御幸毛織 の歴史

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創業 1905年
創業者 祖父江利一郎
創業地 愛知県名古屋市中区
創業
1905年1月8日、祖父江利一郎氏が名古屋で御幸毛織を創業した。1918年11月、愛知県西春日井郡金城村西志賀に資本金50万円で株式会社として設立し、純毛セル地と四幅服地の製織から始める。英国製の力織機を輸入し、豪州羊毛を原料に広幅洋服地の研究を重ねた。第一次大戦で舶来洋服地の輸入が細ると国産服地の品質で対抗する方針を固め、1919年の第1期営業報告書には技術本位すなわち品質の優劣で競うと記している。1934年10月に庄内川工場を毛紡績工場として建て、軍指定工場として将校用軍絨を織った。1942年5月、企業合同により全株式を東洋紡績へ移譲し、その傍系会社として新発足する。
決断
紡績を持たず、原糸を買い続けた織屋である。一般の毛織会社が紡績から織布までを一貫させたのに対し、御幸毛織は東洋紡績と中央毛織から毛糸を仕入れ、自社には染色・準備・製織・補修・仕上の5工程だけを置いた。1957年10月に空襲で焼けた庄内川工場を再建したときも、毛紡績には戻さず製織工場とした。販売先もミユキ販売と鷹岡の2社に限り、テーラーからの注文だけに応じる受注生産で製品在庫を持たない。1978年4月期は売上高102億円に対し経常利益35億円、売上高経常利益率は約34%、自己資本比率85.5%で借入金も支払手形もゼロだった。工程も販路も広げなかったことが、上場1537社で自己資本比率2位という貸借対照表を作った。
現況
受注生産で守った利幅は、注文そのものが減ると守れなかった。1986年になっても売上の半分はオーダーメード用紳士服地が占めたが、オーダーメードは背広需要の1割に満たず縮小が続く。営業利益は1973年度の29億8,000万円から1984年度には3億7,000万円へ落ち、経常利益は余資運用の金融収支が支えた。1975年頃から既製服『ミユキラン』と直営店、1986年5月には電子事業部を設けたが、繊維の外で公表できる規模に達した事業はない。2003年4月に分社して御幸ホールディングスへ商号を変更し、2009年3月期は連結売上高153億円に対し当期純損失17億円を計上した。団塊世代の定年退職でメンズ重衣料が縮み、注文だけを織る設計は代わりの需要を見つけられないまま終わった。
競合
原糸を買う側に立ったことが、原糸を売る側との関係を60年つないだ。1942年5月の企業合同で全株式を東洋紡績へ移譲したあとも、東洋紡績の持株比率は1962年4月に14.8%、1974年10月に12.0%と15%を下回り、社長以下に東洋紡績出身者が並びながら資本の上では子会社でなかった。紡績から毛織までを一貫させた大同毛織や大東紡織とは、工程の持ち方でも分かれる。創業100年を機に非繊維事業へ多角化した東洋紡が繊維の外へ広がる一方、御幸毛織は紳士服地の内側に留まった。2004年に東洋紡績の公開買付を受け、2009年8月26日に上場廃止となり、9月1日の株式交換で完全子会社となる。原糸の供給元へ経営権まで渡したことが、64年続いた織屋の独立を終わらせた。
御幸毛織:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1979年4月期2008年3月期

創業ストーリー 舶来洋服地に対抗した広幅織物と庄内川工場の焼失 (1905年〜)

舶来洋服地に対抗した広幅織物と庄内川工場の焼失

祖父江利一郎の織布工場と英国製力織機の輸入

創業者の祖父江利一郎氏が名古屋で創業したのは1905年1月8日である[1]。御幸毛織は明治38年にあたるこの年を創業年としている[2]。もっとも前身は1908年に『御幸工場』の名で存在し、着尺セルを主要製品として綿毛交織品なども製造していた[3]。前身の始まりを1908年に置く年次は、会社の掲げる創業年と一致しない[4]。株式会社への改組は1918年11月27日で、愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立された[5]。設立の地である西志賀の1916番地には、後年まで本社と西志賀工場が置かれた[6]

    • [1]明治38年(1905)の創業以来。祖父江利一郎により、名古屋に創業。2025年1月8日に創業120年を迎える
    • [2]御幸毛織は「明治38年(1905)の創業以来」と記し、1905年を創業年としている
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [3]前身は1908年に「御幸工場」として存在し、着尺セルを主要製品として綿毛交織品等を製造していた
    • [4]八十年史が前身の始まりとする1908年は、会社が創業年とする1905年と一致しない
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1918年11月27日、愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [6]本社 名古屋市西区西志賀町1916(西志賀工場)

設立当初の御幸毛織は純毛セル地の製織を主とし、あわせて四幅服地を織った[7]。やがて広幅洋服地の生産に着目し、英国製の力織機を輸入した[8]。原料には豪州羊毛を使い、範を英国製品に採って研究を重ねた[9]。そこへ欧州大戦が重なり、舶来洋服地の輸入が困難になった[10]。この輸入難に刺激され、御幸毛織は四幅服地の製織へさらに研究の歩を進めた[11]。1919年の第1期営業報告書では、今後の勝敗を分けるのは技術本位、すなわち品質の優劣であるとした[12]。徹底した設備と広い研究を積み、輸入品に対抗する準備を整えることを掲げた[13]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [7]設立時は純毛セル地の製織を主に、四幅服地の製織を行なった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [8]時勢の進展に伴い広幅洋服地の生産に着目し、英国製力織機を輸入した
    • [9]濠州羊毛を使用し、範を英国製品に採って研究を重ねた
    • [10]欧州大戦に際会し、舶来洋服地の輸入が困難となった
    • [11]輸入難に刺激され、四幅服地の製織に研究の歩を進めた
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [12]1919年の第1期営業報告書に「今後ノ勝敗ハ一ニ技術本位、即チ品質ノ優劣如何ニヨリ岐ルル」とある
    • [13]第1期営業報告書は徹底した設備と研究の蓄積により輸入品に対抗する準備を掲げた
    • [1]明治38年(1905)の創業以来。祖父江利一郎により、名古屋に創業。2025年1月8日に創業120年を迎える
    • [2]御幸毛織は「明治38年(1905)の創業以来」と記し、1905年を創業年としている
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [3]前身は1908年に「御幸工場」として存在し、着尺セルを主要製品として綿毛交織品等を製造していた
    • [4]八十年史が前身の始まりとする1908年は、会社が創業年とする1905年と一致しない
    • [8]時勢の進展に伴い広幅洋服地の生産に着目し、英国製力織機を輸入した
    • [9]濠州羊毛を使用し、範を英国製品に採って研究を重ねた
    • [10]欧州大戦に際会し、舶来洋服地の輸入が困難となった
    • [11]輸入難に刺激され、四幅服地の製織に研究の歩を進めた
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1918年11月27日、愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [6]本社 名古屋市西区西志賀町1916(西志賀工場)
    • [7]設立時は純毛セル地の製織を主に、四幅服地の製織を行なった
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [12]1919年の第1期営業報告書に「今後ノ勝敗ハ一ニ技術本位、即チ品質ノ優劣如何ニヨリ岐ルル」とある
    • [13]第1期営業報告書は徹底した設備と研究の蓄積により輸入品に対抗する準備を掲げた

