倉敷紡績 の歴史

創業

1888年

創業者

大原孝四郎

創業地

岡山県倉敷市

直近売上高(2026/3)

1,438億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1906年に大原孫三郎氏は紡績の枠を超えて新機軸を広げたのか
A 創業初代の大原孝四郎氏が設備を抑えて株主へ厚く配当した倉敷紡績で、稼いだ資本を新事業へ振り向ける経営を広げたのが三男の大原孫三郎氏である。1906年に社長へ就いた大原孫三郎氏は、吉備紡績所の買収や1915年の万寿工場新設で綿紡績の規模を拡げる一方、商標統一・工手学校・分散式家族的寄宿舎・精紡機の単独運転など新機軸を次々に打ち出した。大原美術館・倉敷中央病院・大原社会問題研究所といった社会事業も岡山県内に興し、紡績の枠を超えて資本を回す型を残した
Q なぜ1986年にフッ素樹脂加工品へ参入したのか
A 繊維が新興国の追い上げで採算を失うなか、倉敷紡績は1960年代から食品・化成品・環境・エレクトロニクスへ事業を散らし、稼ぎ頭を本業の外へ移そうとした。その延長で1986年に手掛けたのがフッ素樹脂加工品である。フッ素樹脂は薬品に強く、半導体の洗浄工程で使う配管材に向く素材で、東京エレクトロン向けの製品が約30年かけて育った。いまや化成品が連結営業利益のおよそ半分を稼ぎ、2025年3月期の化成品セグメントは売上660億円・営業利益50億円に達した。
Q なぜ2024年に倉敷機械をDMG森精機へ売却したのか
A 2024年に16代社長へ就いた西垣伸二社長は、半導体向けを最注力市場に据え、就任後の一年で事業を選別した。1949年に分けた工作機械子会社・倉敷機械は、世界規模の販売網を持つDMG森精機が最良の引き受け手と判断して売却し、譲渡後はDMG MORI Precision Boringへ商号を変えた。中国・広州の自動車内装材向け軟質ウレタン事業からも撤退し、空けた資源を半導体向けフッ素樹脂部品へ集め、熊本事業所に約30億円を投じて新棟を建て生産能力を倍増させる

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1888年〜 大原孫三郎氏が育てた地方紡績から戦後再上場まで

  1. 1888年有限責任倉敷紡績所として創立
  2. 1889年倉敷本社工場で綿紡績の操業を開始
  3. 1893年商法施行により社名を倉敷紡績株式会社と改称
  4. 1915年万寿工場(後の倉敷工場)を新設
  5. 1926年人絹工業へ進出するため倉敷絹織(現クラレ)を設立
  6. 1930年倉敷労働科学研究所を大原孫三郎氏の個人経営へ移管
  7. 1948年倉敷繊維加工株式会社を設立

倉敷紡績の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

倉敷の資産家131名が出資した「下期から15%配当」

1888年3月9日、岡山県窪屋郡倉敷村に有限責任倉敷紡績所が設立された。かつて綿産地として栄え商業都市として発展してきた倉敷の地に紡績業を興し殖産の実を上げようとする地元有志の熱意が結実したもので、その中心となったのが土地の富豪で初代社長の大原孝四郎氏である。倉敷の資産家131名が出資し、大原氏が筆頭株主となった株主構成は、地方の在郷資本が紡績業に直接資金を投じる典型的な明治期の地方紡績の姿だった。創立当初の資本金は10万円で、1889年10月、紡機4000錘あまりをもって綿糸の製造を開始した。創業期から工場建設費を抑えて償却負担を軽くする方針を取り、創業1年目の下期から15%配当を実現した。当初から「コストを掛けない設備投資」と「配当による株主還元」を両立させる経営の型は、その後の倉敷紡績の事業展開にも引き継がれた。 [1][2][3][4][5]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1888年3月9日に岡山県窪屋郡倉敷村で有限責任倉敷紡績所が設立された
  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [2]設立は明治21年(1888年)3月9日、岡山県窪屋郡倉敷村であった
    • [3]大原孝四郎は土地の富豪で倉敷紡績所の初代社長として設立の中心となった
    • [4]創立当初の資本金は10万円であった
    • [5]1889年10月に紡機4000錘あまりで綿糸の製造を開始した

