1896年8月[1]、資本金9万8000円[2]・繰糸機168釜[3]という規模で、京都府何鹿郡綾部町[4]に郡是製絲が設立された。丹波地方は気候風土ともに蚕業に適し[5]、古くから養蚕の盛んな土地として知られていたが、当時の同地方の蚕糸業は沈滞しており、群小の製糸家を統合して大規模な工場とし[6]、作業の近代化と品質の改良を図ることが急務とされていた。設立に尽力した波多野鶴吉氏[7]は、会社を何鹿郡の郡是すなわち蚕業奨励の機関とし[8]、株主を郡内の養蚕家に求めた[9]。創業時の168釜は郡内産繭3500石を一手に消化できる規模として決められ[10]、将来は郡の蚕業十カ年計画に合わせて504釜とする構想だった[11]。1897年3月時点の株主は721名、平均持株は7株[12]で、10株未満の株主が703名と95%を占めた[13]。創業者の名を社名に冠さず[14]、郡をよくするという意味の郡是を掲げたのは、この発足の事情による。
当時の何鹿郡の農村は『娘を売らなければ生きていけない』[引用元](日経ビジネス 1979/2/12)と評される窮状にあり、その改善が設立のねらいに含まれていた。後年まで会社が掲げ続けた企業理念は品質の追求と共存共栄[15]の二つで、よりよい商品を安く作ることが社会に役立つことであり、養蚕農家や下請けの機屋との共存共栄[16]がなければ会社の存在意義はないという立て方だった。のちに制定された社章も、中の円を会社、外の円を養蚕家として、会社と養蚕家の共存共栄を表すと解釈された[17]。全国各地に共鳴者が生まれて事業は拡大し、1911年には資本金12万円、製糸工場8、繰糸機1071釜、生糸生産高3万5000貫[18]に達した。輸出を主体に郡是糸の声価が高まった[19]。
教育もまた会社の中核に置かれた。1909年から川合信水氏が会社の教育を主宰し[20]、経営首脳や工場長、教育担当者の教育に当たって独特の社風をつくった。1926年には郡是青年訓練所を設け[21]、翌1927年には本社と工場に2年以上勤めた青年社員から選抜し、社業に関する技術と一般教養を1年間で教える技術科を置いた[22]。1935年の青年学校令の公布を受けては私立郡是綾部女子青年学校を設立し[23]、以後これを全国の各工場へ広げた。教育課はこれを、従来行ってきた社内の教育をそのまま青年学校の教育としたものだ[24]と説明した。川合氏が1935年に退いたあと、教育総理の職が置かれることはなかった[25]。
大正期の生糸は米国の旺盛な絹消費に支えられ、1920年には100斤4500円の高値[26]をつけたが、同年7月には1100円へ暴落した[27]。郡是製絲は1916年に第二郡是製絲を設立して合併[28]し、1918年には蚕栄・福知山・舞鶴の各製糸会社を合併[29]して全国に工場を新設した。大正末期の経営規模は製糸工場27、繰糸機6474釜、生糸生産高40万貫[30]と、明治末期の13倍に達した。京都府北部の丹波地方の小製糸家が集まって作った会社は、長野県の片倉一族を中心とする片倉製糸とともに、二大製糸会社としての地位を築いた[31]。機械製糸による大資本の拡大は、好況時よりも金融難で危機に陥った地元資本の中小製糸を買収できる不況時[32]に進んだ。もっとも拡大は資金面の危うさを伴い、1914年5月には第百三十銀行が購繭資金の増大に危惧を示して[33]会社の考え方を表明するよう申し入れ、波多野鶴吉氏は購繭数量を調整して緊縮方針で臨む旨を各工場へ通達した[34]。
もっとも製糸業の収益は綿紡績に遠く及ばず、1917年から1926年までの東洋紡と郡是を比べると、資本金で4倍、利益金で17倍、払込資本利益率は6割2分対1割7分の開きがあった[35]。綿紡が終始利益を続けたのに対し、製糸業は赤字と黒字の循環を繰り返した[36]。昭和初年の世界恐慌で糸価は1930年春から下がり続け、1932年には400円という記録的な安値[37]をつけた。政府は糸価融資補償法を実施して1億5000万円を貸し付け1250円の価格を補償[38]したが、恐慌の根は深かった。大正期に台頭した人絹の発達も、生糸輸出に重い脅威[39]をもたらしていた。
