ゴールドウイン一般メリヤス雑貨の生産をやめ野球ストッキング中心のスポーツウエアへ全面転換

誰でも編める肌着を続けるか、選手にしか要らないユニフォームを引き受けるか——創業半年の津沢メリヤス製造所が決めた品目

時期 1952年7月
意思決定者(推定) 西田東作 社長
論点 生産品目と事業領域
概要
1952年7月、創業から7カ月の株式会社津沢メリヤス製造所が、野球ストッキングを中心とするスポーツウエアの全面生産へ切り替えた経営判断。一般メリヤス雑貨の製造は併営せず、競技用ウエアの専業へ移った。
背景
富山県西砺波郡津沢町はメリヤス業者が並ぶ地域で、肌着・靴下の生産は競合が多かった。一方、終戦後の日本選手は世界選手権で試合中にユニフォームが破れるほどの装備しか持たず、選手側から国産品の改良を求める申し入れが届いていた。
内容
野球ストッキングを軸に競技用ウエアの生産へ全面的に移行し、選手が海外から持ち帰った先進国の製品を参考に、選手の意見を聞きながら仕様を詰める作り方を採った。日紡貝塚のためのNK式ユニフォームなど、競技ごとの個別開発を積み上げた。
含意
量産の効く日常衣料ではなく、注文の中身が特殊な競技用ウエアを選んだことで、富山の工場は仕様で稼ぐ製造拠点になった。1964年の東京オリンピックでの採用、1963年の社名変更、その後のスキーウエア主力化まで、この品目の選択が土台となった。
筆者の見解

面倒な注文を選ぶという選択

1952年の転換で選ばれたのは、伸びる市場ではなく、注文の中身が面倒な市場であった。肌着や靴下は誰でも編めるが、スライディングの熱で溶けないパンツや、倒立したときに脚へ沿うタイツは、使う本人に聞かなければ寸法すら決まらない。津沢メリヤス製造所が引き受けたのはその往復であり、以後の富山の工場は、生産量ではなく仕様の細かさで対価を得る工場になった。創業から7カ月という時期の速さは、迷って選んだというより、注文が来た側に身を寄せた結果とみられる。

この選択は40年後の商品構成にも残った。1991年12月の講演で西田東作社長は、スキー用品の売上構成比を47%程度より上げないようにし、ゴルフウエアなど他の品目を伸ばして偏りを抑える方針を示している。特定の競技に寄りかからないという配慮は、競技用ウエアの外へ出るという発想とは別物である。会社が肌着を捨てた1952年7月の一行は、有価証券報告書の沿革で設立の次に置かれたまま、今も動いていない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

富山の一メリヤス製造所として

1951年12月、富山県西砺波郡津沢町清沢1062番地に株式会社津沢メリヤス製造所が設立された。資本金は50万円である。西田東作氏が興したこの会社は、肌着・靴下といった一般メリヤス雑貨の製造から出発した。富山県は明治期からメリヤス工業が地場に根づいた地域で、津沢の町にも同業が並んでいた。設立時点の同社を他社と区別する材料は、規模にも設備にも見あたらない[1]

出発点の品目については、西田東作社長自身が後年の講演で述べている。1991年12月の日本証券アナリスト協会での講演で、同社長は津沢メリヤス製造所として発足したのち、1952年に一般メリヤス雑貨の製造からスポーツウエアの生産へ全面転換し、それから40年が経つと語った。転換の前と後を、併営ではなく入れ替えとして説明した点に、この判断の性格が表れている[2]

選手が持ち帰ったユニフォーム

転換の材料は市場調査ではなく、競技の現場から届いた。終戦からしばらくは物不足で、世界選手権大会に出場した日本選手のユニフォームは試合の途中で大事なところが破れ、機能の面でも不備が多かった。西田東作社長は1981年2月の講演でこの状態を振り返り、装備の差が選手にとって小さくないハンデであったと述べている。用具ではなく着るものが競技結果に影響するという認識が、需要の側から先にあった[3]