南米・中国・インドへ広げた市場と東洋紡績への株式移譲

四幅服地の製織研究は1920年代後半に実を結び、御幸毛織は舶来製品に劣らない優秀品を国産服地として製造することに成功した[14]。製品は内需に応じただけでなく、南米、中国、インドをはじめとする各地に市場を開いた[15]。1934年10月、愛知県西春日井郡山田村、現在の名古屋市西区山田町に庄内川工場が竣工した[16]。同工場は毛紡績工場として操業を開始し、御幸毛織はここで毛糸紡績に着手した[17]。御幸毛織はこの工場で梳毛紡績を自社の工程に加えた[18]。庄内川工場は軍指定工場となり、御幸毛織は将校用軍絨の製造を始めた[19]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [14]昭和初年(1926年以降)に、国産服地として舶来製品に劣らぬ優秀品の製造に成功した
    • [15]内需はもちろん、南米、中国、インド等の各地に市場を開拓した
    • [18]庄内川工場は梳毛紡績工場として新設された
    • [19]軍指定工場として将校用軍絨の製造を開始した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [16]1934年10月、愛知県西春日井郡山田村(現・名古屋市西区山田町)に庄内川工場を建設し竣工した
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】 / ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [17]庄内川工場は毛紡績工場として操業を開始し、毛糸紡績に着手した

1941年3月、御幸毛織は猪飼毛織工場を吸収合併した[20]。同年10月には陸軍管理工場の指定を受け、以後は軍絨の製織に従事した[21]。1942年5月には、企業合同により東洋紡績株式会社の傘下に入った[22]。戦局の進展に伴う時局の要請により、御幸毛織は全株式を東洋紡績へ移譲した[23]。株式の移譲を経て、御幸毛織は東洋紡績の傍系会社として新発足した[24]。1945年5月、御幸毛織は空襲により庄内川工場を焼失した[25]。1934年に庄内川工場へ据えた毛紡績の設備は、この戦災で失われた[26]。1945年8月、終戦により陸軍管理工場の指定は解消された[27]

  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1941年3月、猪飼毛織工場を吸収合併した
    • [22]1942年5月、企業合同により東洋紡績株式会社の傘下に入った
    • [25]1945年5月、空襲により庄内川工場が焼失した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [21]1941年10月、陸軍管理工場に指定され軍絨製織に従事した
    • [26]1934年10月に毛糸紡績に着手した庄内川工場を、1945年5月の戦災で焼失した
    • [27]1945年8月、終戦により陸軍管理工場の指定を解消した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [23]戦局の進展に伴う時局の要請により、全株式を東洋紡績に移譲した
    • [24]東洋紡績の傍系会社として新発足した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [14]昭和初年(1926年以降)に、国産服地として舶来製品に劣らぬ優秀品の製造に成功した
    • [15]内需はもちろん、南米、中国、インド等の各地に市場を開拓した
    • [18]庄内川工場は梳毛紡績工場として新設された
    • [19]軍指定工場として将校用軍絨の製造を開始した
    • [23]戦局の進展に伴う時局の要請により、全株式を東洋紡績に移譲した
    • [24]東洋紡績の傍系会社として新発足した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [16]1934年10月、愛知県西春日井郡山田村(現・名古屋市西区山田町)に庄内川工場を建設し竣工した
    • [21]1941年10月、陸軍管理工場に指定され軍絨製織に従事した
    • [26]1934年10月に毛糸紡績に着手した庄内川工場を、1945年5月の戦災で焼失した
    • [27]1945年8月、終戦により陸軍管理工場の指定を解消した
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】 / ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [17]庄内川工場は毛紡績工場として操業を開始し、毛糸紡績に着手した
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1941年3月、猪飼毛織工場を吸収合併した
    • [22]1942年5月、企業合同により東洋紡績株式会社の傘下に入った
    • [25]1945年5月、空襲により庄内川工場が焼失した

原糸を買う織屋が築いたミユキテックスと3市場上場

制限会社の解除から資本金9000万円への増資

御幸毛織は空襲で焼失した庄内川工場の諸設備を戦後に整備拡充し、技術の回復と生産の増強にあたった[28]。この間、1946年8月に特別経理会社、同年11月に制限会社の指定を受けたが、制限会社は1948年12月に、特別経理会社は1949年2月にいずれも解除された[29]。1950年12月以降は数回にわたって増資を行い、あわせて資産再評価を実施して、うち1800万円を資本に組み入れ、1955年3月に資本金9000万円となった[30]。払込の期日でたどると、資本金は1950年11月に1000万円、1953年12月に6000万円、1955年3月に9000万円と積み上がった[31]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [28]庄内川工場は戦災を受けたが、工場諸設備を整備拡充し、技術の回復と生産の増強を図った
    • [30]1950年12月以来数回にわたる増資を行い、また資産再評価を実施し、うち1800万円を資本に組み入れて1955年3月に資本金9000万円となった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [29]1946年8月に特別経理会社に指定、同年11月に制限会社に指定、1948年12月に制限会社を解除、1949年2月に特別経理会社を解除
  • 証券 1962年7月号
    • [31]資本金の変遷は1950年11月に1000万円、1953年12月に6000万円、1955年3月に9000万円

1955年時点の御幸毛織は『ミユキテックス』と『ファンシイテックス』の2大チョップを持ち、英国調紳士服地として評価を受けたうえ、高級婦人服地にも進出した[32]。織物は先染梳毛紳士服地、先染礼服地、後染礼服地の3種で、毛羽を十分に刈り込んで表面になめらかな地艶を与え、羊毛本来の弾力性をいかした英国調の味わいを特長とした[33]。これらは原糸を染色、準備、製織、補修、仕上の各工程に通して生産し、仕上工程に独特の技術を持つことを強みとした[34]。国産品としては最高級品との評価を得て、質量ともに毛織物業界の第1位に立った[35]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [32]「ミユキテックス」「ファンシイテックス」の二大チョップを有し、英国調紳士服地として高く評価され、最近は高級婦人服地に新生面を開拓した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [33]織物は先染梳毛紳士服地、先染礼服地および後染礼服地で、毛羽を十分に刈り込んで表面になめらかな地艶をあたえ、羊毛本来の弾力性をいかした英国調紳士服地の味わいをもつのが特長
    • [34]原糸を染色、準備、製織、補修、仕上げの工程を経て生産し、仕上げ工程に独特の技術をもつのが強味
    • [35]高級紳士服地の専門メーカーで質量ともに業界第1位、国内では最高級品としての定評がある