創業直後の1890年にはわが国最初の資本主義的恐慌に襲われたが、これを克服して日清・日露の両戦役を通じて飛躍をとげ、企業の基礎を固めた。1893年7月には商法施行に伴い有限責任倉敷紡績所から倉敷紡績株式会社へ改組し、株式会社として法人格を整えた。1906年、創業者・大原孝四郎氏の三男である大原孫三郎氏が社長に就任した。大原孫三郎氏は吉備紡績所の買収や1915年の万寿工場(後の倉敷工場)新設で規模を拡大する一方、商標の統一、工手学校の設立、分散式家族的寄宿舎の設置、レパルション・モーターによる精紡機の単独運転など、次々に新機軸を打ち出した。当時の紡績業界では女工の劣悪な労働環境が社会問題化しており、社宅・診療所などを整えて労働者の定着率を高めた点が大原孫三郎氏の特徴である。大原美術館・倉敷中央病院・大原社会問題研究所など、紡績業の枠を超えた社会事業を岡山県内に設立した源流もここにある。 [6][7][8][9][10][11]

  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [6]1890年にわが国最初の資本主義的恐慌に襲われたがこれを克服し日清・日露両戦役で飛躍した
    • [8]1906年に大原孫三郎が社長に就任した(大原孝四郎の三男)
    • [9]大原孫三郎は吉備紡績所を買収した
    • [11]大原孫三郎は商標の統一・工手学校の設立・分散式家族的寄宿舎の設置・レパルション・モーターによる精紡機の単独運転など新機軸を打ち出した
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1893年7月に商法施行に伴い倉敷紡績株式会社へ改組した
    • [10]1915年に万寿工場(後の倉敷工場)を新設した

1914年に勃発した第一次世界大戦により日本の紡績業界は未曾有の繁栄を見たが、大戦後に到来した反動不況の打撃は深刻で、倉敷紡績も業績悪化に苦しんだ。同社は全従業員が社訓「同心数力」の精神を発揮し、徹底的なコストダウンと能率向上によってこの不況期を切り抜けた。この時期にあっても1926年には人絹工業に進出するため倉敷絹織(現クラレ)を設立し、レーヨン分野への参入を果たすなど積極政策を固持した。レーヨンは天然繊維を補完する化学繊維で、当時最先端の繊維事業領域だった。倉敷紡績は綿紡績の本体とは別に、関連事業会社を通じてレーヨンの新規領域に参入し、紡績業からの裾野拡張を始めた。倉敷絹織は1949年に倉敷レイヨンへ商号変更し、戦後はビニロン繊維の発明で日本の合成繊維産業の起点となる企業として独立成長した。倉敷紡績本体から派生した姉妹企業が、独自の事業展開で日本の繊維産業を支える側に回った経緯である。 [12][13][14][15]

  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [12]1914年の第一次世界大戦で紡績業界は繁栄したが大戦後の反動不況で倉敷紡績は業績悪化に苦しんだ
    • [13]倉敷紡績は社訓「同心数力」の精神を発揮しコストダウンと能率向上で不況期を切り抜けた
    • [14]1926年に人絹工業進出のため倉敷絹織(現クラレ)を設立しレーヨン分野に参入した
    • [15]倉敷絹織は1949年に倉敷レイヨンへ商号変更した
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1888年3月9日に岡山県窪屋郡倉敷村で有限責任倉敷紡績所が設立された
    • [7]1893年7月に商法施行に伴い倉敷紡績株式会社へ改組した
    • [10]1915年に万寿工場(後の倉敷工場)を新設した
  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [2]設立は明治21年(1888年)3月9日、岡山県窪屋郡倉敷村であった
    • [3]大原孝四郎は土地の富豪で倉敷紡績所の初代社長として設立の中心となった
    • [4]創立当初の資本金は10万円であった
    • [5]1889年10月に紡機4000錘あまりで綿糸の製造を開始した
    • [6]1890年にわが国最初の資本主義的恐慌に襲われたがこれを克服し日清・日露両戦役で飛躍した
    • [8]1906年に大原孫三郎が社長に就任した(大原孝四郎の三男)
    • [9]大原孫三郎は吉備紡績所を買収した
    • [11]大原孫三郎は商標の統一・工手学校の設立・分散式家族的寄宿舎の設置・レパルション・モーターによる精紡機の単独運転など新機軸を打ち出した
    • [12]1914年の第一次世界大戦で紡績業界は繁栄したが大戦後の反動不況で倉敷紡績は業績悪化に苦しんだ
    • [13]倉敷紡績は社訓「同心数力」の精神を発揮しコストダウンと能率向上で不況期を切り抜けた
    • [14]1926年に人絹工業進出のため倉敷絹織(現クラレ)を設立しレーヨン分野に参入した
    • [15]倉敷絹織は1949年に倉敷レイヨンへ商号変更した

