マキタ特殊モーター受注生産からの転換と、国産第一号の携帯用電気カンナによる電動工具専業化
大企業がモーター生産へ戻るなか、資本金1,000万円の町工場は何で食うか
- 概要
- 1955年4月に社長へ就いた後藤十次郎氏は、大企業のモーター生産再開で先細りが見えた特殊モーターの受注生産から離れ、モーターを使う最終製品へ主力を移した。選んだのは国産品がなく輸入に頼っていた電気カンナで、1957年中に試作品を仕上げ、1958年1月に国産第一号を2万9,800円で発売した。
- 背景
- 終戦直後は戦火で焼けたモーターを買い集めて修理し、売ることで稼げた。だが経済の混乱がおさまって大企業がモーター生産を再開すると、資本金1,000万円・従業員100名足らずの牧田電機製作所は正面から戦えなくなった。特殊モーターの受注生産に活路を求めたものの多機種少量生産で非能率で、1953年から1955年にかけて倒産寸前に至った。
- 内容
- 米国製の電気カンナを取り寄せて検討し、刃の幅を日本の建築が使う4寸柱に合わせて広げた。価格は8万5,000円の輸入品に対し2万9,800円と置き、輸入品の半値以下を狙った。発売と同時に増産へ入り、月産500台の目標を計画の半分の期間で達成する。販売は問屋に委ね、自社の営業所・出張所はアフターサービスに機能を絞って一県一店舗主義まで広げた。
- 含意
- 電気カンナはモーター部門の落ち込みを埋め、第一次5カ年計画の最終年度に売上は1955年度の約13倍となった。1962年5月に商号をマキタ電機製作所へ改め、同年8月に名証二部へ上場する。汎用モーターの下請けから抜けて十年で、同社は電動工具の専業メーカーとして定着した。
好調の最中に手を打つということ
大企業に勝てないから隙間へ逃げた話として読むと、この転換の勘所を取り落とす。後藤十次郎社長が特殊モーターを離れにかかったのは、業績が崩れたときではなく、神武景気で無配を脱し一割配当へ復した好調の最中であった。不況が来れば再び無配へ落ちるという読みが先にあり、まだ余力があるうちに次の製品を社内に探させている。しかも選んだ電気カンナは、造船所が輸入品を使っていた領域で、需要の実在が確かめられていた。
もっとも、この転換が最初から専業化の設計図を持っていたとは言いにくい。発売後の4年間、同社は電気カンナと電気ミゾキリの2機種で過ごしており、後藤十次郎社長自身、増産に追われて新製品を作る余裕がなかったと振り返っている。品揃えが動き出したのは、売上が伸び悩んだ1962年からであった。国産第一号は一つの製品を当てた話にとどまり、専業メーカーの形は、そのあとの販売網と機種の積み増しによって遅れて出来上がったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
大企業のモーター復帰と倒産寸前の町工場
戦時中のマキタは工作機械用モーターの専門工場であった。終戦後も戦火で焼けたモーターを買い集めて修理し、売ることでしのいだ。後藤十次郎氏は後年、この時期をかなり有利な事業であったと振り返っている。だが経済の混乱がおさまると、各地で大企業がモーターの生産を再開した。資本金1,000万円、従業員100名足らずの牧田電機製作所に正面から対抗する力はなく、同社は大企業が手がけない特殊モーターの受注生産へ活路を求めて生き延びた[1][2]。
受注生産も長くは持たなかった。朝鮮動乱の1950年から1951年ごろまでは事業が回ったが、その後の不況で同社は1953年から1955年にかけて倒産寸前へ追い込まれた。1955年4月、創業者の牧田茂三郎氏に請われる形で、創業時からの社員であった後藤十次郎氏が社長に就いた。就任直後に神武景気が走り出し、1956年度には無配を脱して一割配当へ復した。ただし特殊モーターは多機種少量生産で、工場経営はきわめて非能率であった[3][4][5]。
決断
モーターを使う最終製品を探す