対策は複数の方向に及んだ。まず新分野の靴下によって生糸の消費そのものを増やすため、1935年に生糸の靴下用原糸としての品質改良を目的として郡是繊維工業を創立[40]し、尼崎市塚口に絹靴下工場を設けた。1934年10月には塚口工場を新設し、絹婦人長靴下事業を始めた[41]。販売機能の強化では、1931年に設立された林大作商店へ1933年に資本参加し[42]、翌1934年に郡是シルク・コーポレーションへ改称させた[43]。その前年にはニューヨークにも同名の会社を設立[44]している。この会社はのちに郡是産業、1971年にグンゼ産業へ商号を変え[45]、1973年2月に上場した[46]。技術面では全工場を多条繰糸機に転換し[47]、高級細繊度生糸の生産に集中した。
昭和恐慌を抜けた1930年代後半[48]、郡是製絲の設備は拡大を続けた。1939年には製糸工場36、繰糸機1万562釜、生糸生産高92万貫[49]に達した。片倉と郡是の設備は全国設備に占める比率を1929年の1割以下から1937年には13%[50]へ高め、価格の下落と操業短縮のもとでも、片倉や郡是などの大手は平均2割近い払込資本利益率を続け[51]、大正期の不安定な経営を脱した。多角化も進み、1933年には朝日化学肥料を設立したほか、1943年には郡是繊維工業を合併し、昭和紡績を買収して綿紡績事業へ参入[52]した。大陸では大邱の麻紡績工場と大田・清州の二製糸工場[53]を経営した。
太平洋戦争の激化とともに蚕糸業は統制下に入り、1943年5月、会社は商号を郡是工業に変更[54]する。同年12月には戦時体制のため製糸17工場ほかを日本蚕糸製造へ移管[55]し、事業の主体を航空機部品と軍需衣料の生産へ転換[56]した。移管の対象は内地の全製糸事業[57]に及び、会社に残ったのは加工部門と軍需の生産だった。米国では1938年にデュポンがナイロンの工業化を発表[58]しており、米国は最大の生糸市場であり、日本の蚕糸業者が受けた衝撃は大きかったが、日華事変の開始とともに蚕糸業は衰退期に入り、ナイロンへの対策は緊急さを失っていた[59]。
1946年5月、日本蚕糸製造へ移管した工場などが復帰し、商号も郡是製絲に戻った[60]。しかし復元した先の市場は戦前と別物で、米国での生糸消費はナイロンの出現によって靴下分野から完全に駆逐され[61]、生糸生産も桑園の荒廃と食糧増産との競合で復興が遅れた[62]。1947年に紡績設備400万錘までの復元が認められ、十大紡のほかに新紡と呼ばれる25社が生まれた[63]とき、会社は選択を迫られた。製糸工場の復元を進めながら特紡糸の紡績を手がけ[64]、戦前から蚕糸業の行き詰まりを察して絹靴下の工場も経営していたからである。
この機会に紡績業へ参入するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するか、社内では意見が二つに分かれた[65]。結論は、大紡績との衝突を避け自らの特技を生かすという理由[66]で、社長決裁によりメリヤス業に決まった[67]。当時のメリヤスは家内工業ばかりで、『メリヤスとはれものはふくれるほどつぶれやすい』[引用元]と言われる分野である。郡是はこのジンクスを破り、一貫作業の工場制メリヤス工業へ参入[68]した。1946年8月には宮津工場でメリヤス肌着事業を始めた[69]。ファッションだけに走らなかったことは、後年、創業94年に至った理由の一つに挙げられている[70]。
転換は設備の入れ替えから始まり、塚口工場の絹靴下をナイロンに切り替えて、米国から高能率の51・60ゲージ新鋭編立機22台[71]を輸入設置した。これによりフルファッション靴下で首位を占め、本工場にはトリコット機16台とK式靴下機92台[72]を置いて婦人長靴下を生産した。年間生産能力はフルファッション靴下22万打、トリコット靴下15万5000打、K式靴下4万7000打[73]で、全国の婦人長靴下生産高の27%[74]を占めるに至った。1952年6月にはナイロンストッキングの生産を始めた[75]。1949年5月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所に株式を上場[76]した。
