倉敷絹織を別会社設立(1926年・倉敷紡績の決断) 現クラレ 更新:2026/07/22 論点 人絹事業は本体か別会社か 倉敷紡績:業績の推移 売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所 人絹工業への進出を本体から切り離して担わせた新会社 何をなぜ決めたか:人絹工業への進出を本体から切り離して担わせた新会社 概要 1926年、倉敷紡績は人絹(人造絹糸)工業へ進出するため、倉敷絹織を岡山県倉敷市に設立した。綿紡績の一部門として社内に置くのではなく、化学繊維レーヨンの事業化だけを目的とする別会社を設立する形をとった。 背景 第一次大戦の繁栄が終わり、大戦後の反動不況で倉敷紡績の業績は悪化していた。社訓"同心数力"のもとでコストダウンと能率向上を重ねたが、売る品目は綿糸と綿布のままであった。 内容 新会社の目的は化学繊維レーヨンの事業化に絞られた。所在地は本体の工場が並ぶ岡山県倉敷市で、資本と人は倉敷紡績から出しながら、勘定と経営は分けられた。 含意 倉敷絹織は戦後に倉敷レイヨンへ商号を変更し、1950年代に国産の合成繊維ビニロンを事業化してクラレとなった。新しい繊維をまず別会社で興す型は、1935年の倉敷毛織設立にも繰り返された。 いつ何が起きたか 6件 考察:綿の会社が化学に触れた距離 考察 考察:綿の会社が化学に触れた距離 この判断で注目したいのは、進出先の目新しさよりも、置き場所の選び方である。倉敷紡績は人絹を自社の工場に足す道を選ばず、別会社に出した。綿糸の相場で毎期揺れる本体の損益に、立ち上がりの読めない化学繊維を混ぜないという配慮が働いていたと思われる。裏返せば、化学の技術を自社の中で育てる機会は、その分だけ遠ざかった。母体は綿を紡ぐ会社であり続けた。 距離の取り方は、結果として二つの会社を設立した。倉敷絹織はビニロンとクラリーノを生む化学メーカーへ育ち、倉敷紡績はそれから36年後の1962年に、ウレタンフォームという別の化学製品で自ら非繊維分野に参入している。1936年、倉敷紡績は羊毛工業とスフ紡へ進出した。人絹を外へ出した会社が、10年後には化学繊維の一種を自分の紡機にかけていた。 Yutaka Sugiura, 2026年7月 参考文献 参考文献 参考企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)クラボウ 公式サイト「沿革」クラレ 公式サイト「沿革」大原記念労働科学研究所 公式サイト「沿革(研究所創立から東京移転まで)」倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】 次に読む決断 倉敷紡績の意思決定1930年倉敷紡績倉敷紡績倉敷労働科学研究所を分離世界恐慌下での会社からの切り離しと、大原孫三郎の個人経営への移管1930年1962年倉敷紡績倉敷紡績寝屋川工場を新設化成品・環境エンジニアリング・エレクトロニクスへ本体で多角化1962年同じ問い:自社技術による隣接領域への展開1946年明治製菓明治製菓ペニシリン製造の開始抗生物質の原末まで自前で生産する体制の構築と、戦災を受けた川崎工場の再起1946年1953年信越化学工業信越化学工業GEとの提携でシリコーン事業化技術提携を足がかりとした事業化と、肥料中心の売上構成の入れ替え1953年1956年島津製作所島津製作所航空機器部門の新設とギャレット社との提携戦時の部品量産の経験を生かしたジェット機国産化への参加1956年1926年東レ東レ三井物産の出資で設立人絹事業への進出と、親会社の名を冠さない社名での設立1926年1960年江崎グリコ江崎グリコ総合食品化への転換栄養菓子の一本足からアイス・チョコ・ガム・カレーへ拡充した総合食品化1960年 × 出所