昭和恐慌の人員整理と毛織物・愛媛工場への業容拡張

1930年頃、世界恐慌の影響で日本繊維業界全体の販売不振が深刻化し、倉敷紡績の業績も悪化した。経営状況を改善するため、繊維製品の減産、非注力事業(倉敷労働科学研究など)の大原家による個人経営への移行、社員5〜10%の整理、役員報酬の減額を実行した。地方紡績会社が経済危機下で本業以外の社会事業を切り離し、人件費圧縮で本業の収益性を立て直す典型例である。大原孫三郎氏が個人として引き受けた社会事業の一部はその後も倉敷の地で続いたが、株式会社としての倉敷紡績は紡績本業に集中する選択を取った。1931年の満州事変を契機にわが国の綿業は再び発展期を迎え、輸出が増加して1933年には日本が英国を抜いて綿布輸出で世界第一位となり、倉敷紡績もこの間に一段の発展をとげた。 [16]

  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [16]1931年の満州事変を契機に綿業は再び発展し1933年に日本は綿布輸出で英国を抜いて世界第一位となった

1936年には羊毛工業およびスフ紡へ進出して多角化をはかり、経営基盤をさらに強固にした。同年3月には三重県津市に津工場を新設して毛織物の本格生産を開始し、紡毛紡績・織物・染色までを一貫生産する工場として稼働させて、綿紡績一本だった事業構造を毛織物まで広げた。1938年には愛媛県北条町に北条工場を新設し、紡績工場の地理的分散を進めた。倉敷・万寿・津・北条の四工場体制で、岡山・三重・愛媛にまたがる生産拠点が整い、十大紡績の一角としての規模を確保した時期である。同時期、東洋紡・鐘紡・日清紡・敷島紡績などの大手も合併・工場新設で規模拡張を進めており、業界全体が大手中心の寡占構造に向かう局面だった。 [17]

  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [17]1936年に羊毛工業およびスフ紡へ進出して多角化をはかった

日華事変から太平洋戦争への突入後は紡績業への統制が強まり、業界の統合が進められた。倉敷紡績は国光紡績など紡織三社を合併し、さらに染色会社二社を傘下に加えて、綿糸布製造から染色加工に至る一貫体制を確立した。一方で戦局の要請から一部の工場を軍需兵器工場に転換し、紡績と軍需生産の二本建て操業に移行したが、終戦時には生産設備の7割を失うなど戦争による痛手は大きかった。こうした壊滅的な打撃にもかかわらず戦後いち早く再建に着手し、終戦直後の1949年5月、倉敷紡績は東京証券取引所に株式上場を果たした。戦後復興期の繊維需要は外貨獲得の主力商品としての位置にあり、十大紡績各社は復興期の旺盛な綿糸・綿布需要を捉えた。1949年8月には倉敷機械株式会社を設立し、紡績機械の自社生産・販売部門を別会社として独立させた。倉敷機械は後に工作機械分野へ進出し、母体の倉敷紡績とは別の事業領域で成長した。 [18][19][20]