1954年3月、名古屋証券業協会で御幸毛織株の店頭売買が始まった[36]。1957年3月にはテレビ番組『ミユキ野球教室』の放送が始まり、同年10月には空襲で焼けた庄内川工場を再建して製織工場として操業を開始した[37]。1934年10月の竣工時には毛紡績工場として動かしていた庄内川工場を、再建にあたって製織工場に替えた[38]。1957年の売上高は18億円、当期純利益は2億円で、以後1959年に売上高20億円、1960年に23億円と伸びた[39]。売上高に対する税込利益の比率は1957年4月期で16.0%、1959年10月期で17.7%に達した[40]

  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1954年3月 名古屋証券業協会の店頭売買開始
    • [37]1957年3月 テレビ番組「ミユキ野球教室」放送開始/1957年10月 庄内川工場を再建し製織工場として操業開始
    • [38]1934年10月 庄内川工場 竣工 毛紡績工場として操業開始/1957年10月 庄内川工場を再建 製織工場として操業開始
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [39]半期合算の売上高は1957年18億円・当期純利益2億円、1959年20億円、1960年23億円
    • [40]過去の業績(半期決算)で1957年4月期は売上高854,375千円・税込利益108,245千円・利益率16.0、1959年10月期は998,967千円・159,443千円・17.7
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
    • [28]庄内川工場は戦災を受けたが、工場諸設備を整備拡充し、技術の回復と生産の増強を図った
    • [30]1950年12月以来数回にわたる増資を行い、また資産再評価を実施し、うち1800万円を資本に組み入れて1955年3月に資本金9000万円となった
    • [32]「ミユキテックス」「ファンシイテックス」の二大チョップを有し、英国調紳士服地として高く評価され、最近は高級婦人服地に新生面を開拓した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [29]1946年8月に特別経理会社に指定、同年11月に制限会社に指定、1948年12月に制限会社を解除、1949年2月に特別経理会社を解除
    • [33]織物は先染梳毛紳士服地、先染礼服地および後染礼服地で、毛羽を十分に刈り込んで表面になめらかな地艶をあたえ、羊毛本来の弾力性をいかした英国調紳士服地の味わいをもつのが特長
    • [34]原糸を染色、準備、製織、補修、仕上げの工程を経て生産し、仕上げ工程に独特の技術をもつのが強味
    • [35]高級紳士服地の専門メーカーで質量ともに業界第1位、国内では最高級品としての定評がある
    • [39]半期合算の売上高は1957年18億円・当期純利益2億円、1959年20億円、1960年23億円
    • [40]過去の業績(半期決算)で1957年4月期は売上高854,375千円・税込利益108,245千円・利益率16.0、1959年10月期は998,967千円・159,443千円・17.7
  • 証券 1962年7月号
    • [31]資本金の変遷は1950年11月に1000万円、1953年12月に6000万円、1955年3月に9000万円
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1954年3月 名古屋証券業協会の店頭売買開始
    • [37]1957年3月 テレビ番組「ミユキ野球教室」放送開始/1957年10月 庄内川工場を再建し製織工場として操業開始
    • [38]1934年10月 庄内川工場 竣工 毛紡績工場として操業開始/1957年10月 庄内川工場を再建 製織工場として操業開始

年間3000種の服地と名証・東証・大証への上場

御幸毛織は1961年9月、名古屋証券取引所市場第一部に上場した[41]。1962年6月1日には東京証券取引所市場第二部に株式を上場し[42]、1963年4月に東京証券取引所市場第一部、同年8月に大阪証券取引所市場第一部へ進んだ[43]。上場の前月にあたる1961年8月26日には1対0.6の公募増資を払い込み、資本金を4億5000万円とした[44]。上場株式数は900万株、授権株式数は960万株、未発行株式数は600万株で、決算期は4月25日と10月25日の年2回である[45]。配当は1960年10月期から1961年10月期まで3期続けて年率30%、うち特別配当10%を出した[46]

  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1961年9月 名古屋証券取引所の市場第一部に上場
    • [43]1963年4月 東京証券取引所の市場第一部に上場/1963年8月 大阪証券取引所の市場第一部に上場
  • 証券 1962年7月号
    • [42]「(市場第二部)新規上場会社紹介 御幸毛織株式会社」として1962年6月1日上場と記載
    • [45]資本金450,000千円、上場株式数9,000千株、授権株式数9,600千株、未発行株式数600千株、決算期4月25日・10月25日
    • [46]配当率は1961年10月期30%(内特別10%)、1961年4月期30%(内特別10%)、1960年10月期30%(内特別10%)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [44]資本異動は1961年8月26日払込、資本金450,000千円、割当比率1対0.6の公募

上場時の株主は1961年10月25日現在で2414名、うち愛知県が1560名と64.6%を占めた[47]。株式数でみても愛知県が525万7316株で58.4%にのぼり、大阪が27.3%、東京が5.9%と続いた[48]。筆頭株主は東洋紡績の133万2000株で、以下は東邦商事39万6000株、杉崎半吉常務が33万4400株、粟野金之助常務が30万8000株、小松原信明社長が24万900株、大井証券22万2660株、鷹岡21万6000株と並んだ[49]。取引銀行は三菱銀行、住友銀行、東海銀行、第一銀行の4行、従業員数は861名を数えた[50]

  • 証券 1962年7月号
    • [47]株式の分布(1961年10月25日現在)は株主数2,414名、愛知1,560名・64.6%
    • [48]愛知5,257,316株・58.4%、大阪27.3%、東京5.9%
    • [49]大株主は東洋紡績1,332,000株、東邦商事396,000株、杉崎半吉334,400株、粟野金之助308,000株、小松原信240,900株、大井証券222,660株、鷹岡216,000株。役員は社長小松原信、常務杉崎半吉・粟野金之助
    • [50]取引銀行は三菱銀行・住友銀行・東海銀行・第一銀行、従業員数861名(1961年10月25日現在)

製品はミユキテックスとファンシイテックスの商標で全国に売られ、その種類は年間3000種以上に及んだ[51]。高級品の需要が増えて稼働率は100%を超え、御幸毛織はこれに対処する第1次設備拡充を実施していた[52]。続けて1963年12月の完成を目標に、所要資金2億8000万円で庄内川工場の製織工場を増築し、旧型織機と付属機械を新型機に取り替える工事も進めた[53]。1963年8月には庄内川工場の増築を終えて製織部門を集中させた[54]。1962年の売上高は29億円、営業利益は10億円に達した[55]。決算期ごとの数量でみると、1962年4月期には紳士服地58万5940メートル、礼服地8万1227メートルを売った[56]

