敗を分けるのは技術本位、すなわち品質の優劣であるとした[12]。徹底した設備と広い研究を積み、輸入品に対抗する準備を整えることを掲げた[13]。
四幅服地の製織研究は1920年代後半に実を結び、御幸毛織は舶来製品に劣らない優秀品を国産服地として製造することに成功した[14]。製品は内需に応じただけでなく、南米、中国、インドをはじめとする各地に市場を開いた[15]。1934年10月、愛知県西春日井郡山田村、現在の名古屋市西区山田町に庄内川工場が竣工した[16]。同工場は毛紡績工場として操業を開始し、御幸毛織はここで毛糸紡績に着手した[17]。御幸毛織はこの工場で梳毛紡績を自社の工程に加えた[18]。庄内川工場は軍指定工場となり、御幸毛織は将校用軍絨の製造を始めた[19]。
1941年3月、御幸毛織は猪飼毛織工場を吸収合併した[20]。同年10月には陸軍管理工場の指定を受け、以後は軍絨の製織に従事した[21]。1942年5月には、企業合同により東洋紡績株式会社の傘下に入った[22]。戦局の進展に伴う時局の要請により、御幸毛織は全株式を東洋紡績へ移譲した[23]。株式の移譲を経て、御幸毛織は東洋紡績の傍系会社として新発足した[24]。1945年5月、御幸毛織は空襲により庄内川工場を焼失した[25]。1934年に庄内川工場へ据えた毛紡績の設備は、この戦災で失われた[26]。1945年8月、終戦により陸軍管理工場の指定は解消された[27]。
御幸毛織は空襲で焼失した庄内川工場の諸設備を戦後に整備拡充し、技術の回復と生産の増強にあたった[28]。この間、1946年8月に特別経理会社、同年11月に制限会社の指定を受けたが、制限会社は1948年12月に、特別経理会社は1949年2月にいずれも解除された[29]。1950年12月以降は数回にわたって増資を行い、あわせて資産再評価を実施して、うち1800万円を資本に組み入れ、1955年3月に資本金9000万円となった[30]。払込の期日でたどると、資本金は1950年11月に1000万円、1953年12月に6000万円、1955年3月に9000万円と積み上がった[31]。
1955年時点の御幸毛織は『ミユキテックス』と『ファンシイテックス』の2大チョップを持ち、英国調紳士服地として評価を受けたうえ、高級婦人服地にも進出した[32]。織物は先染梳毛紳士服地、先染礼服地、後染礼服地の3種で、毛羽を十分に刈り込んで表面になめらかな地艶を与え、羊毛本来の弾力性をいかした英国調の味わいを特長とした[33]。これらは原糸を染色、準備、製織、補修、仕上の各工程に通して生産し、仕上工程に独特の技術を持つことを強みとした[34]。国産品としては最高級品との評価を得て、質量ともに毛織物業界の第1位に立った[35]。
1954年3月、名古屋証券業協会で御幸毛織株の店頭売買が始まった[36]。1957年3月にはテレビ番組『ミユキ野球教室』の放送が始まり、同年10月には空襲で焼けた庄内川工場を再建して製織工場として操業を開始した[37]。1934年10月の竣工時には毛紡績工場として動かしていた庄内川工場を、再建にあたって製織工場に替えた[38]。1957年の売上高は18億円、当期純利益は2億円で、以後1959年に売上高20億円、1960年に23億円と伸びた[39]。売上高に対する税込利益の比率は1957年4月期で16.0%、1959年10月期で17.7%に達した[40]。
御幸毛織は1961年9月、名古屋証券取引所市場第一部に上場した[41]。1962年6月1日には東京証券取引所市場第二部に株式を上場し[42]、1963年4月に東京証券取引所市場第一部、同年8月に大阪証券取引所市場第一部へ進んだ[43]。上場の前月にあたる1961年8月26日には1対0.6の公募増資を払い込み、資本金を4億5000万円とした[44]。上場株式数は900万株、授権株式数は960万株、未発行株式数は600万株で、決算期は4月25日と10月25日の年2回である[45]。配当は1960年10月期から1961年10月期まで3期続けて年率30%、うち特別配当10%を出した[46]。