  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [18]太平洋戦争下で倉敷紡績は国光紡績など紡織三社を合併し染色会社二社を傘下に加え綿糸布製造から染色加工までの一貫体制を確立した
    • [19]一部工場を軍需兵器工場に転換し紡績と軍需生産の二本建て操業となり終戦時に生産設備の7割を失った
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1949年5月に東京証券取引所へ株式上場した
  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [16]1931年の満州事変を契機に綿業は再び発展し1933年に日本は綿布輸出で英国を抜いて世界第一位となった
    • [17]1936年に羊毛工業およびスフ紡へ進出して多角化をはかった
    • [18]太平洋戦争下で倉敷紡績は国光紡績など紡織三社を合併し染色会社二社を傘下に加え綿糸布製造から染色加工までの一貫体制を確立した
    • [19]一部工場を軍需兵器工場に転換し紡績と軍需生産の二本建て操業となり終戦時に生産設備の7割を失った
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1949年5月に東京証券取引所へ株式上場した

安城工場新設と海外進出の起点

戦後はいち早く復旧を進め、1951年10月、愛知県に業界最大の近代紡績工場として安城工場を新設した。当時最新鋭の紡績機械を導入し、合理化を志向した綿合繊紡績の基幹工場として位置付けた。安城工場は綿合繊紡績の生産設備として2024年まで70年余にわたり稼働し、倉敷紡績の繊維事業の象徴的な生産拠点となった。同じ復興期には毛紡部門でも木曽川工場を増設し、戦災で失った生産能力を綿・毛の両面で回復させた。1955年にはニューヨーク事務所を新設し、海外市場の情報収集体制を整えた。戦後復興期の繊維輸出が業界の中心テーマだった時期に、米国市場との接点を持つことが綿糸・綿布輸出に直結した。 [21][22][23]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1951年10月に愛知県に業界最大の近代紡績工場として安城工場を新設した
    • [23]安城工場は2024年まで70年余にわたり稼働した
  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [22]戦後復興期に毛紡部門で木曽川工場を増設した

倉敷紡績は終戦直後から1950年代前半にかけて、戦前の規模拡張路線を継続しながらも、設備の更新と海外接点の確保で「新しい時代の十大紡績」としての地位を維持しようとした。創業以来の地縁的な経営基盤(岡山・倉敷)から、愛知(安城)・三重(津)・愛媛(北条)と全国に分散した工場群を運営する全国型紡績企業への変容が、この時期に進んだ。一方、繊維業界の競争環境は1950年代後半から変わり始め、合成繊維の台頭と海外生産国の追い上げが、十大紡績各社の経営課題となった。倉敷紡績の次の課題は、紡績本業以外の領域への業容拡張だった。

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1951年10月に愛知県に業界最大の近代紡績工場として安城工場を新設した
    • [23]安城工場は2024年まで70年余にわたり稼働した
  • 企業の歴史 : 明治百年
    • [22]戦後復興期に毛紡部門で木曽川工場を増設した

1955年〜 多角化への着手と繊維不況による1975年経常赤字

  1. 1957年ブラジルにクラシキ・ド・ブラジル・テキスタイル有限会社を設立
  2. 1961年日本ジフィー食品株式会社に出資
  3. 1962年寝屋川工場を新設しポリウレタンフォームなど化成品事業に進出
  4. 1968年タイ・クラボウ株式会社を設立
  5. 1970年環境制御装置などのエンジニアリング事業に進出
  6. 1976年色彩管理システム・生産管理システム等のエレクトロニクス事業に進出
  7. 1991年バイオメディカル事業に進出

倉敷紡績の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

食品・化成品・エレクトロニクスへの新規参入

1957年8月、倉敷紡績はブラジルに生産現地法人を設立し、紡績業の海外現地生産を開始した。日本国内の人件費上昇と新興国の追い上げを見据えた早期の海外展開であり、ブラジル拠点は綿紡績の海外生産基地として長期にわたり稼働した。1961年4月には日本インスタント食品に出資して食品事業に参入し、乾燥食品の製造販売を開始した。1962年11月には化成品事業に参入し、ウレタンフォーム・プラスチック成形品など、化学関連の新規事業領域で製造を始めた。1968年10月にはタイに現地生産法人を設立し、東南アジアにも生産拠点を広げた。 [24][25][26][27]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1957年8月にブラジルに生産現地法人を設立し紡績の海外現地生産を始めた
    • [25]1961年4月に日本インスタント食品に出資して食品事業に参入した
    • [26]1962年11月に化成品事業に参入しウレタンフォーム等の製造を始めた
    • [27]1968年10月にタイに現地生産法人を設立し東南アジアに生産拠点を広げた