転換を考えたのは業績が上向いている最中であった。後藤十次郎社長は、特殊モーターの製作だけを続けていては不況に陥ったときに再び無配へ転落しかねないと見た。そこで社内に問うたのが、モーターを使った最終製品を自社で作れないかということであった。検討の末に浮かんだのが電気カンナである。当時、大規模な造船所ではほとんど使われていたが、国産品はまったくなく、すべてが海外からの輸入品であった[6]。
同社はまず現物を取り寄せて検討し、日本の現場に合わせて設計を変えた。米国製の刃の幅は80ミリだったが、日本の建築が4寸柱を使うことから4寸幅とした。価格も置き換えた。米国製は8万5,000円で売られていたが、後藤十次郎社長は輸入品の半値以下にしたいと考え、技術関係者に3万円を割って売れる製品を作るよう命じ、売り出し価格を2万9,800円と決めた。1957年中に試作品が仕上がり、翌1958年1月に国産第一号を発売した[7][8]。
不況と重なった立ち上げ
発売の時期は不況と重なった。モーター部門の月商は1957年6月の2,000万円から、1958年10月には800万円まで落ち込んだ。一方で電気カンナは順調に売れ、モーターの目減りを埋めた。後藤十次郎社長は1968年2月の講演で、この電気カンナを採用していなければ遭遇したであろう危機を回避し、さらに発展することができたと述べている。転換の成否は、モーターの数字が崩れきる前に新製品が立ち上がったかどうかで分かれた[9]。
増産は計画を追い越して進んだ。当初は1958年12月までに月産500台を作り、売り尽くす計画であったが、期間の半分も経たない同年5月にその水準へ届いた。そこで6月以降は月産1,000台へ目標を切り上げ、これも達成した。工場は4,000坪の敷地に1,300坪の建屋を持ちながら、実際に使っていたのは400坪の一棟だけで、残りは遊休であった。不況で工作機械も人手も集めやすく、遊休建屋は1959年中に埋まった[10]。
結果
一県一店舗のアフターサービス網
増産と並んで手を入れたのが販売網であった。1958年3月に東京支店を設け、1961年末には全国22の営業所・出張所を持つに至った。1962年の不況で売上が伸び悩むと、14カ所としていた増設計画を30カ所へ修正し、一県一店舗主義を掲げて工場現場からも人を選んで全国へ送った。直接の販売は問屋に委ね、出張所の機能はアフターサービスに置いた。修理と部品交換が絶えない商品の性格に、組織の形を合わせている[11]。
機種の数は遅れて増えた。1958年8月に電気ミゾキリを世に出したのち、同社はこの2機種のまま1961年までの4年間を過ごしている。増産に追われて新製品を作る余裕がなかったためである。売上が伸び悩んだ1962年から市場の拡大と新製品の開発に乗り出し、1967年には新規開発が12機種に達した。従来機種と合わせて40機種を市場に出し、月商6億円のうち1億5,000万円を新製品が占めた[12][13]。
専業メーカーとしての定着
転換の結果は数字に表れた。1956年から1960年度までの第一次5カ年計画は、最終年度の売上が11億8,600万円となり、1955年度の8,668万円に対して約13倍に達した。1962年5月に商号を株式会社マキタ電機製作所へ改め、同年8月に名古屋証券取引所市場第二部へ上場する。1963年には借入金が皆無となり、手形割引も使わない財務へ移った。社名からモーターの色は消え、電動工具の会社としての体裁が整った[14][15]。
1968年の同社は、借入金皆無・高成長・高収益・高配当を背景に株式市場の人気銘柄の筆頭とされていた。主力製品はそれぞれ国内で高いシェアを持ち、すでに海外55カ国へ輸出されていた。1959年2月期を100とすれば、1968年2月期は1830%である。同年8月には東京・大阪両証券取引所市場第二部へも上場した。汎用モーターの下請けから抜けて十年で、電動工具の専業メーカーという形が固まった[16][17]。
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第2号「マキタ電機製作所の現況と見通し」
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】