上場時の株主は1961年10月25日現在で2414名、うち愛知県が1560名と64.6%を占めた[47]。株式数でみても愛知県が525万7316株で58.4%にのぼり、大阪が27.3%、東京が5.9%と続いた[48]。筆頭株主は東洋紡績の133万2000株で、以下は東邦商事39万6000株、杉崎半吉常務が33万4400株、粟野金之助常務が30万8000株、小松原信明社長が24万900株、大井証券22万2660株、鷹岡21万6000株と並んだ[49]。取引銀行は三菱銀行、住友銀行、東海銀行、第一銀行の4行、従業員数は861名を数えた[50]。
製品はミユキテックスとファンシイテックスの商標で全国に売られ、その種類は年間3000種以上に及んだ[51]。高級品の需要が増えて稼働率は100%を超え、御幸毛織はこれに対処する第1次設備拡充を実施していた[52]。続けて1963年12月の完成を目標に、所要資金2億8000万円で庄内川工場の製織工場を増築し、旧型織機と付属機械を新型機に取り替える工事も進めた[53]。1963年8月には庄内川工場の増築を終えて製織部門を集中させた[54]。1962年の売上高は29億円、営業利益は10億円に達した[55]。決算期ごとの数量でみると、1962年4月期には紳士服地58万5940メートル、礼服地8万1227メートルを売った[56]。
一般の毛織会社と違い、御幸毛織は紡績部門を持たず、原糸をすべて他社から購入した[57]。主な購入先は東洋紡績と中央毛織で、自社が抱えた工程は染色、準備、製織、補修、仕上に限られた[58]。製品はすべて注文生産で、契約商社によってミユキテックス、ファンシイテックスの商標が付けられ、主に全国のテイラーを通じて最終需要者へ渡った[59]。1963年4月末の従業員1271名のうち工員が1174名を占め、生産拠点は西志賀工場が織物と染色整理加工で608名、庄内川工場が織物で662名の2カ所だった[60]。主要関係会社は資本金100万円の鷹岡1社で、持株比率は36.2%を占めた[61]。
東洋紡績の持株比率は1962年4月時点で14.8%、1966年4月と1970年4月はともに14.0%、1974年10月は12.0%で、いずれも15%に届かなかった[62]。社長以下の役員に東洋紡績出身者が並ぶ系列会社でありながら、資本の上では東洋紡績の子会社ではなかった[63]。1974年10月の上位株主には第一勧銀4.2%、三菱銀行4.1%、東海銀行4.1%、住友銀行3.9%、三和銀行3.9%が連なり、東洋紡績に次ぐ順位を銀行が占めた[64]。取引先の鷹岡は1962年4月に2.4%、1974年10月にも2.0%を保有し続けた[65]。
1970年9月、城北工場が竣工し、染色・仕上工場として操業を開始した[66]。1974年4月には販売子会社のミユキ販売を設立し、それ以前は数社に卸していた一次問屋を、ミユキ販売と鷹岡の2社へ絞った[67]。ミユキ販売にはミユキテックス、鷹岡にはファンシイテックスのブランドを付けて、同一の製品を流した[68]。売上高は1969年の61億円から1973年には105億円へ伸び、同年の経常利益は33億円、当期純利益は18億円に達した[69]。1974年は売上高100億円、経常利益29億円で[70]、品目別の内訳は梳毛紳士服地が80億1100万円で80%、礼服地が19億4500万円で20%を占めた[71]。
1978年4月期の御幸毛織は、売上高102億円に対して経常利益35億円を計上し、売上高経常利益率は約34%に達した[72]。自己資本比率は85.5%、1株当たり純資産は535円、長短借入金も支払手形もゼロに保った[73]。上場企業1537社と比べると、自己資本比率で2位、売上高純金利負担率で2位、使用総資本経常利益率で40位に並んだ[74]。同期の任意積立金は資本金の6倍にあたる114億円、利益準備金などを合わせた純資産は194億円に積み上がった[75]。売上高は1976年4月期の91億円から102億円へ、経常利益は同じ期間に25億円から35億円へ増えた[76]。
原料の毛糸は東洋紡績と中央毛織の2社から仕入れ、御幸毛織は紡績部門を自社に置かなかった[77]。紡績から毛織までの一貫生産をとる大同毛織や大東紡織とは、この点で工程の持ち方が分かれる[78]。仕入れた毛糸から数千種の毛織物を織り分ける多品種少量生産で、毎年の設備投資のほとんどを機械化と合理化に充てた[79]。設備投資は利益と減価償却を合わせた自己資金の範囲に収め、1970年9月に竣工した城北工場の10億円も自己資金でまかなった[80]。1976年6月には、製織関係協力工場の中継基地として尾西出張所が操業を始めた[81]。受注生産のため製品在庫を持たず、1978年4月期の商品回転日数は15.3日にとどまった[82]。