1970年3月には環境エンジニアリング事業に参入し、水処理・大気環境関連の事業領域へ進出した。1976年3月にはエレクトロニクス事業に参入し、色彩管理システム・生産管理システムなどの電子機器の製造を始めた。1971年11月には静岡県に裾野工場を新設し、化成品事業の生産拠点を整えた。1955年のニューヨーク事務所開設から1976年のエレクトロニクス参入まで、約20年間で食品・化成品・環境・エレクトロニクス・海外生産という多方面の事業領域に裾野を広げた。十大紡績各社の中でも倉敷紡績は早期に多角化に着手した部類で、後の事業ポートフォリオの原型がこの時期に組み上がった。 [28][29][30][31]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1970年3月に環境エンジニアリング事業に参入した
    • [29]1976年3月にエレクトロニクス事業に参入した
    • [30]エレクトロニクス事業の参入製品は色彩管理システム・生産管理システムだった
    • [31]1971年11月に静岡県に裾野工場を新設した

多角化の背景には、繊維業界の構造的な収益圧迫があった。1971年8月のニクソンショックと1973年10月の第一次石油危機は、日本繊維業界全体を直撃した。原油価格の高騰で合成繊維の原料コストが急上昇し、輸出採算は悪化した。1970年代を通じて韓国・台湾の繊維産業が技術力・コスト競争力ともに向上し、日本繊維業界は構造的な国際競争力低下に直面した。倉敷紡績は繊維事業の収益悪化を新規事業の立ち上げで補う方向に経営の重心を移し、紡績本業以外の収益源を順次育てる戦略を取った。

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1957年8月にブラジルに生産現地法人を設立し紡績の海外現地生産を始めた
    • [25]1961年4月に日本インスタント食品に出資して食品事業に参入した
    • [26]1962年11月に化成品事業に参入しウレタンフォーム等の製造を始めた
    • [27]1968年10月にタイに現地生産法人を設立し東南アジアに生産拠点を広げた
    • [28]1970年3月に環境エンジニアリング事業に参入した
    • [29]1976年3月にエレクトロニクス事業に参入した
    • [30]エレクトロニクス事業の参入製品は色彩管理システム・生産管理システムだった
    • [31]1971年11月に静岡県に裾野工場を新設した

1975年経常赤字と紡績設備20%削減

第一次石油危機後の1975年3月期、倉敷紡績は単体で当期純損失約15億円を計上し赤字に転落した。十大紡績の他社(大和紡績・敷島紡績など)も1975年前後に赤字計上に追い込まれており、繊維業界全体が構造的な不況局面に入った時期である。倉敷紡績は1983年6月に紡績設備の20%削減を決定し、過剰生産能力の整理に本格着手した。佐賀・愛媛・岡山などの主力工場で順次設備削減を実行し、繊維事業の規模圧縮と並行して新規事業の比率を引き上げる方針を取った。 [32]

  • 株式会社年鑑(会社年鑑)
    • [32]1975年は単体決算で当期純損失約15億円を計上し赤字に転落した

1986年にはフッ素樹脂加工品に参入し、化成品事業のなかでも高付加価値の機能性樹脂を手掛け始めた。フッ素樹脂は半導体製造装置の洗浄装置向け配管材として後に主力製品となる素材で、1986年時点での参入が約30年後の半導体製造装置市場の需要を捉える布石となった。1990年には不動産事業を開始し、閉鎖した繊維工場の跡地を活用して商業施設への賃貸事業に乗り出した。繊維事業の縮小に伴う遊休地を、不動産収入として継続的な収益に転換する手法であり、敷地面積の大きい紡績工場跡地を持つ倉敷紡績にとっては合理的な資産活用だった。 [33]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [33]1990年に不動産事業を開始した