そこにレスリングの笹原正三選手らが、海外から先進国のユニフォームを持ち帰り、それを参考に日本の選手に合ったものを作ってほしいと津沢メリヤスへ申し入れた。西田東作社長には別の動機もあった。ロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権大会での古橋選手の活躍に感動し、戦後の荒廃のなかで国民に希望をわかせるスポーツの振興に役立とうという思いがあったと、後年みずから語っている[4][5]

決断

1952年7月、野球ストッキングへの全面移行

1952年7月、津沢メリヤス製造所は野球ストッキングを中心にスポーツウエアの全面生産へ転換した。設立から7カ月しか経っていない。有価証券報告書の沿革は、この転換を設立の次に置かれた一行として記録している。編機も職人もそのままに、作る相手だけを日常衣料の買い手から競技者へ移す決定であった[6]

会社側の後年の整理でも、1952年の転換は品目の追加ではなく身の振り方の変更として語られている。統合報告書は、創業3年目にスポーツウエア専業メーカーへ転身したと記し、「見えないものにこそ、『真実』の価値がある」を信条に機能性重視のものづくりを追求したと説明する。肌着で使えた「安く早く多く」という物差しは、この時点で会社の中から外された[7]

引き受けた注文の中身

競技用ウエアの注文は、日常衣料とは要求の質が違った。バレーボールの女子選手はそれまで布帛のブルマをはいていたが、国際試合で十分に動けないためニットへ切り換えた。トレーニングのシャツやパンツはスライディングのさいに高熱が出るため、普通の繊維では溶けたり破れたりした。体操では倒立の際にパンツが脚にフィットしていないと採点が下がり、レスリングのユニフォームは試合の激しさで破れやすかった[8]

解き方も特殊であった。海外で試合をした選手に先進各国のスポーツウエアを持ち帰ってもらい、それを参考に選手の意見を聞いて研究するという手順を繰り返した。ローマオリンピックで金メダルを獲得した体操の小野選手もその一人であり、大松監督が率いた日紡貝塚のユニフォームも、この過程から生まれたNK式ユニフォームであった。設計図は社内になく、使う本人との往復のなかで仕様が決まった[9][10]

結果

東京オリンピックと社名

1964年の東京オリンピックで、日本は16個の金メダルを獲得した。そのうち12個は、同社製のユニフォームを着用した選手によるものであった。合宿練習の段階から選手とユニフォーム作りの相談を重ねる過程で、選手たちから「ブランド名が"津沢"ではよくない」と言われ、"黄金の勝利"を意味するゴールドウインが商品ブランドとして生まれた。名づけの主導権も、この時期は使い手の側にあった[11]

販売と本社の位置も、転換に合わせて動いた。1956年4月に大阪営業所、1958年2月に東京営業所を開設し、富山の生産と都市の需要を結ぶ経路を作った。1963年6月には本社を富山県小矢部市清沢210番地へ移し、同時に社名をブランドにあわせて株式会社ゴールドウインへ改称した。競技用ウエアの品目名でしかなかった呼び名が、11年で会社そのものの名になった[12]

品目構成に残った転換の跡

名古屋証券取引所第二部への上場を果たした1981年時点の品目別売上構成比は、アスレチックウエア56.1%、スキー用品28.6%、テニス・カジュアルウエア7.0%、アウトドア用品4.3%、その他4.0%であった。従業員は本体244人、生産を担う100%子会社トヤマゴールドウインが591人で、グループ全体では937人である。創業から30年、売上の全量が競技とその周辺のウエアで構成されていた[13]

その10年後、1991年3月期の構成比はスキー用品47.2%、アスレチックウエア26.1%、スポーツ・カジュアルウエア12.5%、アウトドア用品10.4%へ移り、売上高は541億6,200万円、経常利益21億6,300万円、当期純利益8億200万円に達した。スキーウエアの市場占有率は23.6%で首位である。主力の競技は入れ替わったが、競技用ウエアという枠から外へ出ないまま規模が積み上がった[14]

出典・参考
  • ゴールドウイン 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1981年3月号「企業――ゴールドウイン」(西田東作・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1981年2月10日名古屋講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1992年2月号 別冊付録「企業」ゴールドウイン(西田東作・1991年12月27日東京講演要旨)
  • ゴールドウイン 統合報告書2023

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