販売先は100%出資子会社のミユキ販売と関係会社の鷹岡(大阪市)の2社に限り、ミユキ販売には『ミユキテックス』、鷹岡には『ファンシィテックス』のブランドで同一製品を流した[83]。毛織物メーカーが普通は握れない二次問屋の服地卸商まで結び付きを強め、既製服メーカーとイージーオーダーメーカーへの生地の流出を防いだ[84]。生産はテーラーや百貨店から上がる注文だけに応じる完全な受注生産で、生産能力の限界を理由に、常に若干の供給不足に置いた[85]。輸出は数年前に一度だけ英国はじめ欧州へ試験的に行い、1年でやめた[86]。急速に拡大する婦人服市場にも、流行が激しく生産・販売計画を立てにくいとして参入しなかった[87]。
1986年になっても売上高の50%はオーダーメード用紳士服地が占めたが、オーダーメードは背広の全需要の10%に満たず、減る一方だった[88]。御幸毛織は1975年頃から繊維関連の多角化を試み、独自ブランドの既製服『ミユキラン』を開発し、それを売る小売店『I&YOU』を神戸・名古屋・東京に出し、カシミアやベストなど高級紳士衣料のカタログ販売も始めた[89]。いずれも本格的な事業化の軌道に乗らないまま下火となり、公表できるほどの売上高を残さず、小売店は東京の1店を残すのみとなった[90]。『ミユキラン』はその1店の取扱商品の2割にも達しなかった[91]。この間、1979年12月に婦人服地へ進出し、1980年3月にオーストラリアでMIYUKI PASTORAL CO.PTY LIMITEDを設立、1985年3月に英国のミノバリミテッドを買収した[92]。
営業利益は1973年度の29億8000万円を最盛期として、1980年度から5期続けて減り、1984年度には3億7000万円まで落ち込んだ[93]。売上高も1979年4月期の102億円から1981年4月期の83億円へ下がり、1984年4月期も84億円で止まった[94]。豊富な余資の運用で得た金融収支の黒字がこれを支え、1986年4月期も経常利益15億円を確保したが、営業利益はその5分の2にとどまった[95]。積み上がった剰余金で、同期の自己資本比率は92.1%と一部上場企業で最高の水準に達した[96]。東洋紡績の持株は御幸毛織の発行株式の約10%、1984年4月時点では7.9%だったが、東洋紡績は関連事業本部が経営権を持つグループ会社として御幸毛織を扱い、佐藤五郎社長は1984年に東洋紡績常務から移った[97]。
1986年5月、御幸毛織は電子事業部を発足させ、電子事業へ進出した[98]。部長には須加井喬取締役が就き、初年度投資2000万円で日本電気製の16ビットパソコン6台やロジックアナライザー、オシロスコープなどを買い揃えた[99]。技術者は11人で、うち6人は1984年から採り始めた新卒者、残る5人は事務部門や毛織の製造部門からの配置転換で埋めた[100]。業務はソフトウェアの開発代行で、須加井喬取締役が自ら上京し、松下電器産業など大手電機メーカーと計測器メーカー数社を顧客にした[101]。手がけたのはVTRの番組予約やカセットデッキの選曲ソフトで、計画は初年度売上5000万円、3年目の1988年度に1億5000万円とした[102]。
1993年3月期の御幸毛織は5.1%減収・17.6%減益となり、13年ぶりの減収減益に落ちた[103]。バブル崩壊後の個人消費の落ち込みで既製服の売れ行きは極度の不振に陥り、郊外型紳士服店の安売り攻勢と、百貨店も含めた値崩れ競争が始まっていた[104]。御幸毛織は紳士服地を中心に超高級品だけを生産・販売し、ミユキテックス、ファンシィテックス、ナポレナシャーリーの3ブランドを持つ[105]。1993年7月から受注販売したナポレナ貝紫染のジャケットは1着95万円で、百貨店に予約が殺到し、1か月もたたないうちに10着すべてが売り切れた[106]。谷口雄一郎社長を委員長とする新商品対策委員会を設け、水にぬれにくい服地や通気性の良い涼しい服地の研究を続けた[107]。