1993年には創業の地である倉敷工場を閉鎖し、跡地を「チボリ公園」として開発した。岡山県に対する賃貸を開始し、創業の地の工場跡地を観光施設として活用した。1888年の創業から105年を経て、倉敷の地の紡績生産拠点はいったん途絶えた。1994年4月には岡山県浅口市に鴨方工場、1996年4月には徳島県に徳島工場を新設し、繊維生産の主力拠点を再編した。1996年には安城工場の敷地約6万坪を活用して商業施設「ザ・モール」を開業し、安城工場は規模を縮小しつつ稼働を継続する一方、跡地の商業施設運営で賃貸収入を確保した。繊維事業の縮小と工場跡地の不動産事業化が並行して進んだ局面である。 [34][35]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [34]1994年4月に岡山県浅口市に鴨方工場を新設した
    • [35]1996年4月に徳島県に徳島工場を新設した
  • 株式会社年鑑(会社年鑑)
    • [32]1975年は単体決算で当期純損失約15億円を計上し赤字に転落した
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [33]1990年に不動産事業を開始した
    • [34]1994年4月に岡山県浅口市に鴨方工場を新設した
    • [35]1996年4月に徳島県に徳島工場を新設した

化成品の海外展開と工作機械の取り込み

1990年代後半から2000年代前半にかけて、倉敷紡績は化成品事業を成長領域として位置付け、フッ素樹脂・ウレタンフォーム・防水材などの製品ラインを拡張した。2001年12月には中国に現地生産法人を設立し、化成品事業の海外生産網を整えた。中国・広州を中心に自動車内装材向け軟質ウレタンフォームの生産拠点を構築し、日系自動車メーカーの中国現地生産に伴う部材需要を取り込んだ。 [36][37]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [36]2001年12月に中国に化成品の現地生産法人を設立した
    • [37]中国・広州で自動車内装材向け軟質ウレタンフォームの生産拠点を構築した

2009年4月には繊維事業の構造改革として、津工場および岡山工場の閉鎖を決定した。1936年新設の津工場は毛織物の主力拠点として73年間稼働を続けた工場で、倉敷紡績の戦前期の業容拡張を象徴する生産拠点だった。津・岡山の2工場閉鎖により、繊維事業の国内生産拠点は安城・徳島・鴨方の3工場体制に集約された。2010年12月には倉敷機械株式会社を完全子会社化(TOB)し、1949年に分離した工作機械子会社を再統合した。倉敷機械は工作機械分野で独自の地位を築いていたが、グループ内での経営資源最適化のため100%子会社化する判断に至った。2012年4月には三重県に三重工場を新設し、化成品事業の生産拠点を増強した。1976年エレクトロニクス参入から30年余りを経て、繊維・化成品・工作機械・不動産・食品・エレクトロニクスの6事業セグメント体制が定着した。 [38]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [38]2012年4月に三重県に三重工場を新設した
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [36]2001年12月に中国に化成品の現地生産法人を設立した
    • [37]中国・広州で自動車内装材向け軟質ウレタンフォームの生産拠点を構築した
    • [38]2012年4月に三重県に三重工場を新設した

1995年〜 繊維赤字の長期化とフッ素樹脂主力化への振り替え

  1. 1996年徳島工場を新設
  2. 2001年広州倉敷化工製品有限公司を設立
  3. 2007年シーダム株式会社に出資し連結子会社化
  4. 2010年クラシキ・ケミカル・プロダクツ・ド・ブラジルを設立
  5. 2016年徳島バイオマス発電所を新設
  6. 2025年広州倉敷化工製品有限公司の全持分を譲渡
  7. 2025年2025年6月末を目途に安城工場の閉鎖を決定

倉敷紡績の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

5期連続繊維赤字と藤田晴哉社長就任

2014年6月、創業家・大原家の血筋を引く藤田晴哉氏が15代社長に就任した。藤田社長は就任時にコト売りへの転換を方針として掲げ、繊維製品を素材販売から価値やストーリーを売るモデルへ転換する方向を示した。FY14(2015年3月期)の繊維事業セグメントは売上908億円・営業利益8億円と黒字を維持していたが、FY18にかけて売上・利益とも縮小した。FY18(2019年3月期)には繊維事業の営業利益が9億円の赤字に転落し、FY19(2020年3月期)にはマイナス17億円、FY20(2021年3月期)にはマイナス18億円と赤字幅が拡大した。