  • 証券 1962年7月号
    • [51]製品はミユキテックスおよびフアンシイテックスの商標で英国調の渋い製品を全国的に販売し、その種類は年間3,000種以上におよぶ
    • [52]最近高級品の需要が増加し、稼動率は100%を超える状態にあり、これに対処するため目下第1次設備拡充を実施中
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [53]着手中の事業計画は1963年12月完成目標、所要資金2億8000万円で庄内川工場の製織工場の増築、旧型織機ならびに同付属機械の新型機械との取替え
    • [55]半期合算の1962年売上高29億円、営業利益10億円
    • [56]販売実績(メートル)は1962年4月期に紳士服地585,940、礼服地81,227
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1963年8月 庄内川工場を増築 製織部門の集中化を計る
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1961年9月 名古屋証券取引所の市場第一部に上場
    • [43]1963年4月 東京証券取引所の市場第一部に上場/1963年8月 大阪証券取引所の市場第一部に上場
    • [54]1963年8月 庄内川工場を増築 製織部門の集中化を計る
  • 証券 1962年7月号
    • [42]「(市場第二部)新規上場会社紹介 御幸毛織株式会社」として1962年6月1日上場と記載
    • [45]資本金450,000千円、上場株式数9,000千株、授権株式数9,600千株、未発行株式数600千株、決算期4月25日・10月25日
    • [46]配当率は1961年10月期30%(内特別10%)、1961年4月期30%(内特別10%)、1960年10月期30%(内特別10%)
    • [47]株式の分布(1961年10月25日現在)は株主数2,414名、愛知1,560名・64.6%
    • [48]愛知5,257,316株・58.4%、大阪27.3%、東京5.9%
    • [49]大株主は東洋紡績1,332,000株、東邦商事396,000株、杉崎半吉334,400株、粟野金之助308,000株、小松原信240,900株、大井証券222,660株、鷹岡216,000株。役員は社長小松原信、常務杉崎半吉・粟野金之助
    • [50]取引銀行は三菱銀行・住友銀行・東海銀行・第一銀行、従業員数861名(1961年10月25日現在)
    • [51]製品はミユキテックスおよびフアンシイテックスの商標で英国調の渋い製品を全国的に販売し、その種類は年間3,000種以上におよぶ
    • [52]最近高級品の需要が増加し、稼動率は100%を超える状態にあり、これに対処するため目下第1次設備拡充を実施中
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [44]資本異動は1961年8月26日払込、資本金450,000千円、割当比率1対0.6の公募
    • [53]着手中の事業計画は1963年12月完成目標、所要資金2億8000万円で庄内川工場の製織工場の増築、旧型織機ならびに同付属機械の新型機械との取替え
    • [55]半期合算の1962年売上高29億円、営業利益10億円
    • [56]販売実績(メートル)は1962年4月期に紳士服地585,940、礼服地81,227

一次問屋2社への集約と売上100億円の梳毛服地

一般の毛織会社と違い、御幸毛織は紡績部門を持たず、原糸をすべて他社から購入した[57]。主な購入先は東洋紡績と中央毛織で、自社が抱えた工程は染色、準備、製織、補修、仕上に限られた[58]。製品はすべて注文生産で、契約商社によってミユキテックス、ファンシイテックスの商標が付けられ、主に全国のテイラーを通じて最終需要者へ渡った[59]。1963年4月末の従業員1271名のうち工員が1174名を占め、生産拠点は西志賀工場が織物と染色整理加工で608名、庄内川工場が織物で662名の2カ所だった[60]。主要関係会社は資本金100万円の鷹岡1社で、持株比率は36.2%を占めた[61]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [57]一般の毛織会社と違い、紡績部門をもたず、原糸はすべて他から購入する
    • [58]主な購入先は東洋紡績、中央毛織など。原糸を染色、準備、製織、補修、仕上げの工程を経て生産する
    • [59]製品はすべて注文生産で、契約商社によってそれぞれミユキテツクス、フアンシイテツクスの商標名がつけられ、主として全国のテイラーを通じて最終需要者にわたっている
    • [60]労務状況1963年4月末現在の合計1,271名(職員男74名・女23名、工員男106名・女1,068名)。事業所は西志賀工場(織物・染色整理加工)608名、庄内川工場(織物)662名
    • [61]主要関係会社は鷹岡(資本金100万円)、持株比率36.2%

東洋紡績の持株比率は1962年4月時点で14.8%、1966年4月と1970年4月はともに14.0%、1974年10月は12.0%で、いずれも15%に届かなかった[62]。社長以下の役員に東洋紡績出身者が並ぶ系列会社でありながら、資本の上では東洋紡績の子会社ではなかった[63]。1974年10月の上位株主には第一勧銀4.2%、三菱銀行4.1%、東海銀行4.1%、住友銀行3.9%、三和銀行3.9%が連なり、東洋紡績に次ぐ順位を銀行が占めた[64]。取引先の鷹岡は1962年4月に2.4%、1974年10月にも2.0%を保有し続けた[65]

  • 会社年鑑 1963年版「御幸毛織」/会社年鑑 1967年版「御幸毛織」/会社年鑑 1971年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [62]東洋紡績の持株比率はFY62(1962/4)14.8%、FY66(1966/4)14.0%、FY70(1970/4)14.0%、FY74(1974/10)12.0%
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [63]東洋紡績の系列下にあり、社長以下の役員に東洋紡出身者が多い
  • 会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [64]FY74(1974/10)の大株主は東洋紡績12.0%、第一勧銀4.2%、三菱銀行4.1%、東海銀行4.1%、住友銀行3.9%、三和銀行3.9%
  • 会社年鑑 1963年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [65]鷹岡の持株比率はFY62(1962/4)2.4%、FY74(1974/10)2.0%

1970年9月、城北工場が竣工し、染色・仕上工場として操業を開始した[66]。1974年4月には販売子会社のミユキ販売を設立し、それ以前は数社に卸していた一次問屋を、ミユキ販売と鷹岡の2社へ絞った[67]。ミユキ販売にはミユキテックス、鷹岡にはファンシイテックスのブランドを付けて、同一の製品を流した[68]。売上高は1969年の61億円から1973年には105億円へ伸び、同年の経常利益は33億円、当期純利益は18億円に達した[69]。1974年は売上高100億円、経常利益29億円で[70]、品目別の内訳は梳毛紳士服地が80億1100万円で80%、礼服地が19億4500万円で20%を占めた[71]

