グンゼ紡績業への不参入と、フルファッション技術を生かしたメリヤス業への転換

紡績か、メリヤスか——紡績設備400万錘の復元が認められた戦後、郡是製絲はどちらの技術で立つことを選んだか

時期 1947年
意思決定者(推定) 調査中
論点 戦後の業態選択と主力事業の入れ替え
概要
1947年に紡績設備400万錘までの復元が認められたとき、郡是製絲の社内では、紡績業へ参入するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するかで意見が二つに分かれた。大紡績との衝突を避け、自らの特技を生かすという理由から、社長決裁でメリヤス業に決まった。絹靴下で積んだ技術を、家内工業ばかりの分野へ工場制で持ち込む選択であった。
背景
米国の婦人用靴下では、1945年に約8割を占めていた生糸が1950年までにナイロンへ完全に置き換わった。桑園の荒廃と食糧増産との競合で製糸の復旧も遅れ、郡是製絲の生糸生産高は1939年の3割にとどまった。設備を取り戻しても、その設備が向かう先の需要が戻らない状態にあった。
内容
塚口工場の絹靴下をナイロンへ切り替え、米国から高能率の51・60ゲージ新鋭編立機22台を輸入設置してフルファッション靴下で首位に立った。八鹿・津山・萩原の各工場を絹織物に、梁瀬工場を絹撚糸に、宮津工場をメリヤスに転換し、加工部門の売上高は1954年度の総売上高73億9000万円の3割に達した。
含意
1956年を境に加工部門の売上高が製糸部門を上回り、創業から60年で会社の稼ぎ手が生糸から繊維加工へ入れ替わった。1967年2月、創業70周年を機に商号から製絲の二文字が外れ、グンゼとなった。
筆者の見解

避けることと、生かすこと

紡績設備400万錘の復元枠は、手を挙げれば誰にでも開かれた入り口であった。郡是製絲はそこへ手を伸ばさず、積立金と留保金を全部はたいて36億円の戦時損失を処理しきった大紡績と正面から競うことを避けた。選んだのは、絹靴下で積んだフルファッションの技術が効く場所である。避けることと生かすことが一つの決裁に同居しており、片方だけでは説明が付かない。相手を避けるだけなら家内工業の群れに埋もれ、技術を生かすだけなら紡績でも理屈は立った。

この選択で製糸が救われたわけではない。生糸生産高は1939年の3割にとどまったまま戻らず、加工が製糸を追い越した1956年は、加工が伸びた年であると同時に、祖業がそこまで縮んだ年でもあった。退けたはずの紡績にも、1958年に江南工場を建てて合繊紡績として手を出している。避けたのは紡績という事業そのものではなく、大紡績と同じ商品で同じ時期に競うことであった、とみるほうが事実に近い。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

復元した先に、生糸の市場がなかった

1946年5月、戦時中に日本蚕糸製造へ移した製糸工場と蚕種製造所が戻り、郡是工業としていた商号も郡是製絲へ復した。ただし復元した先の市場は戦前と別物になっていた。米国の婦人用靴下では、1945年に約8割を占めていた生糸が、5年後の1950年にはナイロンに完全に置き換わっている。設備を取り戻しても、その設備が向かう先の需要が消えていた[1][2]

製糸そのものの復旧も進まなかった。桑園は荒廃し、養蚕は食糧増産と土地を奪い合った。郡是製絲は日本蚕糸製造から設備を戻していち早く製糸部門の復旧にあたったものの、1955年前後の規模は製糸工場22、繰糸機4510釜、生糸生産高30万9000貫で、1939年の3割にとどまった。復元しうる上限そのものが、戦前の三分の一まで下がっていた[3]

戦前に手を付けていた絹靴下と綿紡績

戦後の選択に臨んだとき、郡是製絲の手には二つの事業があった。一つは絹靴下で、1934年10月に尼崎市へ塚口工場を新設し、絹婦人長靴下の生産を始めていた。もう一つは綿紡績で、1943年に絹靴下を担っていた郡是繊維工業を合併したうえ、昭和紡績を買収して綿紡績事業へ進出していた。どちらへ寄せるかは、戦後に初めて生じた問いではなかった[4][5]