繊維事業の構造的な不振の背景には、新興国との価格競争の激化、国内アパレル市場の縮小、原料価格の上昇という3つの要因が並列で作用していた。倉敷紡績は2020年1月に「繊維事業の構造改革」を取締役会で決議し、同年3月に綿合繊紡績の丸亀工場(香川県・従業員83名)の閉鎖を決定した。丸亀工場の閉鎖により、繊維事業の国内生産拠点は安城工場をマザー工場とする体制に集約された。しかし丸亀閉鎖後も繊維事業の収益性は改善せず、FY18からFY21まで4期連続のセグメント赤字が続いた。藤田社長は2023年1月のインタビューで繊維事業が5年ぶりに黒字化する見通しを示し、FY22(2023年3月期)に繊維セグメントは営業利益3億円の黒字化を達成した。 [39]

  • 繊研新聞 2023年1月25日
    • [39]藤田社長は2023年1月のインタビューで繊維事業が5年ぶりに黒字化する見通しを示した

化成品事業は繊維不振が続いた2010年代後半に成長領域として位置を高めた。半導体製造装置(洗浄装置)向けの配管に使用されるフッ素樹脂部品の販売が伸び、FY22の化成品事業セグメント売上は597億円・営業利益37億円と過去最高水準に達した。フッ素樹脂部品の主要顧客は東京エレクトロンであり、2018年4月には熊本県に熊本事業所を新設し、東京エレクトロン九州への近接供給拠点として活用した。1986年のフッ素樹脂加工品参入から30年余を経て、半導体製造装置市場の急成長と倉敷紡績の素材供給能力が連動する局面に入った。 [40]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]2018年4月に熊本県に熊本事業所を新設した
  • 繊研新聞 2023年1月25日
    • [39]藤田社長は2023年1月のインタビューで繊維事業が5年ぶりに黒字化する見通しを示した
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]2018年4月に熊本県に熊本事業所を新設した

工作機械事業の譲渡と西垣社長による前倒し中計

2024年1月、倉敷紡績は非注力事業の整理として倉敷機械の株式売却を決定した。売却先は大手工作機械メーカーのDMG森精機で、売却後に倉敷機械は商号をDMG MORI Precision Boringに変更した。1949年に分離・2010年に再統合した工作機械事業は、グループ事業のポートフォリオ整理の流れで75年の歴史を経て事業外へ手放した。FY23(2024年3月期)には倉敷機械譲渡を反映した特別利益17億円を計上し、連結純利益は67億円となった。2024年6月、16代社長として西垣伸二氏が就任した。西垣社長は就任時、業績を牽引し今後も成長が見込まれる半導体市場向け事業への注力方針を表明し、化成品事業のフッ素樹脂部品を主力として位置付ける方向を明確化した。同年11月のインタビューでは高機能樹脂製品のさらなる増強を掲げ、生産能力を現状比でさらに倍増させる計画として、熊本事業所での新棟建設(投資額約30億円)を含む増産投資を表明した。 [41][42]

  • 日本経済新聞 2024年3月26日
    • [41]西垣社長は半導体市場向け事業への注力方針を表明し化成品のフッ素樹脂部品を主力に位置付けた
  • 電子デバイス産業新聞 2024年11月1日
    • [42]西垣社長は高機能樹脂製品の生産能力を現状比でさらに倍増させる計画を表明した

2024年度末、西垣社長は2つの構造改革を決定した。1つは中国・広州の軟質ウレタン事業会社の連結子会社譲渡で、自動車内装材向け軟質ウレタンフォーム事業から撤退した。もう1つは安城工場の閉鎖で、1951年新設から73年間稼働してきた繊維事業のマザー工場を閉じることを決めた。安城工場の閉鎖は1888年の創業以来136年続いてきた紡績生産拠点の国内基幹工場が消滅することを意味し、倉敷紡績の祖業である紡績業の縮小がさらに進む転換点となった。新中期経営計画「Accelerate ’27」(2025年4月開始)では、長期ビジョン2030の前倒し達成を掲げ、中計期間内(2027年)のROE 8%達成を目標として設定した。 [43][44]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [43]中国・広州の軟質ウレタン事業会社の連結子会社を譲渡し軟質ウレタンフォーム事業から撤退した
    • [44]安城工場は1951年新設から73年間稼働した繊維事業のマザー工場だった