  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1970年9月 城北工場 竣工 染色・仕上工場として操業開始
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [67]販売先はミユキ販売と鷹岡の二つの一次問屋だけに限っている。以前は数社の一次問屋に卸していたが、1974年にミユキ販売を設立するとともにこの2社に絞った
    • [68]ミユキ販売には「ミユキテックス」、鷹岡には「ファンシィテックス」のブランドで流しているが、同一製品
  • 会社年鑑 1971年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [69]半期合算の売上高は1969年61億円、1973年105億円。1973年の経常利益33億円、当期純利益18億円
  • 会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [70]半期合算の1974年売上高100億円、経常利益29億円
    • [71]1974年10月期の品目別売上は梳毛紳士服地8,011百万円(80%)、礼服地1,945百万円(20%)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
    • [57]一般の毛織会社と違い、紡績部門をもたず、原糸はすべて他から購入する
    • [58]主な購入先は東洋紡績、中央毛織など。原糸を染色、準備、製織、補修、仕上げの工程を経て生産する
    • [59]製品はすべて注文生産で、契約商社によってそれぞれミユキテツクス、フアンシイテツクスの商標名がつけられ、主として全国のテイラーを通じて最終需要者にわたっている
    • [60]労務状況1963年4月末現在の合計1,271名(職員男74名・女23名、工員男106名・女1,068名)。事業所は西志賀工場(織物・染色整理加工)608名、庄内川工場(織物)662名
    • [61]主要関係会社は鷹岡(資本金100万円)、持株比率36.2%
    • [63]東洋紡績の系列下にあり、社長以下の役員に東洋紡出身者が多い
  • 会社年鑑 1963年版「御幸毛織」/会社年鑑 1967年版「御幸毛織」/会社年鑑 1971年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [62]東洋紡績の持株比率はFY62(1962/4)14.8%、FY66(1966/4)14.0%、FY70(1970/4)14.0%、FY74(1974/10)12.0%
  • 会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [64]FY74(1974/10)の大株主は東洋紡績12.0%、第一勧銀4.2%、三菱銀行4.1%、東海銀行4.1%、住友銀行3.9%、三和銀行3.9%
    • [70]半期合算の1974年売上高100億円、経常利益29億円
    • [71]1974年10月期の品目別売上は梳毛紳士服地8,011百万円(80%)、礼服地1,945百万円(20%)
  • 会社年鑑 1963年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [65]鷹岡の持株比率はFY62(1962/4)2.4%、FY74(1974/10)2.0%
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1970年9月 城北工場 竣工 染色・仕上工場として操業開始
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [67]販売先はミユキ販売と鷹岡の二つの一次問屋だけに限っている。以前は数社の一次問屋に卸していたが、1974年にミユキ販売を設立するとともにこの2社に絞った
    • [68]ミユキ販売には「ミユキテックス」、鷹岡には「ファンシィテックス」のブランドで流しているが、同一製品
  • 会社年鑑 1971年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
    • [69]半期合算の売上高は1969年61億円、1973年105億円。1973年の経常利益33億円、当期純利益18億円

売上高経常利益率34%の頂点と実らなかった多角化

経常利益35億円を生んだ受注生産と2社の一次問屋

1978年4月期の御幸毛織は、売上高102億円に対して経常利益35億円を計上し、売上高経常利益率は約34%に達した[72]。自己資本比率は85.5%、1株当たり純資産は535円、長短借入金も支払手形もゼロに保った[73]。上場企業1537社と比べると、自己資本比率で2位、売上高純金利負担率で2位、使用総資本経常利益率で40位に並んだ[74]。同期の任意積立金は資本金の6倍にあたる114億円、利益準備金などを合わせた純資産は194億円に積み上がった[75]。売上高は1976年4月期の91億円から102億円へ、経常利益は同じ期間に25億円から35億円へ増えた[76]

  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [72]1978年4月期 売上高102億円・経常利益35億円・売上高経常利益率約34%
    • [73]自己資本比率85.5%、1株当たり純資産535円、長短借入金・支払手形ともゼロ
    • [74]上場企業1537社中で自己資本比率2位・売上高純金利負担率2位・使用総資本経常利益率40位
    • [75]1978年4月期の任意積立金114億円(資本金の6倍)、純資産194億円
  • 会社年鑑 1986年版「御幸毛織」
    • [76]1976年4月期 売上高91億円・経常利益25億円/1978年4月期 売上高102億円・経常利益35億円

原料の毛糸は東洋紡績と中央毛織の2社から仕入れ、御幸毛織は紡績部門を自社に置かなかった[77]。紡績から毛織までの一貫生産をとる大同毛織や大東紡織とは、この点で工程の持ち方が分かれる[78]。仕入れた毛糸から数千種の毛織物を織り分ける多品種少量生産で、毎年の設備投資のほとんどを機械化と合理化に充てた[79]。設備投資は利益と減価償却を合わせた自己資金の範囲に収め、1970年9月に竣工した城北工場の10億円も自己資金でまかなった[80]。1976年6月には、製織関係協力工場の中継基地として尾西出張所が操業を始めた[81]。受注生産のため製品在庫を持たず、1978年4月期の商品回転日数は15.3日にとどまった[82]

  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [77]原料の毛糸は東洋紡績と中央毛織の2社から仕入れ、自社では紡績部門を持たない
    • [78]大同毛織・大東紡織など同業他社は紡績から毛織までの一貫生産体制をとる
    • [79]数千種にのぼる毛織物を生産する完全な多品種少量生産、設備投資のほとんどが機械化・合理化投資
    • [80]設備投資資金は利益と減価償却を合わせた自己資金内で調達。1970年の城北工場建設の10億円も自己資金
    • [82]受注生産のため製品在庫を持たず、1978年4月期の商品回転日数は15.3日
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1976年6月 尾西出張所竣工、製織関係協力工場の中継基地として操業開始

販売先は100%出資子会社のミユキ販売と関係会社の鷹岡(大阪市)の2社に限り、ミユキ販売には『ミユキテックス』、鷹岡には『ファンシィテックス』のブランドで同一製品を流した[83]。毛織物メーカーが普通は握れない二次問屋の服地卸商まで結び付きを強め、既製服メーカーとイージーオーダーメーカーへの生地の流出を防いだ[84]。生産はテーラーや百貨店から上がる注文だけに応じる完全な受注生産で、生産能力の限界を理由に、常に若干の供給不足に置いた[85]。輸出は数年前に一度だけ英国はじめ欧州へ試験的に行い、1年でやめた[86]。急速に拡大する婦人服市場にも、流行が激しく生産・販売計画を立てにくいとして参入しなかった[87]