工場の役割も組み替えられ、八鹿・津山・萩原の各工場を絹織物工場に、梁瀬工場を絹撚糸工場に、宮津工場をメリヤス工場に[77]それぞれ転換し、絹織物400万平方碼、絹撚糸3万貫、メリヤス製品14万打[78]を生産した。津山工場は合成繊維の総合加工工場として育成され、ウーリーナイロンとナイロンミシン糸[79]の生産を始めた。1954年6月には津山工場でミシン糸事業を始めた[80]。これら加工部門の売上高は、1954年度の総売上高73億9000万円の3割[81]に達した。資本金は1948年12月と1950年3月の増資を経て、1952年8月に米ベア・ブランド・ホーゼリー社からのK式靴下機の現物出資を合わせて5億円[82]となった。
製糸そのものを捨てたわけではなく、1955年前後の規模は製糸工場22、繰糸機4510釜、生糸生産高30万9000貫[83]で、1939年の30%にとどまっていた[84]。輸出産業として100%の外貨取得率[85]を持つ生糸は日本経済への寄与が大きく、会社も海外市場の開拓に努め、自動繰糸機の設置をはじめ生産技術の改善と工程の合理化[86]を図った。業界も漸次整備され、生産は年々増加の傾向にあった[87]。それでも戦前の水準には遠く、蚕糸業のこうした推移に対処するため、戦前から着手していた繊維加工事業の育成強化[88]が並行して進められた。
1956年、加工部門の売上高が製糸部門を上回り[89]、創業から60年を経て会社の主力は生糸から繊維加工へ入れ替わった。会社はさらに刺繍レース、合繊紡績、ジャージー、ファンデーション、プラスチック加工[90]などの新規事業を加えた。1958年8月には江南工場を新設して合繊紡績事業へ参入した[91]。この事業は1981年に撤収され、1990年には同工場へエンプラ事業センターが移された[92]。1967年2月、創業70周年を契機に商号をグンゼへ改めた[93]。社名から製絲の二文字が消えたのは、主力交代から11年後[94]だった。1968年時点で会社は3蚕種所と20工場を擁し、婦人靴下では業界首位の生産量[95]を持っていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1896〜1945年「郡の是」として養蚕家の出資で発足し、片倉と並ぶ二大製糸に育つまで | 生糸の製造販売を目的に綾部で郡是製絲を設立 | ★★★ | ||
| 塚口工場を新設し絹婦人長靴下事業に参入 | ★★ | |||
| 商号を郡是工業に変更 | ★★ | |||
| 戦時体制で製糸17工場などを日本蚕糸製造に移管 | ★★★ | |||
| 1946〜1967年復元した製糸ではなくメリヤスを主力に選んだ戦後20年 | 移管工場が復帰し商号を郡是製絲に復元 | ★★ | ||
| 紡績業への不参入と、フルファッション技術を生かしたメリヤス業への転換 1947年に紡績設備400万錘までの復元が認められたとき、郡是製絲の社内では、紡績業へ参入するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するかで意見が二つに分かれた。大紡績との衝突を避け、自らの特技を生かすという理由から、社長決裁でメリヤス業に決まった。絹靴下で積んだ技術を、家内工業ばかりの分野へ工場制で持ち込む選択であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場 | ★ | |||
| ナイロンストッキングの生産を開始 | ★★ | |||
| 津山工場でミシン糸事業を開始 | ★★ | |||
| 江南工場を新設し合繊紡績事業に参入 | ★★ | |||
| 商号をグンゼに変更 | ★★ | |||
| 1968〜1998年肌着シェア30%の寡占をつくり、繊維の外へ収益源を広げた30年 | 守山工場を新設しプラスチックフィルム事業を強化 | ★★ | ||