2025年3月期の連結業績は売上高1,506億円・営業利益103億円・純利益90億円となり、化成品セグメントの売上660億円・営業利益50億円が連結営業利益の約半分を稼ぐ構造となった。繊維事業セグメントは売上485億円・営業利益0.7億円とほぼ収支均衡まで戻ったが、安城工場閉鎖を伴う構造改革の影響は今後の業績に反映される。1888年の地方紡績所からの137年の歩みは、繊維本業の縮小と化成品(特にフッ素樹脂部品)の主力化という事業ポートフォリオの振り替えに集約された。十大紡績の一角として戦後復興期を駆け抜けた地方資本由来の紡績会社が、半導体製造装置向けの機能性樹脂メーカーへ主力を移す過程が、創業者・大原孫三郎氏が始めた多角化路線の延長として137年目に到達した姿である。 [45]

  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [45]1888年の創業から2025年で137年になる
  • 日本経済新聞 2024年3月26日
    • [41]西垣社長は半導体市場向け事業への注力方針を表明し化成品のフッ素樹脂部品を主力に位置付けた
  • 電子デバイス産業新聞 2024年11月1日
    • [42]西垣社長は高機能樹脂製品の生産能力を現状比でさらに倍増させる計画を表明した
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
    • [43]中国・広州の軟質ウレタン事業会社の連結子会社を譲渡し軟質ウレタンフォーム事業から撤退した
    • [44]安城工場は1951年新設から73年間稼働した繊維事業のマザー工場だった
    • [45]1888年の創業から2025年で137年になる

倉敷紡績の沿革1888〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
有限責任倉敷紡績所として創立★★★
倉敷本社工場で綿紡績の操業を開始★★
商法施行により社名を倉敷紡績株式会社と改称
万寿工場(後の倉敷工場)を新設
人絹工業へ進出するため倉敷絹織(現クラレ)を設立★★★
倉敷労働科学研究所を大原孫三郎氏の個人経営へ移管★★★
倉敷繊維加工株式会社を設立
東京証券取引所に株式上場
安城工場を新設
ブラジルにクラシキ・ド・ブラジル・テキスタイル有限会社を設立★★
日本ジフィー食品株式会社に出資★★
寝屋川工場を新設しポリウレタンフォームなど化成品事業に進出★★★
技術研究所を設置
クラボウケミカルワークス株式会社を設立
タイ・クラボウ株式会社を設立★★
東名化成株式会社を設立
環境制御装置などのエンジニアリング事業に進出★★
裾野工場を新設
株式会社倉敷アイビースクエアを設立★★
株式会社クラボウインターナショナルを設立
化成品事業で合成木材・機能フィルム分野に進出★★
インドネシアにクラボウ・マヌンガル・テキスタイルを設立
色彩管理システム・生産管理システム等のエレクトロニクス事業に進出★★★
化成品事業で群馬工場を新設し無機建材分野に進出★★
不動産事業に進出★★
バイオメディカル事業に進出★★★
鴨方工場を新設
徳島工場を新設
広州倉敷化工製品有限公司を設立
井上晶博シーダム株式会社に出資し連結子会社化
井上晶博クラシキ・ケミカル・プロダクツ・ド・ブラジルを設立
井上晶博三重工場を新設
藤田晴哉徳島バイオマス発電所を新設★★
藤田晴哉熊本事業所を新設
藤田晴哉東京証券取引所プライム市場に移行
西垣伸二広州倉敷化工製品有限公司の全持分を譲渡★★
西垣伸二2025年6月末を目途に安城工場の閉鎖を決定★★
出典・参考
  • 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年
  • 株式会社年鑑(会社年鑑)
  • 繊研新聞 2023年1月25日
  • 日本経済新聞 2024年3月26日
  • 電子デバイス産業新聞 2024年11月1日

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