  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [83]販売先を100%出資子会社のミユキ販売と関係会社の鷹岡(大阪市)の2社に限り、ミユキテックスとファンシィテックスのブランドで同一製品を流した
    • [84]二次問屋である服地卸商との結び付きを強め、既製服メーカー・イージーオーダーメーカーへの生地流出を防いだ
    • [85]テーラー・百貨店経由の注文だけを作る完全な受注生産、生産能力の限界を理由に常に若干の供給不足の状態
    • [86]数年前に一度だけ英国はじめ欧州へ試験的に輸出し、1年でやめた
    • [87]急速に拡大する婦人服市場に、流行が激しく生産・販売計画を立てにくいとして進出しなかった
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [72]1978年4月期 売上高102億円・経常利益35億円・売上高経常利益率約34%
    • [73]自己資本比率85.5%、1株当たり純資産535円、長短借入金・支払手形ともゼロ
    • [74]上場企業1537社中で自己資本比率2位・売上高純金利負担率2位・使用総資本経常利益率40位
    • [75]1978年4月期の任意積立金114億円(資本金の6倍)、純資産194億円
    • [77]原料の毛糸は東洋紡績と中央毛織の2社から仕入れ、自社では紡績部門を持たない
    • [78]大同毛織・大東紡織など同業他社は紡績から毛織までの一貫生産体制をとる
    • [79]数千種にのぼる毛織物を生産する完全な多品種少量生産、設備投資のほとんどが機械化・合理化投資
    • [80]設備投資資金は利益と減価償却を合わせた自己資金内で調達。1970年の城北工場建設の10億円も自己資金
    • [82]受注生産のため製品在庫を持たず、1978年4月期の商品回転日数は15.3日
    • [83]販売先を100%出資子会社のミユキ販売と関係会社の鷹岡(大阪市)の2社に限り、ミユキテックスとファンシィテックスのブランドで同一製品を流した
    • [84]二次問屋である服地卸商との結び付きを強め、既製服メーカー・イージーオーダーメーカーへの生地流出を防いだ
    • [85]テーラー・百貨店経由の注文だけを作る完全な受注生産、生産能力の限界を理由に常に若干の供給不足の状態
    • [86]数年前に一度だけ英国はじめ欧州へ試験的に輸出し、1年でやめた
    • [87]急速に拡大する婦人服市場に、流行が激しく生産・販売計画を立てにくいとして進出しなかった
  • 会社年鑑 1986年版「御幸毛織」
    • [76]1976年4月期 売上高91億円・経常利益25億円/1978年4月期 売上高102億円・経常利益35億円
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1976年6月 尾西出張所竣工、製織関係協力工場の中継基地として操業開始

営業利益3億7000万円への落ち込みと電子事業部

1986年になっても売上高の50%はオーダーメード用紳士服地が占めたが、オーダーメードは背広の全需要の10%に満たず、減る一方だった[88]。御幸毛織は1975年頃から繊維関連の多角化を試み、独自ブランドの既製服『ミユキラン』を開発し、それを売る小売店『I&YOU』を神戸・名古屋・東京に出し、カシミアやベストなど高級紳士衣料のカタログ販売も始めた[89]。いずれも本格的な事業化の軌道に乗らないまま下火となり、公表できるほどの売上高を残さず、小売店は東京の1店を残すのみとなった[90]。『ミユキラン』はその1店の取扱商品の2割にも達しなかった[91]。この間、1979年12月に婦人服地へ進出し、1980年3月にオーストラリアでMIYUKI PASTORAL CO.PTY LIMITEDを設立、1985年3月に英国のミノバリミテッドを買収した[92]

  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [88]1986年時点で主力商品はオーダーメード用紳士服地で売上高の50%を占める。オーダーメードの需要は背広の全需要の10%に満たず減る一方
    • [89]1975年頃から繊維関係の多角化を試みた。独自ブランドの既製服「ミユキラン」、小売店「I&YOU」を神戸・名古屋・東京に展開、カシミア・ベストなど高級紳士衣料のカタログ販売
    • [90]いずれも本格的な事業化の軌道に乗らないまま下火となり、公表できるほどの売上高を上げられず、小売店は東京の1店を残すのみ
    • [91]「ミユキラン」は小売店の取扱商品のうち2割にも達していない
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [92]1979年12月 婦人服地へ進出/1980年3月 MIYUKI PASTORAL CO.PTY LIMITED(オーストラリア)設立/1985年3月 ミノバリミテッド(英国)買収

営業利益は1973年度の29億8000万円を最盛期として、1980年度から5期続けて減り、1984年度には3億7000万円まで落ち込んだ[93]。売上高も1979年4月期の102億円から1981年4月期の83億円へ下がり、1984年4月期も84億円で止まった[94]。豊富な余資の運用で得た金融収支の黒字がこれを支え、1986年4月期も経常利益15億円を確保したが、営業利益はその5分の2にとどまった[95]。積み上がった剰余金で、同期の自己資本比率は92.1%と一部上場企業で最高の水準に達した[96]。東洋紡績の持株は御幸毛織の発行株式の約10%、1984年4月時点では7.9%だったが、東洋紡績は関連事業本部が経営権を持つグループ会社として御幸毛織を扱い、佐藤五郎社長は1984年に東洋紡績常務から移った[97]

  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [93]営業利益は1973年度の29億8000万円が最盛期、1980年度から5期連続で減少し1984年度に3億7000万円まで落ち込んだ
    • [95]余資運用による金融収支の黒字で支え、1986年4月期の経常利益15億円、営業利益はその5分の2
    • [96]1986年4月期の自己資本比率92.1%は一部上場企業中最高
    • [97]東洋紡の持株は発行株式の約10%だが東洋紡関連事業本部が経営権を持つグループ会社として扱う。佐藤五郎社長は1984年に東洋紡常務から移った/1984年4月時点の東洋紡績の持株比率7.9%
  • 会社年鑑 1986年版「御幸毛織」
    • [94]1979年4月期 売上高102億円/1981年4月期 売上高83億円/1984年4月期 売上高84億円

1986年5月、御幸毛織は電子事業部を発足させ、電子事業へ進出した[98]。部長には須加井喬取締役が就き、初年度投資2000万円で日本電気製の16ビットパソコン6台やロジックアナライザー、オシロスコープなどを買い揃えた[99]。技術者は11人で、うち6人は1984年から採り始めた新卒者、残る5人は事務部門や毛織の製造部門からの配置転換で埋めた[100]。業務はソフトウェアの開発代行で、須加井喬取締役が自ら上京し、松下電器産業など大手電機メーカーと計測器メーカー数社を顧客にした[101]。手がけたのはVTRの番組予約やカセットデッキの選曲ソフトで、計画は初年度売上5000万円、3年目の1988年度に1億5000万円とした[102]