| 九州グンゼを設立しストッキング製造を開始 | ★ | |||
| 東北グンゼを設立しインナーウエア製造を開始 | ★ | |||
| グンゼ物流を設立 | ★ | |||
| グンゼ包装システムを設立しフィルムの印刷加工に参入 | ★ | |||
| 代理店制度から販売子会社23社体制への再編と、首都圏販売の3系列への集約 グンゼが1971年ごろから、メリヤス肌着の流通を担ってきた代理店を販売子会社へ順次置き換え、1978年末までに全国を23の販売会社で覆う体制を作り上げた経営判断。首都圏では小売店・百貨店専門店・問屋の3系列へ販売を集約した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| グンゼスポーツを設立しスポーツクラブ事業に参入 | ★★ | |||
| 塚口工場跡地に商業施設「つかしん」を開業 | ★★ | |||
| 新大阪造機を吸収合併し印刷・食品機械事業に参入 | ★★ | |||
| 福島プラスチックスを設立 | ★ | |||
| タイに子会社を設立しインナーウエアの海外生産を開始 | ★★ | |||
| 中国・インドネシアに繊維の製造販売会社を設立 | ★ | |||
| 米国にプラスチックフィルムの製造販売会社を設立 | ★ | |||
| ベトナムにインナーウエアの製造販売会社を設立 | ★ | |||
| 1999〜2026年肌着市場の縮小に押され、機能ソリューションとメディカルが稼ぎ手になるまで | 綾部エンプラを設立しエンジニアリングプラスチックスを製造 | ★ | ||
| 上海にプラスチックフィルムの製造販売会社を設立 | ★ | |||
| つかしんに天然温泉「湯の華廊」を開業 | ★ | |||
| 上海にインナーウエア・ストッキングの販売会社を設立 | ★ | |||
| 平田弘 | 常熟に繊維資材の製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 平田弘 | 深圳にメディカル材料の製造販売会社を設立 | ★★ | ||
| 平田弘 | 北京にアパレル製品の卸売・小売会社を設立 | ★ | ||
| 児玉和 | 宇都宮事業所などで太陽光発電による売電を開始 | ★ | ||
| 児玉和 | カンボジアにスポーツクラブの運営会社を設立 | ★ | ||
| 児玉和 | ハノイに繊維資材の製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 児玉和 | ジーンズ・カジュアルダンを子会社化しアウター小売に参入 | ★★ | ||
| 廣地厚 | グンゼメディカルジャパンを設立 | ★★ | ||
| 廣地厚 | ベトナムにプラスチックフィルムの製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 廣地厚 | メディカルユーアンドエイを子会社化 | ★★ | ||
| 佐口敏康 | 東京証券取引所の市場区分見直しでプライム市場へ移行 | ★ | ||
| 佐口敏康 | メディカル2社を統合しグンゼメディカルに商号変更 | ★ | ||
| 佐口敏康 | メディカル事業の一部をグンゼメディカルへ承継 | ★★ | ||
| 佐口敏康 | 津山グンゼを吸収合併しミシン糸の製造加工を統合 | ★★ | ||
| 佐口敏康 | 主力アパレルの構造改革と、コア事業の機能ソリューション・メディカルへの移行 2025年5月14日、グンゼが中期経営計画『VISION 2030 stage2』を公表し、機能ソリューションとメディカルを強化・拡大するコア事業に、アパレルとライフクリエイトを『聖域なき構造改革』の対象に振り分けた経営判断。2025年度からの2年間を改革の期間と定め、生産・物流拠点の集約と希望退職を実施した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(グンゼ)