業界全体は、絹を脅かす繊維の登場を軽く見ていた。米デュポン社がナイロンの工業化を発表したとき、蚕糸業界を代表する識者は、ナイロンは吸湿性に乏しく弾力性もなく、靴下界から生糸を追うにたる性質を備えていないと論じている。郡是製絲はこの空気のなかで、戦前から蚕糸業の行き詰まりを察して絹靴下の工場を経営していた[6][7]

決断

400万錘の復元枠と、二つに割れた社内

1947年、GHQは日本の紡績設備を400万錘まで認めるとのメモランダムを発表した。この枠に手を挙げた企業が相次ぎ、十大紡のほかに新紡と呼ぶ25社が生まれている。郡是製絲は製糸工場の復元を進めながら特紡糸の紡績も手がけており、この機会に紡績業へ進出するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するかで、社内の意見は二つに分かれた[8][9]

結論は、大紡績との衝突を避け、自らの特技を生かすという理由から、社長決裁でメリヤス業に決まった。避けた相手の資力は数字に表れている。紡績10社は在外資産の損失を含む36億円の戦時損失を、払込資本金合計10億円の身で積立金と留保金を全部はたいて処理し、減資も債権切り捨てもせずに米綿の輸入を待って生産を再開していた[10][11]

家内工業ばかりの分野へ、工場制で入る

選んだ先は、安全な逃げ場ではなかった。当時のメリヤスは家内工業ばかりで、ふくれるほどつぶれやすいという言い方が業界に流布し、規模を大きくした先から倒れると見られていた分野である。郡是製絲はこの見立てに反して、一貫作業の工場制メリヤス工業へ進出した。宮津工場でのメリヤス肌着の生産は、すでに1946年8月に始まっている[12][13]

産業側の記述も同じ構造を示す。メリヤスや靴下、縫製などの加工は、概して小規模・小資本で問屋制家内工業の色彩が濃いと当時の会社史は記した。そのなかで、大正末から昭和初期に大企業として設立され輸出にも成功した数少ない例として、日本レース、内外編物、日本クロス、東京帽子、福助足袋と並び、郡是製絲の加工部門が挙げられている[14]

結果

絹からナイロンへ、編立設備を入れ替える

転換はまず編立設備の入れ替えとして表れた。塚口工場の絹靴下をナイロンへ切り替え、米国から高能率の51・60ゲージ新鋭編立機22台を輸入設置して、フルファッション靴下で首位に立った。本工場にはトリコット機16台とKN式靴下機92台を据えて婦人長靴下を生産し、全国の婦人長靴下生産高の27%を占めるに至った[15]

工場の役割も組み替えられた。八鹿・津山・萩原の各工場を絹織物に、梁瀬工場を絹撚糸に、宮津工場をメリヤスに転換し、絹織物400万平方碼、絹撚糸3万貫、メリヤス製品14万打を生産した。加工部門の売上高は1954年度の総売上高73億9000万円の3割に達している。資本金は1952年8月に米ベア・ブランド・ホーゼリー社からK式靴下機の現物出資を受け、5億円となった[16][17]

主力の交代と、社名から消えた製絲

主力の交代は1956年に数字として確定した。この年を境に加工部門の売上高が製糸部門を上回り、創業から60年で会社の稼ぎ手が生糸から繊維加工へ入れ替わった。会社はその後も刺繍レース、合繊紡績、ジャージー、ファンデーション、プラスチック加工と新規事業を加え、1967年2月、創業70周年を機に商号から製絲の二文字を外してグンゼとした[18][19]

1968年時点の会社は3蚕種所・20工場を擁し、婦人靴下では業界トップの生産量を持ち、外衣部門にも手を広げていた。生糸から離れる動きはメリヤス肌着だけにとどまらず、1954年6月には津山工場でミシン糸事業を始め、いったん退けた紡績にも1958年8月に江南工場を新設して合繊紡績として着手している[20][21][22]

出典・参考
  • 日本産業史 第2巻 繊維「繊維-不死鳥よみがえる」
  • 日本産業史 第1巻 繊維「人絹-苦闘の果ての栄光」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「製糸」郡是製絲の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「繊維加工」の概説
  • 企業の歴史 明治百年 第3編(1968年)「グンゼ」
  • グンゼ株式会社 有価証券報告書【沿革】

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