  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [98]1986年5月 電子事業へ進出し電子事業部を発足
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [99]電子事業部長は須加井喬取締役。初年度投資2000万円で日本電気製16ビットパソコン6台、ロジックアナライザー、オシロスコープなどを購入
    • [100]技術者11人。6人は1984年から採用した新卒者、5人は事務部門・毛織の製造部門からの配置転換
    • [101]業務はソフトウェアの開発代行。須加井取締役が自ら上京してセールスし、松下電器産業など大手総合電機メーカーや計測器メーカー数社を顧客にした
    • [102]VTRの番組予約やカセットデッキの選曲ソフトを開発。計画は初年度売上5000万円、3年目の昭和63年度に1億5000万円
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [88]1986年時点で主力商品はオーダーメード用紳士服地で売上高の50%を占める。オーダーメードの需要は背広の全需要の10%に満たず減る一方
    • [89]1975年頃から繊維関係の多角化を試みた。独自ブランドの既製服「ミユキラン」、小売店「I&YOU」を神戸・名古屋・東京に展開、カシミア・ベストなど高級紳士衣料のカタログ販売
    • [90]いずれも本格的な事業化の軌道に乗らないまま下火となり、公表できるほどの売上高を上げられず、小売店は東京の1店を残すのみ
    • [91]「ミユキラン」は小売店の取扱商品のうち2割にも達していない
    • [93]営業利益は1973年度の29億8000万円が最盛期、1980年度から5期連続で減少し1984年度に3億7000万円まで落ち込んだ
    • [95]余資運用による金融収支の黒字で支え、1986年4月期の経常利益15億円、営業利益はその5分の2
    • [96]1986年4月期の自己資本比率92.1%は一部上場企業中最高
    • [97]東洋紡の持株は発行株式の約10%だが東洋紡関連事業本部が経営権を持つグループ会社として扱う。佐藤五郎社長は1984年に東洋紡常務から移った/1984年4月時点の東洋紡績の持株比率7.9%
    • [99]電子事業部長は須加井喬取締役。初年度投資2000万円で日本電気製16ビットパソコン6台、ロジックアナライザー、オシロスコープなどを購入
    • [100]技術者11人。6人は1984年から採用した新卒者、5人は事務部門・毛織の製造部門からの配置転換
    • [101]業務はソフトウェアの開発代行。須加井取締役が自ら上京してセールスし、松下電器産業など大手総合電機メーカーや計測器メーカー数社を顧客にした
    • [102]VTRの番組予約やカセットデッキの選曲ソフトを開発。計画は初年度売上5000万円、3年目の昭和63年度に1億5000万円
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [92]1979年12月 婦人服地へ進出/1980年3月 MIYUKI PASTORAL CO.PTY LIMITED(オーストラリア)設立/1985年3月 ミノバリミテッド(英国)買収
    • [98]1986年5月 電子事業へ進出し電子事業部を発足
  • 会社年鑑 1986年版「御幸毛織」
    • [94]1979年4月期 売上高102億円/1981年4月期 売上高83億円/1984年4月期 売上高84億円

テーラー職人の高齢化とミユキモールの開業

1993年3月期の御幸毛織は5.1%減収・17.6%減益となり、13年ぶりの減収減益に落ちた[103]。バブル崩壊後の個人消費の落ち込みで既製服の売れ行きは極度の不振に陥り、郊外型紳士服店の安売り攻勢と、百貨店も含めた値崩れ競争が始まっていた[104]。御幸毛織は紳士服地を中心に超高級品だけを生産・販売し、ミユキテックス、ファンシィテックス、ナポレナシャーリーの3ブランドを持つ[105]。1993年7月から受注販売したナポレナ貝紫染のジャケットは1着95万円で、百貨店に予約が殺到し、1か月もたたないうちに10着すべてが売り切れた[106]。谷口雄一郎社長を委員長とする新商品対策委員会を設け、水にぬれにくい服地や通気性の良い涼しい服地の研究を続けた[107]

  • 中部財界 1993年「縫製会社との一体化進める「御幸毛織」――不況下でも高級品で勝負」(伊勢三郎)
    • [103]1993年3月期は5.1%減収・17.6%減益で13年ぶりの減収減益
    • [104]バブル崩壊後の個人消費の落ち込みで既製服業界の売れ行きは極度の不振。郊外型紳士服店の安売り攻勢や百貨店も含めた値崩れ競争が始まった
    • [105]紳士服地を中心に超高級品だけを生産・販売。ブランドはミユキテックス、ファンシィテックス、ナポレナシャーリー
    • [106]1993年7月から受注販売したナポレナ貝紫染のジャケット(1着95万円)は百貨店に予約が殺到し1か月もたたないうちに10着全部が売れ切れた
    • [107]新商品対策委員会(委員長・谷口雄一郎社長)を設置。水にぬれにくい服地、通気性の良い涼しい服地の研究

洋服地はミユキ販売と鷹岡を通じてアパレルと羅紗店へ売っていたが、この数年はテーラーの人手不足と職人の高齢化が進み、平均年齢は59歳に達した[108]。御幸毛織は縫製会社のラン・クロージング(大阪府東大阪市)とミユキソーイング(長崎県西彼杵郡)に縫製加工を寄せた[109]。紳士服地主体の大手メーカーが縫製会社を抱えるのは珍しい[110]。ミユキソーイングは従業員183人で、上着を日産240着、スラックスを60着、仕上げプレスを240着こなした[111]。服飾デザイナーの繁田勇氏と組んだオーダースーツ『マンブリス』を本格販売し、繁田氏が創作した5型のパターンから消費者が選び、裁断・縫製・仕上げをこの2社が担った[112]。取扱テーラーは約200店で、500店へ増やす計画を立てた[113]

  • 中部財界 1993年「縫製会社との一体化進める「御幸毛織」――不況下でも高級品で勝負」(伊勢三郎)
    • [108]洋服地をミユキ販売と鷹岡を通じてアパレル・羅紗店向けに販売。テーラーの人手不足と職人の高齢化、テーラー職人の平均年齢は59歳
    • [109]縫製会社のラン・クロージング(大阪府東大阪市)とミユキソーイング(長崎県西彼杵郡)の縫製加工体制を強化
    • [110]紳士服地主体の大手メーカーが縫製会社を置くのは珍しい
    • [111]ミユキソーイングは従業員183人、上着日産240着・スラックス60着・仕上げプレス240着
    • [112]服飾デザイナーの繁田勇氏とタイアップした新しいタイプのオーダースーツ「マンブリス」を本格販売。繁田デザイナーが5型のパターンオーダーを創作し、消費者が選んだものを系列のラン・クロージング、ミユキソーイングが裁断・縫製・仕上げまで担当
    • [113]「マンブリス」の取扱テーラーは約200店、将来は500店へ増やす計画