洋服地はミユキ販売と鷹岡を通じてアパレルと羅紗店へ売っていたが、この数年はテーラーの人手不足と職人の高齢化が進み、平均年齢は59歳に達した[108]。御幸毛織は縫製会社のラン・クロージング(大阪府東大阪市)とミユキソーイング(長崎県西彼杵郡)に縫製加工を寄せた[109]。紳士服地主体の大手メーカーが縫製会社を抱えるのは珍しい[110]。ミユキソーイングは従業員183人で、上着を日産240着、スラックスを60着、仕上げプレスを240着こなした[111]。服飾デザイナーの繁田勇氏と組んだオーダースーツ『マンブリス』を本格販売し、繁田氏が創作した5型のパターンから消費者が選び、裁断・縫製・仕上げをこの2社が担った[112]。取扱テーラーは約200店で、500店へ増やす計画を立てた[113]。
1993年12月、御幸毛織は本社を名古屋市西区市場木町390番地へ移した[114]。1996年12月には名古屋市の都市計画により西志賀工場を閉鎖し、城北工場へ集約した[115]。西志賀は、1918年11月に資本金50万円で御幸毛織を設立した際の所在地の地名でもある[116]。集約先の城北工場は、1970年9月に染色・仕上工場として竣工した拠点である[117]。1998年11月には、都市型店舗住宅複合施設『ミユキモール』を開業した[118]。保有不動産を店舗・事務所・住宅へ賃貸する不動産事業は、のちに繊維事業・電子関連事業と並ぶ事業区分となった[119]。
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|---|---|---|---|---|
| 1905〜1945年舶来洋服地に対抗した広幅織物と庄内川工場の焼失 | 祖父江利一郎が織布工場と染工場を開業 | ★★ | ||
| 個人経営から合資会社に改組 | ★★ | |||
| 合資会社から株式会社に改組 | ★★ | |||
| 庄内川工場が竣工 | ★★ | |||
| 猪飼毛織工場を吸収合併 | ★ | |||
| 陸軍管理工場に指定 | ★ | |||
| 企業合同により東洋紡績の系列に編入 | ★★★ | |||
| 空襲により庄内川工場が焼失 | ★★ | |||
| 1946〜1974年原糸を買う織屋が築いたミユキテックスと3市場上場 | 制限会社に指定 | ★ | ||
| 小松原信明 | 名古屋証券業協会で店頭売買を開始 | ★ | ||
| 小松原信明 | テレビ番組「ミユキ野球教室」の放送開始 | ★★ | ||
| 小松原信明 | 庄内川工場を再建し製織工場として操業開始 | ★ | ||
| 小松原信明 | 高級服地「ファンシィテックス」を発売 | ★★ | ||
| 小松原信明 | 名古屋証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 小松原信明 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 小松原信明 | 大阪証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 杉崎半吉 | 城北工場が竣工 | ★ | ||
| 杉崎半吉 | ミユキ販売を設立 | ★ | ||
| 1975〜1998年売上高経常利益率34%の頂点と実らなかった多角化 | 本田孝 | 婦人服地に参入 | ★ | |
| 本田孝 | MIYUKI PASTORAL CO.PTY LIMITEDを設立 | ★ | ||
| 本田孝 | ミノバリミテッドを買収 | ★ | ||
| 佐藤五郎 | 電子事業に参入 | ★★ | ||
| 佐藤五郎 | 本社を移転 | ★ | ||
| 佐藤五郎 | 西志賀工場を閉鎖 | ★ | ||
| 佐藤五郎 | 店舗住宅複合施設「ミユキモール」を開業 | ★★ | ||
| 1999〜2010年持株会社への移行と東洋紡績による完全子会社化 | 佐藤五郎 | ボン電気を買収 | ★ | |
| 佐藤五郎 | アングル工業とアングルの全株式を取得 | ★ | ||
| 佐藤五郎 | 持株会社制に移行し御幸HDに商号変更 | ★★★ | ||
| 小鴨繁昭 | 東京・大阪・名古屋の各証券取引所で上場を廃止 | ★★ | ||
| 小鴨繁昭 | 東洋紡との株式交換により完全子会社化 | ★★★ | ||
| 四日市工場が操業開始 | ★ | |||
| 持株会社制を廃止し御幸毛織に商号変更 | ★★ | |||
| 東洋紡テクノウールを吸収合併 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(御幸毛織)