1993年12月、御幸毛織は本社を名古屋市西区市場木町390番地へ移した[114]。1996年12月には名古屋市の都市計画により西志賀工場を閉鎖し、城北工場へ集約した[115]。西志賀は、1918年11月に資本金50万円で御幸毛織を設立した際の所在地の地名でもある[116]。集約先の城北工場は、1970年9月に染色・仕上工場として竣工した拠点である[117]。1998年11月には、都市型店舗住宅複合施設『ミユキモール』を開業した[118]。保有不動産を店舗・事務所・住宅へ賃貸する不動産事業は、のちに繊維事業・電子関連事業と並ぶ事業区分となった[119]

  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [114]1993年12月 本社を名古屋市西区市場木町390番地に移転
    • [115]1996年12月 西志賀工場を名古屋市の都市計画により閉鎖し城北工場に集約
    • [116]1918年11月 愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立
    • [117]1970年9月 城北工場竣工、染色・仕上工場として操業開始
    • [118]1998年11月 都市型店舗住宅複合施設「ミユキモール」を開業
  • 御幸毛織 有価証券報告書【事業の内容】
    • [119]不動産事業は保有不動産の店舗・事務所・住宅などへの賃貸事業で、繊維事業・電子関連事業と並ぶ事業区分
  • 中部財界 1993年「縫製会社との一体化進める「御幸毛織」――不況下でも高級品で勝負」(伊勢三郎)
    • [103]1993年3月期は5.1%減収・17.6%減益で13年ぶりの減収減益
    • [104]バブル崩壊後の個人消費の落ち込みで既製服業界の売れ行きは極度の不振。郊外型紳士服店の安売り攻勢や百貨店も含めた値崩れ競争が始まった
    • [105]紳士服地を中心に超高級品だけを生産・販売。ブランドはミユキテックス、ファンシィテックス、ナポレナシャーリー
    • [106]1993年7月から受注販売したナポレナ貝紫染のジャケット(1着95万円)は百貨店に予約が殺到し1か月もたたないうちに10着全部が売れ切れた
    • [107]新商品対策委員会(委員長・谷口雄一郎社長)を設置。水にぬれにくい服地、通気性の良い涼しい服地の研究
    • [108]洋服地をミユキ販売と鷹岡を通じてアパレル・羅紗店向けに販売。テーラーの人手不足と職人の高齢化、テーラー職人の平均年齢は59歳
    • [109]縫製会社のラン・クロージング(大阪府東大阪市)とミユキソーイング(長崎県西彼杵郡)の縫製加工体制を強化
    • [110]紳士服地主体の大手メーカーが縫製会社を置くのは珍しい
    • [111]ミユキソーイングは従業員183人、上着日産240着・スラックス60着・仕上げプレス240着
    • [112]服飾デザイナーの繁田勇氏とタイアップした新しいタイプのオーダースーツ「マンブリス」を本格販売。繁田デザイナーが5型のパターンオーダーを創作し、消費者が選んだものを系列のラン・クロージング、ミユキソーイングが裁断・縫製・仕上げまで担当
    • [113]「マンブリス」の取扱テーラーは約200店、将来は500店へ増やす計画
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
    • [114]1993年12月 本社を名古屋市西区市場木町390番地に移転
    • [115]1996年12月 西志賀工場を名古屋市の都市計画により閉鎖し城北工場に集約
    • [116]1918年11月 愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立
    • [117]1970年9月 城北工場竣工、染色・仕上工場として操業開始
    • [118]1998年11月 都市型店舗住宅複合施設「ミユキモール」を開業
  • 御幸毛織 有価証券報告書【事業の内容】
    • [119]不動産事業は保有不動産の店舗・事務所・住宅などへの賃貸事業で、繊維事業・電子関連事業と並ぶ事業区分

持株会社への移行と東洋紡績による完全子会社化

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御幸毛織の沿革1905〜2018年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1905〜1945年舶来洋服地に対抗した広幅織物と庄内川工場の焼失祖父江利一郎が織布工場と染工場を開業★★
個人経営から合資会社に改組★★
合資会社から株式会社に改組★★
庄内川工場が竣工★★
猪飼毛織工場を吸収合併
陸軍管理工場に指定
企業合同により東洋紡績の系列に編入★★★
空襲により庄内川工場が焼失★★
1946〜1974年原糸を買う織屋が築いたミユキテックスと3市場上場制限会社に指定
小松原信明名古屋証券業協会で店頭売買を開始
小松原信明テレビ番組「ミユキ野球教室」の放送開始★★
小松原信明庄内川工場を再建し製織工場として操業開始
小松原信明高級服地「ファンシィテックス」を発売★★
小松原信明名古屋証券取引所市場第一部に上場
小松原信明東京証券取引所市場第一部に上場
小松原信明大阪証券取引所市場第一部に上場
杉崎半吉城北工場が竣工
杉崎半吉ミユキ販売を設立
1975〜1998年売上高経常利益率34%の頂点と実らなかった多角化本田孝婦人服地に参入
本田孝MIYUKI PASTORAL CO.PTY LIMITEDを設立
本田孝ミノバリミテッドを買収
佐藤五郎電子事業に参入★★
佐藤五郎本社を移転
佐藤五郎西志賀工場を閉鎖
佐藤五郎店舗住宅複合施設「ミユキモール」を開業★★
1999〜2010年持株会社への移行と東洋紡績による完全子会社化佐藤五郎ボン電気を買収
佐藤五郎アングル工業とアングルの全株式を取得
佐藤五郎持株会社制に移行し御幸HDに商号変更★★★
小鴨繁昭東京・大阪・名古屋の各証券取引所で上場を廃止★★
小鴨繁昭東洋紡との株式交換により完全子会社化★★★
四日市工場が操業開始
持株会社制を廃止し御幸毛織に商号変更★★
東洋紡テクノウールを吸収合併
出典・参考
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】 / ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
  • 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
  • 御幸毛織 有価証券報告書【事業の内容】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
  • 会社年鑑 1963年版「御幸毛織」/会社年鑑 1967年版「御幸毛織」/会社年鑑 1971年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
  • 会社年鑑 1963年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
  • 会社年鑑 1971年版「御幸毛織」/会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
  • 会社年鑑 1976年版「御幸毛織」
  • 会社年鑑 1986年版「御幸毛織」
  • 証券 1962年7月号
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
  • 中部財界 1993年「縫製会社との一体化進める「御幸毛織」――不況下でも高級品で勝負」(伊勢三郎)
  • 御幸毛織株式会社 2024年10月30日「糸から服まで一貫生産にこだわる御幸毛織、「120周年特設サイト」を開設しました。」(PR TIMES)

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